■ 2004/07/31 ( 土 ) 日野晃のサムライなこころ オープン

日野晃のサムライなこころ がオープンしました。

 

■ 2004/07/31 ( 土 ) 敵を知り己を知れば??

最近発売になった雑誌の表紙の肩書きの上に「天才」と入ったものがある。

これは、本人が「肩書きの上に天才と入れろ」と言ったものだ。

担当の記者は「えっ!」と絶句し、それでは読者から軽く見られるから止めましょう、と進言した。

しかし、本人は真面目に「絶対入れろ」と譲らなかったので、仕方なく入れる事にしたそうだ。

この御仁、最終校了の直前に表紙に自分の写真を載せろ、でなければ記事を引き上げる、とごねた。記者は慌てて私に電話「穴が空いたら原稿を増やしてください」と。「考えられない話ですよね」と解決してからの電話。

しかし、よく考えてみるとこれはとんでもない話ではないのだ。読者は「天才」と書かれてあったら「あ?、この人は天才なんだ」と鵜呑みにする、ということを見越しているから「天才」と書かせたのだ。

それは、私のところの若い人達を観察していたら頷ける。自分の中で、物事を判断する物差しを育てていない、持っていないのだ。

そういった意味では、この御仁は現実認識をきちんと出来ている人なのだ。

自分はどんな敵と戦っているのか、つまり、自分の読者はどの程度の頭のレベルなのか、を把握しているということになる。

さすがT大。

人生で大切なことは、「自分が何をしたいのか」はもちろんのことなのだが、それを踏まえて、そこに対象のものがあるならば「相手の武器は何なのか・相手の実力はどれくらいなのか」を知ることである。

しかし、悲しい話でもある。「天才」と書かれていたら「天才」と思ってしまう読者。

そりゃ、国会議員の学歴詐称や、名門大企業のリコール隠しも平然と行われる筈や。

 

 

■ 2004/08/04 ( 水 ) 人生は勝負1

子供の頃からの口癖が何故か「勝負じゃ」だ。一体何を相手に勝負するのか。子供の頃の記憶からすると、自分の前に現れる「壁」との勝負だ。むろん、その「壁」は子供だから、自分の思い通りに行かない事に対するものだ。自分の思い通りにならない、だから思い通りにならせないものと勝負だということになる。

それが喧嘩の時もあった。学校をさぼることでもあった。家を飛び出す事でもあった。時々新聞沙汰になっている、思い通りにならないから「家に火をつけた・学校に火をつけた」も、その気持ちは良く分かる。試験勉強をしていなくて、明日はテスト。また、20点くらいしか取れない、それは試験があるから悪いんだ、試験問題が燃えてしまえばよい、学校が燃えてしまえば試験はない。布団の中で思ったことが何度あったか分からない。幸か不幸かそれを実行しなかった。その代わり学校をさぼった。

【どこが「勝負やねん」勝負から逃げているだけやんけ】

しかし、何故か「勝負じゃ」と言っていた。負けず嫌いなだけで、そのくせ何も出来ない、そんな子供だったのかも知れない。

しかし、勝負をした事もある。

初めて相手と堂々と決闘をしたのは小学5年生の時だ。4年生から同じクラスだった女の子を巡っての決闘だ。本人の全く知らないところで始まって終わるという、子供の頃特有の共通幻想に対する決闘だ。

俺の方が中がよい、いや俺だ。本人に確かめたら直ぐに分かることなのに確かめない。実は本当のことを知ってショックを受けたくないから確かめたくない、が本当のところだ。勝手に盛り上がって勝手に静まる、正に子供だ。この時の勝負は引き分けだったが、自分の中では無我夢中だったので何が何だか分からなかった。

 

■ 2004/08/05 ( 木 ) 人生は勝負2

自分の前に立ちはだかる「壁」との勝負。それは「これをやりたい」と思ったものを何が何でもやってしまうという勝負。そして、その「やりたい」は、意味がないものほど価値がある。自分にとっては価値があるが、他人から見れば「バカかこいつは」と思うものほど価値がある。

意味がある壁は壁ではない。例えば生活の為に、仕事の為に、誰かの為に、ということで行き詰まるものは、「当たり前のこと」だから壁ではない。それが出来ないのは「弱いだけ・怠惰なだけ」だ。

その小学生時代、一人でボートに乗ることを覚えた。家から1時間ほど歩いた(子供の足で)ところにあった

天王寺公園。そこにある池にボートを乗りに行った。もちろん、普通のボートだから子供の俺には手も足も小さすぎて届かない。でも、何とか工夫をして乗りこなしていくのが面白い。

給食費や学校に払うお金をくすねてはボートにつぎ込んだ。もちろん、学校にはいかない。

ボートを大人並みに操れるようになり、大人以上に操れるようになった。「だから何?」そうだ、だから何だっていうんだ。だから何ではない。紛れもなく「俺が出来るようになった」が残った。

しかし、意味はない。意味がないものにはマニュアルがない。だから面白い。自分が出来ない自体と遭遇した時に初めて工夫が生まれる。

しかし、その工夫が正しいとは限らない。当然失敗を、つまり、工夫の失敗を積み重ねる。結果、出来るようになる。そこに残ったものは、ボートを操れる、と同時に「工夫の積み重ね方」が自分の中に残ると言うことだ。

自分が決めて取り組んだことで失敗してもめげない、という不屈の精神を育んだのだ。意味のないこと、これほど素晴らしいものはない。

 

■ 2004/08/06 ( 金 ) 勝負3

中学生の時には喧嘩をよくした。「勝負」そのものだ。しかし、その勝負は底が浅い。勝負をする根拠がどこにあるのか分からないものが多い。だから子供なのだが。エネルギーが余って仕方がない、それも喧嘩になる原因の一つだ。

同時に体操クラブに入り熱中した。記憶に残る一番大きな勝負はこれだ。

体操クラブに入ったが、先輩や教師には馴染めなかったので一切の指導を拒否した。同時に入部した同学年の仲間と3人で体操を工夫した。

指導されていた同学年の3人。彼らより上手くならなくては拒否した意味がない。「勝負」だ。誰かが俺の前に「壁」を作ったのではない。俺が勝手に作った壁だ。それとの「勝負」だ。

一年生の時は、鉄棒だけ3人とも追いついた。二年になった時、完全に彼らを抜いていた。拒否した俺たち3人は新人戦には出られなかったが、二年生になった時の大阪府の大会にはレギュラーになり団体戦と個人戦を戦った。

結果、俺が大阪府で個人7位に入る検討を見せた。初めて出た大会だから我ながら大したものだと思う。続く大阪市の大会では4位に入賞し、大阪市の代表選手として三都市大会に出た。そこで、鉄棒では最高得点をたたき出し、周囲を驚かせた。「勝負に勝った」この勝利は誰も対戦相手は居ない。俺が勝手に「こいつらには」と思っただけだ。この活躍が認められてオリンピックの強化選手に選ばれた。「勝ち」だ。

もちろん、この当時の強化選手は現在のようなものではない。各都市で優秀な成績を収めた中学生を対象に集めたものであって、選ばれたからオリンピックに出られる可能性がある、というものではない。

しかし、このことが後々高校から特待生で引っ張られることになる。

この時俺は一体誰と勝負していたのか。現実的には、クラブの仲間であり競技での勝負だ。しかし、実際的には、「こいつら」と「決めた自分」との勝負をしていたのだ。だから、決めた自分には負けたくなかったから頑張った。もちろん、これは結果としての話であって、その時は「こいつら」と勝負していたつもりである。

 

■ 2004/08/07 ( 土 ) 勝負と弱音

「勝負」には泣き言が付き物だ。「もうやめよう・もうあかん・何でこんなにしんどいことをしなければならないのか」等と弱音を心の中で吐く。本当に情けない男だと思ってしまう事が何度と無くある。どうしようもないな、と思ってしまう。そこ迄落ちた時「畜生!!」と何かがこじ開けられエネルギーが噴出する。

中学一年生の時、はじめて袋叩きにあった。その時もそうだった。7人を向こうに回し、こちらは二人。「こら、ぼけ」と啖呵を切っている最中に向こうが仕掛けてきた。アッと言うまもなく相棒は一目散に逃げた。俺は「えー」と思いながら相棒を目で追った。同時に向こうの誰かが俺の顔面にコンクリートの欠片を叩きつけた。目から星てなもんじゃなかった。

何とか開いている目で相棒を見たら、追いつかれ後ろからコンクリートの欠片で後頭部を殴られのびた。蟻が獲物にむしゃぶりつくように、7人は俺に襲いかかった。羽交い締めにされ、何がどうなっているのか分からないくらい、顔に頭に胴体に足に何かが当たっていた。その内に俯せにひっくり返った。中一のガキだった俺は大声で泣いたが、相手の攻撃はゆるまない。何が何だか分からない。涙も枯れてとはこのことだろう。

涙が止まった時、相手の足が沢山目に飛び込んできた。身体のどこから沸き上がったのか知らないが「畜生!!!」という何かが噴出していた。そう、俺は復活したのだ。相手の足を取り一人をひっくり返し、コンクリートの欠片でどつき回した。続いて一人。身体に震えが起こった。袋だたきされたダメージなどどこにもないようだった。相手を追いかけ回し手居る時パトカーのサイレンが聞こえ、俺達二人は血まみれになりながら周りの見物人に助けられタクシーに乗り込み逃げた。

喧嘩は往々にして自分で決めたものではなく、その場の雰囲気や流れが作り出す。関わってしまえば仕方がないから参加する。この「仕方がない」も人にとっては大切な要素だ。どうも「勝負としやない(仕方がない)」は俺にとって一セットのような気がする。

この二つが「畜生!!」という感情以上の何かを噴出させるキーワードだ。

 

■ 2004/08/08 ( 日 ) 意味のない勝負

意味がない勝負がよい、と言っても、器械体操には意味があるのでは?と思われるかも知れない。しかし、それは結果として意味を持つだけで、中一のガキは女の子にもてたかっただけだ。器械体操が上手に出来ればかっこいい。そうなればもてる筈だ。だから一生懸命に取り組んだ。だから誰にも教わらなかった。先輩に習えば早く出来るようになったかも知れない、教師に教えて貰えば早く大車輪が出来るようになったかも知れない。しかし、独力でマスターすることがかっこいい。誰にも習わない、教わらないのがかっこいい。これは、俺自身が人から指図されるのが大嫌いという性格が大きく関係している。結果としてみれば、その性格が良い方向に働いたのだ。皆と一緒に練習していれば新人戦には出られただろうが、それには全く興味がなかった。かっこよくなる方が大切なのだ。「もててどうするの、学校で良い成績を上げることが、良い学校、安定した職場に行く為に絶対必要だろう、自分の将来のことを考えて見ろ」親も教師も言うことだ。というより、これ以外の言葉を持っていないように耳にたこができるほど聞かされた。

10数年前に、中学卒業以来初めての同窓会があった。皆、どんな年の取り方をしているのか楽しみにして出席した。幼なじみで同級生の成績の良かった女性が「あの頃は勉強勉強と先生や親に言われたけど、結局普通の主婦をしているだけ、日野君の様に自分の好きなことをやっていたら良かったと思う」と言っていた。

中学の頃は自分の将来など見えない。だから、先生や親の指示に従う。もちろん、それも大切なことの一つだ。大切なことの一つではあるが、絶対ではない。俺も、自分の将来の事は見えていなかった。しかし、自分の周りの大人を見て「こんなおっさんにはなりたくない」とは思っていた。

しかし、この年になって考えてみると、子供の頃から「良い学校にはいる為、良い職場にはいる為」と言われ続け、就職したらしたで「今期の目標の為、売り上げ向上の為」と言われ、結婚したら「子供の為、老後の為、病気予防の為」等と、死ぬまで「○○の為」に振り回されている。

挙げ句の果ては、食事まで「これはビタミンが豊富だから、血液がサラサラになるから」等と意味に振り回される。新聞に「現代人は意味を生きている」と書かれてあったが、本当にそうだ。「意味のないこと」に生きる事など出来ないようだ。「意味がない」それはいみじくも「自分が決めているから」そして、それも人以上の感動を実感出来るから、言い方を変えれば「よろこび・哀しみ・怒り」と共に生きる事だ。

 

■ 2004/08/09 ( 月 ) 勝負=本気=手段の出現

意味があってもそれはそれでよい。但し「勝負」をするならばだ。つまり、自分の決めたことを出来るまでやり通せるなら良いのだ。ただ、その決めごとは、直ぐに達成できるようなことでは駄目。よく、まず手の届くことから、という言い方をするが、それは取り組む為の手段の話であって決めることではない。取り組む為の手段は何でも良い。どんどん考えて良い方法を見つければよいのだ。だから、一つの方法に固執していては駄目。このやり方とこのやり方はどちらが合理的か、を常に考える必要がある。だから、色々な方法を試さなければならない。

ここに自分の問題が明確化する。もしも、色々な方法が見つからないとき、それには理由が二つある。一つは頭が悪い時。一つは、自分が勝負をかけているものが、かけていると「思っているだけ」でかけていない時。俗に言えば、本気じゃないときだ。これらの場合は、手段は見つからない。

「思っているだけ」というのは、説明が非常にやっかいだが、自分自身がその場しのぎで思っただけのもので、頭だけで判断したものだ。一方は、感情が動き無条件で決断したことだ。

まあしかし、この「思っているだけ」かそうでないのか、は分かる必要がないし、客観的判断は必要ではない。それは、ここでいうように様々な手段を見つけることが出来ているのかそうでないのか、その手段を実践してみて、どんどん切り捨て、新たな手段を見つけだすことが出来ているのかいないのか、ということを数年単位でやっているのかいないのか、それが答えだ。だから、「私は本気です」と言う前に、では手段がどんどん沸いてきているのか、その沸いてきたものをどんどん試し適したものとそうでないものを選り分けているのか、を今の日常生活の中にあるのかないのか、を振り返れば、自分の本気はどの程度のものなのかハッキリする。背水の陣以外は本気とは言わないのだから。

 

■ 2004/08/10 ( 火 ) 泣き言の次にしか「畜生!!」はない

「勝負」には泣き言が付き物だ。だから面白い。自分の思っている自分ではなく本当の自分が現れるからだ。よく、本等のタイトルに「本当の自分に出合う」的な言葉が一時流行した(今でも、そんな中学生の夢物語に振り回されている人が沢山いるが=ヨン様騒動から韓国人との結婚願望などこの典型だ。)が、どこに本当の自分と嘘の自分があるというんや。

全部本当の自分やんけ。ただ、ここで言っている本当の自分とは「非常事態になったときに現れる潜在的な自分」という事だ。そして、その潜在的な自分が表面的な自分を支えているのだから、その潜在的な自分自身を知っているのか知らないのかが、人生を左右することになる。

そういった意味で「勝負」は楽しい。この潜在的な自分を表面的な自分に見せてくれるのだから。

中3の時、自転車で白浜温泉まで行った。現在では、自転車の性能も道路も良く整備されているので、「それがどうした」という距離だ。当時は、天王寺から白浜までは蒸気機関車で、和歌山以遠は単線だったのが、ようやくジーゼル車が導入され、3時間30分くらい掛かったように思う。当然、道路も国道26号線は殆ど舗装道路だったが、42号線に入ったら地道だ。自転車も何段変速というものはなく(あったのかも知れないが情報が今ほど手に入らないので分からない)、真っ黒の通称おっさん自転車で行った。

元から白浜に行く必要も、行きたいとも思っていないのだから、引き返そうと思って当然だ。ただ単に「白浜まで自転車で行けるか行けないか」をクラスの連中や悪仲間と賭をしただけなのだから。この時も「最低な自分」と随分長い時間付き合った。「弱音を吐く自分」とも付き合った。どうしたら賭をした連中を誤魔化すことが出来るか、絶対に行っていないと見破れない方法は?等が頭の中でグルグル回った。でもそんな自分が嫌でもあった。しかし、やっぱり帰ろうと思う自分が勝ってしまう。と同時に自転車は目的地を目指して進んではいる。この矛盾が無茶苦茶面白い。

不安で不安で、というより心細くて心細くて、があり「あほか、そんなことあるか」と虚勢を張り「あかん、やっぱりやめとこ」になり「次の駅で帰ろう」「あ〜あ、しやないな」で「ほんまに最低やな」だ。しかし、ここまで来るとリバウンドが起こる、それが「畜生!!!」だ。「よ〜し!」だ。何時も思うことだが、この一番最低な自分に出会った次は人間が変わったのでは、と思うくらい何かが変わる。人間は凄いのだ。その凄い人間と出会う為には「勝負」をかけろ!!

 

■ 2004/08/12 ( 木 ) 思っているは思考停止

「不安や、そんなことあるかい、やっぱりやめよう、ほんまに最低やな」は、行動を止めていないということが大前提だ。それらを時間を止めて「頭だけの作業」にする者が沢山いる。というより、大方の人が自分の時間を止めて頭だけの作業をする。いわゆる思考停止状態、行動停止状態だ。思考停止、行動停止、しかし、その本人は「色々と思っている」だから、思考が止まっているとは知らないし、行動が止まっていることも知らない。

もしもこういう自分に気付いたら痴呆の症状が始まっていることを自覚した方がよい。若いから痴呆ではない、と思うのは間違いで、若年生痴呆症は増えているのだから。

小学生の時、皆目学校の勉強が分からなかった。先生が何を言っているのか、本に何が書いてあるのか、を全くと言っていいほど分からなかった。当然、廊下に立たされるのは日常茶飯事だ。親が見かねて家庭教師をつけた。最初の家庭教師は、小学校の先生のアルバイトだった。教科書を開け先生が読んだり、問題を説明してくれたりする。説明を聞いているときは分かった「様な気になる」。

しかし、じゃあ一人でやってごらん、と言われたら全く出来ない。その時、思考停止状態になっていたはずだ。つまり、何をどうすればよいのかが分からない状態で、「分からない・難しい」と思っていることを「考えている」と勘違いしているレベルだ。私で言えば小学4年生レベルだ。

この「何をどうすればよいのか」が考える一歩なのだが、学校の勉強は私自身とは余りにもかけ離れていた為に、どうにもならなかったのだ。

つまり、自分自身とかけ離れたことには頭は働かないという事だ。手段が沸き上がってこない、手段を見つけることが出来ないのはバカか本気ではない、ということの、もう一つの側面だ。この「自分自身とかけ離れたこと」という処も複雑だ。

 

■ 2004/08/14 ( 土 ) ただいま合宿中

恒例の夏の合宿の真っ最中。武道の要素を一つずつ丁寧に仕上げていく。

身体の大小、力の大小は全員異なる。そんなことは言われなくても誰でも知っている。では、その知っていることを、対人関係の実際として適応させることが出来るのか。そこが稽古だ。

大方の人は、「自分のしたいこと、やりたいことを相手に押しつけている」だけだ。決して人が変わったからといって、それに即した運動をしない。

それは何故か。自分が相手に対して何をしているのか知らないからだ。え?そんなバカな???そう、そんなバカだ。

それを知っていくのが稽古だ。

A さんに B さんに C さんに即した力の出し方が出来ること、それが出来ない限り、自分の通用する相手は限られている。

 

■ 2004/08/18 ( 水 ) 自分自身とかけ離れたこと

「自分自身とかけ離れたこと」例えば、私が中学の時器械体操をしていた。その時、オリンピックに出ている選手は憧れであり目標でもある。そこで、仮にその選手に会えたとして、何を質問出来るだろう?難しい技のやり方を聞くだろうか?難しい技のやり方を聞いたところで、その時点での私には出来るはずもない。というより、全く違う種目を聞いているのと同じレベルだ。それを「自分自身とかけ離れたこと」と言うのだ。つまり、例え同じジャンルの中に属していたとしても、レベルが違えば同じジャンルとは言えないくらい自分自身とはかけ離れたことになる。しかし、ここに問題が一つある。それは、この器械体操の例のように「何が出来ているのか」が明確なこと、つまり、客観的評価が明確にあることでは自分自身のレベルを認識して当たり前だが、その客観的評価が曖昧なものやほとんど問われないことでは、自分のレベルを知る機会はほとんどない。当然、自分とかけ離れたことでも自分と同じように語ることが出来たり、興味を持つことが出来る。もちろん、興味を持つのは悪くはない。その興味を持つことが自分自身の何かに役立つことが起こる可能性があるからだ。

レベルが違えば、解説や説明を理解できても具体的には何も分からない。当然、何一つ役に立てることは出来ない。例えば、その辺の何も知らないおばはんでも政治や経済、芸術スポーツを自分の事のように語ることが出来るということだ。もちろん、語ることが悪いことではない。自分と全く関係がないという事を知っていればだ。

しかし、常識的に言って自分と関係のないことを語ったところで、時間つぶしにはなっても自分作りにはならない。その時間つぶしの連続が自分作りだとしたら、自分は一体何なんだ?どんな自分になるのだ?

 

■ 2004/08/20 ( 金 ) 失敗と向き合う

簡単に言えば、何か失敗をしたとしよう。すると「しまった」となる。ここまでは、誰にでも理解できるし体験しているだろう。しかし、この中はかなり複雑なのだ。その「しまった」は、失敗した具体的なこと、例えばコップをひっくり返したとしたら、「コップがひっくり返ったこと」を指しているのか、そのコップをひっくり返した「自分自身」を指しているのかの違いがあり、それは天と地ほどの違いだ。自分自身を指した場合が非常事態に出くわしたということだ。自分自身の事だからつまらない失敗をする自分自身に愕然とする。

もちろん、その二つを段階的に自分で考えられれば一番良いのだが、大方の場合、コップをひっくり返した、という具体的現象に対してのみ「しまった」だ。だからどうなるのか。同じ間違いばかりするのだ。しかし、現実的には繰り返し間違う人、失敗する人は「同じ間違いをしていることは知らない」。だから繰り返すのだ。また、その失敗を重要なことだとは思っていないのだ。単純化して言えばバカだ。だから、失敗を指摘しても失敗だと思っていないから、笑いで誤魔化したり、本当に笑ったりその事に対して意見を述べたり、自分の評論をしたりする。「ああ、これは失敗なんだ・俺はバカなんだ」等という言葉である。

しかし、それよりももっとひどいのはコップをひっくり返したことを知らない人だ。これは救いようのない超弩級のバカだ。人間以前と呼ぶ。この種は恐ろしいほど沢山増殖している。例えば、自分が歩いていて前から歩いてくる人にぶつかり、何事もなかったように前に歩き続けている人だ。これは怖い。事件を起こしている人のパターンだからだ。つまり、自分の世界の中だけでしか生きていないから、誰かとぶつかっても気にならないのだ。しかし、それが一度自分の世界を侵害されたと思ったら「キレる」のだ。

まあ、その辺りの人のことは放っておいて、何かの失敗に対しては、きちんと正面から向かい合い、自分の無様さを認識して欲しい。自分の愚かさを認識して欲しい。人生はそれの連続だといっても過言ではない。なぜなら、日常では色々な場面があり、その都度違う形で自分自身が現れるからだ。その自分と何時も向かい合う、それが一番成長する方法だ。

 

■ 2004/08/21 ( 土 ) 強烈な意志

連日のオリンピック放送を見て感動の連続だ。柔道でも水泳でも金メダルラッシュ。前回のシドニーオリンピックと何が違うのか。もちろん、トレーニングが身に付き強くなってきているというのはある。しかし、何といっても違うのは個々の選手の雰囲気だ。それは顔が前回とは全く違っていることで見える。「目」が違う。光っている。つまり、「強烈な意志」を持った目だ。だから「勝つ」体操も勝った。それに引き替え体操での中国は、中国らしからぬミスを連発していた。一人っ子政策や自由貿易等の影響が表れた様に見える。顔もそうだ。以前の日本人選手はいじけた目つきをしていた。それが今中国選手に見受けられる。口をとがらせ、勝手気ままに育った目をしている。結果論ではないが、敗退していく選手は競技の前に分かる。目が光っていないのだ。つまり、「強烈な意志」がないのだ。

柔道の野村選手は驚異のオリンピック三連覇した。凄いことだ。谷選手も勝った。では、勝つ選手と負ける選手の何が違うのか?きっと練習量も練習方法も余り変わりはないだろう。であれば残るのは「強烈な意志」だけだ。何でも北島選手は子供の頃は余り目立たなかったらしい。しかし目つきが違ったそうだ。だからコーチは推薦した。コーチの見る目の確かさが、現在の北島選手を作ったのだ。

強烈な意志はどこから作られるのか。それは単純だ。自分自身と百パーセント対峙しているからだ。自分自身と正面から向かい合っているからだ。

というところから、武術で書籍や雑誌を写真で飾っている人達の目を見るのも良いだろう。比べようのない程意志のない目、つまり、光っていない目、媚びた目、どうだい俺は凄いだろう、という幼稚な目。訳の分からない緩んだ姿勢。この機会に武術ファンの人はしっかりと見比べて欲しい。でなければ、見る目は節穴どころか穴が塞がってしまうぞ。

 

■ 2004/08/23 ( 月 ) 強烈な意志は勝負が作る

強烈な意志は「勝負」から生まれる。競争から始まるのだ。決して皆仲良しからは生まれない。小学校の運動会で皆並んでゴールするなどもってのほかなのだ。

水泳でも柔道でも体操、レスリングでも競い合うから成長し、タフな精神が作られるのだ。また、別の角度から言えば勝負できる力があるから他人と仲良くできるのであって、力のないものは他人と仲良くすることも理解し合うことも出来ないのだ。北島選手は二位になった選手も三位になった選手も理解できるだろう。もちろん、その逆もある。それはそれぞれに強いからだし、勝負をしているからだ。

というところから言えば、誰もが北島選手になれる!?

何もオリンピックで金メダルがとれるというのではない。北島選手のように「勝負」をすればよいのだ。仕事で、学業で、その事によってタフな精神を創り出すのだ。自分が何と勝負をするのかを決めればよいのだ。そして、努力努力努力をすればよい。勝負できるものをわざわざ探しては駄目だ。自分自身の現在の環境や状態から見つけるだけでよい。

そこには何の理由もいらないし説明もいらない。それらは、自分自身のパワーを弱くするだけだ。

 

■ 2004/08/24 ( 火 ) ピントはずれにも気が付かない

卓球の愛ちゃんにインタビュー「五輪は楽しめましたか?」愛ちゃん「五輪を楽しむ為に来たのじゃありませんから」インタビュアー「自信はつきましたか」愛ちゃん「そんなきれい事じゃないですから」これくらいピントがずれているのが日本のインタビュアーだ。それは体操であろうが、柔道であろうが、マラソンであろうが全部同じだ。バカだ。「五輪は楽しめましたか?」バカか。お昼のワイドショーではない、という事が分かっていない。自分がインタビューしている相手は、五輪を目指して人並み以上の努力と強い意志を持った人間だと分かっていないのだ。つまり、自分自身の現場と選手達の現場の質の違いを全く理解していないのだ。

それを「何も見ていない・見えていない」というのだ。どの選手も、インタビューに対して「何を聞いているの?」という顔「もういいよ」という表情をしるのを見ていないのだ。その表情が見えた時点で、自分の質問はピントがずれていた、と気付くのだが、残念ながら「何も見ていない・見えていない」から修正も出来ないのだ。

選手達は一応に「勝負」をしにきているということを分かっていない。競技は勝負以外の何ものでもない。レスリングの浜口選手のお父さんを見れば良く分かるはずなのに。「気合いだ!京子!お前なら出来る!」この気合いが全てであって、その表現の仕方が千差万別なだけだ。であれば、その勝負がすんだ直後のインタビューで「どうでしたか?」はないだろう。お前も見ていたろうに。

残念ながら準決勝で負けてしまった京子ちゃん。

 

■ 2004/08/25 ( 水 ) 未だに高校野球は「文武両道」

日本の歴史に残る言葉の一つに「文武両道」がある。今風に言い換えれば「教養と実践力」だろう。先日夏の高校野球で北海道の高校が歴史的優勝をした。そのセレモニーの時だったか、解説の時だったか高野連の偉いさんが「学校教育は文武両道だから」と「文武両道だから野球も」と言ったようなニュアンスを話していた。「バカか、未だにこんな事を話す親父がいるのか」野球のどこが「武」なんだ?野球は野球ゲームでありスポーツの一つだ。そして、職業の一つだ。

未だにこれほど頭の悪い、しかも勘違いも甚だしい輩が「連盟」の偉いさんでいること自体不思議の一言につきる。それこそ、「連盟」は官僚や行政機関の天下り先のごとくなんだろう。現実認識がまるで出来ていない偉いさんが現場を潰していく。

また「文武両道」を全然分かっていないから、こんなコメントをいけしゃあしゃあと公衆の面前で話すことが出来るのだ。こんな事を英語やフランス語といった外国語に翻訳されて海外に流出したら本当に世界の笑いものだ。「野球は武道だって??日本ってまだチャンバラをしているのか?」

この文武両道の解釈違い、それは紛れもなく「根拠のない根性論」だ。その歪められた根性論は明治以降のスポーツ界を牛耳っていた。それはスポーツという概念がない国だから仕方がないといえば仕方がない。しかし、戦後もこの風潮が残っており、合理的なトレーニング方法は諸外国に一歩先を越されていたのだ。

根性が必要ないのではない。根性があるから過酷なトレーニングを乗り切れるのだし、ここ一番の勝負に勝利することが出来るのだ。しかし、根性だけがあってもどうにもならないほどスポーツの世界は進化している。 100 メートル競走で9秒台が続出するということなど誰が予測出来たろう。しかし、現実に世界は進化していってるのだ。こういうスポーツ界の状況は、特殊な武器を開発しているのと同じで、生まれつき身体能力が高く、その上で選手にあった的確なトレーニング方法があり、それらをクリアする忍耐力、その上で「強烈な意志」という根性を備えたものしか勝てない。その意味で、今回の日本のメダリスト達はあらたなスッペシャリスト新人類だ。

 

■ 2004/08/27 ( 金 ) 競技の難しさ

シンクロはロシアが 10 点を出した。日本は 9,8 点。体操でもおかしな点の出し方があった。柔道で伊調選手は下手な審判だから銀になった、銀なんていらないと。主観で審判する競技は難しい。お国柄で美意識や価値観が違うからだ。そして、それが国際競技だ。だから難しい。観客に対して演技や勝負を見せるのではなく、審判に対して見せなくてはいけないのだ。

全くレベルの違う話で申し訳ないが、以前私の生徒が全国ダンス競技会に出ることになった。しかし、その生徒は武道こそキャリアは古いがダンスはど素人だ。色々な成り行きの中で出ることになった。何かアドバイスを、と言われたので、どんな連中が出て、どんな音楽を使って、どんな舞台が多いのか、を聞いた。さらに、観客にダンスを見せるのではなく審査員に見せるのだ、ということをきちんと認識しておくこと。だから、審査員はどんな顔ぶれで何を好むのかをリサーチしろ、と命じた。他のメンバーはダンスの経験者3人だが、別段特色もなく上手くもない。であれば、ダンスをしない方が賞を取れる可能性がある。ダンスとは何か、の基準などない世界なのだから。

そこで、4分間の振り付けを考え音楽を考えた。現場では音楽はなし、しかし、前のチームが音楽を使った場合だけ。もし使わなかったらこの曲を使う、という入札のような作戦を考えた。結果は、審査員特別賞を貰った。ある映画監督が非常に気に入り押してくれたそうだ。他の審査員はさっぱり分からないということだった。そんなことはどうでもよい。問題は賞を取れるか取れないかなのだ。結果、こちらの作戦通り賞をとった。

これが武道的な考え方だ。つまり、場に応じて相手に応じて考える、が基本であり、こちらの思惑を相手に押しつけるのではない。そしてそれが日本的発想なのだ。

オリンピックは様々な国の思惑も絡み、しかも価値観が違うという二重三重の難しさがある。しかし、なんとか武道的考えを用いて金メダルの数を増やして欲しい、それはいみじくも日本人の優秀さを世界に誇ることなのだから。

 

■ 2004/08/28 ( 土 ) 審美眼の違い

先日深夜「ピンク・フロイド バレエ」なるものをテレビでやっていた。ピンク・フロイドの曲を踊っているのだが、どうみても体操のマスゲームの域を出ていないのだがバレエらしい。舞台はその場しのぎで作られたのが良く分かる。動きとしての脈絡も構図としての必然も何も見えない。見えるのは、客から見てシンメトリーになるポーズ、その逆、滑稽なポーズ他を意図している、ということだけだ。そこには、ピンク・フロイドもなければ、メロディーもない。ましてや、その音楽がかもしだす「何か」、音楽そのものの感情などどこにもなかった。ダンサーから何も見えてこない。

あるのは「テンポ」だけだ。リズムではないテンポだ。テンポに合わせたマスゲームだ。草刈民代他ある意味では有名なダンサー達が参加していたが、下手な体操でしかなかった。これなら、新体操のメダルクラスの方がまだ鑑賞に堪える。

熊川哲也がロイヤルバレエ団のプリンシパルだった。しかし、彼の動きはどう見ても体操でしかない。飛ぶ、回る、ただそれだけだ。それが芸術だとされているバレエというのは一体何なんだ?しかし、それは私が一体何なんだ、といっているだけで、世界では体操とバレエの境界線など明確ではなく、マスゲーム的ダンスも立派なバレエで、熊川哲也もバレエだとしているのだ。

という西洋的審美眼がロシアのシンクロに 10 点を出しているのだ。世界選手権の時、日本のチームの音楽は理解されなかったらしい。いわゆる「間」に入るかけ声が悲鳴に聞こえるそうだ。歌舞伎のみえも何のことだか理解されなかったそうだ。違うのだ。日本人の感性と外国人の感性とは区分けしても良いくらい違うのだ。

例えば、リズムは流れであり感情の躍動だ。リズムは精神の鼓動であり感性の節目だ。日本の芸能である浄瑠璃の持つリズム。能の持つリズム。それは「間」という空間との対比で現れる。「間」という世界の中にだけ存在する。だから、リズムはデジタルなものではない。しかし、西洋的には一定のテンポの事をリズムという。完全なデジタルだ。つまり、日本的と西洋的とは言葉でこそ並べて対比させることが出来るが、実際には異質なものであり比べることは出来ないのだ。

そこに斬り込む日本人。頑張れ日本人。

 

■ 2004/08/29 ( 日 ) 合宿中

昨日、今日と一寸ハードだ。金曜日は朝一番のくろしおで東京へ、それでもお昼の12時東京着。先日タイで試合を終えた女性キックの渡邊選手取材の打ち合わせ。私の「胸骨トレーニング」を伝授して、もっと強くもっと美しく、という企画だ。終了後、千葉県野田にある武神館の初見宗家の元へ。対談と撮影。東京へ帰ったのが午後9時。明くる日は朝一番ののぞみでお昼に帰宅。午後2時過ぎから定例の「武禅」の合宿。夜は多分午前 3 時過ぎに就寝。夏の合宿では一キロ痩せた。その延長だからまた痩せるのかな。ジーパンのサイズが一つ落ち現在 27 〜 28 。

9月 6 日プロレスの中邑選手と対談。柔道、寝技の柏崎先生と対談……。この本は10月末にでるはずだ。しかし、一体いつ原稿を書き上げる事が出来るのか?締め切りは9月末??この間、フランクフルトバレエ団の安藤さんと往復書簡ならぬ、メール交換での取材。愚息は和太鼓チームを率いて秋からウクライナ 40 日公演。その為の衣装デザイン制作。曲の提供。太鼓台の製作。ウクライナコンサートに先駆けた9月末にする大阪公演の舞台構成と演出。

「武禅」のレポートのアドバイス書き。本当にいつ原稿を書くのだろう。

 

■ 2004/08/30 ( 月 ) 頭の使い方を間違っている

何かを指示すると必ず「それはこういう事ですか」と聞き返す人がいる。また、「こういうことですよね」と同意を求める人もいる。どうして指示されたことを実行する前に聞くのか。どうして実行してもしないのにその後のことを聞くのか?実際指示された人は何もしていないのだから、何がどうなるのか、何をどうすればよいのか、そして、その後どうなるのかなど分かるはずもない。だから、まず実行し問題に突き当たったら聞けばよい。しかし、何もせずに聞く。そういう人に限って何も出来ない。

私は人に聞き返したことがない。いくら難しいことに出合っても人に聞くということをしたことがない。もちろん、道が分からないから聞くのは別だ。とにかく自分の力で考えてみる。そして、実行してみる。実行するから結果が出る。結果が出るから自分のバカさ加減が分かる。だから自分の力で修正できる。これほど自分にとって分かりやすい作業がどこにあるだろうか。それを混乱させてしまう頭。頭は自分自身を整理する為に使うものだ。にもかかわらずどうして、この作業をさぼるのか。だから自分の力が弱くなるのに。

「目の前の人に話をして上げてください」という指示。「どんな意識を持てばよいのですか?」はあ?どんな意識を持つ?目の前の人に話をするのに特別な意識などいらない。目の前の人に話をすればよいだけなのだから。「こんな意識ですか?」一寸待て、ではこんな意識と指示されたら君には出来るのか。そして、その意識で出来ているのかいないのかを判別できるのか。と突っ込めば何も返ってこない。であればその言葉は何だったのだ?と突っ込んだら目が点になっているだけだ。自分の頭は、自分を混乱させる為にあるものではない、問題を複雑にする為にあるものではない。それを知らないとはどういうことか?

 

■ 2004/08/31 ( 火 ) 今、何を

昨日の稽古でも思わず「今、何をしているの」と聞いた。こちらが稽古のテーマの指示を出し、何が大事なのかを説明する。そして実際の稽古にはいる。しかし、それが稽古にならない。何故か。自分が何をしているのかを知らないからだ。

「身体を固めて立つ、相手はその身体の肩を押す」この何でもなさそうな動作が出来ない。身体を固めるのは難しい。身体を緊張させる必要はないのだが、大方の人は身体が緩んでいるので出来ない。また、緩んでいることを知らないし身体を感じることも出来ないので出来ないのだ。だから稽古の必要があるのだ。じゃあ何を?身体を固めて立つ、が出来ないのだから、身体が緩んでいる部位を感知できないのだから、その身体を固めて立つ、をモチーフとして「自分の身体を知っていく」に取り組んでいくのが稽古だ。

大方は、そこをせずにこちらの指示したことをしようとする。例えば難しい数学の問題を出されてそれが解けない。自分の実力では解けない問題だ。にもかかわらずその問題をいじくり回す、こねくり回す。いくらこねくり回しても自分の実力では無理なのだから、生まれ変わっても解けることはない。小学一年生が、高等数学の問題を解くようなものだ。であれば、その問題はどんな構造になっているのかを知る必要がある。そして、その一つ一つを解決していくしか方法はない。

ということを知らないから、バカの一つ覚えのようにこちらの指示したことを繰り返す。いくらやっても出来ない、ということに何故気が付かないのか?そこに例えば30分という時間が経過しているにもかかわらずだ。そこで、「今、何をしているの」という質問になる。すると「身体を固めて立つ、をしています」という。「出来ないでしょう、だからどういう工夫をしているのですか」「……」これがパターンだ。

出来ない自分を知らない。その出来ない自分を出来る自分にしていくことが稽古の本分だ。だから、緩んでいるところはどこなのか、何故緩むのか、という頭の使い方が出来なければならないし、その頭を作ることが稽古だ。

TOPページ

9月 10月 11月 12月