2015福岡ワークショップ

 

6月は福岡でワークショップだ。

早いもので、もう7年間続いている。

今年も昨年に続き、須貝りさ先生のバレエスタジオでワークショップは開かれた。

東京や京都では、ダンサーの参加が少なくなっているが、福岡ではバレエの先生やジャズの先生等の先生方や、色々なダンサー達が少しずつ

増えている。

どういう傾向なのだろうと、不思議な感じがする。

この狭い日本なのに。

2週間前に、親知らずを手術し1週間前に抜糸したところだ。

顎の骨の神経が丸見えの深さまで削ったにしては、5針で済んだのは口腔外科医の腕だ。

口が開かなかったので、おかゆや汁もので胃袋を騙していたが、体力は大丈夫だろうかと一抹の不安はあった。

しかし、ワークショップの蓋を開けると、その不安は消し飛んでいた。

1年ぶりの元気な顔を見たり、元気な声、変化したことの報告を聞くと、そんな不安はケロッと忘れてしまった。

初日は、金曜日の夜の部からだ。

40名を超す受講者がおり、中でも初めての人が2/3もいた。

そうなると、例によって「身体」に対する考え方から説明する。

常連の人にとっては、再確認の時間である。「身体の仕組みにそって身体が動く。

頭がコントロールするのではなく、言葉は灯台のようなものです」何のことやら分からない、という表情。

こればかりは仕方がない、初めて耳にする言葉だからだ。

例によって、まずは「胸骨操作」からだ。

そして、胸骨操作のスピードに合わせて肘を動かす。

そうすると、胴体部分と肘とが繋がって、力を抜いているが二の腕の部分が強くなっているのだ。

それを二の腕を持ち、持ち上げる事で試していく。

もちろん、そうは簡単にはいかない。

それは、「一緒に動かす」という事に意識を向ける習慣がないからだ。

それは習慣化することで出来ていく。

一歩一歩の地道な稽古しかないのだ。

続いて「胸骨リードで歩いてしまう」そんな試しをいれながら、あっという間に時間は過ぎた。

ジャグリングの世界大会で惜しくも3位になった青年が参加していた。

主催者の一人である、フー子さんが進めてくれたからだ。

この一コマだけの参加だというので、質問は?と聞くとアドバイスが欲しいとのこと。

終了後少しそのジャグリングを少し見せて貰った。

世界レベルだけあって、見事なジャグリングだ。

しかし、身体に力みが見える。

それは気持ちがコントロールされていないからであり、身体の重要なパーツをコントロールしていないからだ。

「それは肘やで」毎度のフレーズだ。

それとスティックは握らない、ひっかけておくだけ。

こういったアドバイスは、腕を使う人に共通する。

もちろん、個々別々の使用法だが、基本的に「肘」なのである。

そして、スティックは握らない。

これもある意味で共通する。

指や手に力みが走ると、それは身体全体に作用するし、心理にも影響が出る。

だから「握らない」なのだ。それを聞いて彼はチャレンジする。

「おおおお〜〜〜」と喜びの声。何かに気付いたようだ。

この言葉のない会話が大好きだ。

何かに気づける、その感性を持っている人との会話は楽しい。

もちろん、年齢は関係が無い。

ゆうさく君27歳、頑張れ、世界一へ(後日、世界大会で見事に優勝した)。

打ち上げの時、24歳の若いダンサーが

「色々な職業を持つ人が集まっているというのが不思議です。私はダンサーだから、ダンスのワークショップには何のためらいもなく参加するし、

そういったことに慣れています。でも、普通の人がそういった専門的では無いワークショップに足を運んで来るというのは、相当難しいと思うので

すが」

と話してくれた。

そういわれればそうだ。

しかし、専門ということで言えば「身体」だし、「人」ということになる。

その意味では、どんな職業の人でも、またどんな年齢の人でも受講出来る筈だ。

だからこそ、色々な職業の人、色々な年齢の人が一緒に学べるのだ。

その若いダンサーは続けて

「今回は、ダンサー同士ではなく色々な職業の人と一緒に稽古できて、ほんとに新しい体験が出来て良かったです」と言っていた。

という、素直な感性を持つ人がいるかと思えば、まるで小学生という30歳代の人もいるから面白い。

しかし、面白いと笑ってはいられない。

どうして、そういった事を考えられる人と、考えられない人の差が生まれるのだろうと、その原因に興味が湧く。

30歳代の人は自分で「ゆとり第一期生です」と笑う。

その彼とは、どうしても言葉が噛み合わない。

それは、打ち上げの時に分かった。

続けて「社会性が無いのも特徴かもしれません」と言う。

それを客観的に解説するくらい、現実性が育まれていないのだ。

もちろん、彼の人柄は悪くない。

だから、どんどん突っ込んで行き、何かに気付けば良いかと思う。

しかし、打ち上げは笑って済ませることが出来るが、職場ではどうなのだろうと親の心境になる。

その彼の隣に40歳の男性が座っており、彼が

「ほんとに言葉って通じないし、頭を打たない人がいるのですね」と、私達の言葉のやりとりを聞き感心しきりだった。

「そんなこと思われているんやで、どうする?」「いやぁ」「あかん、ほんまに頭を打てへんわ」

 

 

2日目の「身体塾」には、バレエダンサーの卵12歳の少女が参加していた。

会場のバレエ・スタジオの生徒さんだ。

行儀も出来ており、素直に指示に従う。

これは当たり前の事ではない。

指示に従える能力があるということだ。

つまり、私の指示を身体操作として理解できるということだ。

どうして、そう書くのかというと、指示を理解できない人が沢山いるからだ。

もちろん、その少女のように子供ではない。

大人達だ。

何時も、そういうことになると、そこを突っ込む。

「どうして?12歳の少女に出来て、30歳を超える大人に出来ないのか」と。

むろん全員笑うが、笑い事ではない。指示は言葉ではない。身体の動きだ。

その意味では、身体の動きを見慣れていない人、やり慣れていない人にとっては難しい。

だから、そこに言葉を乗せて説明する。

しかし、「どうして出来ないのか」になる。

結局は、自分が何をしているのかを、分かっていないということなのだ。

「言われた通りやっているつもりなのですが」と「つもり」を話す。

「つもり」なのだから、それは「自分なりに・自分としては」だ。

それでは話にならない。

指示通りにするということは、他人の考え方を理解できるということであって、「自分なりに」が入る余地などないのだ。

それにしても、どうして12歳の少女は出来るのかだ。

「胸骨操作」の後ろ側は難しい。

背中に意識を持って行く事自体が難しいのだ。

「もっと刺激を強くして」とは言うが、それでも背中に対する刺激を感知するのは難しい。

肩幅よりやや広く腕を突き出し、背を丸める。

ヨガ等の猫のポーズの立ちバージョンのようにする。

その事で背中の具合を感じ取り記憶するのだ。

そして、改めて胸骨操作だ。

そしてこれまた定番の全身のストレッチ。

まずは上半身のストレッチで、脇腹(腰)→腋の下→肘→手首→手→指先へと伸ばす。

そしてその伸ばした順に緩めていき、その感覚を記憶する。

指先まで伸びると、その指を支えると上半身が起き上がるのだ。

それを全身にまで発展する。

そうすると、丸で根が生えたように足が床から動かなくなる。

それは、重力がまともに足裏に乗っかるからだ。

バレエには必要な身体操法である。 

2コマ目の「身体関係塾」は、文字通り身体を使って「関係という状態」を知るワークだ。

これは、「関係」ということを文字通り「身を以て知る」ということだ。

だから、二人で行う運動ではない。

身体を通して違和感を感じ取ったり、相手に違和感を与えないようにしたり、ということなのだが、残念ながらそれほど簡単なことではない。

まず、その自分が感じ取る違和感というものに、注意を向ける体験が少ないか皆無だからだ。

だから、ここを動物的な感覚を目覚めさせる為に、テリトリーという感覚を引き出し、そこから違和感の正体を自分の感覚として知ることから始め

る。

ここから言えば、相手に違和感を感じさせないというのは、このテリトリー的感覚を如何にくぐり抜けるかが、重要な鍵だとも言える。

武道的に言えば、間合いを切るということだ。

この感覚が発動してくると、いくら相手と関係しようと「思っても」「考えても」駄目で、文字通り「関係」という「状態」にならなければ駄目だということ

が理解できる。

定番のワークには、「一緒に」と「触れる」、そして「感じる」という3つのキーワードがある。

2人でする単純な動きの中で、この2つの要素を学ぶのだ。

一緒にというのは、一緒にであって、そこには隙間の無いことを言う。

「触れる」というのは、これも同じく触れることだ。

ここにも隙間の介在を許さない。

だから、隙間を感じ取る能力も培われるのだ。

関係された動きは、一つに見える。

一つに見えるように、ではなく、一つになってしまうのだ。

そして、お互いに生まれて初めての体感を得る。

もちろん、「出来たら」の話だが。

出来ないまでも、双方が共通のテーマに挑む。

実は、それが関係の入り口なのだ。

双方の意見や動作が繰り返し、繰り返し行われることによって、関係が目に見えるようになる。

そうすると、それぞれに表情も動作も変化してくる。

柔らかくなってくるのだ。

それは構えている自分のこころが開いてくるからだ。

相手の腕を握って歩く。

握っている部分、相手との接点に全神経を集中させる。

そこに一瞬の隙間も出来ないように。

皆楽しそうに、手を引っ張られて歩く。

「一寸待って、介護されている人の散歩と違うんやから」

スタジオ中笑いに包まれる。

そこで手本を見せる。

私の手を誰かに引っ張ってもらうのだ。

私の手を引っ張った人は「キャー」と叫ぶ。

また大爆笑。

手を引いた人は「先生はいませんでした、私が一人で歩いているようでした」と驚く。一緒に、そして触れる、感じる。

その事をしただけだ。

但し本当に。

その手本を境にスタジオは、水を打ったように静かになる。

皆集中しているのだ。

キーンという静寂の音が聞こえて来そうなくらいの静かさだ。

それがまた「脳」をリラックスさせる。そういった事を、色々なワークで行うのが「関係塾」だ。

 

3日目は、一つ上の13歳のバレーダンサーの少女が受講していた。

やはり「身体塾」で、縦系の連動を腕に繋げ、最終的に指先から力を出すと試みた。

何度かやる内に、どうもその少女は出来ているようだったので、私が受けで試してみた。

少々粗雑だが、運動が的を得ている。

少し運動を訂正し、ワークショップを手伝ってくれている、一番身体が大きく力も強い男性に受けを取らせてみた。

見事にその男性90sは、30sの小さな少女に潰されてしまったのだ。

参加者全員思わず「ウオ?!」で拍手喝采だ。

「はい、13歳の小さな少女が出来ました。どうして、皆は出来ないのでしょうか?」大爆笑するしかない。

このクラスには理学療法士、鍼灸師やボディワーク、臨床心理士、歯科医師と、他の医療関係者もいた。

理学療法士を除いて、他の人達は常連だったり、過去ワークを受けている人達だ。

ここのところ、こういった医療関係者の受講が増えている。

それは治療は「人間関係」が重要だということが認識されつつあること、そして、身体はそういった関係性の中で変化するし、機械的認識の

身体像では治療限界は直ぐに来る、ということに気付く人が出て来たからだ。

とはいっても少数だが。

二人組みになり、一人は後ろから肩をしっかりと掴む。

そして、前の人を動かす。私のワークの定番だ。

この場合、後の人の動かす指示を聞く、つまり、後の人の指示通りに前の人は動くのだ。

後の人はまるで自分が一人で腕を動かしているように感じるのなら、前の人は指示を聞けているということで「OKです」となる。

もちろん、20年以上このワークはやっているが、出来る人は誰も出て来ない。

それは、やる程に後ろから動かす人の感覚が鋭くなる、その事で前の人の微細な動きのミスを見逃さないからである。

人に触れる、触れられる、人を感じ取る、ということに、一番適したワークだ。

初参加の人達は、そういった微細な感覚に慣れていない。

だから、大方はおざなりの運動になってしまう。

今回も、どうアプローチするのかを見ていると、単に後の人は前の人を動かし、つまり、前の人を動かしているという自覚もなしに身体を動

かすから、前の人はもちろん、付いて行くことは出来ない。

そうすると、後の人は前の人に「どこそが緊張しているから」というようなアドバイスをしていた。

それを見ていて「そんなワークはしていないよ」と優しく注意すると、言われた人は必死で色々と言い訳をする。

これは仕方がない。

若い人は公の場で否定された事などないからだ。

東京や大阪での私のワークを知っている人なら、また、福岡での当初を知っている人は冷や汗モノだったそうだ。

「先生、大人しくなりましたね」常連の人がボソッと呟く。

どういうことかというと、今までは言い訳を言い出した途端、「どうでもええからちゃんとやれ」と怒鳴っていた。

だから、そこで泣き出す人もいた。

そこに追い打ちをかけ「泣いている暇があるなら工夫をしろ」は、普通に言っていたのだ。

こういったやりとりにも、いい加減怒鳴るのに疲れたのは確かだ。

人を怒鳴るには相当のエネルギーがいる。

それは、相手と真正面から向かい合う、ということだからだ。

いくら向い合っても、ピンとこない人を相手にしていると、ほんとに疲れる。誰でも向い合ってくれるだろう、という期待の中でやっているのだ

が、止めた。

それなら、ちゃんとやっている人と向き合い、集中したほうが余程効率的だ。

「君が動かしているのは人であって。Bodyとは違うよ」その意味など分かる筈もない。

キョトンとした目をしてフリーズしている。

彼等の姿を見ていると、まるで小学生が集まってワイワイやっているようにしか見えない。

その若者達と10才は違うだろう、13歳のバレエ・ダンサーとは大違いだ。

もちろん、この少女も初参加だ。

当然、私の話など理解できる筈もない。

しかし、出来るしやろうとしている。

この差はどこからくるのだろうか?

「表現塾」はいわゆる舞台表現とか、ダンスで表現という特別なことではない。

というよりも、そういった表現以前の、人としての基礎的なものである。

その基礎的なものが確立されてくると、自ずと舞台表現においては、存在感や輝きを増すことになるのだ。

日常生活は基本的に表現し、表現されている、ということが混在した場である。

「相手にどう見られているだろう」「こうは見られたくない」そんな些細な、しかし重要なことを「では、どうすれば良いか」を稽古していくのだ。

まず、基本は1対1だ。

「相手の前に立って下さい、立たれた人は確かに自分の前に立っていると感じられたら○と、相手に合図して下さいね」

これは、そうとう混乱する指示である。

当たり前だが、具体的に実際的に、誰もが相手の前に立てるし立っているからだ。

しかし、具体と表現は全く違う。相手の人がそうだと認識しなければ、表現されていないということになるのだ。

つまり、意思を持って立っているのか、立とうと「思って」立っているのかの違いなのだ。

これは文字通り「思っているだけ」だから、相手にとっては違和感として写るのだ。

同じように、それは日常で相手に対して「この人上の空」ではないか、と感じる事なのだ。

これは逆に言えば、自分にとって重要な話し相手ではない、ということでもある。

だから、表現というのは、逆に、相手を見破る術でもあるのだ。

余談になるが、この違和感という働きは、本能の働きの延長線上にあるもので、生命の保存や繁栄に関わるものなのだ。

だから、自ずと「判断」とは一線を引いたものだ。

日常的に言えば、実は本能的な違和感を感じたとしても、社会生活において、例えば名刺にある肩書、職業他から、この人は安全だろうと

判断し、詐欺にあったり様々な事件に出くわすのだ。

判断というのは、実のところ、平和な時平常の時にだけ有効なものであって、リスクが伴うような事には対処できないものなのだ。

なぜなら、判断基準は全て平常の時に体験し、積み上げて来たものだからだ。

「表現塾」では、声を相手に届かせる、とか、自分の身振り手振りというジェスチャーで、相手を誘導したりする。

だから、関係と表現は、表裏一体のものという扱いで、ワークを進めるのだ。

今回は、過去の福岡に比べ、受講者の方々の笑顔が多かった。

これは素晴らしい事だ。

本気で取り組んでくれている証拠でもある。

気持ちやこころが開いていなければ、どんな習い事でも身に付かない。

真剣にが深刻にに変化してしまったら、その時間は苦痛でしかない。

しかし、大方の日本人はそこを誤解しており、「真剣なように」を演じる。それでは、折角の自分の時間がもったいない。

「とにかく楽しめ!」そんな言葉から始まったワークショップだった。

 

2014福岡ワークショップ

 

「えっ、先生説明しているやん」と打ち上げでの第一声。
大阪のワークショップの最初から受講してくれているアイカヨさん。
仕事に急な変更が出たので福岡迄来てくれた。
最近受講してくれている人は、その頃を知らないからアイさんから、神戸や大阪でのワークショップやショーケースでのとんでもないエピソードを聞き、みんな大笑いをしていた。
「当時先生は、見本を見せ“はい、どうぞ”だけでしたよね」
「ええ〜、そうなんですか」
私としては、フォーサイスカンパニーのダンサー達と同等に、日本のダンサーを扱っていたのだ。
つまり、ダンサーとして敬意を表して、彼らに対するのと同じやり方をしたのだが、それがどうもすれ違ったようなのだ。
それは、ワークショップを重ねる内に理解していった。
何しろ私は、コンテンポラリーダンスを初めて見たのが、フォーサイスカンパニーでそこに踊るダンサーを標準だと思っていたからだ。
それと、カンパニーのダンサーを日本人が追い越して欲しいという願いも有り、極力彼らと同等に扱ったのだ。
もちろん、こちらの意図が伝わらなかったのだから仕方が無い。
その意図を汲んで今でも残っているのは、大阪ではアイさん他モダンの先生だけだ。
「胸骨操作」や武道の考え方を、自分のものにしようとしてくれた人だけが残ったということだ。

最近は、自分の整理の為もありワークショップでは説明をしているが、パソコンと同じで全く知らない時に、いくら説明を聞いても分からない。
パソコンに触っていく過程の中で、「ああ、こういうことだったのか」と理解していくものだ。
どんな事でもそれと同じなのだが、頭優先で生きている人の場合は、どうしても先に説明が欲しいらしい。
その為に質問コーナーを作るのだが、そうなると又質問が出て来ない。

 

今回の福岡のワークショップは、時期が何時もより早かったので、お知らせを受け取れていなかった人は、飛び込みで参加してくれた。
スイスのダンスカンパニーで活躍する悠さんも、たまたま帰国していてワークショップを発見。
急遽参加してくれた一人だ。
自分の仕事を動かし、わざわざ参加してくれた。

今回は不覚にもPCを忘れてしまった。
朝6時に起き、慌ただしく関空へ車で出発。
道中で思い出したが遅かりし。
引き返せば飛行機に間に合わないから残念でした。
おかげで、福岡でのワークショップをリアルタイムでレポートを書けなかった。

福岡では6回目となるワークショップだが、今回は場所が変わった。
「姪浜」にある須貝りさ先生のバレエスタジオだ。
主催者も変わったので、どれくらいの人が参加してくれるのか心配だったが、蓋を開けてみると全コマ30名以上、多いコマは50名を越えていた。
スタッフで活躍してくれたあゆみさんの力が大きかったと聞く。
感謝、感謝だ。
何しろ、こういったワークショップを企画するのは初めての人達なので、何もかもが大変だったようだ。
しかし、皆の情熱のおかげで、沢山の人が参加してくれた。
こういった企画の場合、宣伝の仕方もあるだろうが、結局は主催者の情熱が勝負だ。
それはどんな場合も同じで、結局は生身の人と人の関係なのだ。

こころよく場所を提供してくれた須貝先生にも、主催者の趣旨や意図が伝わったからだ。
ワークショップ初日、須貝先生が「このスタジオの良さが分かります?」と床の作りを話してくれた。
ダンサー達が足を痛めないように、バウンドが適度に起こる作りなのだ。
それは、私の道場でも同じようにしているから分かる。
そんな気遣いいっぱいのスタジオでの、ワークショップ。
「ナマムギ合戦」では、子どもたちが「一体何が起こったのか?」と恐る恐るスタジオ覗きに来ていた。

ここ、福岡でのワークに毎回来てくれている人も数人いる。
福岡での数少ない日野理論の理解者だ。
一回目に参加してくれ、今回スタッフ側に回ってくれたあゆみさん。
そのあゆみさんが「福岡での一回目のワークショップは、何が何やら分からなくて、途中で帰ったダンサーが沢山いたのですよ」と報告してくれた。
「そうやったんや」
一回目のワークショップでそんな印象をもったのなら、再度くる筈も無い。
しかし、しがみついて来てくれている一人の役者は、今回のワークを見ていると、相当成長しているのが見え嬉しくなった。

福岡での何回目かに参加してくれた、別府の老舗旅館の女将も顔を見せてくれた。
何時の日か「武禅」を別府でやろうと提案してくれた。
温泉付きの「武禅」は、冬場にもってこいかもしれない。
そんな楽しい話も飛び出していた今回の福岡だ。

またスイスのダンスカンパニーで活躍する悠さん。
彼女とは一昨年マルセイユでのワークショップに会ったきりだったが、今回は帰国と重なり受講してくれた。
悠さんは、ヨーロッパで私のワークを受けたいというダンサーが沢山いるから、自分で企画しようと思っていたそうだ。
丁度、マーツがスイスでのワークショップを企画しようとしていた事を話すと、二人でやるようにマーツに連絡を取るとの事だ。
人はそれぞれだ。
何が何やら分からない人もいれば、一生懸命学ぼうとしてくれる人もいる。
今回のワークショップで、福岡で一人でも仲間が増えれば嬉しい。

見つめ合い、感じ合う
両手を同時に動かすと力が出る
脇の下を伸ばすのが大事 胸骨を後ろに大きく
全身をストレッチするとからだはつながる 相手と一緒に動く

 

2013福岡ワークショップ

今回の福岡は、違った意味で非常に面白かった。
停年退職された方と、 13 歳の女の子が一緒にワークをやったりしたからだ。
この違いというのは、どうしても「理解」しようとするクセから抜け出せない退職された方と、直観でパッとやってしまう女の子、という違いだ。
私たちは、どうしても理屈から抜け出せない。特に男性は、理屈一番で教育されているし、価値観も持っている。
もちろん、理屈は必要だ。
だが、何時必要なのか、という問題だ。
やる前の理屈は、全体を曇らせるし「自分なりに」というレベルになる。
その事が出来てから、であれば、「出来ている」から、自分の理屈のレベルを上げることが出来る。
そんな違いがあるのだ。
13 歳という年齢と、稀に見る素直な感性が、ややこしいことを抜きにして、指示したワークをクリアしていく。
もちろん、出来ないものも沢山ある。
特に人と真剣に向き合う、というのは、残念ながらこの年齢ではリアリティが無いので出来ない。
ただ、 13 歳なりには真剣ではある。
ワークを終えると、お母さんが迎えに来ており、お母さんが「先生、うちの娘がこんなに楽しんでいるのを、見た事がありません。毎週やっていただけませんか?」と、何とも嬉しいリクエストを受けた。

テンションが上がらないのも時には良い。
テンションが上がらない分、一つのことを徹底的に訓練できる。
今回は、私のそんな感じで福岡の幕が開いた。
見慣れた顔が殆どで、新しい人は数人だ。
長崎や熊本からも、常連さんが来てくれている。
そう言えば沖縄を除いて、殆どのワークショップは地元の人よりも、それ以外の地域からの人が多いのは何でやろ。
熊本から元早稲田小劇場の役者さんも。
胸骨操作から肘への繋ぎ。
肝心の腕を動かさないを、初めてやってみた。
それも常連の人がいるお蔭だ。
2 コマ目から、大学の心理学の先生などが参加してくれていた。
昨年来てくれていた小学校の校長先生も、全身汗だらけになりながら、動かない身体に一生懸命取り組んでいた。
「この年になって、知らない事に触れるのはありがたい」と一生懸命だ。
さすがに一昨日寝ないで博多まで来たかいがあって、風呂から上がったら、何時寝たのか記憶に無いくらい熟睡した。

:::::::::::

とにかく、無条件に笑い転げた。
こんなことにはなると思わなかった!最高。
表現塾での一コマだ。
正面向かい合いのエネルギーが低すぎるので、それをアップする為に何時ものメニューである、ジャンケン合戦から「ナマムギ合戦」へ、そして新種のもの。
これは沖縄でも、武禅でも取り上げよう。
という具合に、状況は創造力の母のようなものだ。
そこから考えると、状況が良いのか悪いのかは、創造力があるのか無いのかが決定するのであって、状況が自分の何か影響しているのではないのだ。
みるみる皆の顔が明るく華が咲いたようになった。
生き生きした人達がいる空間は、こちらの身体まで軽くする。
しかし何時も感じるように「人に何かを伝えたい」その気持ちが希薄だ。
それは福岡のワークショップが、という事ではなく、大方の日本人がそうなのだろうと感じる。
それは「安全」にドップリと浸っているところからくる、生命力の低下ということもある。
教育も含め、与えてくれるのを待つ態勢、という刷り込みが徹底されている。
というような原因があるだろう。
しかし、ハンディキャップを持つ人の伝えたい、という気持ちは正常だ。
つまり、強い、ということだ。
そこにも原因があるだろう。
いずれにしても、必死で伝えなければ伝わらない、という体験が無い、もしくは少ないのだ。
裏を返せば、それほど深い人間関係を持っていない、ということでもある。

どうしても伝えたい、ようなものを持つ人生を歩いていないのだろう。
もちろん、伝える事が仕事の学校の教師も同様だ。
だから学校が面白くない、という言葉に象徴されるような事態になっているのだ。
それこそ、悪い意味での「適当に」という関係ばかりなのだろう。
もちろん、当人としては必死なのかもしれないが。
それであるなら、その程度の必死では、子供にも伝わらない。
社会は、伝わる、のが前提としてあるのではなく、伝わらない、が前提だと分かる必要がある。
必死に、というエネルギーは、完全に伝播する。
どんなパフォーマンスよりも、感情を揺さぶる。
何よりも自分の人生なのだから、という意識が必要だ。胸骨と肘、縦系の連動、ねじれと、身体塾は定番メニューをした。
今日も、常連の一人が新しく受講してくれえいた。
明日からも常連さんが来る。
この週は、色々なイベントが重なって、皆忙しそうだ。

::::::::::::::::

昨日よりは、ボルテージが下がった。
あまり面白くはならなかった。
昨日のコピー的雰囲気になったからと、その慣れが真剣味を欠けさせたからだ。
日本人の生真面目さの方向が、ちょっとずれるとそうなる。
ほんの些細なところなのだが。

ねじれと胸骨の上げ下ろし。
肘の知覚。
柔道の先生や空手の先生方は、目を白黒させて喜んでくれた。
新しい動きをやろうとする時、一様に最初から正解を目指す。
ずっと、この事は書いていることだが、不思議でならない。
というよりも、そういったことの教則本が無いということだろうし、学校教育の中に含まれていないということだ。
だから、果てしなく遠回りをする。
当然、勘の良い人だけが、あるいは、身体能力の高い人だけが、ものにして終わる。
スポーツの世界も同様だ。
正論を各選手に当てはめるだけだから、壊れる人も出て来る。
20 年ほど前、カヌーのスラロームの全日本クラスで、世界を狙う選手を指導した事が有る。
彼は、様々なトレーニングは、結局のところ全ては天才に委ねられていると言っていた。
彼自身もマンツーマンでコーチが付いたが、そのおかげで成績は下降の一途を辿った。
だから、私と巡り合ったのだが。
結果、記録は順調に伸びた。
非公式だが、静水で日本記録までだした。
その意味では、スポーツ界は一部を除いて、科学を使った迷信的選手育成法がいまだにまかり通っているのだ。
まず、全体の形を覚える、次にそれを徹底的に身体に染み込ませる、その後、正解に向けて全体の微調整に入れば良いのだが、そんな単純な構造が誰からも示されないとは、どういうことだ?
今日で、福岡のワークショップは終わりだ。
夜は打ち上げをする。

:::::::::::::::::

最終電車間際で打ち上げ終了。
今回は、若いダンサー達より、おっちゃん達が熱いワークショップになった。
一昨日「よろしくお願いします」と開始の挨拶をした時、「あれっ」と目にとまった青年がいた。
12 年前、大阪の中崎町で道場を開いていた頃の生徒だった。
当時は、その青年も 20 代前半でギラギラだった。
道場にはそんな若い連中が、丁度重なっており、かなりハードな教室だった。
自分達で過激な自主練もやっていた。
「先生、今でも覚えていますよ。『もしも、と、でもねを言う人間になるな』と言われたのを」嬉しい話だ。
私の言った事を、社会生活で応用してくれていたのだ。

福岡のワークショップに来ているおっちゃん達が、その青年に質問を浴びせていた。
10 年前の大阪教室の様子を、事細かく知りたかったようだ。
「道場で何かが出来る事等ありませんよ、宿題を貰うところですよ・身体を動かす事等楽なもので、脳みそがグチャグチャになる方がよほどしんどいです」
名言だ。
この青年は、 17 歳の時、すでに大手空手団体のチャンピオンになっており、その後様々な道場を破って歩いたヤンチャだった。

もう一つ、 13 才の子供も参加していた。
利発な子で、言葉も鮮明に使う。
中々面白い。
子供ならではだ。
怖さを知り、その利発が曇らずに、活性化すれば良いのだが。

そんなこんなで、あっという間に 4 日間のワークは終わった。
今日は、 2 コマしかなかったから、かなり密度が濃くなった。
胸骨の復習から、腕をきちんと輪っかにし、肩から力が抜けないようにして、そのまま体重を下ろす。
そうすると、その腕を指支える相手は倒れる、楽しめるワークを織り交ぜてみた。
さすがに「表現塾」は煮詰まっていたが。

今年も手応えのある4日間だった。

東京のワークショップには、福岡に参加している、福岡や熊本の人達も参加する。
福岡でワークショップを開いて 5 年。
私のワークを重要だと思ってくれる人が絞られて来ている。
主催者のスゥエインさんは、「日野先生のワークは、自分でやり込んだ人しかその重要性は分からないかもしれませんね」という。
日本のダンス界は、私がフォーサイスカンパニーや、クルベルバレエ団他に教えたということが、どれ程価値のある事か分かっていないとも。
東京ワークショップは、通常のワークショップとパフォーマーだけのブートキャンプ 2 日ぶっ通しの「表現塾」を行う。
さてどうなるか。

 
 
武道教室   身体操作   人間関係   

 

2012福岡ワークショップ

昨年の内に、この福岡のワークショップは決まってしまっていた。
参加者からの要望が強かったからだ。
バレンシアから 9 日に帰り、その足で大阪。
一瞬道場へ帰り、 13 日早朝福岡へ。
時差ボケと言っている余裕は無い。
留守中は、北九州方面や和歌山も豪雨の影響で、相当被害が出ていた。
新幹線は下関辺りで、雨の影響で止まってしまった。
そんなアクシデントがあったが、ワークショップには無事間に合った。
今年は博多の名物、いや日本国中から観光客が集まる「博多山笠」と、完全にバッティングしてしまった。
別段、山笠とワークショップは何の関係も無いが、福岡以外の人が泊まるホテルが確保出来ないという事態が起こっていたのだ。
その熱い博多の街に、身体に汗をかくのではなく、頭に汗をかくワークショップだ。
今回は、例年よりも初めて参加してくれた人が多かった。
看護士さんが初回からずっと参加してくれていて、そのお勤めの関係で医療関係の人が参加してくれたのだ。
また、会場近くで開業されている神経関係の先生も参加してくれていた。
こういった専門の人が参加してくれるのは嬉しい。
というのは、私の発見していっている「身体」は、専門家からみればどうなのかが、分かるからだ。
つまり、私自身を検証することが出来るということだ。
また、オランダやウイーン、スイス、ポーランド等外国で活躍するダンサー達が、夏休みを利用して参加してくれていた。
お互いが全く面識が無いので、その意味でも良かったのではないかと思う。
中学の柔道の先生もいた。
さすが柔道の先生だけあって、体格も私よりも一回りも大きいし、筋骨がしっかりしていた。
柔道での技は、結果的に腕力勝負になるから、どうも違うのではないか、という疑問があり、このワークショップに参加してくれたのだ。
自分にとって有利な勝負展開をする、ということなのだが、それは結局、相手がどう出るのかということを無視した、強引な展開にしかならない。
それをお互いがやるのだから、現在のような試合にしかならない。
自分にとって有利ということを考えずに、相手にやりやすいように、ということが、結局自分にとって有利になる、という武道の考え方を覚えて貰った。
そんなことを中学生という年代に知っておくことが、後々物事を考える上で貴重なヒントとなる。

ワークショップは、参加する人によって雰囲気が変わる。
賑やかになる時もあれば、集中度が増す場合もある。
もちろん、どうも散漫だな、という時もある。
今回は、集中度が高いワークになったようだ。
それに、全体のまとまりもすこぶる良かった。
当然、こちらとしても、ワークがやりやすいし、色々とその場で閃きがあり、新しいワークが誕生する。
表現塾は短時間だが相当密度濃く行った。
外国で活躍するダンサー達が多かったので、その人達に「表現とは」を知って欲しかったからだ。
この時ばかりは、パフォーマーと一般の人とに分かれて貰って行った。
一般の方は、笑い声が絶えなかったのだが、パフォーマーの方は完全に凍り付いていた。
きっと皆本当の意味での「表現」ということでのワークは初めてだったからだ。
「自分の思っていることと、やろうとしていること、やったこと、つまり、他人から見えている自分の姿には、埋めきれない程深い溝がある。ということを知って欲しい」

●9 月 15.16.17.18.19 日東京ワークショップ

例年通り、福岡でのワークショップが幕を開けた。
早速、終了後の食事会は、深夜 1 時過ぎまで続いた。
今回は、半数が初めての人だ。
おかげで改めて一からの説明の整理がついた。
また今回は、臨床心理士を始め、治療関係の人達が多かった。
もちろん、ここ福岡でのワークショップを初めて開催してから、ずっと参加してくれている人達もいる。
福岡のワークショップでしか会わない人同士が、懐かしさを分かち合っていた。
この姿は、何時見ても微笑ましいし、お互いの成長ぶりを称えあったり、反省したりで、ほんとに良い関係だ。
私のワークは身体のワークというものの、身体に指示を出す思考や感覚のワークだ。
だから、人は混乱する。
何しろ何時も「動いたら駄目」と言うのだから。
しかし、それもずっと参加してくれている人は理解してくれている。
今回は、珍しく質問が多かった。
身体の事に限らず、色々な質問があった。
だから、最終終了が 9 時 30 分ほどになった。
その意味では、全員リラックス出来ているということである。
明日は二日目。
また、新しい顔が増えるのだろうか。

●9 月 15.16.17.18.19 日東京ワークショップ

明日は山笠本番。
ワークショップ参加者のうち、関西方面から参加している人が全員見にいくそうだ。
「朝、どこそこで待ち合わせ」と確認しあっていた。
今日のワークは、正面向かい合いが中心になったから、当然煮詰まってくることになる。
それでも、諦めずに最後までやっていた。
これは、昨年とは大いに違うところだ。
それもあって、今日の正面向かい合いでは 3 人の女性が、見事に人と向かい合えた。
その事に気付き感動の涙々だった。
理屈や理論を越えて、その人達はほんとに人と関われたのだ。
当てモノ的正面向かい合いから、本物の向かい合いに昇華したのだ。
もちろん、そのことはその当事者しか感じることは出来ない。
その辺りに現れる差を、人はどう感じているのか。
そこの感じ方も差として現れる。
今回は、ポーランドやアムステルダム、そしてスイスで活躍するダンサーも参加してくれていた。
その内の一人が、向かい合えたのだ。
ということは、その事を舞台で展開していく日も、そう遠くないということだ。
頑張れ!!悠ちゃん!!

●9 月 15.16.17.18.19 日東京ワークショップ

残すところ明日 1 日。
今日の最後の表現塾は、全員煮詰まった。
正面向かい合いと、声を届けるだった。
もちろん、仕方が無い。
初めてやる人もいるし、常に稽古をしているのではないからだ。
そして、何よりも日頃そんなことを、感じたことも意識したこともないだろうからだ。
臨床心理の先生や、神経内科の先生も参加してくれていて、専門用語を並べるのとは違い、実際に私が手本を見せることにノックダウンされた、と言ってくれていた。
何とも謙虚な先生方だった。
むろん、最終日の明日も参加してくれる。
アムステルダムから参加してくれている健造君は、 2006 年のスパイラルホールでのワークショップに参加してくれていたという。
その時のオーディションにも落ち、「何でや」とやけ酒を飲んでいた。
そんな昔話に華が咲いた。
ポーランドから参加してくれているダンサーは、その前の 2005 年のワークショップに参加していて、やはりオーディションに落ちた。
その裏話で大笑いをした。
しかし、当時彼らは相当落ち込んだそうだ。
明日 1 日。
彼らに何かお土産を持たせて帰らせて上げたい。
次は、沖縄だ。

●9 月 15.16.17.18.19 日東京ワークショップ

朝食をとるためにエレベーターに乗った。
若いカップルも含め、小さなエレベーターは満員だった。
ある階に止まり、また一人乗ってきた。
乗ってきた男性は、そのカップルの女性の前に後ろ向きで立った。
女性は男性の背中側にいるが、1pも後ろに下がろうとしない。
後ろには 30 p程の隙間があった。
この女性は、違和感を全く感じている様子も無かった。
危機感とまでは行かなくても、普通は見ず知らずの他人に対して違和感、嫌悪感を感じる筈だ。
それとも、満員慣れをして、そういった異物に対する免疫反応が退化してしまっているのか。
そのように他人に対して反応しない、出来ない人が増えてきている。
まるで死人だ。
でも、きっとその事を言葉を用いて聞くと、的確な反論や弁解の言葉が返ってくるのだと思う。
いくら言葉では反応出来ても、肝心の身体の生理反応が退化していっているのだから、全く意味が無い。
実際には使えないのだから。

昨日のワークショップ終了間際、人の話を聞く、聞き出す、という実際を皆に見せた。
つまり、関係と言う事の実際だ。
人と人との関係が見えた時、見た人は幸せな気分になる。
それは、動物同士のじゃれあいや、親に寄り添う子供を見ているのと同じ状態になるということだ。
臨床心理の先生に、その状態のことを「響く」だと説明した。
臨床心理には、患者との面接のおり、聞く、聞きに行く、という言葉があるという。
「それではあきまえへんで、人は基から共鳴体で、意思が相手に向かい、相手がそれを完全に受け取れると「響く」という現象が起きる、それを関係と呼ぶのですよ」と。
その実際を体験した先生は、勉強を一からやり直しだと言っていた。
人と人との関係は理屈や理論では語れない。
むしろ、それらを取り払った時に、関係が見えてくるし成立するものなのだ。
今日で最後のワークショップで、そんな一端を体験してくれたら嬉しい。

●9 月 15.16.17.18.19 日東京ワークショップ

チェックアウトの時間を忘れて寝てしまった。
昨夜は午前 2 時くらいまで、皆と騒いでいたからだ。
しかし、さすがに 7 時からぶっ通しで飲むのはきつい。
スイスで踊る悠ちゃんに「酒豪伝説を見付けたら買っておいて」と事前に頼んでいた。
臨床心理の先生も神経科の先生も、質問を聞いている限りでは何かを掴んでくれたようだ。
驚いたことに、臨床心理の先生は、私と同い年で、大阪の学校も近くだったのにはお互いに驚いた。
中学の柔道の先生にも、応用のきく身体運動のポイントや柔道の考え方を伝え、生徒たちに教えて上げて欲しいと頼んだ。
今回も、福岡でのワークショップは、楽しいものになり、やってよかった。
最終日が一番参加者が多かった。
その分、初参加の人も多いということだから、進行が少し緩やかになった。
ワークショップ終了後早速、来年の日程も決定した。
ここ福岡のワークショップも、みんなの集中力がどんどん高まっているので、非常に静かで穏やかな空間に育って行っている。
それは、それぞれが何を稽古しているのかを、認識しているからだ。
「表現塾」の途中で、一般の方と、パフォーマンスをしている人達とを分け、実質的に表現者の為の表現塾をした。
少しでも、自分は観客からどう見えているのかを知ってほしかったからだ。
そして何よりも、観客として見る、という素人の視線を忘れていることを知って欲しかった。
何故なら、自分達が舞台で行うのは、素人の人を観客として行うからだ。
そこを忘れてしまったり、勘違いしているので、改めてそこを認識する為に行った。
今日は大阪、明日は熊野。土曜日には東京、そして沖縄だ。

 

太田垣悠yu otagaki
佐幸加奈子Kanako Sako
楠田健造kenzo kusuda

 

2011 福岡ワークショップ

7-15  福岡

今日から、いや朝から福岡でのワークショップだ。
朝一番の特急で行く。
時差ぼけで眠れないから、丁度良いかもしれない。

1 年ぶりの福岡だが、先月神戸の公演まで来てくれた人達が沢山いた。
「分からんけど凄かった」
と感想を言ってくれていた。
そう分かる必要などどこにもない。
ほんとにどこにもない。
というよりも、何を分かりたいのか、それが不思議だ。
何を分かり、何を満たすのか。舞台は「分かる」ではない。
それはどんな舞台もそうだ。
もし舞台に注釈がいるのなら、即刻舞台を降りるべきだ。
全ては見え、聞こえている、感じられるものだ。
もしも、見えないのなら、見る力を、聞こえないのなら、聞く力を、感じられないのなら、感じる力を養うだけで良い。
しかし、私もよく「何をしているのか分からない」という言葉を使う。
それは、独り善がりだから分からない、という意味だ。
こちらに向かってきてくれていないものは、分かりようがない。
そんな表現塾もある福岡のワークショップだ。

7-18

胸骨と肘、腕だけのねじれ、手の指先と足の指先を注意点にして、全身が伸びる。

正面向かい合い。
定番のメニューだ。
みんな雲をつかむみたいな、正面向かい合いでのコンタクト。

そうそう、何とマーツの友達がいた。
現在スイスで活躍しているダンサーだ。
スイスに帰ったら、マーツと練習すれば良いよ、と言っておいた。

しかし、連日の猛暑にうだる。
水分の補給を怠らないように注意しなければいけない。
今朝、瞬間湯沸かし器になった。
某ドトールコーヒーの店員。
「これとアイスコーヒー」
「セットとアイスコーヒーですね」
「違う違う、セットのホットをアイスコーヒーに変えるだけや」
「セットとアイスコーヒーですね」
「ちゃうやんけ、セットに付いている飲み物をアイスコーヒーにして、と言うてるんや」
「アイスコーヒーですね」
「何言うてんねん、飲み物をアイスコーヒーにせえ、言うてんねんやんけ」
「…」
思わず、店長呼べと言うところだった。
ここでは大阪弁は通じないのか、と聞くところだった。
朝から快調だ。

明日はワークショップ最終日だ。
やり残しはないだろうか。

7-19

ワークショップも打ち上げも無事終了。
天気にも恵まれたワークショップだった。
しかし、ワークがハードだったのか飛ばし過ぎたのか、途中 10 分の休憩でも、 1 時間の休憩でもスタジオでゴロっとしている人が沢山いた。
最後のワークと言うことで、質問も沢山あり 30 分ほど時間がずれた。
福岡や九州各地から参加していた人達が、打ち上げの席でメール交換。
何でも自主連を定期的に持とうと言うことで、皆の意見が合いその運びになったそうだ。
この自主連のリーダーは、胸骨トレ 1 日 1000 回のおっちゃんだ。
そのおっちゃんの進化ぶりに、これはいけません、と危機感を持ったダンススタジオの先生も加わり、始まる事になった。
これで自主連クラブは、東京と福岡の二つになった。
嬉しい話だ。
ワークショップに参加する人の意向もあり、来年の福岡でのワークショップスケジュールが決まってしまった。
今年と同じ 7 月 13 (金)− 16 (月)日だ。早速スケジュールに書き込む人達。
外国で活躍するダンサーも来年も夏休みで帰国するので、ということで参加を決めてくれていた。

 
 

 

2010-7/16-19福岡ワークショップ

2 年目の福岡は、痛い日差しの真夏だった。
昨日まで、集中豪雨や局地的豪雨で、日本列島に多くの被害を出していた事を忘れさせた。
新幹線が博多駅に着くとスゥエインさんが迎えに来てくれていた。
ホテルにチェックインを済ませ、昨年と同じ会場の三ノ上バレエスタジオに向かった。
会場には、見知った顔、顔、顔。
今回のワークショップには、遠くは鹿児島や岡山、広島、熊本、長崎からも参加してくれていた。
特に、バレエをはじめダンスの先生方が、 10 人以上参加してくれていたのは本当に嬉しい。
胸骨操作をはじめ、稽古の方法、表現の為の稽古法等々を、それぞれのスタジオやジャンルで活かせて貰えるのは、多くのダンサーを目指す人たちの質を上げることになるからだ。
昨年は、はじめての福岡というのもあって、参加者は途方にくれている感じがあったが、今回は、休憩時間も惜しみ非常に熱心に、そして真剣に取り組んでくれていたことが印象的だった。
車椅子の方も 2 人に増え、武道の人や邦楽、鍼灸師、介助師他、前回にも増してバラエティに富んだ顔ぶれになっていた。
見知らぬ人と人が集まり、一つのことに取り組む。もちろん、個々の目的は異なるが、喜々として取り組む姿は美しい。
また、ジャンルが違うことが、自ずと見識も異なる。
それが、相乗効果を生み、取り組みが深くなる。
バレエ等ダンスの先生方の参加から、平均年齢が引き上げられていたのも、集中度が深くなった原因だろう。

私のワークは「動けば良い」というものではない。
もちろん、指示したようには一朝一夕では、いくらダンスの先生方でも動けない。
それは、武道独特の死生観が根底にあり、そこから紡ぎ出したものだからだ。
単純には、動きそのものに力が出なければならないし、相手の力と衝突してはいけないし、相手にこちらの動きを気付かれては駄目、という基本的条件があるからだ。
だから、全ての動きは体幹からか、指先のように身体の末端から動き出すのだ。
だから、若い人達には、身体の奥を見る目が育っていないので動けない。
そういった若い人達が大半を占めたときは、諦めて、あるいは、出来たと思って、ボーッとしている人を見かけるのだが、今回はそれが無かった。
だから、かなり充実した時間になったのだろう。

例によって、1日目は胸骨操作の説明と、その意味。解剖学的運動解釈と、生きた人間の運動との違い。
そして、表現ということの難しさ。
もちろん、受講者が全員プロの表現者になろうというのではない。
しかし、そういったことを知っているのか、知らないのかで人生を生きる技術に差が出る。
というよりも、自分自身を誤解しないですむ。
それは、相手を誤解しないですむというところに繋がる。

昨年も参加してくれていたクラシックバレエの女性が
「昨年西日本のバレエのコンクールで優勝しました。感性という言葉が響きそれが良かったのだと思います」
と、嬉しい報告が聞けた。
「ほんなら、次は日本一になれよ」

日野理論でバレエを習えるのではない。
日野理論はあくまでも身体理論だ。
だから、バレエを知らない人が、出来るようになるのではない。
したがって、どこで使うのか、が明確では無い人には、無用の長物なのだ。

「アイソレーション(ジャズダンス等のテクニック)かな?」
あるダンスの先生は、1日目のワークを終えて、家に帰ってから相当悩んだという。
翌 朝、私の胸骨操作を見ながら、私の腹部と背中を触り、自分の動かし方は違うと発見した。
さすがは、ジャズダンスやバレエを教えているだけの事はある。
その試し方、つまり、仮説のたて方、失敗の仕方は、若いダンサー達の道標になると思ったので、皆に発表して貰った。
発表が終わると、自然に拍手が湧いた。
あちこちから、「さすが○○先生だ」という呟きが起こっていた。

取り組む為には、考えなければならない。
しかし、その考えるというのは、自分勝手にではない。
自分の使える知識でなければならないのだ。
つまり、考える為に当てはめられる基準を持っていなければ駄目なのだ。
それがバレエであったり、ジャズであったり、合気道等々、何でも良い。
それがあるから、違いが分かる、差異が分かるのだ。
そして、その当てはめるものの質が高ければ高いほど、その違いがより明確に理解できるということになるのだ。
だから、自分の何を変えなければならないのか、が分かり、前に進む事が出来る、成長させて行く事が出来るということになるのだ。

そんな楽しい雰囲気も、ある程度、年を重ねた人が参加してくれているおかげだ。
「よく考えたら、1日中身体中をねじっていただけですよね」バレエの先生が、笑いながら言っていた。

「どこがどう動いているのか、その どこ というのは自分で決めて下さいね」
肩を動かす、肘を動かす、膝を動かす等々、身体を動かすポイントが幾つか有る。
しかし、大方はそのポイント自身漠然としたものだ。
それは、頭の中にある言葉としての身体のパーツを、実際の身体にきちんと当てはめるという作業をしていないからだ。
もちろん、それは間違ってはいない。
それは、その程度の身体操作で良いようなこと、非常に精密な身体操作が要求されていないジャンルだからだ。
身体操作の質を上げていくことの側面の一つは、この漠然とした身体部位の名称を、どれだけ精密に身体に当てはめて行くかにかかっている。
だから、「どこを」を自分が決める必要があるのだ。
そして、その「どこ」というポイント点が、ねじれによって「どこ」まで動いたのか、を身体感覚を総動員して知るのだ。
そのことによって、点の運動や運動線を知ることができ、それを辿ることが、「動き」として見えるのだ。
したがって、決めた点は小さければ小さい程良い。
それは、精密な動きに繋がるからである。

悩む楽しさも、表現塾となればいっぺんに吹っ飛ぶ。
表現塾の基本になるワークは、正面向い合いだ。
他人と向き合う、共演者と向き合う、観客と向き合う、そして自分自身と向き合うのだ。
これも、2人組みでの稽古の間は、和気あいあいの内に進む。
しかし、しかし、本当に向い会えているのか、と客観的検証、つまり、第三者がその二人を見て、向い会えているのか否かの判定をする。
その途端、皆無口になる。
経験者が判定を誘導しつつ緊張の時間が流れる。

「目で見て判定してはいけませんよ」この言葉には、初めての人は戸惑う。
目で判定するのではなく、ピッタリ相互に向かい合えた時、何かしら胸部の辺りで感じるものがある。
それを感じ取って欲しいからだ。
これが中々難しい。やはり目で判定してしまう。
そうすると、利目によって、若干のズレが起こるからだ。
そして何よりも、向かい合えた時の「何か」を体感することが出来ないのだ。
それは、利目による判定は頭を使っているから、感覚に対してフィルターをかけているようなものになっているからだ。
つまり、頭を使っているときは、感覚系には注意が向かないのだ。

10 人位のグループに分かれ、そのグループの前で二人が向かい合って立つ。
「向かい合っている」と思い込んでいる目の人が多い。
それは、ある意味仕方が無いのだ。
というのは、改めて、人と向かい合うということをするのだから、頭に「向い会わなければ」という意識が発生する。
となると、「向い会わなければ」と「思っている」という状態になる。
つまり、向かい合えていないのだ。
そして、体感出来ることはないのだ。
それに気付くまで、そして、そこから脱出するまでには、相当の時間がかかる。
自分の頭との葛藤だ。

そんな中一人、思い込みの典型的な男性がいた。
「皆、彼の目を見て」
そうすると、口々に
「自分の世界に入っているだけ」「気持ち悪いです」等々と感想が飛ぶ。
一人の先生が「あなた、何を気取っているのか」と、彼の有り様の核心に触れた。
その男性は、途端にキレた。
当然だ。気取っている、つまり、自意識が幼いということであり、それは他人と向き合えないのだから、対抗することしか知らない。
当然キレる。
巷の事件の一因と同じだ。
しばらく様子を見ていたが、どうにも収拾がつかなくなっていく。
幼い自意識は、場の状況を分らない。
つまり、他人から見た自分、ということ、そして、それを指摘されること、そのこと自体が稽古だということ。
そのことを何一つ理解できないのだ。
つまり、自分の頭の中にある世界だけが、その幼い時意識の人の全てだからだ。
ここを一歩抜け出すのは、難しいとも言えるし、容易だとも言える。
「他人からの目」に対して、自分の事としてショックを受ければ良いだけなのだ。

そんな怖い時間も、日頃誰からも指摘されない立場にいる先生方にとっては、新鮮な時間だ。「ありがたい事です。誰も言ってくれないですから」と、一応に言ってくれる。

今回は、精神病院の介助をしている男性が参加していた。色々な介助の技術の講習会に出ているが、どれもこれも机上の空論で、実際に使えるものが無いという。その理由は簡単だ。人を知らない人が技術講習を開いているからだ。つまり、物理的な観点だけで、介助をしようとしているからだ。以前も、岡山で同じように精神病院での介助を質問された。そこで指導したことを、今回も教えて上げた。「どうして、そんなに簡単に人は動くのですか?」と不思議そうに聞く。「それは人だからですよ、つまり、物ではないから、意識に働きかければ動くのですよ」「これは簡単だから、看護師の人達に教えても良いですか」「もちろん、いくらでも使って下さい。それで、患者さんも介護や介助をする人も楽になるし、違和感が発生しないのですからね」

4日間のワークを終え、打ち上げへ。「博多は何が美味しいのかな」地元の人に聞いてみる。お酒は何が美味しい?空手の先生が二人おり、その個別の質問に、打ち上げ会場は道場に早変わりだ。「先生、特別指導料金を取らないかんよ」誰かが叫び大爆笑。深夜 12 時、「2次会は、誰が行くんや」結局、深夜3時、来年の再会を約束して解散した。

2009年福岡ワークショップ

今年( 2009 )春、大阪での WS に福岡から参加してくれた人がいた。
NPO 法人 Co.D.Ex のスゥエインさんだった。
「福岡で WS を開きたい」というお申し出を受けた。
本土では西は岡山までしか行ったことがなかったので快諾した。
その話はシゲヤンこと、北村成美さんが福岡や別府での WS や、「踊りに行くぜ!」他の公演の時、回りの人に私を九州に呼ぼう、と声をかけていてくれたからだ。
岡山や沖縄での WS は、一般の人が多く参加しているので、ダンサー向けというよりは、「あなたの知らない身体」的な WS をしている。
福岡でもきっと、そんな楽しいワークになるだろうと、春先からワクワクしていた。

■ 2009/11/20 (金) 福岡 WS

11 月 20 日午後 1 時 30 分のぞみは博多駅に着いた。スゥエインさんはじめ、スタッフや関係者の方たちが出迎えてくれた。
さて、どうなることやら。
17 日午後 3 時 30 分フランスから成田に着き大阪へ乗り継ぎ、その足で大阪の教室へ。
つまり、時差ぼけのままで博多へ乗り込んだということだ。

午後 3 時会場であるスタジオに到着。
「お疲れ様です!」
元気な声で北村成美さんが待機してくれていた。
会場に入ると、受講者は期待と不安の入り混じった表情をしていた。
一通り胸骨操作と身体運動との関係を説明し、早速胸骨操作へと入った。
どこの国、会場でも同じで、まず運動から入る。
そこから胸骨の一点に感覚を絞り込む。
しかし、これも例外なく誰もその一点は感覚できない。
「生徒の大学生が、 1 日 10.000 回やって約 3 年で動くようになりました」
「……」
どこでも、誰もが直ぐに出来るようになると思っている。そんな即席なことは習う必用も学ぶ必要もない。
そんな定型の話を沢山する。
何でも私の web ページを全部プリントアウトし、仲間で毎週集まり練習をしてくれているグループがあるという。
別府ダンサーズ。
こんな嬉しいことはない。
つまり、予備知識がたっぷりとあるということだから、ワークもやりやすい。
今時に熱い人達がいることにホッとした。
同時に、現在のダンスシーンに何かしらの問題意識、あるいは疑問があるということだ。
そのことが大切だ。
「何でやねん?」
これは誰もが持たなければならない言葉だ。
その数人が私のところに挨拶に来てくれた。

しかし、主催者のスゥエインさんの、面倒見がよいのには驚く。気遣いが行き届いているからだ。
ワークは、例によって胸骨からねじれだ。出来そうで出来ないワークに、ワイワイガヤガヤ結構楽しんでくれていた。短い期間だが、今日は肩慣らしというところだ。そして今日は、午後からのスタートだったので、身体塾と即興塾だけだった。明日は、表現塾も入る。「ナマムギ」がどこまでヒートするのか、それが楽しみだ。

■ 2009/11/21(土)

表現塾は定型で正面向かい合いからだ。
これは何時も思うことだが、その説明が難しい。
同時にやること自身も難しい。
形式的には、 2 人 1 組で行う。
1 人がその場に立ち、もう一人が立っている人にとっての正面を取ることだ。
そこに視覚での判断を入れてはいけないのだ。
つまり、ここで言う正面は、見た目の正面ではなく、自分自身の「意思が相手と向かい合う」ということだ。
となると、立っている側も意思として「相手と向かい合う」がなければ成立しない。
しかし、「意思」ということと「思う」ということの違いを、具体的に提示することが出来ない。
つまり、向かい合いたいという意思があるのか、向かい合いたいと思っている、という芝居をするのか、だ。
どちらも頭の中の作業、身体内部での作業だからだ。
そこの混乱をどうするか。
これがこの正面向かい合いを 15 年以上続けている中での、最大の問題点である。
何時も、その場に適した説明をしているのだが、相変わらず難しい。
もう一つ難しいのは、お互いに働きかけ合いがない、という点だ。
そこで「ジャンケンゲーム」となる。
ジャンケンはお互いの働きかけ合いの典型だ。
その後の正面向かい合いは、誰でも分かりやすいという。
つまり、我々現代人は、とことん省エネで生きているということだ。
それでは、人の関係や人同士の繋がりなど起こりえる筈も無い。
ましてや、ダンスや表現と言うところで、それを表現することなど有り得ない。

「じゃあ、即興塾でやった二人組みの手の平合わせをしよう、二人でやっているように見えるのか、一人ずつバラバラでそれぞれにやっているのか、その見極めを判定するように」
これは、初めての人にとっては難しい。
現実に目の前で 2 人の人が、同じ動きをしているのだ。それを本当に 2 人の共同作業に「見える」のか、それとも「自分勝手」が 2 人なのか、の判定だからだ。
これは、日常どれほど人を観察しているのか、が問題になるのだ。
だから、とんちんかんな判定が続出する。
しかしそれも勉強なのだ。
判定する人は、責任を持って判定する。
つまり、自分の意思を明確にしなければならない、ということだ。

■ 2009/11/22 ( 月 ) 福岡 WS2

4 日間のワークは短い。
明日はもう最終日だ。クラシックバレエやモダン他、色々な先生方が受講してくれている。
中国地方の方からも、 1 日だけわざわざ受講してくれた先生もおられた。
受講された先生方には、きっと受難の日になっただろう。
何しろ、駄目出しを自分の生徒くらいの年齢の若者にされるのだから。
東京から参加されている、あるベテランの役者さんは、
「駄目出しされた最初は辛かった」とポツリ。
当たり前だ。
キャリアがあり、自分の拘りもある。
それを右も左も分らない若者に否定されるのだから。
しかし、その駄目出しは、どんな駄目出しでも、自分の役に立つと考えられる力があるからリピーターになってくれているのだ。
右も左も分からない若い人には、ここのところは理解できないだろう。
そこには、キャリアもなければ拘りもなく、自分の趣向しか持ち得ないのだから。
そして「正誤」ゲーム感覚しかないのだから。
もしかしたら、終生理解できないかもしれない。
それは、今後どんな人生を歩いていくか、にかかっている。
ワークはピッチを上げて進んだ。
だから、とんちんかんな理解もあるだろう。
しかし、それは問題ではない。
所詮理解など出来ないことだからだ。
逆に「理解は絶対にするなよ」と釘をさしておいた。
明日の最終日は、どれくらいピッチを上げられるか。
どれくらい食いついてくれるか楽しみだ。

■ 2009/11/23 ( 火 ) さようなら博多

あっという間に打ち上げ。
博多駅の下にある居酒屋で乾杯!

最後のコマは表現塾。
「終り!」
「えー!」
「では、一寸延長しよう、今までやった中で何かやりたいレッスンがありますか」
「正面向かい合いです」
「じゃあ、円陣を組んで下さい」
1 時間足らずの延長。
それでもまだまだと熱気が溢れる。
キリがないので、後は次回の楽しみにとワークは終了した。
地方でのワークは岡山についで 2 箇所目になる。
しかし、地方という言葉で一括りには出来ない。
何が違うのか、明確ではないが明らかに違う。
そして、そのワークの主催者によっても、集まってくる人が違うからだ。
今回は NPO 法人コデックスに招聘して頂いた。
そのリーダーであるスエインさんの人柄が、集まってくる人達の多彩さを物語った。
先日も書いたように、バレエ関係、ダンス関係の先生方が受講してくれた。
その先生方を通して、生徒さんの舞台に対する姿勢が少しでも成長すれば一番良いことだからだ。

「来年もやりましょう」
とスエインさん。
ただ、今の時点では、私のスケジュールが全くの迷走状態なので、「何時」というのを決定できない。

「最後のありがとうございます、になるので、全員が全員に挨拶を交わすように」。

最終日だけしか参加できなかった別府の女将さん。
その小学校 2 年生になる娘さんの挨拶は、誰よりも形が挨拶になっていたのには驚いた。
門前の小僧ではないが、老舗旅館の空気感やお母さんのそぶりが、イメージとして完全に定着しているのだろう。三つ子の魂とはよくいったものだとつくづく感心した。
頭を下げて挨拶を交わす、という美しい日本の習慣がどんどん失われていく中で、小さな子供がそれをきちんと身に付けている姿に出会えたのは収穫の一つだ。
来年、博多で皆に再会するのが楽しみだ。

ひかりレールスターに乗って大阪へ。

 

TOP   身体塾   武道塾   武禅

 今までのワークショップ

 

武禅一の行
・ 武禅で何をするの
・ 行会案内
・ 参加者のレポートから
・ 武禅の一日

武道塾
・ 武の存在意味
・ 武道に極意なし
・ 武道的対人論
・ 合宿レポート
・ 教室 
●海外での指導

身体塾
・ 骨格で考えよう
・ 身体を連動させる
・ 身体の法則性
・ 身体の学び方
・ 表現者へ
●海外での指導

●武道を学校に導入?
●稽古と意識
●ギエムという芸術
●文楽は武道だ
●胸骨トレーニング
●メンタルトレーニング?
●トレーニングとは?
●稽古と学ぶ
●故伊藤先生のこと
フォーサイスカンパニーでの一週間

●練習の仕方

●過去のワークショップ一覧

・日野晃の著作物/DVD他

・メディアでの紹介

・予定表

・ブログ(毎日更新)

・グッズ・本やDVD・Tシャツ販売

・リンク

・過去の更新履歴

・お問い合わせ