2006 夏合宿 8/11〜15

 

レポートより

「腕のねじれを解く」稽古のとき、肩からの流れで肘、手の先までの一連を、力が伝わるようになるまで何回もやり、出来るようになったら肩、肘、と細部を考えていけば良いということだった。私は今まで、最初に運動を分解してしまって、運動全体の途中で頓挫してしまうばかりだった。大雑把でも運動が最後までいけた時は、大きな忘れ物に出会ったような感じを覚えました。

 

セミナーや教室では、そして身体塾や武道塾に限らず毎回毎回言うことがある。それは、目的や目標を実現させる、達成させるための方法だ。つまり、自分に対する稽古方法だ。
しかし、それらはほとんど身に付いていない。その原因は、自分の「頭で納得」するだけだからだ。頭で納得するというのは、自分の内部で自己完結させてしまうということにほかならない。しかし、そのことを実際として分かっていないので、「自己完結させているだけだ」と言ったとしても、そのことを頭で納得し、自己完結させる。その堂々巡りが、自分自身を永久に成長させない原因だ。
今回は、それを身体で徹底的に身に付けることを目的とした。

人は誰も自分の取り組んでいることに対して“上手になりたくない”“成長しなくても良い”“目的を達成しなくても良い”とは思っていない筈だ。
しかし、約30数年ほど、人に教えるということをやっていると、“上手になりたくない”と思っているとしか思えない人が殆どだということに気付く。
もちろん、「あなたは上手になりたくないのですよね」と問うと、「えー、いいえ上手になりたいと思っています」と100パーセントの人は答える。
つまり、上手になりたいのであれば、そうなる稽古方法を考えれば良いのだが、それを全く考えずに漠然と稽古時間を費やしている人が殆どなのだ。
これをやっていれば自動的に上手になれる、と漫画並みの思考しか持っていないのだ。
もちろん、頭の中は“上手になりたい”とは「思っている」のは間違いない。つまり、頭の中身の「思っている」と実際の作業とがかけ離れているということなのだ。
これは、ダンサーや武道に取り組んでいる人に限ったことではない。
いかに人は、時間の無駄使いしているかだ。
こんなレポートを書いた人がいた。
「自分の身体はどうなっているのか、何をやっているのか、何をやってしまっているのか、全くといってよい程自覚されていなかったのだと感じた。例えばAというテーマをやり、他人からどう見えているのか、そこからアドバイスをもらい、改めて、それにチャレンジしたとき、何も変わっていない、と指摘された。頭の中のやっている『つもり』は、本当につもりで、実際は何もやっていないのだ。これには愕然とした」
これを書いた人は、ダンサーでキャリアも古い。
つまり、自分が上手になるためにはどうしなければいけないのか、という自分自身の作業を全く怠っていた、ということだ。
これらのことは、厳密なトレーニングの中でしか発見できないし、はき違えた「個人の個性尊重志向」でも発見できない。ましてや、同じようにはき違えの個人を尊重した、つまり、否定のないレッスンや稽古から発見できるはずもない。上手になったり、目標を実現するのは、それに取り組む人そのものであり、決して自分以外の人ではない。
自分が自分に対して工夫する以外にはないのだ。その自分自身の工夫の集積を、「私」というのであって、それのない人は「私」ではなく、「誰か」なのだ。なぜなら、誰かに教えられた言葉や、方法、といったことしか知らないからだ。


“ねじれ”から“もどす”と“ねじれの力の方向に動く”を当初のテーマとして行った。それを発展させ、“何に意識すれば”となり、“身体全体に”になるのか、そして、どうして身体全体だと言えるのか、を「身体」そのもので答えを探していく、という稽古だ。

一人に対して二人以上の複数が対峙する。そのことで起こる心理的動揺、自分の注意が散漫になることを知る。
これは、ダンスや武道に限らず日常で必要不可欠な要素だ。つまり、現実は自分の思い通りにならないことを知り、だからどうしなければならないのか、の方法論が生まれるのだからである。 

一本の棒を相互に持ち、片側が全身を使って棒を持っている人を倒す。もちろん、「倒す」ということだけで言えば、色々な方法があるので、それが目的ではない。
自分の全身、つまり、足先から手先までを連関させ、繋がらせ力を発揮することが目的だ。
最初は、腕だけに頼っていたのが、時間が経つ内に全身を使えるようになる。それは、以外と力が必要ではない、という実感が答えになる。
その時の身体が感じたこと、それが全身が繋がっているということの一つの答えであり、記憶しておかなければならないものだ。

全てに共通するのは、相手との正面向かい合いだ。
これがなければ、関係として成立しないし、身体の任意の部位を、相手に意識させることも出来ない。
そして、自分の意識を静止させることも出来ない。
それらが、自分自身の存在を、相手に認識させることなのだ。
つまり、表現として一番重要な要素なのだ。

一人に対して、複数が掴みかかる。身体に対する注意を洗練させるには、これしかない。
そして、頭で行っている判断を停止させ、身体そのものが自動的に動いてくれることを引き出すにはこれしかない。
事前に行っている、“体重移動”“無意識反射の誘導”“ねじれの戻り”等を駆使し行った。
レポートに
「次々に相手を転がしていく稽古も意外と出来るんだと思い、自分が誇らしい気持ちになりました」と書かれてあった。
一見不可能だと思うことも、やり方さえ間違えなければ可能になる。そして、その不可能を可能にした自分を嬉しくなる。
これが通常の感覚だ。
「皆、どうしてこんな難しいことが出来ているのに喜ばないのだ。もっと喜べ!」

「今年の声明は、何かいまいちだった。自分の言い方で言うとハモリ具合がバラバラだった。しかも声を出そうとしても出なくて、喉が枯れた。」
参加者のレポートに書かれてあった。

毎年、お盆に合宿するので、それぞれの「音」を探り出し、全員が中央に向かって声を出す。
それが重なってくると、出している音だけではなく、出しているはずのない音が聞こえる。いわゆる倍音だ。
その響きを浴びると、身体が緩み疲れが取れる。その体験に昨年はアンデルも涙した。
参加者が書いていたように、今年の声明は汚くにごっていた。喉がつまり、沢山の人は咳込んでいた。
それぞれの出す音が混じらなかったのだ。だから、音が壁になり、喉を押しつぶしていたのだ。
その原因は、それぞれが勝手に音を出していたからだ。勝手に、というのは「自分が出す」だけで、皆と一緒に出す、出しているという意識がないという意味でのものだ。
「自己完結」しか出来ない人が集まるとこうなる。
何とも気持ちの悪い、後味の悪い声明だった。

15日昼から、フジテレビSRSの撮影が入った。
まずは合宿風景の撮影。

翌16日は、浅草キッドのお二人と、マキちゃんが参加した。
三人を相手に、原理を説明したり体験したりしてもらった。
本当に気持ちの良い人達だ。
さすが格闘番組の司会だけあって、そっち方面の質問も相次いだ。
浸透する突は、体験してもらい、水道橋博士に伝授した。

今回の撮影を通して、身体の不思議の一端を紹介できたのでは、と思っている。

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