「似合わない」

昨年の秋から暮れにかけ、舞台を沢山見た。
特に芝居を沢山見た。
そこで気付いたことがある。
一つは脚本の大切さ、筋書きの大切さ、台詞の大切さ、そして、舞台転換の大切さだ。
芝居は台詞一つで次元を変えることが出来る。
つまり、いきなり時代をさかのぼったり、逆に未来へいったり、違う場所に行ったり、あるいは、それらを同時進行的に進めることも容易い。
それは、台詞という武器を持っているからである。

どうして、そんなことを考えたかといえば、それらをダンスという台詞のない世界で表現するにはどうすればよいか、を考え続けているからだ。
昨年夏、たまたまアテネで、ベルギーのロイヤルバレエ団がウイリアム・フォーサイスの 20 年前の作品を公演にかけていた。
それに招待され、フォーサイス・カンパニーの面々と観た。
その作品は、平面の舞台で次元の異なる世界を表現していた。
それは、 70 年代に行われていた色々な芸術的実験があったが、その一つの作り方と似ていた。
もちろん、その作品の良否の問題ではない。
そんな次元の組み合わせが出来ないか、という視点である。

しかし、よくよく舞台を見ていると、奇妙な違和感を感じた。
それは台詞が似合っていないことだ。
台詞が、それを喋る役者とは完全に遊離している。
観た舞台の中にはゴーリキや、脚本家の書き下ろしの作品もあった。

特に、権力や国家などに対している反発の物語の台詞は、日本の役者では無理なのではと思ってしまう。
役者自身にそういった反骨精神がないからだ。
あるいは、個人的に生活や社会に矛盾を感じていないからだ。
そうなると、台詞そのものが嘘に聞こえてくる。
というより、台詞そのものとしてしか聞こえない。
つまり、その役者である必要も、必然も見えてこないということだ。
当然その役者が、役者である必然も見えて来ない。
「この台詞は私には喋れない」と思える感性が育っていない、ということに気付いていないのだから。

「台詞が似合わない」のだ。

昨年知り合った、モルトバの有名な俳優兼演出家のペトルさんは、日本のある劇団に頼まれ演出をした。
何でも、役とキャスティングが全く合っていないので、それを変更しなければならなく、演出以外のことで時間を取られてしまった、と嘆いていた。
それを聞いた時、あまりピンと来なかったが、実際にその舞台も観、他の舞台も観たおかげでその意味が理解できた。
好きだから芝居をする、今の若い日本人と、芝居でなければ社会に対する言葉も、自分自身の内面も表現できない、だから芝居をするという諸外国の人とは比べようも無い。

これは、私自身が無意識的に台詞と役者を分離させ観ていたということに気付いたからだ。
当然、筋書きや脚本も舞台上にあるもの全てを、分離させていたのだ。
脚本の大切さ、というのは、数年前野田秀樹さんとお酒を飲むようになって気付いた。
その時の野田作品から、脚本の大切さが観えたのだ。
そこに脚本がなければ、この役者達は役者ではなかった。
つまり、その舞台からは脚本ばかりが見えてきて、全く役者は見えてこなかったのだ。
Aという役者でもBでもCでも誰でも良いのでは、と思ったということだ。
どうせなら、上手い下手ではなく、人気のある看板を入れよう、という具合で成立するしてしまうということだ。

同じように「動きが似合わない」という言い方も出来る。
もちろん、ダンスの場合である。

動きと、動かす人の自意識に落差がある時、それは似合わないと感じる。
動きが自分のものになっていない時、それを感じる。
動きの段取りを追いかけているだけの時に、それを感じる。
それは、背骨がこそば痒い感じだ。
何とも居心地が悪くなる。
つまり、動きがそれを動く人にとって、何の必然性も無いと感じる場合「動きが似合わない」になるのだろう。

大阪に拠点を置くダンスボックス。
ここの団体は、コンテンポラリーダンスの普及に努めて 10 年になる。
主宰者の大谷さんとは、古い付き合いだ。
70 年代世代で、故阿部薫との北海道ツアーの時、彼の所属していた団体とひと悶着あったので、二人ともよく覚えていたのだ。
というのを知ったのは、数年前横浜でのワークショップの宣伝の為に、知人を介して紹介してもらった時に発覚したことだ。

そのダンスボックスの紹介で、現在のコンテンポラリーダンスの現状を知るために、一度観ておいたらと薦められ 4 組のグループの出る公演を観た。先日あるダンス公演で、グループや個人の舞台を観にいき、日本人ダンサー達の余りの幼稚さに幻滅したと書いた(「さるさる日記」)。それがこれだ。

その幼稚でも良い、という傾向はここ 3 〜 5 年くらいの傾向らしい。
ダンスなのかコントなのか、お芝居なのか、パントマイムなのか、何が何だか分からない。
もちろん、それらが明確に分類されている必要もない。
そこに「力」があれば、そして、何を見せたいのか、が火山のマグマの如く沸々と噴出していれば、そういったことは全く問われない。しかし、それが全く無く「客に受けるためのわたし」しかない舞台、しかも、丸っきり素人芸。
いや、ど下手ときているのだから、一体何を考えて舞台に立てているのかサッパリ分からない。

中学生や高校低学年であれば、クラスで受けたからという理由で、何も考えずに舞台でやってみよう、というくらいの能天気さで許される。
許されて舞台に上がった時、赤っ恥をかき、これじゃ駄目だとショックを受け、止めるか逆に発奮し芸を磨く。
しかし、この舞台に上がっている人たちに高校生はいない。
「客に受けるためのわたし」とした時、一体この連中の頭の中にある「客」とは、どんな人たちをイメージしているのか。
きっと、自分と同じ質の人ばかりだと思っているのだろう。
しかし、もしもそういう質問をすれば、「それぞれの楽しみ方をして頂けたら嬉しいです」と答えるだろう。
どうして、そのつたない動きを人は楽しめると思えるのか。
また、信じられるのか。
ソロで学芸会をやっていた青年は 27 歳だと言っていた。
「自己満にならないように検証して」と、良い言葉を持っていた。
「どういう風に検証しているの」と聞くと「客の反応を見て」と答えた。
優等生の答えだ。
素晴らしい。
客の反応をどう見るのか、見る力はあるのか、もしあるのであれば、すでにその作品は表に出さない筈だ。
余りにも恥ずかしいものだからだ。

ここで、気付いたことは、とにかく役者達にしてもダンサー達にしても、言葉が饒舌なのだ。
であれば、芝居もダンスもせずに話せばいいのだ。
芝居やダンスよりも、はるかに優れた言葉を持っている。
どうして、その言葉の如くダンスに昇華させないのか、という具合に感じない感性しかないのだ。
つまり、自分自身の発している言葉と、自分自身の表現していることに驚くほどの落差があるのに気付いていないのだ。
そこが一番大きな問題だ。

「もう、こんな下らないものを撒き散らすのはやめよう」
昨日今日、ダンスを習った人でも出来るダンスってダンサーなのか。
人がお金を払って観る価値などあるのか。
卓越した何か。
それを持っているからこそ、客はそれを楽しめるのであって、日常の延長にあるような身体や動きなど、何一つ魅力が無い、ということを思い知らなければ、何も始まらない。
非日常的人間が見えなければ、舞台である必要など微塵もない。

先日対談した、平直行さんがいい言葉を言っていた。
「客は非日常をリングの上に観たいのです。いわば合法的喧嘩をそこで見せられてこそプロだと思うのです」
同じではないか。

 

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