「ダンスは美しくなければいけない」
安藤洋子さんを取材したテープから起こし、要約したものです。

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安藤洋子と武道

およそ「美」ほど不確かなものはない。それは人それぞれの主観に委ねられたものだからだ。また、人それぞれの体験の持つ美意識に任せたものだからでもある。しかし、そういったしまえば、その作り手としての「表現者側」には、何の秩序も規範も持つ必要など無くなる。なぜなら、人それぞれの美意識が決める事だからだ。
では、何でも良いのか、という事になると「それは違う」と誰もがこころの奥底に持っているはずだ。
何故何でも良くないのか。それはダンスは「表現」としての媒体だからである。例えば感情を、例えば無機的な動きを、例えば観客に幻想を持たせる為のものだからだ。
ダンスという事に関係する「美」は、肉体美に始まり、様式美、運動美、躍動美等がある。それらの言葉は、舞台上に展開されるダンサーの動きに、あるいは、振り付けられた動きに、あるいは動きと舞台空間との関係に与えられたものである。
方や「運動美」と言ったとき、オリンピック等の世界のトップレベルのアスリート達を連想する。それは種目如何に関わらず、ゴールを記録を目指す選手達の「姿」に与えたものだ。その研ぎ澄まされた「姿」に与えたものだ。

武道家日野晃の動きは美しい。強いか弱いかは知らないし、それは私にとってどうでも良い。何故なら私はダンサーだからだ。稽古で見せてくれる多人数がけでの日野晃の動きはダンスそのものである。しかし、ほとんど気配の無い日野の動きに、倒れしまう道場生を見ていると「強い」と確信する。
しかし、その強さの裏付けとして我々一般人がイメージとして持つ「強引・腕力」が見えない。だから動きに引っかかりがない。余りにもなめらかだ。そこに「えっ、どうして?」があり、尚かつ「美しい」と感じてしまうのだろう。
そして秀逸なのは「意識が拡散していない」ことだ。緊張感溢れる舞台のようだ。
一対一ならいざ知らず、相手が複数いる場合でも日野の意識は微動だにしない。まるでその場の空気が凍り付いてしまったようだ。相手が動く刹那に見せるカミソリの刃のような意識の切り替えに、相手はもんどりうって倒れる。常に同じ事をやっているにも関わらず、日野のパターンに全員はまってしまう。
それを見る私は、笑うしかない。何度も何度も繰り返しやっても、笑うしかない。やらせだ。これこそ最高のエンターテナー、日野晃だ。

日野の動きはダンスである。それはダンサーとしての「目」で見た時にダンスなのであって、もちろん、動きがダンスなのではない。つまり、何を見ているのか、という視点でダンスにもなり武道にもなるということだ。その「目」、つまり、日野晃の目が欲しいと思ったのが、今のいつわざる心境だ。
日野晃の「目」とは何か。それは、身体運動を支えるその人の意識、そしてその人の身体感覚、それを認知しているその人の意識、身体運動でのその人の身体の負荷点、それらを、動きから読み取ってしまう目だからだ。
したがって、ダンサーとしてその目を持った時には、的確な助言になり、稽古法になり表現法になる。だからその「目」が必要なのだ。

何故日野の動きが美しいのか、それは稽古に参加して理解できた。変な言葉だが、日野の身体は、日野の身体だからだ。つまり、身体を運動として端々まで日野自身が意識的に使えている、という事だ。そして、その意識的な身体操作を無意識的な身体運動まで昇華させている事だ。
つまり、この高度な身体操作を「無意識=クセ」の領域にまで持っていっているからだ。
そして、その使えるの裏側には、動きは全て相手に直接作用する力を持つ、がある。例えば手を上げる、足を動かす、その全てが相手のバランスを崩す。ここが、ダンスの動きとの完全な違いだ。

「点から線へ」そして「身体容積から空間へ」という身体運動を自己化する為の完璧な稽古法が、日野の身体から生み出されていた。この稽古法は武道だから出来たのだろうとつくづく思う。なぜなら、ダンスは点から線に「見えるだけでよい」からであり、それは武道のように相手に直接作用する力を持つ必要がないからだ。つまり、「点から線へと思えばよい」もまかり通る世界だ。
しかし、逆にだからダンスとしての身体運動には、身体の重み、身体の充実感が感じられないし、感じ取れないのだ。つまり、「人」という高度な精神構造を持つ身体が見えないのだ。意識を、意志を、感情を、といった人の複雑な構造体が、そしてその人の美意識が織りなしている身体を感じられないのだ。
大方の場合、個人の「思いこみ(ある種のイメージをイメージしている)」をしている身体、そして最悪の場合は、その思いこみをしている、としか見えてこない。当然、そこにある動きはダンスとしての「運動=体操」しかない。
であるから、高く飛び上がる事がよい、ターンを何十回も出来る方がよい、身体は中国雑伎団の様に柔らかい方がよい、という様な「肉体トレーニング・肉体稼働領域拡大トレーニング」しか存在しないのだ。それでは体操とダンスの区別がつかない。

と考えてくると、武道の身体運動が直接相手に作用するというのは、非常に高度な身体操作だと気づいた。しかしそれは「突く・蹴る・投げる・斬る」というような運動なのだが、それは単純物理的運動、つまり、肉体トレーニングだけではたどり着くことの出来ない世界だと分かったからだ。
そこに必要なのは日野理論の言う「感覚」だ。それは感覚という誰にでも出来る自由な思いこみではなく、筋肉が運動により刺激を受けた時に、運動と同時に身体で感じている具体的知覚だ。この知覚を元に、身体全体を認知するのだ。つまり、自分の身体を「刺激→認知」という過程を辿り、イメージ化するということ、そして、その認知の線を身体全体に張り巡らせるのが日野理論の根幹だと思う。
その為に、手先から肩にかけ、あるいは、足さきから骨盤にかけ、両肩から腰にかけ、と刺激を線化する。つまり、「点から線へ」の具体である。具体であるが故に難しい。具体的に線になっていなければ相手は倒れない、この稽古法は秀逸だ。
実は、この具体的線こそ「意識トレーニング」になっているのだ。意識という漠然としたものを、「刺激→知覚→認知→相手に作用する」という具体的過程を持つことで明確化し、実際として使える様にしているのだ。
トレーニングは非常に難しい。それは数学のように具体的だから難しい。そう考えると、今までワークショップなりステージなりで「ダンス」をしていた、そのダンスとしての動きがいかに曖昧なもの、無自覚的なものであったのかを確信した。

「美しい動き」とは、運動をする身体、その身体から「線」が見えること、その線の行き着く先が見えること。それはそれこそ鍛え抜かれた感性を持たなければ実現しない。そして、その鍛え抜かれた感性を定規として、自分の身体を眺める目を持たなければ実現しない。
これらを運動の中で実際化しようと稽古をする。そこには刺激に対する並はずれた集中力、線にする集中力が必要だ。その集中されている姿が美しいのだ。何一つ雑念という思いこみや、外部からの雑音に対して揺るがない集中された姿、それが美しいのだ。
つまり、オリンピックのアスリート達の目的に向かってのみ開かれた意識と同等の、もしくはそれ以上の集中された意識そのものが姿として見える。それが美しいのだ。そして、その「美」は、アスリートの頂点であるオリンピック会場の如く、舞台で表現されなければならない。さらにその「美」は、観客に夢と幻想を持たせるものでなければならない。
それらが揃っているのをダンスと呼ぶのだ。
また視点を変え、それをダンス、あるいは芸術という処から見てみると、「えっ、どうしてそうなるの?この動きは何?」というショックがなければならない。しかし、それは一過性の一発ギャグ的なものではなく、日野の見せる多人数がけ、あるいは、一対一で見せる気配のない、動きの読めない、見通しの立たないものである必要があるのだ。
そして、それは日本の伝統文化の如く、精神と比例する深さを伴ったものでなければならない。
何故なら、ダンスは精神と比例して深くなる筈のものだからだ。いや、そうでなければダンスをする意味も、表現として舞台に立つ意味もないからだ。
だから、それらを兼ね備えた日野晃に師事したのだ。

 

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Yoko On Budo (By Akira, HINO / Translated By Dai, YOSHIDA)

Beauty! Without a doubt, beauty is the essence of Dance. Yet, the sense of beauty is uncertain and vague for it varies among audience with their own experiences. Then, is art, including dance, in a state of anarchy? No, certainly many would disagree to this question, but why? Art, especially dance, is a media of expression, expressing feelings, inorganic movements, phantasm, and so on.

Pulchritude, Formal Beauty, Motion, there are many senses of beauty in play. They are all related to such things as the motion of dancers, choreographed movements, the relationship between motions and space given on the state, etc. Energy and momentum of world class athletes when striving for their maximum performance, shares the essence of beauty in play. And so do Movements of Budo Master Hino-sensei.

I do not nor need not to know his strength in marshal arts for I am a dancer. But his movements are that of dance, per se. He smoothly moves without any indication and throws around students. All of this happens without conflicts of forces resulting from the struggle or reaction for students can not react to Hino-sensei’s moves at all. Observers wonder why students fell, and yet Hino-sensei’s moves remain beautiful and natural.

One notes sharp focus of Hino-sensei’s “Ishiki”. (Ishiki can be described using such words as conscious, mind, sixth-sense and so on. Hino-sensei will explain what he means in the workshop.) No matter how many students he deals with at once, his “Ishiki” sharply and stably remain focused. Students fall as Hino-sensei switches his “Ishiki” at the moment of “Setsuna.” (Before the move, “Ishiki” acts. Just before this moment is “Setsuna.” Again Hino-sensei will explain what he means in the workshop.) The pattern of his moves remains fixed, but students fall again and again. At the scene, observers can not do anything but to laugh; Hino-sensei certainly knows how to amuse them.

Hino-sensei’s moves naturally appeal and fit to both dancers and Budo-masters, as a dancer, I envy his perception and perspective that bring about his moves.

Hino-sensei is keenly aware of “Ishiki,” physical awareness of the body, the state of recognition of own moves, and weight and balance of body, and predicts natural and inevitable flow of moves. At this occasion, his perspective gives precise advices to dancers.

By participating in Hino Budo workshop, one obvious fact arose to my mind; Hino-sensei has a total and perfect control all over his body. He senses and uses every inch of his body at his “Ishiki” both at the levels of both consciousness and sub-consciousness.

Students fall because of the force with direct impact on body and its balance. As the result of movements of hands and legs, the balance is lost. Direct impact on body, is a distinctive characteristic of Budo from dance.

From “a point to a line”, and then to “own body to out side world,” the consistency of body movements give an impression that it is only natural sequence. Only Budo could result in this use of body for, unlike dance in which audience only observe from the distance, Budo requires direct impact on others. In comparison to dance, Budo has more physical presence of a person; the person with highly sophisticated sense of beauty, “Ishiki,” feelings, will, and body movements resulting from the sense of beauty.

Dancers could easily fall into the trap of expressing own assumptions, remaining to the physical exercise, failing to reach the level of dance. In this trap, dancers seek higher jumps, more turns, and eventually to the acrobatic extreme.

For Budo deals with others directly, I witnessed it requires much more sophisticated body control. Thought it may look simple practice of punches and kicks, Budo has far more depth to it. Hino-sensei expresses importance of “Kankaku,” (in a broad sense, it is “feeling” or “sense.” Hino-sensei will explain what he means in the workshop.) Having keen sense of body and ability to image own body with the cycle of “Stimulus -> Perception -> Recognition” consist of the foundation of Hino Budo.

Ability to visualize “the line of force” on own body by every inch, needless to say, does not come about instantaneously. Without clarity of this “line of force,” no one will fall. Budo practice shows the result in a clear-cut way.

Visualization of “the line of force” can also be training for “Ishiki.” “Ishiki” is vague, but when the cycle of “Stimulus -> Perception -> Recognition” results in “the deformation of the weight and balance of others,” force of “Ishiki” becomes a bit more obvious and comprehensive.

Training itself is crafted with careful calculations with puzzles. “The sense of body,” takes dance to next level where “the line of body” and its’ vector are visible. One can only achieve such dance only with the keen and sharp sense and objective perspective on own body. As a dancer aiming for the beauty, I train for keenly focused “Ishiki” with the attention to “the line of force.” It can easily be seen among top athletes when they focus their “Ishiki” to achieve the highest state of performance. Every stage is the “world cup” for dancers; their focus of “Ishiki” should be expressed and felt by audience as audience dream in dance.

Hino-sensei will puzzle us, thus amuse us, thought out the training for non of students can predict moves. Reflecting historical and cultural depth of Budo, it goes beyond physical level to meta-physical level. Dance, without such depth and sophistication, can not serve the role of media for expression.

I still have much to learn from Hino-sensei.

 

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