人は何を見て、どんな言葉に翻訳するのか。
結局は、そんなことに焦点があたってしまう。
それは組み稽古で、お互いにアドバイスのしあいをさせるからだ。
二人の組み稽古から、多人数グループの稽古になると、お互いの口から出てくる言葉が問題になる。
よく聞いていると、見た印象でしかない。
あるいは、相撲の解説の如く結果論の羅列だ。
つまり、アドバイスにはならないのだ。
それは、どこででも見かける風景で、何も特別なことではない。
印象などどうでも良い。
出来ない原因を見つけ出さなければ、技術が出来上がっていくことなど絶対に無い。
何がどう間違っているのか。
そこを具体的に提示できなければ、言われた人も言われたことを「思うだけ」に留まり、 10 回やっても 20 回やっても同じ間違い、同じ事をやり続けることになる。
「この動きのポイントをしっかり確認すること、相手との位置関係を明確にすること」
取りあえず、的をその 2 点に絞らせてやらせた。
しかし、人は自分の理解出来ること、自分の印象に残ることにしか意識は向かない。
つまり、実力差が言葉として表れる、ということになるのだ。
だから、いくら的を絞らせても、その的の中の「自分の見えていること」になり、的を絞り込んだ意味が消えてしまう。
その印象にしても、結果論にしても、正しいというものではない。
それぞれの視点、それはその人のクセであったり、価値観の集積だ。
その意味で、誰もそのものを見ているとは言えないのだ。
もちろん、それに気付いていくこと。
それが日野武道研究所の稽古の側面でもある。
今回の合宿では、 17 歳の武道経験の全くない女性が参加していた。
人数の関係で、私が彼女と組み稽古をすることが多かった。
何しろ、武道経験が無いから、武道的なことを話しても、何も分からないし、分かったところで出来ないのだから、それも意味が無い。
だから、具体的なポイントとざっくりとした動きを教える。
すると、武道を知らない彼女の目は、動きを容易に覚えさせ、誰よりも早く動きが出来るようになる。
素直な目や、素直な取り組み方が出来る特権だ。
方や武道を知っていて、武道的な動きも理解している先輩達は、中々出来ない。
それを見ていると、やはり自分自身で分かる細部に拘ってしまって、身動き取れない状態になっているのだ。
客観的な視点を持つことが、どれほど難しいのかということだ。
つまり、ここで分かることは、 17 歳の女性のように、素直な目と素直な取り組みが必要で、そして、細部をより深く考える力だ。
つまり、意識を明確に切り替えられなければ、技術の修得は難しいということでもあるのだ。
そして、ザックリとした全体像を捉える力。俯瞰力とでもいうか。
それが大事なのだ。
ラフスケッチを何枚も描き、全体イメージを捉えていく、という手法だ。
こういった「学び方」を知らずに、やみくもに練習量を積んだところで、細部の側面は出来たとしても全体は仕上がらないのだ。
8 月 12 日
道場を拭き上げた頃、大阪組の一人が早い到着。
車だから混むと思い早めに家を出たそうだ。
しばらくすると、車の二人目、そしてバスで東京組みが到着。
今回は型の手直しをやろうと思っていたので、取りあえず型から始めた。
一通りの動きの後、分解をする。
分解はあくまでもその型に沿った動きでしかない。
そこに含まれている要素は、要素だからそこから生み出されるものは、ある意味で無限だ。
それを様々な角度から探求していくのが、日野武道研究所の稽古だ。
30 分ほどの休憩を入れ、夜の食事の 8 時までぶっ通しだ。
そこのセクションでは、要素として重要な「体重を落とす」を特訓した。
それを突きに応用したり、投げに応用したりだ。大阪教室の一人は、浸透する突きを一応完成させた。
食事後は 11 時頃まで稽古は続く。
「ありがとうございました」でシャワー。
そこから深夜 3 時に終わるか、明け方まで続くか分からない飲み会が始まる。
それぞれの近況報告や、事件など大笑いで盛り上がる。
「あかん、もう寝ようや、朝稽古がでけへんで」
8 月 13 日
今日から東京の役者 2 人と大阪の一人が合流する。
前日に引き続いて、体重を落とすを重点的にやった。
腕で言えば肘を動かす、ということが、重要なところだ。
ただ、肘を動かしてもどうにもならない。
全体の動きの中で、その動きの流れやリズムに乗っていなければ駄目だ。
つくづく思うのは、身体の各パーツを動かす練習は重要だが、全身との兼ね合い、全身移動との兼ね合いで操作できることが重要だ。
それこそが、「全身を使う」ということだからだ。
そうする為には、全身の動きに対して客観的な知覚点というべきものが必要になる。
その知覚点に注意をどれほど向けることが出来るかなのだ。
逆に言えば、自分のやりたいこと、やるべきこと、というような意識が支配している身体では駄目だということだ。
昨日の型の続きと分解をやる。腕が放たれる、ということがここでは重要な要素になる。
その為に、腕を放ることを集中的にする。単純に言えば、金槌を使う要領だ。
私の場合は、ドラミングからヒントを得た。
ドラミングと違う点は、スティックの先端に力が出なければならないのと、拳から力が出ないといけない、という違いだ。
拳から力を出すことの難しい点は、拳、つまり、手を握らなければならないことだ。
手を握ることで、腕が力んでしまうと、拳から力が出ない。
その辺りの工夫が大事だ。
夕食後の稽古は、意識の同調からの動作をやってみた。
むろんこれは武道の入り口だ。
しかし、表現というところで言えば、関係性の要素なので最重要事項だ。
目には見えないことなので、全員悪戦苦闘を繰り返していた。
やっかいなのは、芝居染みてくることだ。
稽古が終わり、また飲み会だ。
「今日は早く終わろうぜ」結局 2 時過ぎに寝た。
8 月 14 日
「体重を落とす」からの応用系として、相手のミットに拳を接着したままでの、体重移動を試みた。
みんなは、初めて眼にすることなので訳が分からない。
体重を落とす、ということに、摩擦を加えたとき、どんな威力があるのかの想像が尽かないからだ。
それぞれの混乱を経過して、工夫を重ね、その現象が出来るようになった。
様々な角度から取り組むメリットは、その積み重ねが、ある時その要素が見えてくるようになることだ。
角度を変えなければ、一つの方法が「技」だと錯覚してしまい、要素として捉えられなくなる。
音楽で言えば、非常に簡単に説明が付くのだが、残念ながら身体系は、武道やダンスも含めて、音楽ほど発達していないので言葉が無い。
音楽で言えば、一つのスケールに対しての練習曲のようなものだ。
それを沢山こなすことで、コード進行を体感できるようになる。
また、音楽系ということで言えば、ドミナントモーションという考え方がある。
それは、ドミナントからトニックやダイアトニックへ移行するということで、不安定から安定へという雰囲気に移るということだ。
そのことは、武道におけるバランスを崩すということや、ダンスにおけるオフバランスということと同じだ。
そういった事も、別の角度からのアプローチだから分かりやすい、イメージし易くなるのだ。
という、置き換える、という作業が出来るか出来ないかも技術修得の鍵でもある。
と同時に、置き換えられるということは、そのことの本質を把握しているのかいないのかの判別にも繋がるのだ。
もちろん、この作業は知っているからといっても出来ない。
だから日頃から、どんなことでも置き換えて考えるという訓練が大切なのだ。
もちろん、その置き換えが正しいのか間違っているのかを、使うことで相手の反応から知るという作業も必要だ。
稽古の仕方を見ていても面白い。
進んで出来ていそうな人に、相手をしてもらう人と、一度組んだ相手と最後まで続け、他の人には全く無関心な人がいる。
こんなことは、初歩中の初歩的なことなのだが、自分自身を矯正していくことをしなければ、何も進まない。
しかし、それも仕方の無いことだ。
8 月 15 日
仕事の都合で今日だけしか参加できない人もいる。
わざわざ 1 日の為に東京から参加する気持ちが嬉しい。
全員から突込みが入る人気者でもある。
今日は型の残りを分解していった。
刀や棒も稽古したかったのだが、それはまた次の合宿だ。
型のそれぞれには、それぞれの目的があると同時に、全ての型に共通する要素がある。
また、型を使う時の共通の要素もある。
もちろん、それらは層構造になっているので、同時進行だ。
稽古は、それら一つ一つをテーマにしてやらなければ、どうにもならない。
昼食の時、東京からの最後の一人が到着した。
「今日は Love is over やで」「ええ〜っ!」
稽古終了後の話に盛り上がる。
突きでの組み手をする時、やけに突っ込む者がいる。
それは、相手からのカウンターを全く想定していないからだ。
約束組み手であっても、それでは話にならない。
そこを修正していかなければ、その突っ込みでは相手は技術を獲得することが出来ないのだ。
技術はまず獲得するのが目的で、ざっくり獲得出来たら、それを徐々に壊していく。
その徐々にが無ければ、技術を考えながら修得することが出来ないのだ。
もちろん、立場を変えれば直ぐに分かることなのだが、残念ながらそれをしない。
思い切り突っ込んでこられたら、未熟な人はやれることもやれなくなる。
それは絶対にやってはいけないことだ。
夕食が終わったのが 9 時。
「先にシャワーしようか」
8 月 15 日は合宿にとって大事な日だ。
お盆ということもあるので、全員で先祖供養を声明でやるのだ。
毎年行っているが、中々うまくいかない。
上手くいかないというのは、倍音が天井から降ってこないということだ。
とんちんかんな声を出す人、自分だけの人、そんな人が混じっていると、天井から天使の声は降ってこない。
ここ数年、全く降ってこなかった。
という中で、声明が始まった。前半はあまり良くなかったが、後半久しぶりに天使の声が降ってきた。
終了後、合宿最後の夜の飲み会が始まった。明け方まで…。
8 月 16 日
最後の日は、意識同調だ。
これは、自分が無くならなければ出来ない。
自分を無くすと思うことではない。
相手を感じることに集中するだけだ。
そのものになるだけだ。やっかいなのは、それを意識的にやってしまうことだ。
身体を動かしてしまう、と同じだ。
それでは、同調しない。試行錯誤の時間が過ぎる。
この感覚を掴まなければ、相手と対立したままになる。
もちろん、難しい。
意識に支配されてしまうから、難しいのだ。
しかし、それは楽しい時間だ。とてもじゃないが出来ない、ということに挑戦していく。
だから、基礎を見直したり、考え直したり出来るのだ。
日野武道研究所での行き着く先はここだ。
昼食は、定番のオリジナルカレー。
みんな我先にとお代わりをする。
そして、解散。
お疲れ様。
みんなも旅で直ぐに稽古だから疲れただろうが、我々も年齢だから疲れが残る。
毎年合宿が終わった後思うことは、来年は出来るかな?だ。
今年も同じように、それを思う。 |