武道に「極意」はない!中編
                         

 

 「武道に『極意』はない」、という武神館初見宗家の言葉を受けて、先月は、要素還元主義という考え方を元にその言葉を分解した。それは、要素として「極意」という答えを先に作り出し、その答えがあたかも普遍的なものであるかのように論を積み上げる、という形式をもちいた時、「極意」はある、ということになるのが要素還元主義としての「極意」という事だ。それを言い換えれば、答えを先に出し辻褄を合わせているに過ぎないのだから全ては架空のものだということになる。
 そして、この場合の「要素は部分であり本質ではない」、さらに、その要素は一般化されたものだから、個体差の著しい「人」には全く当てはまらない、のである。つまり、一般化されたものは、一般という架空の人にしか当てはまらないという事だ。

● 極意は「人の要素ではなく人の全人格的能力」である

 初見宗家曰く「何事にもこだわっちゃ駄目です」と常におっしゃられている。千変万化する実際を演武として見せて下さる初見宗家の言葉だ。そして、その千変万化を「何もしていない」とも話される。私はこの言葉から、「極意」と呼ぶものが有るとすれば、全人格的能力であり、それはどんな変化にも即応できる能力のこと、と仮説を立てる。
 とすれば、ここでいう「極意」は、論でもなく何かしらの要素でもなく実体としての能力の事だろうと分かる。とすると、この考え方の形式(要素還元主義)では「極意」というものが仮に言葉になったにせよ、辿り着くことは出来ないという事が分かるだろう。
 なぜなら、論では一足飛びに、又、もっともな結論を得ることが出来ても、前編で例に出した宮大工のごとく「能力というのは自らの欲求と情熱をともなった時間の積み重ねによって培われるもの」だからだ。
 しかし、それらの条件が満たされたからといっても獲得できるとは限らないのが能力だ。だから「極意」だという事が出来るのかもしれないし、達人名人と呼ばれるに値するのだ。ここでの単純な結論としては「何事にもこだわらないのが『極意』です」という言葉は、言語的に理解できても、そして分解できたとしても実体としてその能力をその場では身につけることは出来ない、という事だと言い切れるという事だ。
 もう少し突っ込んで言うと「こだわらないという事にもこだわらない」という事だから、言語的にとか理解したというレベルではないことは分かるだろう。
 話はそれるが、私はこの「こだわらない」という事を、ジャズをやっている時に気が付いた。私は、「フリージャズ」という事にこだわり、それ以外の仕事を拒否し続けていた。しかし有る時、「フリーとは何か?」という事を問題視した。私がこだわっている「フリー」、それにこだわれば「フリーに居着いているだけで、フリーなのではないのではないか」、つまり、「私はフリーなのではない」という事に気が付いたのだ。それは、「フリー」という音楽形式と、私自身の生き方としての「フリー」を明確に分からせてくれた問題だった。

● 武術の「術」だけを取り出せば、それは体操にほかならない

 武術は、「武」と「術」に分けることが出来る。「武」とは、昨年『武の存在意味』という章で書いたように、「武」は、自分の身を呈して護るべきものを守る、という動物と共通の「本能」に属するもので、それは生命と直結するものだ。そして「術」は、武を表現する為の方法だ。もしも、この分けられた「術」だけを取り出したとしたら、それは肉体運動としての体操ということになる。
 しかし、現実的には「武」と「術」を分けることは出来ないし、分けてはいけない。それは、人そのものの成長や感性、知性の成長限界を左右する「大志」そのものを否定することになるからだ。何度も繰り返すが、「大志」のない「術」は肉体運動としての体操にほかならないのだ。そういった意味において、武の本質を内包しない、つまり、「自分のため」に、という目的のために取り組んでいる「武術」は、「武術ではない」と断言できるのだ。
 しかし、こんな例外はある。それは、「術」という肉体運動を、肉体の仕組みや機能としてどういった要素で作り上げられているのか?を、運動としての本質探求を目的とした場合、「術」を分けて考えるのは間違いではない。この場合は、「大志」の部分は個人に委ねているので、その個人のいかんによって「武術」になるのか「体操」になるのかが決まる事になる。
 ここでは「武」と「術」がすでに分けられた状態が大前提なのだから、ここで抽出された肉体運動としての本質的要素は「武術」ではない。だからここで抽出されたものを、武術の極意、あるいは武道の極意と呼ぶのは「日本人でありながら日本語を知らない」というくらい馬鹿げたことなのだ。

● 種保存の遺伝子との矛盾が真理探究の「道」だ

 さて、ここでいう武術の「極意」というもの、もしもそういうものが有るとすれば、それは、前編で説明した「あらゆる変化に即応し行動できること」だ。それは形にすることが出来ない能力であり、その能力が「極意」という事になる。では、その能力は何に根ざして生まれてくるものか?何のためのものなのか?だ。
 それは、そう難しい問題ではない。ここで言う「極意」を考える条件は「武術」と決まっているからだ。
 話は少し横道に逸れるが、ここの「自分の身を呈して守るべきものを護る」が、何故本能と繋がっているのか『武の存在意味』を読まれていない読者には分からないだろうから簡単に説明しよう。
 動物で群れを持つ種は、全て群れを守るという本能を持っている。特にその群れのボス的存在のものは、そういった性質にもまして「強い」という能力を持っているという事だ。
 同じように、人も群れを持つ、それは小さくは家族であり、社会の中で属する組織であり、大きくは国であり地球だ。昨今、この種の本能に属する部分を、人為的考え方で崩壊させていっている。つまり、「自己中心主義」という教育であり環境だ。
 当然、遺伝子や本能とは相反する行動を取っているのだからそこに歪みが起こる。つまり、遺伝子や本能と自分の考え方や生き方というところで、すでに歪みの原因を持っているのだ。そういった捉え方が出来ない人間ばかりになり歪な社会になっていく、というごく当たり前の現象が今日の様々な事件がある日本という社会だ。つまり、個人の意見や個人の存在は何を基盤として存在しているのか?個人は何に属しているのか?という事を抜きにして、個人が個人的な意見を出してくるのだから、社会が無茶苦茶になって当たり前という事だ。
 話を戻して、という大前提のもとに「極意」というものがあるとすれば、という事なのだ。
 したがって、ここで言う「極意」の根本は、「いかに人を斬るか」であり、それを支えるのは種保存という本能に根差した「自分の身を呈して守るべきものを守る」という大志だ。ここに、一つの矛盾が生じてくる。
 つまり、「人を斬る」というのは種保存の本能に逆行することになり、「自分の身を挺して…」は、逆行するものではない、が二重構造としてあるという矛盾だ。この矛盾に気が付き、それに対して真正面から取り組んでいくという作業が、いうなれば「道」という事だ。この過程を行動を通して自分自身が踏んでいった時、まかり間違えば「極意」というものを得る可能性が出てくることもあるのだ。
 そこから考えても、「極意」は物のごとく有るものでもなく、形として見えるものではない、と断言できることが分かるだろう。そして、この根本的なところから考えた時、宮本武蔵が残した「五輪書」にある、「一、五方の構の事  五方の構えは、上段、中段、下段、右のわきにかまゆる事、左わきにかまゆる事、是五方也。構五ツにわかつといへども、皆人をきらん為なり。……」で言っている通り、「皆人をきらん為」のものであるので、それを極めれば「拘らない→だから、変化に即応できる」という初見宗家が実際として実感されている言葉にたどり着くことが分かる。
 したがって、「五方の構え」という「術」の中に「極意」はない、と宮本武蔵をもって語られているという事実からしても「術の中に極意はない」という事だ。

● いかに人を斬るか?これを問題にした時、達人が生まれた

 武術の根本は「いかに人を斬るか」であり、しかしそれは種保存の本能に逆らうことになる。もう一つは、「いかに人を斬るか」は、直接自分自身の生命と関わっていることに気が付く。つまり、敵も「いかに人を斬るか」だからだ。
 もちろん、そこに「自分の命が惜しい」という女々しい考え方が介在してのことではない。生命は、すでに「身を挺して守る」というところで覚悟があり投げ打っている。しかし、ここで「個人」が顔を出し、リアルに「生命と向き合う」という作業に入る人も出てくる。
 大きな合戦のようなものなら、さほど現実感を持たずとも人を斬ることが出来るが、決闘のように一対一で向き合わなければならない場合、この「生命と向き合う」という感覚が芽生えても不思議ではない。しかも、何十回とこういった修羅場をくぐり抜けたずば抜けて強い人達は考えて当たり前だろうと推察する。
 それを解決するために、宗教観が芽生えたり宗教的な行に身を投じた人達もいるだろう。しかし、斬るか斬られるかの現実は、当時の既存の宗教以上に、又宗教家以上に「生命」が現実性を持っているので、宗教屋の口車に乗ることはない。もっと、冷たく覚めた目で生命と向き合っているからだ。いわゆる客観的な観察力をもって現実と向き合っており、尚且つ、自分自身は客観体として現実から離れるのではなく、自分をも観察の対象として捉えているという事だ。
 宮本武蔵は「神仏尊べど是に頼らず」と言っているところからも、「事実凝視」の姿勢がよく見える。そしてこの事実凝視が「変化に即対応できる」に結びつく非常に重要なキーワードだ。つまり、「能力」に結びつくものだということだ。
 宗教を超えた生命観は、仮に宇宙観とでも呼ぶほうが適切だろう。つまり、ビッグバンが宇宙の誕生とするなら、そこから派生した様々な事実を事実として捉える中で、つまり、実際生活する日常での四季の移り変わりや様々な自然現象から、様々な法則性や周期性といったものに気付いていったからだ。もちろん、その気付いたものの中には人の仕組みや心理、寿命、大きくは自然淘汰の法則なども含まれている。だからこそ、自分自身の生命の存亡を宗教観無しに受け入れることが出来ているのだ。
 そこで、種保存の本能の導くままに思考を巡らせた時、「いかに人を斬らずにすむか」にたどり着いたのだろう。しかし、そこで相手に致命的な負けを認めさせなければならない。でないと、単に戦わずに逃げるという事になるからだ。
 「いかに人を斬るか」この命題が、逆に「いかに人を斬らずにすむか→そしていかに負けないか」にたどり着いた。といった過程が達人と呼ばれた人に有ったのではないだろうか。

● 「技では有りません」が事実即応の近道だ

 ここに来てようやく「武術」の「術」が見えてくるのである。相手を斬らずに致命的な負けを悟らせる、という到底考えられない事を実際として表現するというレベル。そこに初めて「術」という言葉の背景が有るのだ。つまり、単純に群れを守るための技術というレベルから、個人として生命を直視し人と大自然の連動性を認識したという全人格的成長が作り出した技術を、ここで言う「武術」の「術」と呼ぶのだ。つまり、日本独特の文化としての「術」と呼べるものだということだ。
 単純に、群れを守るという技術は決して日本独特のものではない。世界中どこにでも、とにかく国や民族という群れがあるところには存在するものだ。つまり、そのレベルの「術」は、あえて「日本伝統の」という但し書きを入れなければならないほど特殊なものではない。民族固有の、というところで言えば世界の民族固有の戦い方があるのだから並列で捉えられるものだ。だから「武術」は世界中に転がっているし、発想の柔軟な国の人達の方が優れた技術を持っていることが多いのだ。
 そして、常に他国の侵略を警戒しなければならない国の人達、つまり、私達が住んでいるのは幸運にも四方を海に囲まれ外国からの侵略とは昔から縁のない国、日本だが、侵略を繰り返す土壌を持つ国の人達の方が戦闘技術に優れていて当たり前だとも言える。もちろん、現代においては軍隊という形式がこれに該当するのは言うまでもない。というところから見れば、日本に武術など存在しないと『武の存在意味』の章で述べた通りだ。
 だから、「日本伝統」と名乗るとすれば、つまり、世界に類のない特殊な文化としての「武術」とすれば、「人を斬る為のもの→いかに負けないか」という特殊な背景を持っていなければならないという事になる。と、なった時「極意」という言葉は空気と共に消え去っていることが分かるだろう。つまり、「極意」など存在しないのだ。
 種保存の本能が「武」を呼び、そこから起こる対立現象、つまり、群れを守るという種保存から見た本流の中から「個人」として生命に真正面から取り組む人が現れ、その人が対立現象に疑問を持った。そこから、事実を真正面で捉えるようになり、大自然の一部としての「個人」を悟った。その人が日本でいう「達人」と呼ばれる人なのだ。
 だから、そこには「技はない」、常に変化する「事実に即応している」に過ぎないのだ。
 今述べたように、世界には「武術」が民族の数だけ有る。しかし、ここで言う「個人を悟った」という、個人の質的な転換は存在しない。だからこそ、初見宗家の元に多くの外国の人達が学ぼうと押し寄せるのだ。初見宗家は「技ではないのですよ、そんなものは全部忘れなさい」と常におっしゃっている。それは「事実に即応する」という事を実体として獲得するための一番の近道かもしれない。
 「極意」はない、それは「全人格的能力」である。そこにたどり着くためには……。

 

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