雑誌「秘伝」連載エッセイT 秘伝読者ではない方の為に毎月連載しているものの、過去のものから掲載

目次
居着くは死、居つかざるは生
棚から牡丹餅

 

教室には、競技ダンスのトーナメントプロも来ている。
その人が、稽古を終え食事中に話したことだ。
あるトーナメントの会場で、世界チャンピオンが、毎日 2 、 3 時間同じ事を繰り返し練習していたそうだ。
しかも、ある短いステップの途中までだ。
それを見ていて不思議に思いチャンピオンに、「どうしてその中途半端な稽古をしているのか」とたずねた。
そうすると、チャンピオンは「コーチに言われただけで、その意味は知らないし分らない。
ただ、やり続けていたら自分で気付くのでは、と思ってやり続けている」と言ったそうだ。

さて、これは間違っているだろうか。

逆に意味をコーチから聞いて知っていたらどうなるだろう。
意味を知っているから、習得時間が短縮できるだろうか。
そんなことは決して無い。
こと身体の技術は、身体に育まれた知能と関係するだけである。
もちろん、ずば抜けた身体能力を持っている人も稀におり、そんな人は即座に苦も無くこなしてしまうが、そういう人は特別だ。
しかし、この場合問題にしているのは、指示されたことが出来ることだけではない。
「意味」が身体運動を通して分るかどうかだ。

そういった意味において、苦も無く出来たところで、それこそ全く意味を持たないのだ。
出来たところで、意味が分るはずもないからだ。
ここが学校の勉強とは違うところだ。
と、書いてくれば賢明な読者なら、何を書きたいのかが分るだろう。

知識として意味を知ったところで、その知識は脳に貯金されるだけで、身体には何の影響も無い。
そんなことは、普通に考えれば分るはずなのだが、日本総納得病に侵されているから、誰でも先に意味を知りたくなる。
何故なら、それを知らなければ不安になるからだ。

意味を知らない場合、指示されたことを色々と考える。
どういう意味があるのか、を指示された運動を通して考える。
この場合、そのステップを分解して考えたり、リズムを考えたり、体重の移動や姿勢などを考えるだろう。
つまり、およそ自分で思いつくことは、全部考える材料にするということだ。
ここで大事なことは、指示されたことを頭で考えるのではなく、身体で考えるという点だ。
今まで身体に蓄積されてきた情報を全部引き出し考える。
もちろん、そのステップを通して。

ところが、意味を知っていたらどうなるだろう。
そういう具合に自分の頭を使う、働かせるということはしないだろう。
すでに納得してしまっているのだから。
しかも殆どの場合、言われた意味を鵜呑みする。
つまり、自分の頭を働かせないということだ。

では、意味を知っている人と、知らない人が同時に始めた場合、何がどうなるだろう。
意味を先に知っている人は、意味を「知っている」だけで、そのこととやっている運動とがくっつかないのだ。
というよりも、くっつけようがないのだ。
つまり、考えるという時間を費やす材料がないからだ。

しかし、知らない人はその人のレベルなりに、意味と、やっていることはくっついているということになる。
どんなことでも物事を先に知る、というのは、そういうリスクを背負っている、ということを、それこそ知っていなければ危険なのだ。
何しろ、自分の頭を使わないということなのだから。

しかし、納得病ではなく意味を知り、身体で学ぶ方法もある。
それは検証を用いることだ。
意味を知り納得し、納得したことを自分の身体を通して検証する、という方法だ。

これも私の教室に来る人の話だが、胸骨トレーニングが実を結べば、どんな運動でも楽にこなせる、という私の話を身体で確かめているのだ。
もちろん、その人は、胸骨トレーニングを始めて 10 年以上になる。
一つは、その人が仕事でオーストリアに行った時、 1 日時間が空いたので隣の村まで歩いてやろうと考えた。
隣の村まで約 50 キロあるそうだ。
それを 9 時間で歩ききり、足は疲れた程度で、足取りは軽かったという。
それはそうだろう、 50 キロを 9 時間で歩くといえば、相当早足だ。
歩きながら、胸骨と背骨のつながり、胸骨と骨盤の関連、足の踵からつま先までの転び等を、ずっと意識しながら歩くのだ。

もう一つは、その人は通勤に自転車を使っている。
住まいは都内だから、仕事場までもそう遠い距離ではない。
その自転車で試しに箱根越えを試みたそうだ。
やはり、そう疲れを感じなかったという。
もちろん、これも同じで胸骨とグリップの関係、胸骨と膝の関係等々だ。
それが病みつきになり、暇な時間があれば自転車で 200 キロくらいの距離を走るという。
年齢 45,6 歳の科学者だ。
つまり、日常運動不足が当たり前の職業だということだ。
しかし、教室に来ると身体を動かすことを仕事にしている人よりもよく動く。

よくその人が教室で「ダンサーや武道をやっている人は、自分の身体で検証しようとしないのか不思議でならない、習っているだけでは何も分らないのに」という。
自分の取り組んでいることが、本当にそうなのか、自分が間違っているのか、そんな事を分らなくてよくやれるよ、と、科学者らしい考え方を皆に言ってくれる。

と考えると、納得病もあながち間違っていないことになる。
しかし、大方は前者になる。
そこには大きな誤解が洗脳されているからだ。
つまり、納得=出来た、という錯覚が、どこでどう間違ったのか知らないが、刷り込まれているからだ。
その頭が、自分という人間の人生の主導権を握っているのだからやっかいだ。
物事を知っているが、何も出来ない人生になる。

いずれにしても大切なことは、自分の頭を働かせることであって、他人の頭の中にあるものを覗く事ではない。
利用出来る能力があれば、利用すればよい。しかし、覗くだけであれば覗けたところで、所詮他人のもので自分のものではないと判る必要がある。

冒頭の話の場合、分るまでやる、という時間が大切なのだ。
それが 1 年 2 年かかろうが、分るまでやる、ということ。
そこに同時進行としてある、練習量が大切なのだ。
しかも、頭を使った練習量だ。
そういった意味では、反復練習ではない。
この練習の出来る人が少ないのが気になる。
しかし、それは本人が決めることだから、他人の私が手を出せるものではない。

 

居着くは死、居つかざるは生

私の好きな言葉の一つに「居着くは死、居着かざるは生」がある。
単純に言ってしまえば、発想を転換しろ、物事に拘るな、となる。
しかし、その言葉を実際に行うとなると、並大抵ではない。
武道ではなく、日常生活というところで実行しようとしても大変だ。

発想を転換しろ、と言われても、そう易々と転換できない。
転換しようと思えば、視点や立場を変えられなければならない。
ということは、相当の現実的想像力を必要とする。
現実的想像力は、それこそ様々な社会や世界を知らなければならないし、「他者」の思考を認識する能力も必要となる。
もちろん、好奇心が旺盛、というのも必要不可欠である。

また、物事に拘るな、と言われても、趣向を変えるとなると難しい。大方は、自分のクセとしての趣向、つまり、好き嫌いだけで物事を選択し生きているからだ。また、それは自分の価値観でさえ、拘ってはいけないということだから、これまた至難の業だ。ここでの難しさは、一つに完全に自分の趣向を知っていなければならない、という難しさ。そして、自分の価値観とはいかなるものかを、知っていなければならない、という難しさがあるのだ。

冒頭に戻ると、自分は何かに対して常にどんな発想をしているのかを、知っていなければならない、という難しさもある。

もっと、もっと突っ込めば、「拘るな」という裏には、「拘れ」が潜んでいることが見える。
拘って拘って、もっと拘った先に、拘っている自分さえ忘れたその先に、拘っているからぶち当たる壁がある。
そこで自分の大きな失敗と対面することになる。
その時点で初めて「拘っては駄目だ」を身をもって知る、という自分の気付きがあるのだ。

その地点での「居着くは死」なのだ。
角度を変えれば、最初から拘りを持たない人には、この「居着くは死」は分らないということである。
であるから、この言葉を体現化する為の玄関は、拘りを持ち続けろ、ということになる。
そして、何かに対する意思を決して曲げるな、だ。
自分のしかも、大きな失敗に気付くまでだ。
つまり、頭を打て、といことである。
ということは、ここまでに相当の時間が掛かる。

というリスクを背負うことが、自分の足で生きるということでもある。
他人の言葉を納得したり、拝借するのではなく、自分自身が人生を通してリスクを負いながら気付いていく、それが自分の足で歩くである。

しかし、ここでの大きな失敗は、実は大きな失敗なのではなく、そこまでの過程が自分自身を作ってくれているのだし、この「居着くは死、居着かざるを生」と、昔日の誰かが残した言葉を共有したに等しいのだ。
この目まぐるしく移り変わる現代社会で、何を夢のようなことをいっているのだ、というのが大方の指向だろうが、目まぐるしいのはテクノロジーの進化や社会のシステムだけであって、人の豊かさの源は何一つ変わっていない。
もしも、変わっていると思う人がおれば、それは単に世間に流されているだけである。

角度を変えれば、ここが分水嶺でもある。
つまり、言葉を体現化側に進む人と、言語的理解、納得側に進む人の分かれ道なのだ。

また、これに取り組むということになれば、最初の解説を全て分った上で、この「居着くは死、居着かざるは生」に取り組む、きっと大方の人はなるだろう。
それでは駄目だ。
常に同時進行的に、つまり、日常生活なり武道の稽古なりを、進行させながらこのことに気を配り、尚且つ、気付いた瞬間に「それは、居着くは死だ」と自分に言い聞かせをするのが一番合理的だ。

永遠に時間があるというなら、また、永遠に若いままでいられるのなら、「出来てから」でよい。
しかし、それは不可能なのだから、一番合理的な方法を選ばなければならない。
と、ここで「合理的」という言葉を使ったが、この言葉は当然「限られた時間の中で生きているがある」という事に対する合理である。

それこそ、こういう合理的な発想は、中学生の頃新聞配達をしていた頃からあった。
また、それは、音楽を生業としている時には、猛烈に発揮した。
私がジャズを始めたのは、 20 代の手前だから相当に遅い。
3 歳からピアノを習っていた人と比べれば、 16,7 年の開きがある。
この開きを解消しようとした時、「同時進行で」という発想が湧いてきたのだ。

ドラムにとって基本になる一つ打ち。
それをしながら足ではバスドラムと、ハイハットのコントロール。
頭の中ではジャズのメロディ。
交互の一つ打ちをしながら、同時の一つ打ちを混ぜたり。
とにかく、その時同時に行えることを、全部思いつくままやってきた。

「どうして、そうでなければいけないのか?」それは、自分の練習方法に向けた。
よく考えると、その時点で既に低いレベルではあるが「拘るな」をやっていたことになる。
だから、スタンダードなジャズから、フリージャズ等の集合即興演奏という形式に拘っていったのだ。

しかし、ここでまたどんでん返しをすることになる。
「そうか、おれは集合即興演奏に拘りすぎていた。それでは音楽はフリーであるかもしれないが、俺自身はフリーでも何でもないじゃないか」
と気付く瞬間があったのだ。
フリーを叫んで 8 年が経っていた。
もちろん、だからといって集合即興演奏を止めたのではない。
そこから、その演奏自体も進化したし、私自身の演奏の選択肢が無限に広がったのだ。
その瞬間が「居着くは死、居着かざるは生」という言葉そのものだとは、私は当然気付いていない。

今度はそれを「突き」を通して、あるいは刀の「上段からの斬り落とし」を通して、また、体術としての「投げ」を通して実現させようとしていた。
それは、雲を掴むような話だった。
しかし、その「居着くは死」の出所は、紛れも無くこういった戦いの中から生まれたのだ。
であれば、そこから考えなければ、全く意味はない。
来る日も来る日も、頭を悩ましながら稽古をした。
朝 9 時から、夜地下鉄の最終が 11 時 40 分まで。帰宅しても、頭の中と身体は動き続けた。

もちろん、だから「出来た」のではないし、「出来た」を目指しているのでもない。
そのように「生きる」なのだ。
全てと同時進行的に。
ここまでは長かった。

ある時期は、この「居着くは死」は私にとって経文のようなものだった。
何かをしている間中、ブツブツと唱えていた。
何もしていない時も、ブツブツ唱えていた。
雲を掴むような話なのだから、やれることはそれしかなかったからだ。

そんな楽しい人生、自分だけの価値を持って歩く人が、少なくなったのは本当に寂しい限りだ。

 

棚から牡丹餅

俗に「棚からぼた餅」という言葉がある。
今風に言えば「ラッキー!」になるだろうか。
予期せぬ幸運が舞い込んだ、ということだ。
もっと、古い言葉で言えば「運が良かった」である。
社会で成功している人は、この「運がよかった」という言葉を良く使う。
「○○さんと出会えたから」「○を見つけたから」あるいは、「時期が良かった」等々だ。その人にとっては、確かにそう感じたのだろう。
また、そんな実感があったのだろう。
となると「運」というものが、あたかもあるように思えてしまう。

では、運が良ければ何もしなくても幸運はやってくるのだろうか。
棚からぼた餅は落ちてくるのだろうか。
もっと言えば、運が悪ければ人生はどうにもならないことなのだろうか。
何もかもがうまくいかないのだろうか。
「運」ということを考えると、様々な広がりを持ってくる。

私自身「運が悪い」と思ったことはある。
また、「運が良い」と思ったこともある。
それは、その時々に何の意味も無く思ったことだ。
つまり、運ということを真剣に考えたことが無い、ということでもある。
運が悪いのかもしれないし、良いのかもしれない、そんなことは私そのものとは何の関係もない、だから「運」なのだ。
という考え方だからだ。
それよりも、「じゃあ、どうするんだ」が頭を支配するのだ。

もしも、「運」というものがあり、自分自身がそのことに関われないのであれば、そのことを思案する必要もない。
思案したところでどうにもならないからだ。
それは、まるで地球が自転をしながら公転をしているようなものだ。
春になり夏になり、秋が来て冬になるようなものだ。

その状況の中で、自分はいかに過ごすのか、だけが関われることであって、それ以外のことには直接的に関わることは出来ない。
暑ければ、それに見合った服を着るだろうし、寒ければそれに見合った状態を工夫する。
それしか、自分自身が出来ることはない。

また、棚からぼた餅、という言葉を良く使った時期がある。
20 代の頃だ。
どうして棚からぼた餅が落ちてくるのか、をそれこそ真剣に考えたのだ。
結論として「棚からぼた餅は落ちてこない、棚を作りぼた餅を棚の上に乗せ、壁なり棚なりを揺らさなければ落ちてこない」という、ごく当たり前の答えを見つけた。
棚からぼた餅は落ちてくるだろうが、それはこれらの準備や落ちてくるための行動がなければ駄目だということである。
つまり、全ては自分次第だという答えだ。

今の自分のレベルより上、あるいは、全く質の違う世界にチャレンジする。
具体的には、フルバンドからピアノトリオのような違い、もしくは、ジャズのピアノトリオから、ラテン系のトリオ、という具合だ。
そのチャレンジで失敗をする。
オーディションに落ちるということだ。
一般的には、入社試験に落ちるのと同じだ。
最初は、「どうして」と思う。それは、私自身が私自身を過大評価しているからだ。
その原因は、チャレンジする前のバンドでは充分に通用していた、という実感があるからだし、そこできちんと評価して貰っていたと思っているからだ。

実際は、きちんと評価されていたのか、私のギャラが安いから使ってもらえていたのか分らない。
そんな内情を分らないから、実際として通用していたと思い込んでいるのだ。

そのことは別として、ここで私はオーディションを受けたバンドは、現在の自分よりも実力が上ということを、明確に理解していないということだ。
明確に理解していないから、「どうして私を落とすのだ」となっているのだ。

その「どうして私を落とすのか」は、落としたバンドが悪い、あるいは運が悪い、という結論の出し方をする場合もある。
本当にそうなのか?落ちるには、落ちる原因が必ずある。
この世の中は、全ては因果関係で結び合っているからだ。
単純な因果関係が、複雑に繋がりあっているだけだ。

もちろん、落としたバンドは私を見る目が無かったのかもしれない。
運が悪かったのかもしれない。
しかし、それは「私」の都合のことではなく、向こうの都合でのことだ。
世の中、決して自分の都合通りにはいかない。
だから、運という考え方があるのだが。

しかし、私はその運という考え方は嫌いだ。
世の中は、決して自分の都合通りにはいかない、だから面白い、と私は考える。
都合通り行かないからこそ、そこに工夫が生まれる。
つまり、自分自身を能力開発する基本があるのだ。
人には、多種多様な能力が備わっている。
それは、例えば、スポーツで言えば水泳が得意な人がいれば、球技が得意で水泳の出来ない人もいる。
もちろん、その逆もある。
仕事ということで捉えても、想像できないくらいの職種がある。
つまり、人にはそれだけ多種多様な能力が備わっているということだ。

ただ、その多種多様な能力は、誰かが引き出してくれるのではない。
また、運が引き出してくれるのでもない。
自分自身がそのことに取り組むから、そして挫折し思い通りにいかない現実をしみじみと実感出来るからこそ、開発しようと、工夫しようとするのだ。
それこそが、社会に適応していくという実際にほかならないのだ。

それで駄目なら、誰かのアドバイス通りにやってみるのも一つの方法だ。
色々な入り口は自分が決めようが他人が決めようが、そこに大差は無い。
なぜなら、結局現実として具体的に取り組むのは、誰かではなく自分自身だからだ。
その自分自身が、自分自身に具わっている能力を引き出せば良いだけだ。

人の生存能力は、きっとどの動物よりも強い筈だ。
地球の大変化の中を生き延びて来ているからだ。
環境破壊が起こっているからではなく、それ以前にもどれ程多くの種が絶滅してきたことか。

そこから考えると、根本的には生きるということでは「人」は、運が良いのかもしれない。
であれば、それを活用して、自分の能力をどんどん開発するべきである。
思いもよらない仕事が、自分に向いているものだ。

それを見つけたら「運」が良かった、のかもしれない。

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