2011 Tokyo
Real Contact

今年も新木場で東京ワークショップを開いた。
教室で、人がどう取り組むのかを見ているのは勉強になるが、ワークショップはもっと勉強になる。
それは人の数が増えるのと、それぞれの目的が教室以上に多様になるからだ。
単純に興味があったから、という主婦や会社に行っている人、ダンス関係、役者・俳優関係、音楽関係、武道好き、格闘関係、アスリート、整体関係、介護・看護関係、医師関係、詳しく聞けば、もっとあるかもしれないが、ざっとそんなところだ。

しかし、そういった身体のレベルも目的もバラバラの人達が、同じワークをするのには無理がある。
と思うのは間違いである。
そこが普通のワークと、私のワークと違うところだ。
それは、私のワークは運動のワークではないからだ。
今までに知らない運動を覚えることが目的ではない。
しかし、運動のワークではない、といくら説明しても、運動のワークに、つまり、運動をすること、運動の形をなぞる事に熱中し、それを稽古をしている、練習をしているだと思っている人も沢山いる。

その稽古は、例えば、文章を読み暗記することに時間を費やしているようなものだ。
もちろん、暗記する事が間違っているのではない。
暗記されたものを題材にしているからだ。
しかし、私のワークは、その文章を読んで、何を感じたのか、文章から何を感じなければいけないのかを、ひねり出すことである。だから、運動のワークとは入口が全く違うのだ。
もちろん、身体の稼働領域を広げることも、小さな目的の一つではある。
しかし、それは目的の一つであって、重要な目的ではない。

その事よりも、ワークを通して自分が自分という身体を、どれだけ誤解しているか、あるいは、錯覚しているか、はたまた、全く無理解であることを知ることにあるのだ。
ここの観点は「自分を知る」という言葉が、巷に氾濫しているから、誰でも知ってはいる。
しかし、自分の何を知るのか、知ってどうするのか、となると雲をつかむような話になる。

誰が言ったのか忘れてしまったが、確かフランスのワークショップで「日野さんのワークは、自分を知る為の道具なのですね」と、非常に的を得た意見を言った人がいた。
正しくこれが、私のワークの核にあることだ。
直新陰流に残る「古来習態の容形をのぞき、本来清明の恒体に復す」その一点である。

話はワークショップから外れるが、私が武道を探求しているのは、この言葉を実践しているに過ぎない。
武道の何を探求するのか?逆に武道に何を求める事が出来るのか、と考えた時、当初は「強さ」だったが、その自分の求める強さとは何か、と突き詰めて行った時、この言葉とリンクしたということである。
これが出来る、あれは出来ない、強い、弱い、等ではなく、単に自分とは何か、を求める道具として、この言葉一つをメインテーマとしたのだ。
言葉の意味を理解するのではなく、その言葉を実現する。
実践する。
その事に精を出してきたし、これからもそうしていくだけだ。

その意味で、ワークを受講する人達を見ていると勉強になるのだ。
それぞれの人の思う、あるいは、持っている「身体像」や「美意識」、つまり価値観だ。
それにテー、マを当てはめて行く人。
それらを全く持ち合わせて無くて、ただ、目の前に提示されたテーマに取り組む人。
テーマの上っ面、つまり、見えている現象だけをやろうとする人。
自分は何をしているのか、全く分からずに取り組んでいる人。
逆に、テーマを理解してそのことに徹底的に取り組む人。
その違いは歴然としている。
理解している人は、取り組んでいる集中力がまるで違う。
そして、根気が良い。
長時間同じテーマを続けても、絶対に飽きないのだ。

そこをもう一つ掘り下げて言うと、理解している人というのは、自分にとって必要だと直感しているということだ。
「もしかしたら役に立つかもしれない」という保険的考えの人。
「興味があったから」というような、気分に振り回されている人。
というような、実際の自分にとってどうでもいいような思いを持っている人は、直ぐに飽きてしまう。
というよりも、探求する好奇心が湧く筈も無いので、一通り運動が出来ると途方にくれるのだ。
何をして良いのか分からなくなるのだ。
それは、色々な場所でのワークショップに共通する。

「出来る事を目指しても意味が無い。その要素を身体で持ちかえることだ」と、何度も繰り返す。
しかし、言葉は理解できても、それを実際化するには、自分なりの方法が必要なのだ。
大方の人はそこを飛ばして、テーマだけを「出来ない・出来る」という、極めて単純な考え方によって取り組んでいる。
これも外国で聞いた言葉だが、「完全なパラドクスだ」と。
そうだ「足は動かすものではなく、動くものだ」というような言葉で展開される私のワークだから、全員頭を悩まさざるを得ない。
「出来る・出来ない」という価値観しか持っていない人は、こんな問題を発見できない。
そんな姿を見ていると、私自身のある一部、そんな側面もあることに気付かされる。
だからワークショップは、実は私の為にあるものだと思う。

9 月 15 日

ワークショップ初日終了。
丁寧にやるほどに、こちらとしては厳密なことを要求してしまう。
本当は、高度な事、厳密な事を要求するから、上達、あるいは、自分を成長させる事が出来るのだが、残念ながら日本は分かり易い事→簡単なこと、に走っているので、根気よく探求する、ということが出来ない。
常連の人達は、どんどん自分で探求していくが、初めての人の大方は途方にくれている。
きっと、自分のレベルで出来ること、出来ているのか出来ていないのかが明確ではないこと、一から十まで説明してくれ、それで出来た気にさせるようなワークショップに参加しているからだろう。
結局は、自分が自分の力で全てを獲得しなければならないということなのだが。
真剣に取り組む人がいるので、進行は自ずとそちらに合わせることになる。
それも稽古の一つだ。
誰かのやっていることを見ることで、「何をしなければならないのか」を見抜く稽古だ。
今日は、定番の胸骨を中心にやった。
関係塾は文字通りで、関係出来ていると思う、というレベルではなく、本当に関係するに徹底した。
ここも定番の「どうぞ」だ。
表現塾は、「ナマムギ合戦」とアイコンタクトで、正面向かい合いを検証していった。
そういえば、 13 年ぶりの人や、遠くは香港や福岡から参加してくれている。
明日の申し込みは少ない。その分、念入りに胸骨をやろうと思っている。

 

9 月 17 日
昨日は、今日本に来ている、 ForsytheCompany の、 Amancio と食事をした。
沖縄で安藤洋子さんと Amancio が舞台をした。
その時私もワークショップで沖縄だったので、東京で食事の約束をしていた。
他愛も無い話で地下鉄の最終を逃すまで盛り上がった。
「今度 ForsytheCompany には、何時来てくれるんだ?」とリクエストされた。ヨーロッパ諸国は軒並み、文化に対する予算を削られており、来年からはもっとひどくなるという。
その所為かどうかは分からないが、 Company も最近ダンサーの出入りが激しいらしい。
来月中には決めよう、という話になった。

ワークショップは昨日は受講者が少なく、教室並のこじんまりさで進めた。
最後の「表現塾」では、シゲヤンが飛び入り参加をした。
一コマ目の「身体塾」には美緒ちゃんや、山田さんら公演出演組も受講していた。
その意味では賑やかだし、密度は濃かった。

身体が緩む、放ったらかし、という現実を認識。
人は自分の意識している事、注意しているところしか、自分の身体だとは思っていない。
しかし、他人は身体全部や雰囲気までも感じ取っている。
その現実をまるで分かっていない。
という基本的なことを改めて認識する体験も行った。
「正面向かい合いが出来ないのは、我々大人だけやで、犬や猫、赤ん坊はするで」という何時もの激と共に、徹底的に向かい合いを行った。
向かい合いが出来ない、ということは、それが舞台であれば、存在感が薄い、あるいは無い、ということになる。
共演者がいた場合、その共演者がいない、つまり、向かい合えないのだから、リアルに対象の人を認識できないということだ。
そんな話と、それを実地で体験させた。
パフォーマーの必須能力というのではなく、人の必須能力だ。
それにフィルターをかけているのは、テレや訳のわからない理屈だ。
今日は三日目。受講者は増えそうだ。

中日終了。
昨日今日は、大阪からも受講者が来ている。
わざわざ福岡から来ているダンサーは、悪戦苦闘しながらワークに取り組んでいた。
遠方からわざわざ来てくれている人達は、ほんとに何か実になるヒントを持って帰って欲しい。
「感じる」というのが、私のワークのベースにある。
だから本当の意味でキーワードだ。
しかし、昨日もその話をしたが、大方は感じなければ、と「思う」。
思っているのだから、当然感じる事は出来ない。
もう一つ「感じる」が出来ない理由は、「何を」と考えてしまうからだ。
その場その場で状況がある。
その状況によって感じなければならないものは変わる。
日常では、無意識的にそうしている。
だから、ある意味でそつなく生活が出来るのだ。
それをこの稽古の場に持ってくればよいのだが、残念ながらそれはしないで「感じる」という特別なものを探そうとしているのだ。
そこに何時気付くかだ。

昨日は土曜日の所為か、一昨日よりも受講者が多い。
受講者が多いと、稽古が捗るし皆の取り組みから紡ぎ出す最大公約数が、より確かなものになる。
背骨、前側、ねじれ、そして、定番の胸骨。
相手に対して、独り言をいうのではなく、声を届ける。
とにかく、関係を築く、その為に、という一点を集中的にやっている。もちろん、今日もだ。

9 月 18 日
今回は、過去のワークショップ始まって以来の事が起こった。
逃亡だ。
今までにも、突っ込まれて泣く人はいくらでもいたが、今回は逃亡してしまったのだ。
やはり、自分で考えてやる、ということが出来ない人だった。
頭を納得させてからでないと、何も出来ない人だ。
頭を納得させることなど出来ない。
それは、初めてのことだからだ。
何も分からない、という状態に陥ってしまったのだ。
ほんとは、常に何も分からない状態の筈だ。
つまり、誰かの情報を知識として持っているだけだ。
そのことを「分かる」としているだけだ。
つまり、自分が自分だけの力で得たことではなく、「誰か」の、例えば、メディアや周辺からの情報を「知った」だけなのだ。
しかし頭が納得していたら「分かっている」だと洗脳されているので、状況を把握できなければ、そして知らない単語が並んだら「何も分からない」となる。
それに対することが「力」を付けて行くということなのだが、その習慣はないので、そうはしないで逃亡する。
分かり易い事、分かり易く言われるのが当たり前、と思い込んでいる人にはきつい。
ワークを逃亡するのは、何もリスクはないが、自分の人生に降りかかる出来ごとから、逃亡するのだけはしないようにと祈る。

9 月 19 日
結局「表現塾」は「武禅」になってしまう。
例えば、こんにちは、の声が相手に届かない。
もちろん、聞こえる。
しかし、届いているのではない。
そこを丁寧に行っていくと、全く届いていない事が体感できるようになる。
しかし、届かせてもらう側の人は、届いて欲しいと、相手に表現できない。
あるいは思っていない。
つまり、相手を拒否したり、無視しているのだ。相互に拒否し、無視している関係なのに、そこに関係が築ける筈も無い。
そう育ってしまっているのは何故だ?

特に昨日は、楽日前ということもあって、相当厳しい「表現」基準とした。
一番ピンと来てくれるのは、ある程度の年齢の人だ。
もちろん、ピンとくるということと出来るということはイコールではない。
しかし、「これは大事だ」と、心底感じるから、否定されてもめげずに取り組む。
悔し涙さえ浮かべる。
しかし、ピンとこない人は、頭での理解なので、その取り組み方はぬるい。
お互いに和気あいあい「のように」なる。
だから、本当の和気あいあいではない。
自分を否定されているということを、誤魔化してしまうのだ。
否定される、つまり、自分は間違っているという現実に、まるで対応出来ない、しないのだ。

ここが難しいところだ。
ピンと来てくれることを願って、様々なヒントを重ねるが、結局どこまで行っても頭での理解、納得のところで止まってしまう。
自分自身に大手をかける事ができないのだ。
ピンと来た人は、顔が完全に引き締まるので、誰が見ても分かる。
先日、シゲヤンが参加した時、内から湧きあがる「欲求」と、「思っている」との違いはなにか、と質問があった。
もう少し分かり易く言えば、自分の中から湧いた自然な欲求と、頭で作った目標や目的の違いということだ。
その時、欲求は、その事が実現するまで、何が有ってもやり続けるが、思っている、は、最もな理由を付けて途中で止める、といった。何があってもやり続ける、というのは、それ以外のことは目に入らない、気が散らない、意識が散漫にならない、ということだ。
それをもう少し考えると、欲求であれば、絶対に言葉を持たない。
理屈は無い、だ。
しかし、思っているは、全てに言葉や理屈が必要だという違いだ。
これは、ピンと来たのか、頭が理解したのかの違いとも同じだ。
頭だけで分かった人は、見事に何を分かったかを説明する。
もちろん、「それで?」ということなのだが。
その見事な説明に、自分自身も騙されてしまうのだろう。

昨日は背骨、胸骨と肘、意識を変えて胸骨と肘。
肩動かし、肩動かしでの誘導だった。
今日は楽日。
急ピッチで復習をしよう。

9 月 21 日
打ち上げは二次会までで終えた。
東京でのワークショップは、毎年始発電車まで、梯子をしていたが、私の次の仕事の都合もあり、二次会終電車までで終えた。
皆名残惜しそうにしていたが、大方の人は明日仕事なので、早く切り上げた。

「どうしても理解してくれない人と組んだ時、どうすれば良いのでしょう」そんな話が、打ち上げの席で盛り上がった。
理解しようとしているが、理解できないのではなく、頭から自分勝手に、自分の都合だけでやる人のことだ。
先日、欲求と思っているの違いを書いたが、まさにそれだ。

欲求の人と、思っている人が組んだ時、必ずこういう状況が生まれる。
ただ、一般的には内心「やりにくい相手だな」と思うだけで、やり過ごしてしまうので、どうして相互にやり難いのかを解明するには至らないだけだ。
いわば、それが一般的な社会生活でもある。
しかし、「やり難い相手」が沢山いるのが社会だし、人生の中身だ。
自分の話す事が伝わらない、相手の話す事が分からない、というのも社会だ。
だから、そこをどう処理できるか、というのも稽古の内だ。
一つのテーマから、自分を見つめて行くのだが、テーマが出来れば良い、と思う人も沢山いる。
出来れば良い、と思っている人は、無意識的に「自分にとって都合のよい」条件設定をする。そうした時、そこで出来た事から、何を得られるだろう。
得られる事は皆無だ。
「楽しかった」とはしゃげるくらいだろう。
また、出来た事を無限に応用出来る核にすることは出来ない。
逆に、同じ出来れば良いでも、「自分にとって都合の悪い」条件をどんどん設定して行き、つまり、自己を否定し続けられる設定をしていくと、もちろん直ぐに出来るようになることはない。
しかし、それが出来た時は、無限の応用性を持った核になる。
という具合に、取り組み方一つで全く異なった結果を生み出すことになる。
今回のワークショップは、過去最少人数だった。
その為に、例えば「胸骨操作」一つとっても、じっくり時間をかけ取り組めた。
おかげで、私も強烈な筋肉痛に見舞われた。
筋肉痛のことを皆に聞くと、やはり大方の人は筋肉痛が少ないし、皆無の人もいる。
それが、繋がって使えているか、自分の稼働の許容範囲内で、運動をしたかの違いだ。
そんなこんなで、今回の東京ワークショップは基本的な事を徹底して、楽しく幕を閉じた。

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