武道に「極意」なし!とは
                       


 前回、武神館恒例の大光明祭で初見宗家がおっしゃられた、「武道に極意なんて有りませんよ、もしもそんなものに拘っていたら殺されちゃいますよ」は、色々な意味で言い得て妙だ。つまり、何か一つのこと、そしてそれが魔法の瓶であるかのごとく頼っていたら、本当に大切なことを見落としてしまうし、何よりも変化する事実を捉えられなくなり対応できなくなるという意味だからだ。
 逆説的にいえば、一つのことに拘らない、一つのことに頼らない、変化する現状に即対応できる、という事が「極意」と言える。しかし、しかし、ここで言う「極意」とは、「何の為の」極意なのかだ。
 そして、もっとも大事なことは、「極意」というのは、単なる「言葉」に過ぎないという事だ。

● 要素還元主義という考え方

 要素還元主義という言葉がある。
 例えて言えば、カリフォルニアでおいしいオレンジが採れ、それを食べている地元の人達は肌がきれいで何時も元気だ。という現象があったとしよう。すると、そのオレンジを科学的に分析し、結果オレンジにはビタミンCという物質が入っていることが分かり、ビタミンCの構造も分かった。
 そこで、そのビタミンCを化 学的に合成し作り出して錠剤にした。その錠剤を飲めば、カリフォルニアのオレンジと同じ効果がある、というのが要素還元という考え方だ。
この考え方は西洋合理主義の悪い側面が百パーセント出ているものだ。
 確かに、オレンジにはビタミンCが入っているのだろう。しかしそれは、その機械を考えだした特定の人間 が生み出した、限定されたものを検出するために作り出された機械が検出したものであって、オレンジそのものの中身ではない。
 ここのところが大事な部分だ。機械を作りだした人間の頭の中身、つまり、限定されている頭で考えついた機械ということだ。又、限定したからこそ機械というもの、検出するということが出来ているのだ。
 したがって、その機械が検出した要素は、オレンジの中身では有るが全てではない、という事だ。しかし、時として私達は、その機械が検出した数値なり色々な情報なりを全てだと錯覚してしまうきらいが有るというところに、要素還元主義が成立しているのだ。
 実際は、カリフォルニアという自然・気候・風土、それを食べる人達の社会生活や精神生活、そして生き方、といった、数値化出来ないものがそのオレンジを生み出し、食して肌がきれいなのであって、オレンジに含まれているたった一つの要素を食べているのでも、食べる側が画一的なロボットでもないのだ。
 もっと言えば、「食べる」という事自体を楽しんでいたり、香りや風味と言ったものを楽しんだり、だから、身体にとって効果のあるものになっているのだ。まさか、錠剤の風味や香りを楽しむマニアはいないだろう。ドラッグじゃあるまいし、錠剤を仲間でわいわいやりながら食べるものもいないだろう。そういった数値化出来ない行為が、効果の有無と密接に関わっていることは医学でも検証され医療のあり方がどんどん変化していっている昨今だ。
 もう一つ非常に厄介なところは、それを食べる人は「人」として一般化(数値化)されることの無い、個体差や違いがある生物だということだ。
 つまり、数値化して作り出したビタミンCを、数値化し作り出したロボットであれば百パーセント効果が出るだろう、しかし、絶対に数値化できない「人」が食べるというところが、この要素還元主義が適応出来ない処だということだ。
 大まかに言えば、要素還元主義とはこんなものだ。このビタミンCの部分を「極意」と置き換えて見れば一目瞭然だ。
 もちろん、ここでいうビタミンCという物質を作り出すためには必要なことだ。そして、現在私達を取り巻いているあらゆる物質を作り出したり、加工したり、という意味においては一番有効なものの考え方ではあるが、問題は、物質ではなく「身体」という数値化できない個別差の塊の様なものに適応するかどうか、ということだ。
 だから、要素還元主義は適応しない、という事になる。
 しかし、これらのように分別できない人は、要素還元主義の罠に見事に引っ掛かる。それは、日本においては非常に有効な罠だ。
 この要素還元主義の罠に引っ掛かった典型的な例は、これも医学からの話だが、最近の子供たちの重心の位置が後ろに後退しているそうだ。つまり、足の踵の後ろの方に重心が移っていっているそうなのだ。
 これは、数十年の間で起こっている現象で、もしも、このまま重心が後ろに下り続けるならば、理論上では子供たちは立っていられなくなるそうだ。実際的には、上半身がそのバランスを取るので、猫背や顎が前に突き出した姿勢の人が増え、当然その影響で内蔵の弱い子供たちが多くなるということだろう。
 そういった警鐘を受けて、ある民間の保育所では子供たちと先生とが一緒になって、組んずほぐれつの「遊び」を取り入れた。その結果、半年後には重心の位置が正常になったと報告された。
 一方、筑波大学の付属高校では、重心位置の変化と肉体運動という事を徹底的に研究(生活習慣としての夜更かしなどの時間の作り方も見直した)、様々なストレッチや運動が生み出され、それに生徒達が「取り組み」やはり、半年後には重心位置が正常になったそうだ。この筑波の取り組みが、現代日本の悪しき象徴だ。
 つまり、要素還元主義の悪い面での使用法だということだ。なぜ悪い面だと言うと、この場合、重心位置が後退した、というところが現象だが、それは、運動が足らないから、肉体のバランスが崩れているから、という単純な原因だと言い切ることが出来ない、にもかかわらず乱暴に言えば、運動不足という事だけが原因だとした間違いだ。
 もちろん、結果として重心位置は正常になった、それはそれで正しい。
 しかし、それに比べて、民間の保育所の取り組みは、別段どの筋肉が使われていないから、といったデジタル的な考え方ではなく、子供という人間を活性化させようと取り組んだ。
 目的としたものの結果は同じだったが、組んずほぐれつという肉体全体に対する刺激には、痛みや苦痛を伴うものも含まれる。当然、子供達は泣くだろうし、笑うだろうし、怒るだろう。痛みを与えられた子供は与えた子供を嫌いになったり、その逆の事が起こったりするだろう。
 つまり、全身への刺激は脳を発達させ、人として必要な様々な能力(感性や人との関係性)が育まれ、その内の一つの現象として重心位置が正常になった、という事が、保育所が取り組んだことであり、重心位置だけが正常になった、というのが筑波の取り組み、つまり、デジタルな要素還元主義的な取り組みだという事だ。
 これらが、要素還元主義的なデジタルな考え方と、アナログの考え方の違いだ。
 つまり、武術は、アナログ的な考え方でなければいけないということが分かるだろう。
「遊び」と「取り組み」に何故「」付けをしたのかといえば、あらゆることに取り組むときの姿勢の問題が、結果を大きく変えてしまうからだ。
 「遊び」といった場合、その内容に対して個々の子供達が自由な角度から、自由に感じ、自由に想像し、自由に自分の世界や他人との世界を作り上げることが出来るが、「取り組み」といった時、その内容に対して「義務」が生じたり、「命令」として消化したり、という事が多く、又、目的が決められているので、プラスアルファの部分に欠落してしまうことが多いのだ。正に要素還元主義が生んだ悲喜劇だ。

● 「極意」は情熱と取り組む時間の量を持てる才能が紡ぎだす

 私の知人の一人に宮大工をしている人がいる。この人から、何かの敷物に使ってくれと、桧の板を貰ったことがある。その板は、まるで合板のように、又、鏡のようにピカピカに光り、いくら繊細な指先で板を撫でてみても凹凸を発見することが出来なかった。もちろん、私の指先と宮大工の人の指先では繊細さがかなり違うだろうが、私も身体に触ることで意識の変化くらいは察知できる繊細さは持っている。
 例えば、この宮大工の人のカンナをかける「極意」とは何だろう?カンナの角度か、力の入れ方か、木の目の読み方か、カンナをかけるときの座り方か等々、色々と考えることは出来る。
 それが要素の拾い出しだ。だから、これだけを取ってみたら間違っているのではない。つまり、宮大工の人がカンナをかける、という現象には何が含まれているのか?を探しだすことなのだから。間違いは、出てきた要素だけに取り組めば、そして、要素はこれだけだ、と限定してしまっている、というところからが間違っていくという事なのだ。
 この宮大工の人は、中学を卒業し大工の修業に入ったそうだ。それから三十年余りの時間を大工一筋に歩んでいる。私の家の近所の本宮大社や、那智の滝の傍にある妙法山の奥の院の修復など、それこそ、国宝級の建造物の工事に関わったり、あるいは、棟梁で任されたりだ。
 ここでの「極意」は、誰が考えても分かるだろう。三十余年の歳月の中で、身体が体得してきたという事だ。つまり、「極意」は「時間と行動」、そして、目的意識を作り出した「志」が掴み出してくれたということであって、決して、カンナの掛け方という具体的なものを親方から習ったから出来たものではない、という事だ。
 つまり、「極意」とは、こういった直接目に見えないものの蓄積が身体において能力として発芽したもの、「目に見えないもの」なのだ。だから、その宮大工の人は、色々な現場で、色々な材料と道具、多種多様な条件の中で質の落ちない仕事が出来ているのだ。つまり、変化に即応する柔軟な頭と身体技術が身に付いているのだ。
 例えば、技能訓練学校の様なものがあり、そこでカンナのかけ方を習ったとしよう。そこは、学校だからカンナにまつわる色々な要素を引き出し訓練する。つまり、要素の還元だ。結果卒業したらその宮大工の人のように国宝級の建造物に関わる仕事が出来るようになっているのだろうか?それはあり得ないと誰にでも分かるだろう。
 調理師の学校出れば、料亭の花板になれるのか、一流レストランのシェフになれるのか、デザイナーの学校を卒業すれば、即パリで自分のショーを開けるのか、それらは全て同じだ。あり得ないのだ。
 宮大工の人が見習いの時、掃除の仕方から習ったという。親方の仕事ぶりを徹底的に盗み見し真似をし、といった毎日だったそうだ。どんな場合でも、ここのプロセスを抜いて「極意」を得ることはない。逆に言えば、このプロセスを自分自身の決断の元、素直に辿れることこそが「極意」とも言えるのだ。
 ここで、「カンナのかけ方の極意」とした事が間違っている、という事に気付かれた人が何人いるだろう。つまり、問題定義そのものが間違っているのだ。言葉としては、「カンナのかけ方の極意」と書くことも話すことも出来るが、実際には、又現実的には、「カンナのかけ方の極意」ではなく、宮大工というその人全体であり、宮大工という職業を選んでいるその人の考え方や感性生き方等が総合されたところでの「カンナのかけ方」であり、極意なのだ。
 つまり、カンナのかけ方という大工の技術としての部分を支えているのは、紛れもなく宮大工という全体だということだ。だから、カンナのかけ方の極意というものは、切り取って活字化したり言葉化したりすることは出来ても、現実性実現性は全く無いということだ。こういった事も、要素還元主義という考え方がもたらす間違いだという事を認識しておくことが、罠にはまらない方法の一つだ。

● 「極意」という病気にとらわれないように

 大光明祭では、一つの基本的な動きから様々に変化し、又、多様な武器に応用する、という事を目まぐるしい早さで進められる。
 例えば、仮にここで手本を示してくれる初見宗家、初見宗家の手本の一つの身体の動きを分析し、要素を拾い出したとしよう。しかしその手本に問題がある。その手本は、初見宗家としての一つの結果であり完成品でありケースバイケースの中のたった一つの例にすぎない。
 つまり、初見宗家の武術歴六十余年の時間の中での創意工夫の集大成としての一つの動きだ。その結果を真似たところで、又、体現できたところで一つの結果らしきことが出来たに過ぎない。
 つまり、真似をした自分自身の中には初見宗家のような六十余年の創意工夫の時間がない、という事だ。そして、その一つの体現されたものは、応用が全く利かないもの、つまり、それを真似た自分自身にとっては、新しい材料の一つに過ぎないのだ。
 簡単な例でいえば、自転車というものを知らない人が、自転車の曲乗りの名人に、自転車の曲乗りの方法を一つ習ったのと同じだ。したがって、自分自身の時間のとり方取り組みとして、自転車に乗れる、自転車を操れる、という事をまず体現化しなければならないという事だ。その材料の一つ一つを大量に集め時間をかけ熟成された時には、ひょっとしたら初見宗家の入り口に近づけるのかもしれないが。
 そこで、目に見えるところでの肉体運動として要素を拾いだす。それとて、要素を拾いだす人間の、例えば私という特定の人間の考え方や身体認識でしかない。つまり、先程のビタミンCだけを拾い出す危険性を持っているのだ。
 それでは、私自身の場合として、この危険性を回避するには何をどうすればよいのか、だ。それは、すこぶる簡単なことでもある。一つは、私が拾いだした要素を「仮説であり絶対そうだと言切れないこと」だと認識すれば良い。又、一つは、その仮説にそって誰かを育ててみれば良いのだ。
 つまり、武術の武の字も知らない、運動能力も低い人、更に腕力も度胸も志も持たない人を、その仮説が持つ構造に沿って育ててみれば良いという事になる。又、運動能力の優れた色々な人達に仮説を試し、仮説の実現の仕方などから、欠けていること、又論を組み建て直せば良いのだ。
 もう一つ、もっと簡単な方法がある。それは、この場合であれば、初見宗家に直接稽古を付けてもらい、自分の仮説を検証してみれば良いのだ。
 しかし、問題は二つある、一つは自分自身が自分自身の作った仮説を体現しているのかどうかという重大な問題がある。一つは、初見宗家の稽古をそして要素を体感できる能力があるのかどうかという問題だ。
 つまり、論、言葉としてはいくら説明したり解析したり出来ても、それは全て「言葉」であり「実体ではない」という事実が目の前にあるということだ。
私達は、マスコミで活躍する愚にもつかない論だけを並べる「評論家」ではなく、実際に自分の考え方を体現して生きる、という選択をした人間である。