人は誰も自分の取り組んでいることに対して“上手になりたくない”“成長しなくても良い”“目的を達成しなくても良い”とは思っていない筈だ。
しかし、約30数年ほど、人に教えるということをやっていると、“上手になりたくない”と思っているとしか思えない人が殆どだということに気付く。
もちろん、「あなたは上手になりたくないのですよね」と問うと、「えー、いいえ上手になりたいと思っています」と100パーセントの人は答える。
つまり、上手になりたいのであれば、そうなる稽古方法を考えれば良いのだが、それを全く考えずに漠然と稽古時間を費やしている人が殆どなのだ。
これをやっていれば自動的に上手になれる、と漫画並みの思考しか持っていないのだ。
もちろん、頭の中は“上手になりたい”とは「思っている」のは間違いない。つまり、頭の中身の「思っている」と実際の作業とがかけ離れているということなのだ。
これは、ダンサーや武道に取り組んでいる人に限ったことではない。
いかに人は、時間の無駄使いしているかだ。
こんなレポートを書いた人がいた。
「自分の身体はどうなっているのか、何をやっているのか、何をやってしまっているのか、全くといってよい程自覚されていなかったのだと感じた。例えばAというテーマをやり、他人からどう見えているのか、そこからアドバイスをもらい、改めて、それにチャレンジしたとき、何も変わっていない、と指摘された。頭の中のやっている『つもり』は、本当につもりで、実際は何もやっていないのだ。これには愕然とした」
これを書いた人は、ダンサーでキャリアも古い。
つまり、自分が上手になるためにはどうしなければいけないのか、という自分自身の作業を全く怠っていた、ということだ。
これらのことは、厳密なトレーニングの中でしか発見できないし、はき違えた「個人の個性尊重志向」でも発見できない。ましてや、同じようにはき違えの個人を尊重した、つまり、否定のないレッスンや稽古から発見できるはずもない。上手になったり、目標を実現するのは、それに取り組む人そのものであり、決して自分以外の人ではない。
自分が自分に対して工夫する以外にはないのだ。その自分自身の工夫の集積を、「私」というのであって、それのない人は「私」ではなく、「誰か」なのだ。なぜなら、誰かに教えられた言葉や、方法、といったことしか知らないからだ。
“ねじれ”から“もどす”と“ねじれの力の方向に動く”を当初のテーマとして行った。それを発展させ、“何に意識すれば”となり、“身体全体に”になるのか、そして、どうして身体全体だと言えるのか、を「身体」そのもので答えを探していく、という稽古だ。
一人に対して二人以上の複数が対峙する。そのことで起こる心理的動揺、自分の注意が散漫になることを知る。
これは、ダンスや武道に限らず日常で必要不可欠な要素だ。つまり、現実は自分の思い通りにならないことを知り、だからどうしなければならないのか、の方法論が生まれるのだからである。
一本の棒を相互に持ち、片側が全身を使って棒を持っている人を倒す。もちろん、「倒す」ということだけで言えば、色々な方法があるので、それが目的ではない。
自分の全身、つまり、足先から手先までを連関させ、繋がらせ力を発揮することが目的だ。
最初は、腕だけに頼っていたのが、時間が経つ内に全身を使えるようになる。それは、以外と力が必要ではない、という実感が答えになる。
その時の身体が感じたこと、それが全身が繋がっているということの一つの答えであり、記憶しておかなければならないものだ。
全てに共通するのは、相手との正面向かい合いだ。
これがなければ、関係として成立しないし、身体の任意の部位を、相手に意識させることも出来ない。
そして、自分の意識を静止させることも出来ない。
それらが、自分自身の存在を、相手に認識させることなのだ。
つまり、表現として一番重要な要素なのだ。