■ 2004/10/01 ( 金 ) コンサートが無事終了
台風の中、コンサートが無事終了した。
会場には 8 割近い人が埋まっていたのは、大成功以外の何ものでもない。
私の友人知人もたくさん駆けつけてくれたのは、本当にありがたかった。
コンサートで、空席が目立つことくらい力の抜けるものはないからだ。
息子達は、緊張の極を体験した。
声も、顔色も、もちろん演奏もガチガチに固まっていた。
それで良いんだ。
その緊張感が、そのプレッシャーを感じなくなったらステージに出てはいけない。
また、その緊張感を乗り越えるから、精神がタフになる。
■ 2004/10/09 ( 土 ) 戦いは終わった
やっと、書き上げた。
原稿の締め切り、コンサート、照明、舞台監督、音楽監督、のうち、原稿からは解放された。
しかし、明日からは二泊三日の「武禅」だ。
「どんな武道ですか」と聞かれた。「どんな武道を知っているのですか」と聞き返したら不思議な顔をしていた。馬鹿だ。
つまり、自分の中に予備知識なり何かしらの体験を持っていないのに、また、何かしらの体験に置き換えるだけの力がないのに知らないことを聞く。これは、一体どういう現象だ?子供の頃、「これは何?」「どうして」とやたらしつこく聞く。これは目に見えている事を言語化したり、手に触れていることに好奇心をもち、その好奇心を満たす為にある。
しかし、好奇心の欠片もないのに大の大人が聞く。では聞くことは社交辞令か?きっとそうだ、今気が付いた。そうかそうか、であれば、まともに話などする必要など無かったのか。
大分以前、電話でくだらないことを質問された。それに対して、もっと勉強してから質問しなさい、と答えたら、●さんはきちんと対応してくれた、と逆切れしていた。子供のまま年を取るな!
■ 2004/10/16 ( 土 ) 「古武道入門」が発売されました
10 月 6 日「古武道入門」が発売されました。紀伊国屋書店では初日からかなり売れているそうです。そのメールが入った時「ほんまかいな」と思いました。
この本は、昨年の秋頃から話があったのですが、「何を書く」が明確では無かったので伸び伸びになっていたものです。かなり苦労して、何度書き直したか分からないほどです。
この本を書いて結果として良かったことは、何よりも読む人により分かりやすく書けた事です。
実際問題として、「武道」などどこにもない日本で武道をするというのは、一体どういう事なのか?私自身はこの問題に 20 数年取りくみ続けており、そこから引き出した「現代における武道の実際」、そして、実際に取り組む為の取り組み方、日常での取り組み方などを分かりやすく説明しています。
「武道」は非現実ではなく、日常そのものだからこそ、その日本の武道の達人のエッセンスを学び取れば、それこそ、ストレスを作り出すだけの異文化のコミュニケーションスキルなど狂気の沙汰だと理解できるでしょう。
是非、一冊お買い求め下さい。
■ 2004/10/17 ( 日 ) 二極分化
頭での理解と、こころの喜び、この二つのどちらが自分を行動に突き動かすか、といえば後者のこころの喜びだ。うれしいから、感動したから、が人の行動の初期動機であって、決して頭だけでの理解や認識ではない。
しかし、人は往々にして、この理解や認識の方を重要視する。理解する為の言葉や理屈が分析的であればあるほど、そちらを重宝する。
例えば、セミナーで難しい運動をしたとする。そこで、色々とアドバイスされ、難しい運動が出来たとする。これは「感動」もののはずだ。しかし、大方の人のリアクションは「ああ、そうなんですか」だ。つまり、出来ないことが出来た、という喜びがないのだ。
ということは、自分自身がチャレンジしているのは、非常に難しいことだと認識していない、ということであり、ということは、自分が一体何をしているのかを全く知らない、という何とも奇妙な出来事なのだ。これは恐いことだが仕方がない。他方では、水泳の北島選手の様な、自分自身の意志を明確に持った青年もいるのは事実だ。
ということは、いまや日本は完全に二極分化しており、完全な棲み分け状態が出来てきているということだ。
その両極の人たちのこころは決してふれあえることはない。
■ 2004/10/18 ( 月 ) 団塊の世代
「喜びを何故持てないのか」が分からない。もちろん、分かりたくもないが、余りにもこっちタイプの人が多いのでどうしてだろう、と考えてしまうのだ。
まるで、評論家のようだ。
と考えたとき、我々世代というか、団塊の世代の功罪は計り知れない。そういった喜びのない人の大方は、私と同じ世代の親を持つ。子供に媚びをへつらう、子供と友達感覚で…、子供に好かれようと思っている第一世代だ。
ニューファミリー等と呼ばれたジーンズ世代で、友達同士の様な夫婦とマスコミに作り上げられた世代だ。
街を歩いていたら、不思議と同じ世代の人間は目に付く。もちろん、あなたは同じ世代ですか、と聞いたわけではないので確証はないが、ほとんど同じ顔をしているので良く分かる。
幼い表情で髪の毛だけが白い、チェックのシャツを着ている、マナーが極端に良いか、極端に悪いかのどちらかだ。目が垂れ下がり緊張感のない表情。ランドセルがよく似合うおっさんだ。そう、弱い父親の第一世代でもある。学生運動まっただ中で生きたから、何とかなあなあでやり過ごそうという反動を持っている。
私の友人の子供達も理屈は一人前だ。しかし、何も出来ない。これは母親が先回りをして答えを出し続けてきたからだ。「これをしたらこうなるから危ないよ」等だ。結果答えが先になければ何も行動できない、というこれも何とも奇妙なパターンを作り出す人間を生み出した。
答えは、自分自身の行動で、体験で出していく、という「自分自身で」を全く欠落させたまま、二十代後半、三十代前半という年齢になっている。その内にこの子供達も親になる。絶対に日本は日本ではなくなる。学習院大学へ通う女子が、水着姿で三角倒立大股開きし、カメムシの痙攣のように足を振るわせていた。もちろん、その子の自由だが、日本という国の女性ならこんなぶさいくなかっこはしないだろう。男性タレントが「十万円コースでお願いします」とか、「どこのストリップ劇場に出ているの」と突っ込みを入れ、笑いの方に向かったが、本音以外の何者でもない。
団塊世代の功罪は計り知れない。
■ 2004/10/19 ( 火 ) ど素人のたわごと
私の処に「体験させてください」と来て、「○●はいいけど、あのやりかたは私は駄目だと思う」と評論する輩が沢山いる。もちろん、言論の自由だから何を話しても良いし、私を否定するのは大賛成だ。私よりも、もっとレベルの高い方法論を持っているなら、それを多くの人に役立てて欲しいからだ。
問題は言論の自由ではなく、自分のレベルを知らずに自由に話すど素人の問題だ。何がど素人なのかといえば、自己認識が出来ていないという一点、客観的視点を持っていないという一点、この二点を備えている人を、ど素人人間と呼ぶのだ。
板前さんでも大工さんでも、包丁の使い方の、鋸の使い方の上手い人と下手な人、材料を活かすのが上手い人下手な人を見分けるし、自分のレベルを知っている。つまり、自分自身の腕がそのまま生活に繋がっているから、同じ業種の、また、異なった業種のものでも、その人の好奇心が向いたなら、質的差を見つけだす。だからプロなのだ。
そんな物差しを持たないど素人が、言論の自由をはき違えて評論する姿は「???」以外の何者でもない。先日も、自称武道をしているという女性が体験に来ており、前記したような評論を残していった。きけば、たかだか4年くらいしか武道風お遊びをしたことがないにもかかわらず、あちこちに顔を出し、結局自分を否定されてしまうそうだ。それを評論することで、つまり、他者を否定することで辛うじて自分を保っているという、まるでブッシュ大統領のような幼稚な頭だ。
私はその女性の友人に「私はあなたに認めて貰う為に武道をやっているのではないのですよ、もちろん、あなたには認めてもらいたくありません」と伝えておいて、と伝えた。
ど素人は、そして、自分を否定される場面で育っていない人間は弱すぎる、だから他人を否定するという幼稚な行動を取る。それのどこが武道なのだ。
■ 2004/10/20 ( 水 ) 次を聞くな
どうして「今、与えられている課題が出来ない」のに次のことを聞くのだろう?例えば、「まず左手を自分の右肩の前に来るように伸ばす」とする。もちろん、自分なりには誰でもすぐに出来るが、こちらが言うようにとなれば至難の業になる。つまり、こちらの身体のルールなり武道のルールが明確にあるので、それらの要素がこの運動に詰め込まれていなければならないから、至難の業なのだ。
だから、当然難しい。しかし、自分なりには直ぐに出来るから「次はどうすればよいのでしょう」と聞く。そこで「今言われたことが出来ていないのにどうして次のことを聞くの」と聞くと「出来ていませんか」か「はい」の何れかの返事が返る。
「出来ていませんか」の答えに対しては「何が出来ているの」と聞き返す。すると「……」となるか、その与えたテーマの説明をする。テーマの説明に対しては、「それは私が話したことであって、あなたが今していることとは違いますよね」という。すると「……」となる。
じゃあ、ここで会話した時間は誰の時間だったのか。ここで身体を動かしたことは何だったのか。
「はい」にたいしては、「それは何のはいなのですか」と聞く。それは、一般的な会話として、ここでは「はい」は無いだろうから何のはい?と聞かざるを得ないのだ。
まず与えられた課題を行動する。
そして、その行動の中で課題の意味づけを考える、それが第一段階の作業である。
■ 2004/10/23 ( 土 ) ど素人のたわごと2
プロは何故プロなのかと言えば、比較する目を持っているということだ。誰かと誰かではない、自分のプロである技術と他人の技術だ。その目の鋭さが自分自身を高めたり、他の技術を客観的に評価でき、その質的な差異を見抜くのだ。
比較する目というのは、何を見るのか、という目でもある。よく「お前は何を見てるんや」と皆に言うが、実はこの言葉は間違っている。何を見ているではなく、何を見なくてはいけないのか分かっているのか?だ。
その何を見なくてはいけないのか、の「何を」は自分自身の技術や、比べるべきものの中の選んだ「何か」であって、そこに展開されている技術の「何か」ではない。
そこに展開されている技術の何かに見たところで、自分の技術の何かが明確でなければ、看ているものとくっつくはずもないのだ。
例えば、自分は皿洗いをしている、その横で、もの凄い包丁捌きで果物を剥いていたとする。自分の見なければいけないのは、皿洗いの工夫であって、包丁捌きではない。というものだ。
と、言葉を並べれば「当たり前」だと誰しも思うだろうが、実際には当たり前ではないのだ。もちろん、これらを弁えている人はこの限りではない。
しかし、私がど素人と呼んでいる人達は、ここがまるっきり分かっていないのだ。
おそろしく皿洗いが下手なくせに、包丁捌きを批評している、という事だ。自分は何をしているのか、それくらいは知っておいて欲しいものだ。
「すり足は駄目だよ」というと「はい」と答える。しかし、延々とすり足をする。言われた人は、舐めているのか、まるでバカなのか、その両方なのかは分からないが、言われたことが出来ない、もしくは注意できない、のはバカだ。もちろん、言われたことをする気がないのであれば、それはそれで良いのだ。習う気がないのであれば、どうしてお金を払ってくるのか、今度はその事が頭を悩ます。
■ 2004/10/24 ( 日 ) 天才は不感症??
音楽は感性の産物であるはずだ。もちろん、芸術全般はその筈だ。その感性は「好奇心」という生命力に端を発する。自律神経失調症の如くか弱いものではない。身勝手な感受性のたまものではない。溢れる好奇心が情熱が「芸」という表現手段を持つ。それが音楽になり絵画になりという形をかりて我々の目に届いているのだ。小沢征爾はそれを端的に見せてくれている。
以前、ある番組で天才バイオリニストと呼ばれる日本の少年がアフリカに旅をした。アフリカの電気もない部族に母親と共に卒業旅行だそうだ。まあ、これだけで「はあ〜??」なのだが、テレビの依頼だろうからと百歩譲って見ていた。少年と同い年くらいの部族の少年少女達が、歓迎のコーラスを披露した。エネルギーが溢れ、リズムがうねっていた。母親は少年に何やら解説している風だった。
少年は、コーラスをしている少年少女達を静止しない。身体がリズムに反応しない。というより、視線が定まらずまるで挙動不審状態だった。
コーラス隊は少年に対して、本当に正面から歌いかけていた。少年を歓迎しているのだ。「誰が誰に何を」が明確にそのコーラスにはあった。そして音楽があった。
少年の挙動不審の原因はおそらく、この「誰が誰に何を」だったのだろうと思う。自分に対して正面から歓迎の気持ちをぶつけられて戸惑ったに違いない。
では、この少年の弾くバイオリンは「誰が誰に」はないのか、ということになる。ではこの天才と呼ばれる少年は、ステージで何をしているのか、ということになる。実際人の前で演奏をしているというのは、自分が観客に、つまり誰が誰にではないのか、ということになる。
また、歓迎の「気持ち」を受け取れないというのは、人との気持ちの交歓が出来ないということではないのか。であれば、自分自身の弾くバイオリンには「気持ち」や「感情」といった、人間の内面など必要ないようなものだということになる。
コーラスが終わり、そのお礼にと少年がバイオリンを弾き出した。コーラス隊の少年少女は、生まれてみる、そして生まれて初めて聞くバイオリンに興味津々だ。目がギラギラし、身体が揺れ音楽を味わい尽くそうという姿勢だった。誰一人として例外は無かった。これが音楽を聴く、体験する、という原点だ。こういった好奇心の欠片もない天才といわれる少年のバイオリンは、一体誰に向かっていくのだろう。また、誰が天才だと言ったのだろう。
■ 2004/10/25 ( 月 ) 自問していきたい?!
自民党で当選したノルディックスキー複合団体の五輪金メダリスト荻原健司氏(34)は正門前で「五輪とは違った緊張感がある」。参院選での敗北、政治とカネの問題など同党には逆風が吹くが、「毎日、自分がバッジを付けられる人間かどうか、自問していきたい」と語った。
と書かれてあった。
私の子供が小学校に入学したとき、初めての父兄懇談会で「先生にとって教育とはどういうことですか」と聞いてみた。その時の答えが「教育とは何かを子供達と一緒に考えていきたい」だった。その時私は先生が何を話したのか分からなかったので一瞬呆然とした。その一瞬の間をおいて「一寸待て、今何を言うた。今から考える?舐めてんのか。子供はお前の実験材料か。お前は教師やろ、教育とは何かも分からんと教師になったんか」と怒鳴りまくったのを思い出す一節だ。
こんなふざけたことを言う人間を国会に送りだしたのはだれだ?「自問せなわからん奴」を選んだのは誰だ?また、この言葉をおかしいと思わないのはどういう頭なんだ。
俺は教師に徹底的に突っ込んだ。当然他の親たちはフリーズしたままだった。もちろん、私の突っ込んでいる意味など分からないからフリーズしているのだ。面白いことに、その後、私の子供が2年3年と上がるたびに、受け持ちは全て新任の教師が担当した。
その理由は分かるから、今度は教育委員長に「うちの子供は、新任の実験材料にされている」と突っ込んでやった。誰も「正面向かい合い」が出来ないのだ。それが教育長であったり、教師であったり、親であったりだ。
もちろん、その子供も右にならえになるしかない。
■ 2004/10/26 ( 火 ) 常識の違う国
愚息がウクライナに一ヶ月のツアーに出る。ウクライナといえば、旧ソ連だ。つまり、西側ではない。ということは常識がまるで違う。今回は、プロモーターと色々なやりとりをしたおかげで、本当に違うと言うことを実感した。もちろん、物価も違う。タバコが日本円で 35 円らしい。
ホテルもどれだけ前にキャンセルを入れても予約金は返ってこないらしい。自ずと、取り方が制限される。外貨の持ち出しは、むろん金額によるが 40 パーセントの税金がつくそうだ。
西側の感覚でツアーといえば、全部が決定されて、つまり、泊まるホテルもということだが、それはしないそうだ。その他色々と約束事での常識の違いが出てくる。
それを良しとするのか、それとも、こちら側の論理を通すのか、プロモーターとのやりとりの中で、かくて戦争は起こるのだ、という事を実感した。全く違う常識も「おもろいやんけ」と言ってしまえるのが日本人の良いところであり懐の深いところだ。しかし、この頃はそうでもない。あくまでもこちらの論理を当たり前として、通そうとする人が多い。むろん、これもものの限度の問題はあるから、「おもろいやんけ」と言えるレベルでの話だが。まさか、イラクへ公演に行くのがおもしろい、といっているのではない。
危機管理という言葉が定着し、それを大上段にかざした時、この「おもろいやんけ」は色を失う。そして、行動が狭くなり視野も狭くなる。これは、どちらを選択するのか、なかなかおもしろい決断力がいる世の中だ。昔は「おもしろい」というだけで行動できたのだが、それが今では危機管理能力の欠如という言葉でバカにされる。本当にバカか?
■ 2004/10/29 ( 金 ) ハンコックも年や
ウエイン・ショーター、ハービー・ハンコックというメンツは、ドラムを始めたときの音楽的目標だった。既に亡くなったトニー・ウイリアムスもその一人だ。彼らは 1964 年にすでにフリースタイルに傾倒していた。ジャズは、色々なスタイルを持ち、スタイルに姿を変えまるで変体動物のように生き延びる術を持っている。
先日、東京ジャズ 2004 のステージをオンエアーしていたので、懐かしくなって見た。
「なんじゃ、これ。こいつらこのままやんけ」彼らは、自分のコピーをし細々と食いつないでいただけだった。ベンチャーズとは違うんだから、時間と共に進化しろよ。
多分それは私の勝手な思いだったのだ。時間と共に進化していたのではなく、その時代の流れに乗っていただけで、根本的にはそれほど深い音楽を追究していたのではなかったのだ。
「押入ミュージック」つまり、自分が勝手に楽しんでいる音楽だ。人の前で演奏してはいけない音楽だ。久しぶりに再会した彼らの音は、何のことはない、まるっきり押入ミュージックだった。
■ 2004/10/31 ( 日 ) 現実感のなさ
毎日多くの人が交通事故でなくなっている。道路を歩く時は気を付ける。車を運転する時は気を付ける。そんなことは当たり前だが、それでも実際に酔っぱらい運転、居眠り運転、暴走、その他色々な事で人は死んでいく。もちろん、病気でも死ぬ。
今回の新潟中越地震でも、台風 23 号でも人は死ぬ。つまり、人は死ぬというのは事実なのだ。しかし、その事実を自分の事として捉えることがなかなか出来ない。だから、死んだ時にその周りの人、関係する人からは「えっ!まさか」となる。
むろん、死んだ人も死んだことが分からない時もあるし、分かる時もある。その分かる時の場合だけ「死」というものが、現実としてその人は認識できる。そこでやっと「生きたい」という意志が出現する。
事故や災害に巻き込まれた場合、生まれつきの病気を抱えていた人は気の毒だが、それ以外の人は、今頃何を言うているの、だ。それが現実感を持っていない人という。日本は、平和ぼけをしているとよく言われる。それは、「生きている」ということに、そして、「死」というものに、そしてそれらが自分自身と共にあるものだという認識が無いことだ。
自分自身が遭遇するということを全く分かっていないということだ。イラクで青年が首を切られたらしい。親は「彼は彼なりに人の役に立ちたいと思って行った」と会見していた。
イラクで戦争が起こっていて、日本人もターゲットになっている、という現実はこの親子の中にはなかったのだ。だから「彼なりに人の役に立つ」などという、馬鹿げた事を言えるのだ。
24 才で無職の青年が戦時下の人のどんな役に立てるのか、それを考えられない親はどんな親だ。自分の子供のことを「彼」と他人事の様に呼ぶ親。そのとおり、他人事なのだ。
だから、 24 才で無職の青年を危険な場所に平気で旅立たせる事が出来るのだ。
日教組の教育の成果は二世代にわたって現れている。