2006 4-18/28
THE FORSYTHE COMPANY でのWORK SHOPのレポートが雑誌「秘伝」で紹介されましたが、読者ではない方の為に一部変更を加えて紹介します。

 


「日野、目でコネクトするのは分かったが、じゃあ、意識・精神や気持ちというのはどうなんだ」
「君のボディというのは、そんなにバラバラに管理できたり、コントロールできるのか?」「………」
「君らの考え方、つまり、日本からみた西洋的考え方は完全に間違っている。この“私”はこの“身体そのもの”だ、それは分かるだろう。精神はどこにあるの?意識はどこ?分けることが出来るのか?」
「そんな考えを持ったことがないが、話していることは分かる」
「それをどうして、精神とか、気持ちとか、あるいは感情とか、また、この筋肉、この意識と、という具合に分けて捉えるのだ。分けて捉えたところで、実際には分けることなど出来ないだろう。ここの筋肉を使うといったところで、身体中全部神経で繋がっているだろう。そして、それは自分の気持ちや感情とも繋がっているだろう。つまり、身体のどこをとってもそれは全部繋がっているということで、身体は紛れもなく一つだということだし、“私そのもの”なのだ」
「………」
「ダンスだって日常だって同じだ。それは君自身そのものだろう。だから、いくら身体が動いても、リハーサルがうまく出来たところで、ステージで緊張したり、うまくやろう、間違わないだろうか、などという考えが頭を過ぎったら、良いステージができないだろう。全部繋がっていることを、皆は何時も体験しているはずだ。朝、気分が優れなかったら、コーヒーも食事も美味しくないだろう。リハーサルもうまくいかないだろう。それは全部全部繋がっているからだろう」
「………」
「ただ、何か明確な目的があって考える時には、分けた方が混乱しないから、便宜的に分けても良い。しかし、この私イコールこの身体であり、これは人類普遍だろう。だから、たとえ分解しても常に全体として考えなければ駄目なんだ。でなければ、全体のないジグソーパズルのようなものになってしまう。それこそ、身体分裂症だ!」
「そうだ、分かる」
「であれば、そのややこしいことを言う頭を何とかしろ!」
「日野、ワークショップをもっと長くしてくれ。一ヶ月、二ヶ月続けてくれ。私の頭が変わるまで」(一同大爆笑)

●イントロ

2006年4月17日成田からフランクフルトに飛んだ。昨年に続き、ドイツ、フォーサイスカンパニーに招聘されワークショップを開くためだ。
今年、フォーサイスカンパニーは、2月27日から一週間、埼玉県の彩の国で公演があり来日している。
その時もリハーサルからゲネプロ、本番まで立ち会った。という訳で、面々とは一年ぶりではない。
フランクフルト空港には、ウイリアム・フォーサイスを始め、ダナ・カスパーセン、アンデル・ザバラ、安藤洋子さん、通訳のボランティアをかって出てくれた、安藤万里子さんが出迎えてくれていた。
偶然、ピナ・バーシュカンパニーも日本公演を終えて同じ飛行機だった。
フォーサイスと共に乗り込んだタクシーに、ピナが追いかけてきてフォーサイスとのこれまた再会を喜んでいた。
私にとっては、なんとも豪華な出迎えだった。

4月中旬だが、フランクフルトはまだ冬の感じが残っていた。
しかし、この寒い地域の春は凄まじい。ワークショップ初日、劇場近くのレストランで安藤さんと待ち合わせた。
昨年、このレストランでワークショップの成功を祝った。
また、昨年夏のワークショップの計画もこの店だった。
店が開いていなかったので、その表にあるテラスで開くのを待つことにした。
街路樹はまだまだ葉もつけず、冬の名残を見せていた。
レインコートとウインドブレーカーを兼ねたコートの襟をたて、チャックもきちんと閉めなければ寒かった。
しかし、一週間も過ぎると、そこの街路樹は見事に緑をまとっていた。
桜も一本の木に、驚くほど花を咲かせていた。
もちろん、日本の桜とは違い、一寸どぎつい感じだ。
春の時期が短いので、とにかく花を咲かせ蜜蜂をおびき寄せなければならないからだろう。
半そでのTシャツだけの若者が、春を待ちかねたように街に飛び出していた。


●身体としての動きを

「勝手に動いたら駄目、力はこちらの方向から向かっているだろう、であれば、こちらにしか身体は動かない筈だし、そう身体が動いた時、どうして反対の手が上に動くのだ?」
ダンサー。ここフォーサイスカンパニーのダンサー達は、クラシックバレエに飽き足らず、もっと自由に身体を動かし、もっと表現形態を多様に、という目的を持つ。
つまり、クラシックバレエの世界でも、輝かしい経歴を持つ人達が揃っているということだ。
したがって、尋常じゃないジャンプ力や柔軟性、軸を使うこと等、およそダンスという表現において世界のトップなのだ。
だから、トップである身体性芸術性を備えている。分かりやすく言えば、世界のトップアスリートと同じだと想像して欲しい。
そして、ダンサー達の目的は、ウイリアム・フォーサイスという振付家を得て、十二分に達成されている。
とにかく、彼らは動く。面白いように手足を、あるいは身体全体を駆使し踊る…。
いや、身体全体を駆使しているかのように見えるのだ。
しかし、実際には身体全体は使えていない。
もちろん、身体全体を使えようが使えまいが、彼らは紛れもなく世界のトップダンサーとして成立しているので、間違っているのでもなければ、駄目なのでもない。

ただ、「身体として」は全身を使っていない、身体の持つ能力として、仕組みとしての動き、つまり、身体の構造から動く、とすれば不自然だということである。
その不自然さは故障や病気を生む。
そして重要なことは、気分に左右されるので、そのことにより舞台で身体が縮んで見えるという表現者としては致命傷を持つ。
当然、不自然な動きだからダンサーとしての寿命を縮めることだ。

日本の伝統。
その武道の歴史に残る達人数少ない達人の感性から見れば、卓越した動きもはなはだ粗雑なのだ。
そのことを、日本人として初めてこのフォーサイスカンパニーに抜擢された、安藤洋子を通して彼らは知った。
そして、その必要性を肌で感じた。
だからウイリアム・フォーサイスは昨年に続き、今年も私を招聘し学んでくれているのだ。
もちろん、そのことが作品に反映されているのは言うまでもない。
「次の作品では『ありがとう日野さん』と、クレジットを入れよう」と言ったフォーサイスさんと顔を見合わせて大笑いしたものだ。

●巷に「身体メソッド」はない

彼らの動く、彼らのダンスとしての動きはどこから来るのか。
それは、ダンスという世界からの教育だ。特にクラシックバレエの世界からの教育である。
では、そこに「身体とは」という教育があるのかといえば「ない」。
機械のように分解されてしまった部分としての身体はある。
「こころ」のない身体もある。解剖図的動かない身体メソッドも沢山ある。

しかし、身体全体、つまり、「人とは」はないのだ。
それは西洋医学と同じだ。
もちろん、日本で巷にはびこるメソッドもこの類だ。
したがって、彼らの動きは日常所作・行動・動作・思考の延長にあると言える。
その日常の延長線上にクラシックバレエの教育が重なったものだ。
もちろん、その教育が徹底されているから、そして、その教育を自らが好んで積極的に取り組んだ人達だから、街を歩く姿を見ただけでもダンサーだと気付けるのだ。
そして、そのキャリアと共に、日常動作と相互浸透した動きになっているのである。

日本的に言えば、バレエダンサーとしての所作が「身に付いた」ということだ。
ここが問題の部分だ。
ダンサーとしての所作が身に付き、その動きは卓越したものを持っていることが、即ち身体の構造としての動きになっているのか、と言えばそうではないのだ。
繰り返すが、身体の構造としての動きになっていなくても良いのだ。
彼らは世界のトップダンサー達なのだから。
したがって、巷にある身体メソッドの類は一切必要ないし、それは全部クリアしている人たちなのだ。
しかし、彼らは私の理論と動きの実際を見て、そして、一緒に動き体験し「人生で初めて人とコネクトされたということを体感できた」と何人も涙したのだ。

それは何故か?武道だからだ。
身体としての動き、身体としての働き、意識を超え、自我を超え、生命そのものを実感したからに他ならない。
それほど、彼らの感性は鋭く素直なものであり、また、武道を欲する必然を潜在的に抱えていたのだ。
助手として同行してくれた、日本のダンサー二人は目を丸くするばかりだった。
それは、東京で行っている稽古と、ここフォーサイスカンパニーで行っている稽古。
それらは何一つ変わりはないことの驚き。
同じであるにもかかわらず、これほど集中し真剣に向かい、深い感動を得るダンサー達。
そこに、自分達との超えがたいレベルの差、感性の差を鮮やかに見て取れたからにほかならない。
世界の一流とはそういうことだ。


●身体も、相手ともコネクトする

「身体とは」の言葉を代えれば「人とは」ということである。
もう少し、奥深く突っ込めば「生命とは」ということであり、人そのものであり身体だ。
ワークショップは、ダンスとしての動きではなく、身体としての動き、つまり、身体としての自然な動きをレッスンに終始した。

「動くな、きちんと相手の力がこちらに伝わるまで動いたら駄目だ」
ダンサー達は、即興的に動くのに慣れている。
そして、その即興的は、相手とのコンタクトが基本となっている。
しかし、厳密に言えば、それはコンタクトではあるが、コネクトではない。
分かりやすく言えば、相互に身体が触れ合うことが、それぞれが動くためのキッカケにはなっているが、お互いに全く関係していないということになる。
さらに、身体そのものも繋がっていない。
コネクトしていないのだ。
もちろん、ダンスだからそれでよい。

しかし、武道から見れば話にならない。
それは、相手の力の方向や量を、肌で瞬時に感じ取り、一切の抵抗が無いように動かなければ、自分自身の生命が危ういからだ。
そして、何よりも自分自身の手足を含めた全身から、力が発揮されなければならないからだ。
その為には全身のコネクト以外に方法は無い。
だから、非常に精密な身体感覚を要求される。
要求されるがゆえに、身体は精密度を増す。
その「一切の抵抗が無いように」にと端を発した考え方は、精密で感性豊かな身体を育み、武道を通り越し「身体」へと突き進んだ。
そしてそれは「身体→人(生命)」に当然のこととして帰結した。
その結果、改めて「武道とは」に辿り着いたところでの「武道」。
それが現代において最も必要な日本の伝統なのであり、ここフォーサイスカンパニーで紹介しているものだ。

●動かないから「身体は動き出す」

「身体としてのコンタクト」だから、「動くな」になる。つまり、こちらの身体に相手の力が伝わってから、相手の力とその方向に乗じて動くのだ。角度を変えれば、相手に動かされるということになる。相手に動かされる、というのは、相手にこちらのバランスを崩されるということでもある。
人はどんな場合でもバランスが崩れることを嫌う。これは本能に属することだ。無意識的に自分のバランスをとろうとする。だから、それに乗じて教育された動きをする。それが自分勝手な動きだ。自分自身が教育されたプログラム、それを無意識的に抽出し動きとしているからだ。
例えば、手の平を上に向け動くなと指示を出す。その上向きの手のひらに下向きの手のひらを重ねる。そして、手前に引く。“動くな”という指示があるので、彼らは動かない。でなければ自分勝手に動いてしまうからだ。上の手は重さを加えて手前に引く。すると、下の手の人はバランスを崩して動き出す。それでも足を動かさないでいると、手を引っ張られて転げる様な形になる。その瞬間、手と足は繋がっているのだ。つまり、手と足は一つになり、きれいな線を見せるし、手からも足からも力が発揮されるのだ。
それを繰り返すことで、身体内部に一本の線を知覚できる。それを認知することで、全ての動きに用いることができる。つまり、ダンスとしての動き全部が、有機的な美しく力強くなるし見えるからである。(武道の動きはこれの集大成である)
転げそうになる時、バランスを崩したとき、思わず出来る姿勢。それが身体にとって自然な姿勢の側面であり、身体全体が繋がった姿勢だ。なぜなら、“思わず”なのだから無意識的だからだ。つまり、身体として自然な姿勢、または動きというのは身体全体が繋がったものなのだ。

分解されたボディワークや、様々なレッスンの弊害は、バラバラでまとまりの無い身体を作り出す。西洋的に分析されたものは、言葉としては分かりやすいだろうが、実際には身体を分解すること等できない。もちろん、分解的トレーニングがはびこっているので、それを真に受けている人達の運動体は、見事にバラバラだ。
また、「身体を意識する」ということが当たり前のように思われているが、身体を意識すれば当然動きはバラバラになるし、運動はぎこちなくなる。
このレッスンの目的は「身体全体の繋がりconnect」だ。


●「武禅」フォーサイス・カンパニー版

「人と向かい合う」というのは顔を合わせることでも、視線を合わせることでもない。そういった意識が消し去られたとき、つまり、様々な雑念が消えたときに表れる現象だ。その瞬間向かい合った人同士が繋がる。それには、視線を合わせるという入り口しかない。なぜなら、視線には明確に意識が投影されており、その雑念は向かい合っている人にも、周りにいる人にも見えるから、つまり、正誤が検証しやすいからである。
「大分感じられるようになったようだから、皆輪になって。一人ずつ輪の中に入り、立っている人の正面を取る、但し瞬間にだよ。立たれた人は即座に判断しyesかnoと答える、では始め!」
これは完全に「武禅」の稽古だ。日本での稽古と反応は同じだ。「え〜」と言いながら「もう一度稽古させてくれ」と口々に叫ぶ。
「人と向かい合う」は視線ではない。手でも足でも、身体全部どの部位でもだ。しかし、視線が一番実感しやすい。
ワークショップ最後の日、「何をもう一度稽古したいか?」と問うた時、ファブリーズが間髪を入れず「正面向かい合いをもう一度」と叫んだ。

 

 
 
 

 

 

 

 


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