武道修行の為の大前提 1
 
意図的行動、つまり、なにがしかの作戦や殺意を持った意識は、相手が直感的に違和感として察知する、という大前提がある 意図的行動は、又意識的行動は、自分自身の意図できる範囲意識できる範囲が限定する。つまり、自分自身の限界を自分自身が決めているという事である

●稽古としては相手に対する攻撃の方法を訓練するが、「攻撃の意図や意識」を、人は直感的に「違和感(この場合は危機感として)として感じてしまう」という性質がある。だから、直接的な攻撃は全く意味がない、という事になる。
●そういった事を経験的に知るところから、フェイント(擬似攻撃)の技術が発達する。
●しかし、そのフェイントは、あくまでも自分よりも実力の下の者にしか通用しない。

武道修行 ●攻撃にしろ防御にしろ、あらゆる行動は自分の考えた範囲・思った範囲でしかできない。
●ということは、相手がこちらの想像を超えた手段を持っていた時、全く対応できないという事だ。
●例えば、写真のようにAはナイフを持っており、Bは素手で向かい合ったとした時、Bは絶対に素手のままだろうか?もしも、私がBなら、素手だと「見せている」だけで、ロープでもナイフを使うだろう。
  敵はどう攻めてくるのか、こちらが決めることは出来ない
敵は何を武器とするのか、こちらが決めることは出来ない
敵は一人だと、こちらが決めることは出来ない
 
 

●Aはナイフを出して攻撃してきた。その時、ナイフはBには見えていたので対処できた
●しかし、Aはナイフを一本しか持っていない、とBが思いこんでも、もう一本もっているかもしれないし、もっと違う武器も持っているかもしれない
●図ではAはBに押さえ込まれているが、Aの仲間が反撃のチャンスをうかがっているかもしれない。であれば、Bは負けなのか?
●しかし、逆にBには仲間がいてAを袋だたきにする機会を待っているのかもしれない。ではAが負けななのか…

 


といった、大前提をどうクリアしていくのか、が「武道」の修行である。
つまり、道場で一方的に決められた条件の中で、その条件をクリアするのが武道の修行ではない、ということだ。
「何が起こるのか分からない」という現実状況を、いかに仮説として引き出せるか、そして、その変化に富んだ現実に対処する能力を身につけるのが、日野武道研究所の言う武道の修行である。

しかし、ここで間違ってはならないことがある。
それは、何千通りの方法を学ぶことではない、あくまでも「能力」であるから、一つの能力で「何が起こるか分からない」に対処するということだ。

ということだから、修行とは方法を教えて貰うことではなく、能力を自らが獲得することを言う。
だから、難しい、限りなく難しい、しかし、難しいのは「出来ない自分」を「出来るようにする」事が難しいのであって、テーマが難しいのではない。
自分自身のクセや、思い込み、欲望、自我、生理的反射、考え方、価値観、それらが自分の目的の邪魔をする。
しかし、それらは自分では全く気付かない。
だから、気付くための方法が必要なのだ。
それが武道だ。
武道としての目的は、自分に気付くための方法でもあるのだ。

出来ない自分を出来るようにする自分、そこを「道」と言うのだ。

 

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