「人との関わりの中で」どれだけ自由な発想で、自由に、しかも合理的に動けるか、あるいは動かないか、の集大成が武道だ。
しかも、それらの動きは、人との関わりの中でのことだから、相手は無意識的に感知したり、無意識的に反射したりする。
それを認知した上での身体操作だ。
人の「意識」の幅をどう操作するのか、そこが武道の醍醐味だ。
それは、知らない自分を知ることでもある。
つまり、自分の頭の中のイメージや思い込みと、実際の違いが明確に判るということだ。
だから面白いし難しい。
これは究極の身体の解放である。
自分の意識や長年のクセから解き放たれた身体は、身体としての能力を存分に発揮する。
身体を不自由にさせている、自分の意識やクセ。
それを知り、そこから解放させるのが「武道」だ。
「武道トレーニング」と聞けばどんなことを想像するでしょう。
「武道」は、自我やそれに伴うこころの働き、感情や、物事の考え方を、身体の動きを通し、また組む相手との関わりを通して関わり方を学ぶ、最高のメソッドです。
相手に手を力一杯捕まれたらどれだけ異和感を持つでしょう。
そこに、身体を動かす方法がいくらあっても、異和感や嫌悪感、極度の緊張が襲い、使うことは出来ないのです。
それはパニックになるからです。
そして、それが「人」であり、ある種の防衛本能のなせる業なのです。
その手を逆に取る、とした時、嫌悪感や幼い自意識が働き、「痛いじゃないか、逆にとってやろう」が働きます。すると、その働きは相手に伝わり、相手は無意識的に同じように違和感や嫌悪感を感じます。
そのことで、筋肉は無意識反射を起こし、新たな力を加えます。そうすると、逆には返せないしもっと痛いという結果になります。
それが人であり、相互に感応しあっているということです。
こういった内面の働きを、白日の下に引き出し鍛えていくことを「武道」というのです。
非日常の場で(色々なワークショップや教室/道場他)、もっともな話や肉体のエクササイズを習ったところで、改まった席や、舞台での本番といったとき、「上がってしまい」あるいは「極度の緊張」で実力を発揮できなかった。
つまり、役に立たなければならない時に一切役に立たなかった、そんな経験がある筈です。
それは、自分自身の内面を鍛えていないからにほかならないのです。
話はいきなり飛びますが「凛」という言葉があります。
凛とした姿は美しいものです。では、凛とは外面的なことを指しているでしょうか?そうではなく、内面の、つまり、精神やこころの姿が外面に反映されていることを言います。
ということで言えば、姿を美しくしようと思えば、内面を鍛えなければならない、自分の感情や自意識、そして自我と向かい合っていく、ということをしなければならないということになります。
では、その内面はどうすれば鍛えられるのか?それは外面を入り口にするしかないのです。
なぜなら、筋肉を太くするというように、直接的には内面を鍛えることが出来ないからです。
前述の、相手と組んでの稽古で自分を知る、そして、成長させる、ということです。
それが私の言う武道であり、身体を使い内面を感じ、鍛えるトレーニングなのです。
そして、身体操作ということでいえば、自我や自意識が働く限り、合理的な身体操作は出来ません。
つまり、身体としてしなやかに動かない、働かないということです。
具体的には、例えば胸骨を引き上げてみる。それが出来たか出来ていないか、正しいか間違っているかではありません。
もちろん、そのレベルに応じて正誤はありますが、それが目的では無いということです。
そうすることで、自分自身のこころの何か、あるいは視野、あるいは感情が即座に変化します。
その変化を逃さないように掴み取っていく、つまり、自分自身の内面の変化を認知して行くのです。
これが稽古であり目的です。
普段の姿勢でお互いに向かい合ってみる。
その時自分の頭の中の迷い、こころの動き、これらを記憶します。それは自分の何かが間違っているから、その迷いやこころが意思とは関係なく暴走するのです。
そこで胸骨を引き上げて、もう一度向かい合ってみましょう。
先ほどとは、全く違った状態になっている筈です。
それをしっかりと記憶する、これが稽古です。
胸骨を引き上げて立ったあなたの姿勢は「凛」ではなくても、それに近い姿だと人からは見えます。
大切なのは、日常においてその時の頭やこころの状態を復元することなのです。
だから、「実感」が一番大切な要素だと理解できるでしょう。
もう一方からのアプローチは、自分の身体をきちんと感じていく、という稽古です。
例えば、「肘だけを動かしましょう」と指示した時、自分が一人で行う場合は出来ている様に思えます。
しかし、誰かに腕を力一杯捕まれると、そこに違和感や嫌悪感他諸々の内的働きが生じ動かせないのです。誰一人として動かせる人はいません。
自分の身体であるにも関わらずです。
それが実際としてプレッシャーのかかった時に、身体は合理的に働かないということです。
つまり、使える身体にはなっていない、ということなのです。
これは、FORSYTHE COMPANYのダンサーとて例外ではありません。
あのフォーサイスや、ダナ・カスパーセンだって動かないのです。
一流のパフォーマーが動かせないのです。
東京のセミナーで、運動経験やダンス経験等全く無い主婦の方に「肘を動かしてください」と指示を出しているのと、FORSYTHE COMPANYのダンサー達に指示を出しているのは、全く同じです。
誰も、自分の身体を管理し動かすということは出来ていないのです。
自分の身体を管理できない、つまり、それは人からの指示を実現できないということに繋がるのは分かるでしょうか。
日常では、かなり曖昧で、幅を持ってそれぞれが対処しているので、何とはなく人の指示を実現しているかのように見えます。
しかし、厳密に突き詰めれば、ほとんど自分勝手に行動しています。
もちろん、それで成立しているので、それが全て間違っているのではありません。
しかし、それは自分に対する誤解や、他人に対する誤解に繋がるのです。
これは「自分の思っている自分を、他人が見ているのではない」ということで、それが相互にあるのですから、当然誤解が発生します。
そこで、「自分の思っている自分つくり」つまり、他人から自分を見たとき、どう見えているのか、それをきちんと受け取る必要があり、それをベースにして、新たな自分像を作り上げる、という作業をしなければならないのです。
これらが私の言う「武道」のトレーニングです。
つまり、「人」の基礎教育であり、再教育であり、全ての人を「凛」とした姿に変える可能性を持ったトレーニングだということです。