2013東京ワークショップ 9-13/9-17

毎年行っている東京でのワークショップも、参加者も回転し、それに連れて意識がどんどん変化している。
開催当初は、「ワークショップに行けば、何か貰える」と思っている人が殆どだった。
だから一コマ 200 人いることもあったが、今はそれの約 1/10 から 1/5 に定着している。
今回は「何か貰える」と思った人もいただろうが、自分の力で、あるいは、自分の問題解決のヒントを探す、そういった人が多くなった。
それが、何よりも嬉しい。
自立している人が増えたということになるからだ。
少しは「自分の力で考えなければいけない」という事が、浸透してきたということだからだ。
そうなると何よりも、ワークショップの雰囲気が良くなる。
雰囲気が良くなれば、理解度は増す。

大学生が沢山交じっていた時は、「次は何をしたら良いのでしょうか?」という視線が沢山あった。
「次は」は無い。
つまり、指定されているテーマを、理解することが出来なかったのだ。
だから、指定されたテーマを稽古する為の動き、例えば、腕をねじるとしたら、その動きが出来たら「出来ました、次は何を?」になるのだ。

「腕のねじれ」だけでも、最低 4.5 年、いや、自分の感覚を研ぎ澄ませていく事を目的にすれば、死ぬまで遊べるのだが、そういった自分自身に繋がる、深いテーマを見つけ出せないのだ。

「刺激を感じる」といっても、頭は「目に見える表面的な動き」の方に向いているから、刺激という目に見えない感覚には意識は向く筈もない。
だから腕から何も感じ取ることが出来ないのだ。
既にテーマに取り組む時点で間違っているから、修正のしようが無かった。
当時は、そんな人が会場に溢れていたのだ。
「動かす」のではなく「動いてしまう」身体。
つまり、日常の自分がやっていることだ。
ただ、そこの「動いてしまう」為の原因や動機を「刺激=感覚」にする。
その刺激を辿ることで身体に「線」を生み出し、またその線を感覚を通して辿る。

それが日野武道研究所が唱える、身体運動であり、身体操法である。

 

東京、二日目終了。
胸骨操作の復習。
胸骨操作が入った、縦系の連動、それからの応用。
仰向けになり背骨に掛かる重さを辿る、それからの応用。
刺激を辿るのは難しい。
きっと生まれて初めての作業だろう。
だから「出来ない」。
それは初めての作業だから仕方が無い。
と、考えられなければ何も始まらない。
しかし、人は「出来ない」事が、間違っているかのごとく思い込んでいる。
それは、初めての作業である、という認識が乏しいこと、そして実際に、自分自身が初めての作業に挑戦した体験を持ち合わせていないこと。
何よりも「間違いは駄目」風潮に惑わされているのが原因だ。
だから諦めが早い。
それは自分がそのことを獲得しない、という宣言にほかならない。
そこには結びつかないのだ。

「関係塾」では、手の平合わせ、指一本合わせ、手首掴み。
方向変更。
ここは、感覚そのものに集中しなければならないので、非常に繊細で難しい作業である。
つまり、日頃どれだけ雑に日常を過ごしているのか、ということの現れである。
そんな自分の発見でもある。
その発見があれば、日常を丁寧に過ごす。
そうすると感覚は研ぎ澄まされ、内的なものが豊かになる。
「表現塾」は、正面を取る、から、声を届ける、ナマムギ、ワ―、歌を届ける、聞く、とかなり盛りだくさんの内容になった。
もちろん、私のワークを初めて受ける人は、とにかく混乱。
しかし、中味を理解してくると、どんどんはまって来る。
関係塾や表現塾で難しいのは、ジャッジをする、という作業だ。
何かをやる人を見て、○か×を言わなければならない。
その為には、色々な人のジャッジを参考にする必要がある。
その面で社会性の乏しい人は、まるで的外れのジャッジをするし、中には「分かりません」という人がいる。
それは駄目だ。
自分の目の前で、自分に対して何かしらの、表現をしてくれた人への礼儀に欠けるからだ。
そういった事も順次説明しながら、どんどん濃い中身になって行く。
飛び込みの方も、増えて来た。

私のワークで一番重要なのは、相手と組んだ稽古の場合、相手との全ての接点だ。
例えば、手、例えば腕、例えば声、例えば空間だ。
そこを理解出来ずに、その為の方法や運動だけに目がいくと、全く異なった結果がそこに現れる。
明日は、一般の方対象としているワークの最後だ。
しかし、ダンサーや役者の方もかなり混じっているので、高度なワークになっている。
しかし、よく考えるとパフォーマーとか一般の人という区分けはおかしい。
日常であれ、舞台であれ、どちらも「関係で成立する」は同じだからだ。
そして重要なことだからだ。

中日終了。
定番の腕のねじれからの解放や、縦系のストレッチで全身を繋げる。
意識の分散(同時に二つの作業、三つの作業を行う)、胸骨操作の補助から、胸骨操作をしている人に同調し、相手を動かす。
そして「表現塾」。
人と話をする。
そこには、「話す」と「聞く」がある。
その前に、誰が誰と、だ。
私があなたとを、明確化する。
本当にあなたと話をしたいのか、私の話を聞きたいのか。
そんな当たり前の事をワークでする。
話を聞くのは難しい。
もちろん、話の意味を理解するという意味では無い。
自分なりに聞かない、という聞くだから難しいのだ。
しかし、実際として相手の話を聞けると、話す人の声が出やすくなり、話す人の気持ちが解放される。
だから、思わず笑みがこぼれる。
その逆の、話を「あなた」に出来たら、同じように笑みがこぼれる。
それは、誰の目にも見える。
つまり、本当の関係性がそこに見えるのだ。
その本質が、舞台で関係性を見せる。
つまり、台本や振付の保証が無くても、そこに何らかの関係性が見えるということだ。
もちろん、それには方法は必要では無い。
本当にそうすれば良いだけだ。
「方法は?」という思考が働く限り出来ないのだ。
だから、いわゆる自分との勝負なのだ。
しかし、自分との勝負という言葉は知っていても、あるいは、本当にそうすればよい、と分かっていても、それを頭が処理をする。
それでは出来ない。
そこに気付かなければ、どうにもならないのだ。
本当の意味で、自分が自分に対する問題提議なのだ。
人は、それを行った瞬間に成長をする。

ある役者は、初日からのワークで、かなり落ち込んでいた。
まだまだ落ち込み方が足りないと思っていたが、昨日の「表現塾」でのワークで、上向きの兆しがあった。
落ち込むというのは、人にとっての能力だ。
つまり、意識があるから出来る作業なのだ。
そのことが、自分を次のステップに押し上げてくれるのだ。

また、「見る目」の方は、どんどん養われていく。
だから、若干の違和感、つまり、わざとらしさを見抜く。
その目が良い舞台を作っていくのだ。
しかし、「みんな仲良し」という教育は、人を弱くしているのだが、その事が舞台にも当然現れている。
敵陣というか、自分の都合の良い場での芝居やダンスを披露するのではなく、全く興味を持ってくれない場での披露をすることで、実力を付ける、という考え方が定着していない。
だから、否定されることに真正面から向かい合う、という作業が出来ない。
つまり、逃げ道を常に持っているということだ。
自分のダンスや演技、パフォーマンスを認めないのは観客の違いだ、ということに逃げる事が出来るのだ。
それはパフォーマンスに限らず、社会で生きて行く上で、最大の弱点だ。

社会は、まるで猫の目のように変化し続けている。
それに連れて、価値観も風潮も変わる。
それに順応できなければ、生き抜くのは難しい。
しかし、根本的には人は強い。
生命の誕生以来様々な変化の中で、今日まで生きている、つまり、変化に対応出来たから、今ここにあるのだから。
その能力を蘇らせよう。
その為には、「今、やっていることを、今、徹底的にやる」それしか無いのだ。

今日からは、たっぷり「表現塾」だ。
どんなドラマがあるのか、ワークというライブが楽しみだ。

表現者の為の「表現塾」初日。
かなり濃く、かなり厳しく、そして爆笑のうちに終わった。
京都から参加する俳優の平岡さんは、あいにくの台風の為に、ワーク終了後東京に到着した。
ラーメンを食べに食堂に向かっていると、駅の方から平岡さんがやってきた。
食事をしながら談笑。
もちろん、明日は参加する。
となると、青年団の人達と面白い実験をやろうと思っている。
一つの言葉だけで、芝居をし何かしらの短い物語を表出させることが出来るのか。
これは数年あたためているネタだ。
また、その一つの言葉を伴奏にダンスや語りをする、というのも試してみる。
これらは、「相手を聞く」ということが相手役を際立たせる、という実際が出来たら、そこに有機的な繋がりが見えて来るからだ。
表現という事において、重要な要素なのだ。

正面向かい合いで、視線の力を強くするワークを沢山した。
正面、後ろの正面、多人数。
そして、そのワークで強くなった視線で、演者を見る。
演者はその視線を感じる。
「感じよう」と思うのではなく、「感じる」だけだ。
「どうやって?」となると、それでゼロだ。
また、イメージトレーニングの実際も行った。
しかし、直ぐに自分のやり易い方法になる。
そこが一番の敵だと、何度も何度も話す。
また、その強い視線は、関係性を築くための確かな道具になる。

沖縄からも、熊本からも台風をおして参加してくれている。
だから、余計に高度なことを知って欲しいと思っている。
一朝一夕で「出来る」はない。
だから、日々稽古なのだ。
全員ぐったり疲れて一日が終わった。

明日はワークショップ最終日。
表現者たちの面白いショーケースを考えている。
一般の参加者が観客だ。
最高の観客の前で、その視線を釘付けにできるか?
ワークそのものは表現者の為のものだから、一般の人には難しいが、人生も社会も、人間関係も表現だ。

東京ワークショップ終了!
表現者の為の「表現塾」も無事終了。
2コマ目の最後は30分延長し、アクター達には、「なまむぎ」だけを使った即興劇、ダンサー達は関係性を用いたパフォーマンスを行った。
もちろん、観客側にとっては、姿が見えているのか、観客を無視していないか、の視点でジャッジする。
ダンサー達は、舞台登場と同時に一瞬で全滅。
これには、ダンサー達は相当悔しがっていた。
アクター達は、台詞がある加減で殆ど最後まで演じられた。
とは言っても、「しまった」になっていた人が多かった。
達者な人達は、安易な芝居に逃げたのを自覚していたのはさすがだ。

しかし、初めて開催する表現者の為の「表現塾」と銘打ったワークに、これほどの人数が集まるとは想像だにしなかった。
精々15名どまりだろうと思っていた。
しかも台風が来ていたから、もっと少ないかもしれない。
そうすると、10名足らずだろう。
そんな予想が見事に外れ、「表現塾」の全コマ30名以上だった。
これは嬉しい悲鳴だ。
であれば、来年はもう一日増やしてみようかと思う。
それは、やはり2日間しか出ていない人には、消化不良だったし、もう少し全員の質を上げてあげたいからだ。
つまり、自分としての明確な自信と課題とを持ちかえって貰いたいからだ。
関係性が見える舞台を作り、観客を温かい気持ち、あるいは、本当の感動を与えられなければ、舞台人では無い。
身内の「ブラボー」は聞き飽きた。
そんな合言葉を認識しあった二日間だった。

また、これを機に月1回でも、小さなスペースで演じて行く事、踊って行く事を考えよう、という話にもなった。
これは近々にスタートさせたい事だ。
打ち上げの席で「なまむぎ芝居」を、いきなり始めた。意識をどんどん切り替えるので、「付いて行けません」と若い役者はギブアップ。
二次会で、歌に対して「なまむぎ」を被せるを平岡さんにやってもらった。
「あかんて、それは」駄目だし数回。
「ちゃうて、それは最もやってはいけないパターンや」大笑いの二次会だった。
抽象的な言葉は、より本質的な稽古が出来るのだ。
打ち上げは12時終電時間でお開きとなった。
再会を約束して二次会の店を出た。

明日は、岡山でのワークショップへ出発。
ワークショップが続くと、どこでやっているのか分からなくなる。
何日目なのか、どの程度の突っ込みでいくか、混乱してしまう。
東京ワークショップの打ち上げで、役者の一人が、「先生は、自分にとって非常にタイムリーなところで、ワークを変えたり、ヒントになる話をしますが、それはどうしてですか?」ときかれた。
当たり前のことだが、一つのワークを提供し、全員の実力や興味の浅深を見ているからだ。
そして、教室全体の雰囲気に注意を向けている。
だから、それぞれの人にとって、タイムリーなヒント、あるいは、興味が薄れてきたのが、又興味を持てるようになるのだ。
つまり、決して「ワーク」そのものの質だけで、ワークショップがあるのではなく、そういった関係性を持って進行しているのだ。
だから、このワークを何分して、次にこれ、そしてこれに進むという、杓子定規なものなのではない。
そういった、場全体を体感する、という事もワークの一つなのだから、それを提唱している私が実際として、それをやっていないのであれば、話にならないだろう。
そのように全体を体感し続けているから、かなり疲れるのだ。
単にワークを提供し、動いたり声を出したりしている分では、疲れることも無い。
一つのワークでも、それらは「身体塾・関係塾・表現塾」と全部に関っているし、そのワークをするにあたって、色々な人と組むが、それも関係性の稽古だ。やりにくい人、やりやすい人色々いる。
それを体験していくのも稽古だ。
自分が閉ざしているからやりにくいのか、全く違った価値観を持った人だからやりにくいのか、そのやりにくさも色々ある。
そんな事も、全部ひっくるめてワークショップなのだ。

ただ、一生懸命に取り組むが出来ないのと、適当に取り組んでいて出来ないのとでは、全く違う。
適当に取り組んでいる人を、見分ける力の無い人は一寸困る。
適当な人に「稽古が出来ません」と指示できないからだ。
東京のワークショップでも「それ適当でしょう、適当にするのなら意味が無いから、帰られたらどうでしょう」と口にした。
それは、組んでいる相手の人に迷惑をかけているからだ。
一生懸命だから、出来なくても良いのだ。
そして、一生懸命だからこそ、そこで何かを掴めるのだが、適当だと出来るも出来ないも無い。
ただ、周りに、相手の人に迷惑を掛けているに過ぎないのだ。ということを認識していない、といことを知るのも私のワークショップだ。
知れば直ぐにやり直せばよい。
決して落ち込む暇を作ってはいけない。
深刻になる暇を作ってはいけない。
それらは、単なる「脳の自己満足」に過ぎないからだ。

 
       

 

「表現者の為の表現塾」

○観客との関係   

観客に対しているのか、自分だけの世界を作っていないか。
つまり、観客を放っているのではないかということになります。
パフォーマンスは、あくまでも、観客がいるから成立するものだし、観客に見せる為に作品なりダンスなり、芝居なりがあるのですから。
もしも、観客を無視するのであれば、一人で自分の家で、部屋でやっているだけでいい筈です。
観客と演者を交互にすることで、演者の観客に対する働きかけの有無を判定し、何が不足しているのかを探り出します。
不足している何かを補い、あるいは、観客と関係するという実際を知る事で、それぞれが日々訓練や実践出来るようにします。

○共演者との関係

二人が向かい合い、何かしらの台詞を言います。
例えば「おはようございます」とします。
それは本当に相手に向かっているのか、届いているのか、を見極めていきます。
この時点では「観客の目を養う」ということです。
また、その「おはよう」は、台詞ではなく、本当に自分から出ているのか、を訓練します。
つまり、台詞に聞こえるということは、相手には絶対に届かない。単なる「音」だということです。
また「おはよう」にニュアンスを色々と突っ込んでいきます。
もちろん、これは声を出すので役者向けですが、実はダンサーにとっても重要な要素です。
ダンスは残念ながら台詞はありません。
ですから、ある意味で、相手との関係を見せるのは、声を出すよりも難しいということです。
そう言った事を自覚し、関係性が見えるように稽古していきます。

○舞台との関係

舞台空間、とか空間とか、とにかく、空間という言葉を誰でも使います。
空間と言った時、それは空間をコントロール出来ていなければなりません。
コントロールはイメージでも言葉だけのものでもありません。
具体なのです。
空間という言葉を、いくら使っても、そこに空間など見えてきません。
具体的に、空間を感じ取れていなければならないのです。
そこも突っ込んで訓練します。

 

 

 

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