2005 年安藤洋子さんの紹介で、ウイリアム・フォーサイスに初めて招かれ、私の編み出した武道でのワークショップを開いた。
そこで初めてコンテンポラリーダンスを体験した。
同時に、ダンスにおけるコンタクトやインプロも体験した。
それはジャズなどから見たとき、余りにも曖昧なものだったので驚いた。
フォーサイスカンパニーという、コンテンポラリー界のトップを走るカンパニー。
そこに集うトップダンサー達。
それらは、私にとっては「日本人の感性の方が凄い」という確認だった。
ただ、厳しい体験の不足や、厳しいルールで教育されていない為、その感性が鈍ったままになっているのだ。
それに気付き、やはり 2005 年から日本でもワークショップを開くようにしていった。
大阪や東京、最近では岡山や福岡、滋賀他と、その活動は広がりを見せている。
大阪ではショーケースも行い、実際の舞台の体験からの稽古も積んできた。
今回の岡山と埼玉での公演は、ある意味で、それらの集大成であり、最初の第一歩でもある。
偶然にも、今回の出演メンバーの多くは、 2005 年のワークショップからの繋がりである。
つまり、より深く「コンタクト・インプロビゼーション」を理解している人達だということだ。
そんな出演者達の意気込みを紹介しよう。

舞台で展開されるダンサー達の「関係性」に、客席の時間の流れを止めてしまうだろう。

It is resonant         2010 2/28  岡山市立文化ホール
I feel it each other
True contact improvisation       3/4 埼玉彩の国さいたま芸術劇場

"The relationship" presented on the stage will stop passage of time for seat.

 

 

 

 

しげやん
Shigemi Kitamura

「私の踊りは全く出鱈目のニセ者や」
観客に囲まれた舞台の上で、私はこのことに気がついた。
それを証拠に、観客は私の行為を見て笑っているだけで、私を見てはいない。
いや、私は観客に何も見せれていないのだ。
しかも自分勝手に暴走しているだけ。
だから観客の反応もその通りに、ざわつき、ニヤニヤし、適当な拍手をする。本当かどうか分からない「よかったよ」という評価。
もう何年もこうして舞台に立ってきた。
「怖い!」藁をも掴む思いで、私は日野武道を求めた。
「それは思ってるだけやで」「それは自分一人で動いてるだけや」私に突き刺さる本当の言葉。
そして目の前で本当に動く日野先生の身体。
すべてが本物の衝撃に心の底から歓喜した。
自分には相手が見えていないことを始めて知った。
自分という曖昧な基準で生きてきた結果がこの有様だということも。
本当に人と人が向かい合う、圧倒的な美しさを目撃した時に、この道以外にないと確信した。
そしてショーケースの舞台の上で私は、公然と、完全否定された。
この日から本当の稽古が始まった。

身体を向かい合わせ、徹底的にダメ出しを受ける。
その重みが分かるから、相手にかける言葉は重大だ。
当然、軽々しいダンス用語は私の中から全て消去された。
出来ないことに落ち込むなどという、傲慢な、人の時間を奪う行為は絶対に許されない。
全身を懸けて挑む、気の抜けない関係、それが本当の共演者同士であり、そういう者が集まる所が稽古場だ。
しかも「稽古」をしてはならない。
いつも「本番」でなくては意味がないのだ。

歩き方、座り方、扉の開け方、人との話し方まで、全て、うわっ面なダンスの手垢にまみれている私。
世界と勝負するには、まずはこの「私」を倒すしかない。
そして、観客が心底楽しみ熱狂する、本物の舞台をつくりたい。

安藤万里子
Marico Ando

世界において、日野武道が「身体表現」のスタンダードとして徐々に認められてきている。
それまでもヨガ、太極拳や合気道など、海外のダンサー達がアジア圏の文化に興味を持ち、ボディ = コンディショニングのひとつとして取り入れていたのだが、今回は全く違う。
なぜかというと、日野武道は、より良いダンスをする為の「心身を整える手段」や「動きのバリエーションを増やすためのもの」ではなく、メソッドがそのまま「人の心を動かす身体表現」に繋がるからである。
本物を求めてやまないダンサーや表現者達にとっては、この夢のようなメソッドを是が非でも取り入れたいと思うだろう。
こうして必然的に、主宰の日野晃先生は海外の一流ダンスカンパニーや有名舞踊家、ディレクター等に招聘され、世界中で表現者のためのワークショップを行うようになった。

私は幸運ながら通訳として5年程、先生のお供をさせていただいているのだが、感性豊かな人達はみな、先生の演舞やデモンストレーションを目の当たりにして「これは本物だ!」と直感し、子供のように興奮する。
人種は関係なく、わかる人にはわかるのである。
そして、数日間のワークショップを通し、日野武道が追求している「身体表現」というのは「目に見える型」や「耳で理解する言語」の領域を超えて「人を感じ、人とつながる」という真のコミュニケーションなのだということ、またそれはダンスだけでなく日常においての自分のあり方にも応用できるのだということを感じ取っていく。
それは、震えるほどの感動である。
とにかく、日野武道は深い。その深さを知り、己を磨くべく実践しようとしている人は、日本以上に、海外で爆発的に増えている。
ただ「わかる」と「できる」は別なのである。
懸命に武道を実践し、毎年素晴らしい成長を見せている海外の一流ダンサー達と共に時間を過ごしていく中で、数年前、私が直感した事がある。
それは、武道は日本人の精神から生まれたものであり、それを誠に実践できる可能性があるのは日本人だけだということだ。
日本という土壌、文化の中で生まれて育った人間にしかわかりえない感覚もあるのである。
ということは、私達がやるしかないのだ。
自分勝手に振る舞い、独りよがりになってしまいがちな今の世の中だからこそ、日本人だけでなく世界中の人が、真に「感じて、つながる」ことを求めている。
それは、日野武道を通してなら体現できる。
数年前、ワークショップ滞在先のギリシャにて「日野武道は世界の芸術を新しい方向に昇華させられる」と私自身が強く強く確信し、感動で涙がこぼれた。
無条件に「感動したい」という方は是非この公演を観に来ていただきたい。
是非その瞬間を見届けて、日本人の持つ大いなる可能性に心を震わせていただきたい。
私達も命を掛けてこの公演に臨む。
日本人として。

山田勇気ノイズム
Yuki Yamada

2005 年、横浜での WS ではじめて日野先生と出会いました。
まず面白い、不思議、やってみたい、そんな好奇心とともに、日野先生の人柄に強く惹かれました。
それからすぐに Noism に入り、新潟でダンサーとして毎日のように身体を酷使してきました。
そんな中、身体に対する感覚が覚めてゆくにつれ、日野武道の奥深さ、難しさなどをあらためて感じることがありました。
その深みにさらに入っていきたい、いまはそう思っています。

平岡秀幸
Hideyuk Hiraokai

多くの優れたダンサーに混じり、俳優としてリアルコンタクトに参加できることに感謝している。
ワークショップを通じて、私の演劇活動の課題である「関係性」の問題が、さらに深められたと思う。

「演技の訓練はコミュニケーションの訓練である」といっても良いほど、舞台上の俳優には高いコミュニケーション能力が必要とされる。
それは俳優それぞれが、相手役と、舞台装置と、或いはまた今置かれている状況と関わることによって初めて「劇」が生まれるからである。
関わりが深ければ深いほど、より「劇」に深みが出る。
確かに演劇は虚構であり、作り物である。
だからこそ、虚構の上に真実を生み出さねばならないからこそ、より深い関わりが必要とされる。
関わるべきもの同士関わらないまま、何かを生み出したつもりになっている。
そんな演劇ほど退屈なものはない。
いや、それはもはや演劇ではなく、段取りのおさらいである。
本当の演劇とは、関わりの中から何かを生み出すことである。
演技とは、関わりの中から何かを生み出す技である。
それは見せかけの関わりではない。
「つもり」では通用しない世界なのだ。
我々演劇人が求めなければならない、「相手(ものごと)と真に関わることによって、何かが生まれる」という演劇の真髄が、リアルコンタクトの中にある。
全ての演劇人は、リアルコンタクトを必要としている。

日野愛 太鼓衆一気
Ai Hino

日野先生の型をみせていただいた時の衝撃が、忘れられない。

がつっと、身体ごとひっつかまれ、貼り付けられ、そして、そのまま、時間が、止まった。
最初から最後まで、私は息をしていなかったのじゃないだろうか。
途中、自分の心臓が、バグバグと異様に波打ち、熱い血液がジュワッ、ジュワッと炸裂するのや、身体のいたる所で鳥肌がたちまくり、ブルブル震えだすのは、感じていたけれど。
その時間中、頭に言葉は一つも浮かんではこなかった。
そして、終わった瞬間に、身体中でこれだぁーっと、声にならない、爆音の叫び声を発している自分がいた。
生まれて、初めて、ダンスというものを、見て、しまった、と、感じた。
これまで、沢山の、ダンスと言われる舞台を、見てきているのに。
それが、今、私が日野武道へ通わせていただいている、決定的な理由だ。

自分が、今まで、ダンスを踊っている、と言っていた、ダンスとは、一体、何だったのか。

全てが、ひっくり返ってしまった、瞬間だ。
そしてそこから、新たに、ダンスへの戦いがスタートしたのだ。
日野武道で稽古をすることで、人と人との関係、観客と、ダンサー同士と、そして日常すべての物と自分との関係を突き詰めて見直す作業へと入った。
ダンスへと続く、果てしなく遠いと思われる道程の、第一歩。
もちろん、今も、その道程の、真っ只中で格闘中だ。
そして、同じ道程で戦う、同士であるダンサー達と、数々のショーイングをへて、行われる、公演。
そこでは、「今、そこで、湧き起こっていること」を、余計なフィルターを通すことなく、圧倒的な勢いで、ダイレクトに、観客に伝えたい。

小口美緒
MIo Kogushi

「関係性」これに尽きます。 
組む相手との関係、同じ舞台にいる仲間との関係、音との関係、空間との関係、そして観客との関係。
どう動くかは、全てこれらの関係の中で決定されます。
「関係性」それは、全ての人間にとって無関係ではないはずです。
それは、生きていくこと、そのものだからです。
今、実生活の中で人との関係に対応することが出来ずに、自ら命を絶つ人が増え続けるこの社会に、日本の伝統文化の武道を元にした関係性を根幹に据える日野メソッドは、果たすべく使命を持ち、現れるべくして現れ、世界に広がりはじめているのだと思います。
この、日野メソッドを、日本の伝統文化を前にして、私たちも、観客も試されているのです。
人間としての深さを、また、その在り方を。

A自分にとっての日野武道とは

日野武道での稽古を通じて、相手を無視した一人よがりの勝ってな自分を、鈍い体のままでは、身勝手に心のままでは相手に対応すること、関係するこなど不可能なのだという事を、また、そんな自分の表現は、一切相手に届きやしない、という事を思い知らされます。

ここでのワークの全ては、相手と関係することでしか成立しないことだからです。

日野武道には、巷に溢れる言葉の上だけの説明ではなく、根拠のない思い込みなどではではない、限りなく研ぎ澄まされた関係することの実際が在ります。
その美しい姿、在様が、私を否定し、そして叱咤激励します。
日野武道とは、相手と関係することを、自分を否定し更新していくことを、生きることそのものを学び続けていく場に他なりません。

岡田吉加
Yoshika Okada

・舞台で何を見せたいか
ダンサー同士の、観客ととダンサーの、舞台とダンサーの “真剣勝負”。
ダンサー一人一人の存在感、一瞬一瞬の輝き。
エネルギー、魂と魂のぶつかり合い。

・日野先生との出会い

初めて日野先生の WS を受けた時のことを今でも覚えています。
2008年1月の第1回岡山 WS 。
とにかく目からウロコの連続でした。
全てが、言葉で言い表せない “何かすごい!!!とにかく凄い!!!” という、初めての感覚でした。
もの凄い衝撃が自分に走ったのを覚えています。
その何ともいえないものが、私から離れず、そこへ少しでも近づきたいという思いが常にあります。

“岡山を変える” 

どうしても、公演が岡山であるということで、私にとっては“岡山を変える”ということはもの凄く大きな比重であり、岡山のダンス界、のみならず『岡山』という地、人に対する挑戦だと思っています。
悔しい思いも一杯あります。
「これが表現するということだ!!」、「これが本物だ!!」
ということを、地元岡山の人間として何とかして伝えたい。
私の意地と岡山への挑戦です。
絶対に文句言わせない!!

佐藤健大郎
Kentaro Sato

武道家である日野晃氏の動きが、話す言葉がなぜ国内外のダンサー達に対して説得力を持つのか?
答えは簡単だ。
私達日本人の先祖達が文字通り命を掛けて編み出した技術、思想、またそれを生んだ感性を己の身体を通して受け継ぐ者の動きであり,言葉であるからだ。
そしてそれらは全て生命の働きと直結している。
何も難しい事ではない。
皆,食べたり,飲んだり、仕事したり、色んな人とつるんだり、別れたり、否応無く様々な関係の中で生きている筈だ。
見る者は、その関係するという普遍的な問題に対峙している姿そのものを目の当たりにする。
そしてそれは最も古い所からきた,最も新しい『今』を感じさせる。
そこではダンスという言葉は跡形も無く消えて無くなる。
日野武道は、ただダンスに使えるメソッドなどではない。
ましてや特定の時間だけ非日常的な動きをする,その場でしか通用しないようなレッスンなどではない。
私達が生きている日常という舞台を生き抜く為の技術である。
だからこそ学ぶ意義があり,後世に伝えていかなければならないものである。

野田まどか
Madoka Noda

「それ全然関係してへんやんけ。自分勝手に動いているだけや。」
日野武道において組稽古をしているときに、この突込みをいつもいただく。
目の前に居る相手と関係していない。
目的は何なのか。
それに相応するだけの準備が出来ているのか。
自分の事として動く自分ではなく、相手に対しての自分。
私は、ひどく鈍く、悔しい思いをしていた。
思い込みだけで動くからだは、相手に対して伝わるものが何もなく相手にも違和感を覚えさせる。
その時は、自分の体にさえおざなりになる。
相手に触れるという恐さも考えず無頓着に関わっていた。
このクセのしがらみは、人と人の関わりあいの中で、もっといえば自然の一部として生きるものにとってとんでもなく失礼な態度をとっているのだと気づかされた。
この社会で生きていてこんなクセをもって甘えているのが恐くなった。
いえ、どこかで乏しいと感じていたことがはっきりとした。
このまま、振りを続けているのは通用しない。もう誤魔化したくない。
「体はすでに感じている。」
人が精密なからだの感覚をもって人と対峙する時、恐ろしく静かな響き合いがみえる。
そこにはどんなつぶさなことにも細心の注意が払われていて、即応じ、全身で届ける働きがみえる。
本来あるからだに沿っている。
そんな意思のあるからだは本当にたまらなく美しい。
私は日野武道と出合ってそんな場を何度も目の当たりにし、衝撃を受け魅了されてきた。
そしてこの思想を獲得したいと強く願い、今取り組んでいる。
この悠久にも値する働きかけをもって、世界と勝負したい。

稲葉由美子
Yumico Inaba

●「繋がる」
人と繋がる。その体験はとても身近な体験のはずなのに、とても難しい。
しかし時に、その相手を他者だという違和感すら感じずにいることがある。
「人と繋がっている」とは、そういう状態なのだろうと私は思う。
その時、ただ涙が出てしまうことがある。
それは、喜びでも悲しみでも怒りでもない、「人」が流す涙だ。
日野先生は、特別な場面だからではなく、日常そうあれ、と言います。
それは、特別な人に対してだからできるとか、する、ということではないということだ。
そして、それを舞台でやるのだ、と言います。

初めて日野先生のWSに参加した時も、先生はそうおっしゃっていたと思う。
しかし、覚えているのは言葉ではない。
姿だ。何も言わず、頭上に刀を構え、この前に立ちなさいと私たちを促した。
どんなに動く身体のことよりも、共に舞台に上がる相手と一緒にいるのか?
それを見ている観客を無視していないか?
その覚悟があるのか?
そして、それが特別な舞台だからではなく、今この時も出来るかと私たちに投げかけた。
言葉ではなく、その姿で。
何がなんだか分からないまま、振り下ろされる刀の前に立った、あの言葉にならない緊張感。
そして、さらに踏み込んで、人と繋がること。
あえてそれをしようとしてしまう幼い自分は、身近な体験だったはずのことが一気に何かしようとする自分にすり替ってしまい、相手を見えなくしてしまう。
関係なかったはずの「自分」の目、「自分」の言葉、「自分」の身体の動きを使って、何とかしようとしてしまうのだ。
相手が見えないまま何かしようとしている滑稽さにも気付かない自分を晒してしまう。
誰がそうしろと言ったわけでもない、全て自分がしているのだ。
日野武道では、まずその入り口を徹底的に稽古する。
自分は人と繋がる体験が浅い、もしくは自分にとって薄い体験としてしか持っていないことにどんどん気付いていく。
体験が無いものを稽古するのは、とても難しい。
しかし、体験が無いものは体験でしか獲得できない。
日野先生は、だからこそ言葉ではなく、体験を通して稽古させる。
それは、今の自分を突きつけられる稽古でもある。
何度も間違える。
何度も気付かない。
稽古しては壊す、その繰り返しだ。
繋がったと感じられる時は、深くあたたかく、そして潔い。
潔いというのは、一瞬だとしても、自分が勝手に固執してしまっている塊を、相手との関係で切り捨てていられるからだ。
どんなに相手と動きを稽古しても、どれだけ回数を重ねても、自分ひとりでではなく「相手と体験」をすることに向かわなければ、自分勝手に自分一人で動いているだけと何も違いない。
それが日野武道の稽古であり、これまで見たことのない舞台に挑戦する道程の姿だ。
今、それに挑戦している。
目の前の果てしない稽古に毎日毎日気持ちを奮い興し、私自身も体験したことのない舞台を体験するために。


Erico Suzuki

はじめて日野武道に出会ったのは 2009 年の春塾。
何気なくちらしを見て受けたワークショップ、それが自分の生活を大きく変えるものになるとは思っていなかった。
ワークショップ後、正直、混乱した。
どう動けばいいのか分からなくなった。
しかし、「動き」そのものよりも、何をやろうとしているのか、ということを知るたび、じわっと面白さが湧き上がってくる、そんな感動を受けたのを憶えている。
身体を動かしているつもり動いているつもりが、人には伝わっていない。
それは日常生活におけるコミュニケーションと同じだ。
やっているつもり、言っているつもりでも相手に伝わっていなければ意味がない。
人との会話ややりとりが、いかに自分勝手であるかを思い知らされた。
これまで、自分の身体にこれほど真摯に向き合ったことがない。
肘や胸骨のただ「一点」を意識する、あるいは人との密着「面」を「点」で感じるということ、筋肉を伝わる力の動き、それらひとつひとつを動かすには想像以上の時間がかけて取り組まなくてはならない。
「点」と「点」がつながり力をともなった一連の動きとなること、人と人とが本当にコンタクトすること、それを舞台上で見せること、これらを模索しつつ日々格闘している。


Akiyo Shimizu

相手に触る・向き合う中で感じる「自分と相手」・・・私は全く感じる事ができなかった。
私がこれまで感じてきたものがあるとしたら、それは「自分が都合よく想像した自分であり、相手」だ。
向き合う為に独立したはずだったのに、まず「自分自身」から目を背けていた事に気づいた。
・・・。
これは、本当にショックだった。
これまでの自分は、見た目を追うばかりで、根本を感じてこなかったんだ。
舞台に立つ以外に、子どもにも表現活動をしてきた私は、すぐに子どもの顔が浮かんで、恥ずかしくなった。
でも、だからこそ、「表現から離れたくない。離れるべきではない」と心から思う。
これを実感できたからこそ、必ずこれから先に自分が表現する上で成すべきことが、自分のこれからの舞台にあると思うし、するべきだと思えた。
そして、それは「武道」を通して「感じる」ことから始めるべきだと確信した。

島 崇
Takashi Shima

私が「ダンスと呼ばれるもの」に出会ったのは大学に入学してからだった。
日常の動作や仕草そのものがダンスとなる。
そして、その人の癖や 個性と呼ばれるものがもてはやされる。
私は全てを許容するコンテンポラリーダンス、はたまた舞台作品に甘えていた。
卒業後、とあるワークショップで日野先生に出会った。
「自分の感性、感覚など信じるな」。
「気持ちの悪い動きはするな」。
「本当にそう見えているのか、本当に舞台に立っているのか」。
今まで心の何処かで疑問を抱きながらもその名声や評判から「面白い」「凄い」と自分に信じ込ませてきた作品やダンサー。
そして思い込みの中、自分の世界だけで踊るダンサー。
先生のワークを受けて深い霧が晴れた様な気がした。
ワークショップで受講生 が一番大切なことは何かと聞いた「ちゃんと日常を生きること」そう先生は答えた。
私もその通りだと思った。
だがそう思うだけで、どのように実践するべきかは困難だ。
しかしその答えが武道にあり、そのものではないかと思った。武道は全て関係性の上に成り立つ。
日常生活においても同様である。
巷で言う「コンタクト」とは全くの別物、これが本当のコンタクトである。
本当に相手に触れるという事、同調するということ。
そこには嘘の無い身体があり。約束の無い身体がある。
本来我々にとって当たり前のこと。
当たり前だったこと。
それが武道を通じて現われたとき、西洋に右に習えのダンスの歴史に日本の武道が爪痕を残すことが出来ると信じている。

日野一輝
Ikki Hino

2002年 和太鼓チーム「太鼓衆一気」を3人で起ち上げ、路上ライブ活動開始。

2004年 日本人初ウクライナ全土ツアーと CD 制作。
韓国国際パーカッションフェスティバルに毎年招聘される。
台湾国際パーカッションフェスティバルに毎年招聘される。
2007年4月には、渋谷シアターコクーンで開かれた、シスカンパニー公演「写楽考(堤真一、高橋克実、西岡徳馬他出演)」の約1ヶ月に及ぶ舞台に音楽として参加。

現在は大学での国際交流の一環で和太鼓指導。
太鼓チームの指導や太鼓教室、楽曲提供など、海外公演や国内公演と幅広く活動。

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