2001 夏合宿


8月12日から18日までの一週間、毎年恒例の夏合宿を和歌山熊野の道場で行いました。
今回は、テーマを絞り込んで行ったので、「何を考えなければいけないのか?」が明確にあり、自分自身の誤解や誤った取り組み方にほとんどの人は気付き、実のある一週間になりました。
朝練は7時30分から8時30分、そして朝食。9時30分から12時30分まで稽古、やっと昼食。一休みの昼寝、午後は3時から6時30分まで稽古、夕食。夕食後は、7時30分から10時まで稽古、掃除をしてシャワー。その後は、午前3時くらいまでミーティング?
という、ごくごく当たり前の稽古風景でした。

テーマは、個別に行う「武道的身体操法」を、実際として身体全体の「連動」に結びつけるための「連動1」「連動2」という形を憶えること、そして、その形の持つ拍子や微妙な味付けを感じ取る、というものです。
そして、それらの総体としての長い流れを持つ形を憶え、武術的動き全体の日本的な拍子や間を身体で知っていくという、基本ではあるけれど高度な内容を持つところに入りました。
また、膝と腰の運び、肘の運びを実際として知るために、空手の糸東流に残る
「肘当て六法」を、異なった解釈で行い(日本的な)、そこでも沖縄(琉球)が生み出した拍子や間ではなく、日本的な拍子や間を実践することに終始し、組み稽古の重要性を稽古しました。
そして、武術にとって一番大切な、相互の関係における
「無意識的反射を利用する、という「突合(とつごう)」を稽古しました。これができなければ、体格や年齢といったものに左右されてしまうので、武術の基本中の基本だと言えます。
これの締めくくりは、同時に何人もが組み付き突合で相手を倒すという、いわば、突合の自由多人数掛けです。最年少の中学3年生も、大人たちに組み付かれながらも最後までひるまずに立ち向かっていき、中々見ごたえのある組み手になっていました。
それらの一つ一つがある程度できると、すぐにその動きの
「変化」さらに、「応用」へと発展し、現場での対応能力の育成にも時間をとりました。
もちろん、一週間でられなかった人は、この全体に取り組めなかったのが残念ですが仕方のないことです。

「連動1/2」では、身体の末端は一番最後に動く、という肉体連動の基本を実際として体現するためのものです。ですから、末端としての手先が先に動いては駄目、という肉体のルールを頭において取り組まなければなりません。
意図的人為的運動から、動物的生物的運動へと身体の動きそのものを人為的に導くという、非常に矛盾に満ちた訓練が、頭の働きや感覚を研ぎ澄ませます。その動物的生物的という概念が、今度は自分自身の人為的価値の見直しを誘発させ、本当の意味での価値とは何か、という問題が自分自身の中に沸き上がれば正解です。

「若き獅子達」のページに載せている大林君の特筆すべき点は、組み稽古での受けの取り方が抜群だというところです。つまり、やらせは一切しない、という事です。それでいて、相手の力の量や方向をきちんと肉体で感覚し、決して無理な事を相手にやらせない、という武術の基本要素である「気遣い」が無意識的に出来るようになっている、という成長です。
ですから、大林君と稽古をする人は絶対に技術をマスターできるようになるのです。自分が何か出来るようになる、という事だけが目的として生きている人がほとんどですが、本当は、彼のように、「人の役に立つ」ように生きる、こそが本来の人間であり、武道そのものの稽古の実際です。
そういった意味で、今回の合宿は、東京の連中も参加していたので、彼と稽古をすることで「受けとは何か」「組み稽古とは何か」を掴めたようです。

東京組みの感想から

今回の合宿では、普段やったことのない大阪や、和歌山の人達と稽古をする事が出来て、非常に刺激を受け、色々気付かされる事がありました。

稽古やスパーリングの中で、身体の使い方の出来ている人と、出来ていない人の違いを、目の当たりにさせられ、その大切さを実感しました。
゛正面向かい合い゛の稽古では最初、無表情で人の目も見れなかったM君が、みるみる変化していくのに驚く共に、自分の心も変化している事に気付き、人と人との関係というのは決して一方的なものでは無く、相互に影響し合うものだという事を実感し、人間関係の中で、相手に対してリスクを負うという事について考えさせられました。

また初めて、稽古をビデオに撮って見たのですが、自分の動きのあまりの酷さに驚きました。自分では、もちょっとましだと思っていたのですが……。
頭で考えている自分と、実際の自分がこんなに違うとは思いませんでした。
もっと客観的な目を持たなくては…
…。

今回は、初めての武道合宿で、しかも一週間という長丁場、身体操法のことも、武道のことも、ほとんど取り組んだことがないのになんで申し込んでしまったんだろう、とどきどきしながらの参加でした。
稽古が始まったとたん、先生の雰囲気が、東京セミナーや武禅の時とは全然違って厳しいことに、さらなる緊張を覚えながらも形の稽古や分解組み手等、何をやっているのかまったくわからず、頭の中はパニクって、思考停止状態。
とりあえず段取りを覚えて、と思い、上辺だけの流れを追うもののそこに身体としてのどんな要素があるのか、相手との関係性はどういったことで、どのような反応をしなければいけないのか等、稽古の目的がまったく認識できず、(というより、そういったこともほとんど頭に浮かばず)いい加減な動きの繰り返ししかできない自分がすごく情けなかったです。
そんなことは、身体操法の一人稽古もちゃんとしておらず、武道の稽古もほとんどしたことがないのだから、当然のことなのですが合宿中、先生がくり返しおっしゃっていた、「自分で何にも稽古してないやつに何か言ったって、わかるわけないし何か出来るはずがないんだから、何にも言えない。相手の稽古のじゃまになるだけだ」という言葉が「ああ、俺のことか、、、」とくやしさで一杯でした。
結局、身体のことが何にも出来ていないので、何をやってるのかさっぱりわからないパニック状態がずっと続いた一週間でしたが、これからの課題や稽古のネタをたくさん仕入れることができたので後は、自分がそれらにどう取り組めるのか、です。

そんな中でも、大阪や和歌山の生徒さん達と話をすることができ、「やっぱり、やってるやつは、ちゃんとやってんだなあ。」と大きな刺激をうけました。

 

 

身体塾 武道塾 武禅

 

 

2002夏合宿

 

    今回は8月13日から18日まで恒例の武道集中合宿を行った。
    東は東京・埼玉、西は北九州、中部は名古屋・岐阜、そして大阪からと、かなり広範囲にわたる地域から日野武道研究所の考え方を学ぶ人達が定員制限の20名集った。
    合宿は長時間で頭と危険を伴う稽古にも関わらず、けが人が一人もでなかったことが何よりの収穫だ。
    つまり、集中力を持続させることがある程度出きるようになった、ということだ。

    今回は、背骨から大腿骨に付着する腸骨筋と大腰筋(俗に言う腸腰筋)を主に使い、手や足から「力を出せる」ようになる、という事をテーマの一つとした。
    この稽古の難しいところは、体表の筋肉を緊張させずに、つまり、随意的な運動なのだがそれを不随意運動のように肉体を扱わなければならないところだ。
    これは、非常に高度な身体能力を要求されるものなので、私の弟子の中ではオリンピック(トライアスロン)の選手以外は直に出来た人はいない。
    そういったところから、全員といわなくても何割かの人が実現のヒントを獲得できればよいと思ってこのテーマを伏線として用いた。

    もう一つのテーマは、組み稽古において「今・自分はどこに立ち・どうすればよいか」を、その場で思いつき行動できる、をテーマにおいた。
    その為に、1対2・1対3・1対4、全員が全員に対して敵、という非常に変則的な形式を使いながら、その中にも様々に条件を変えての稽古をした。
    また、武道の大前提、相互関係の大前提である「正面向かいあい」は、毎夜・毎夜繰り返し行うことで、著しく成長した人も現れたので、合宿は何時になく大成功だったと言える。

    朝7時30分から道場の雑巾掛け、8時朝食、昼食は12時30分、夕食7時で、その間は全部稽古だ。
    もちろん、夕食後は10時まで稽古でその後シャワー、補習の稽古や「意識」を使った応用例、「志・命がけ」など自分に対しての向かい合い方の話があり就寝は午前1時30分から2時頃、という超ハードスケジュールだ。
    参加した人達もダウン状態だったが、私や食事など参加者の裏方を担当した妻も3キロほど体重が落ちたほどだ。

    今回の合宿には、色々なメジャー流派の方が参加されており、その人達のやっている通常の稽古とは全く違った、頭と身体感覚をフルに使わなければ出来ない日野武道研究所の稽古に戸惑いがありながらも、動きや蹴り突きの威力が大幅に強力に変化していく樣に驚き喜んでいた。
    日野武道研究所に通う人達は、価値の異った人達と交流し、動きの質の違いを肌で実感したことが、そうほうに取って貴重な収穫になったことだろう。
    また、見学として参加されていた構造医学に詳しい医療関係の方が、腸腰筋の事を紹介した書物は沢山あるが、これほど具体性を持って構造的に組み立てられたトレーニング方法は世界に無いから本にしたら、とおっしゃってくれた事も、一つの収穫だった。

    ある時は怒鳴られながら、ある時は大笑いで楽しみながらの95時間は
    「BLOOD,SWEAT&TEARS、血と汗と涙」で終わった。
    日野武道研究所に通う人達の著しい成長には、「時間と量」それに適切な「メソッド」の重要性を改めて感じた。

     

     

     

    「言葉」で武道2003夏合宿

    今年の夏期合宿は何時もと趣向を変えて、「頭」の中を「血と汗と涙」にした。
    武道といえど、それは一般的には「体操」として見えるものだ。
    そして、その「体操」は、自分の頭が作り出し、あるいは、頭が動かしている、あるいは無意識的に動いているものだ。
    であるから、その「体操」がどうしたら「武道」になっていくのか?を、「身体で考える」を、実際に稽古としてした。
    つまり、自分自身の中で「武道」を行う、という実際、「言葉」を武道として扱う、の実際を稽古したと言う事である。
    体操をいくら反復練習しても、体操の域を出ることはないし、身体運動の質を向上させる事はない。
    そこに直接作用するのは、「頭」である。
    つまり、「何をしようとしているのか」「何をしているのか」が一番大切な点だと言う事だ。
    この「何をしようとしているのか」「何をしているのか」に自覚的に取り組む稽古が、現代における「武道」の最低要素である。

    稽古は3人、あるいは4人一組となり、一つのテーマを体現化するようにした。
    そこで必要なのは、第三者の的確なアドバイス、そのアドバイスを体現する能力だ。
    その第三者との作業が、実は自分自身が一人で行わなければならない作業なのだ。
    その一人でする作業を知る為に、この稽古方法を考え出した。

    時間と共に、発見する事は「アドバイスが相手に伝わらない」だ。そして、同時に「アドバイスを体現出来ない」自分に直面する事だ。
    ごく大ざっぱに体操を捉えた時には、誰にでも出来る体操ではあるが、それを厳密に、つまり、その体操に含まれる要素をきちんと盛り込もうとした時、他人にも自分にもそれらのアドバイスが伝わらないのだ。
    という事は、「アドバイスが間違っている(やろうとしている事を明確に理解できていないから)」という事になる。
    つまり、そのアドバイスをする人も受け取る人も、「自分なりに」という枠を出ないから「他人のアドバイスという言葉」を理解する事は出来ないのだ。
    そして、もう一つ大切な事は、その「自分なり」は、他人を無視している、というところに繋がっている事だ。

    例えば、Aというテーマが出来ない・さんに対して、他の3人がアドバイスをする。
    ・さんは日野武道研究所の稽古に初めて参加したとする。とした時、・さんに対してどんなアドバイスが有効なのか?つまり、アドバイスは、・さんに対して「どの程度の完成度を求めているのか」が問題なのだ。
    大方はここを間違う。

    自分のレベルに応じた完成度があるのだが、自分のレベルそのものを自覚していないので、遙か彼方にある完成図を自分自身に当てはめようとする。
    だから、完成しない。
    結果、常に何も完成せずに投げ出してしまう、という間違いである。
    ここでアドバイスをする3人は、・さんが初心者という事を全く考慮しないで、「Aとはこんな形だ、こんな運動だ、・さんはこうなっている他」と言う。
    これは正しいアドバイスだろうか?これが、「自分なりに」であり、・さんを無視して自分なりを押しつけている、という事である。
    そしてそれは、「他人に対して全く思いやりがない」という現れなのだ。
    ・さんも、3人のアドバイスを体現しようと一生懸命取り組むが全く出来ない。
    これも、他人を無視した行動なのだ。
    「えっ!どうして」と思うだろう。
    ・さんは、自分自身が初心者である事を全く自覚していない。
    だから、盲目的に3人のアドバイスを聞く。
    ・さんは初心者である事を自覚していれば、3人のアドバイスに対して「質問」するはずだ。
    つまり、・さんは初心者なのだから、日野武道研究所の共通言語を理解していないはずなのだ(例えば『ねじれ・連動他の実際』)。だから「質問」することで、自分自身の理解を深め、結果、そのアドバイスに具体的に取り組み事が出来るのだが、ここでは、自分自身が「理解しなければならない」を抜いてしまっている。
    ということは、3人のアドバイスを無視している、という事になるのだ。
    それは、「他人の言葉」や「他人」そのものを理解しようとしていない、という姿勢なのだ。
    といった、相互の間違いがテーマを体現化する事を困難にさせていく。
    こういった稽古を5日間に渡って行った。

    これらが「武道」の稽古であるが、日常生活、よりよい人生を送る為の基本的作業なのだ。
    であるから、「武道」は日常であり人生だと言えるのだ。
    ここで発見した「他人に対して全く思いやりがない」「他人の言葉や他人」そのものを理解しようとしていない、という姿勢」は、武道の実際から大きく外れる。
    というより、すでに武道ではない。
    相手を推察する能力、相手の実力を見極められる能力、自分の実力を自覚している事、これらが、他人との関係における基本的要素なのであって、これらが抜け落ちている中での「対人関係」は、「相手と対立」する以外何の方法もない。
    という事は、そこで実際に行われる「対人関係」は、「対人無関係・無視」であり、それは、自分自身の欲求をやみくもに相手に押しつける、押しつけられなかったら力ずくで、という幼児の親に対する「甘え」以外の何者でもないのだ。

    ここで言う「関係」とは、相互に働きかけがあって初めて成立するものである。だから、アドバイスを理解する為の質問、その質問に対しての答え、というごく当たり前の作業が必要不可欠なのだ。
    「武道」は相互関係で成り立っている。だから、言葉で表現出来ないような事が実際として起こる。
    それを「技」と呼ぶなら呼んでも構わないが、実際的には技として取り出せる単体ではなく、身体の持つ相互関係能力が生み出した現象であり、身体そのものの現れなのだ。
    その身体の持つ潜在的な能力を阻害するのは、ここで言っているように自分の持っている、あるいは使っている「言葉」である。
    今回の合宿では、「言葉」が身体能力に与える影響という実際を、他人と、あるいは自分の独り言、を通して行った。

    全員、心地よい汗、ではなく、頭の中で「血と汗と涙」を体験した。
    さて、その体験が今後の武道の取り組みに、人生の取り組みにどれほどの成果を見せるのか?

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