武道に「極意」はない 後編
自分の持つ固定観念が「極意」を遠ざける
群れを守る本能としての武術は、地球上に存在する民族の数だけ有る、というのは過言ではない。
それは、「生命維持・種保存」という本能に属することだからだ。簡単化して言えば、外敵(侵略者)から身を守る(種を守る)という事だからだ。
そこから考えていけば、決して「極意は存在しない」、なぜなら、外敵なのだから「自分の計り知れない敵が存在し、予期せぬ敵であるから戦う術としての極意(一定の形式や運動とすれば)等存在するはずもない(こちらの想定する戦い方や武器だとは限らない、拳銃が機関銃になりバズーカ、ミサイルと考えていけばたどり着く事だ)」と二号にわたって展開した。そして、その「極意」というのは実体のない言葉だけであるという事も、要素還元主義という考え方を元に展開し、結論として「極意」とは「人の能力」だと仮説を立てた。
しかし、ここで肝心要のことがある。それは、武術は「人との対立関係によって成立するもの」という大前提だ。つまり、「種保存のために外敵から」という処での、外敵、つまり、対立関係に有る「人」という事だ。
そこでの、本能と個人の理性との葛藤が「対立関係を作らない→負けない」を作り出したのが、日本の武術史に残る達人と呼ばれる人である、と前号では締めた。ここが現代において「武の存在意味」になってくるものだ。
● 人は錯覚する動物だ、だから「術」が成立する武術の特殊性
いきなりだが、何故、民族を超えて人類の娯楽の中に「手品」存在しているのか?だ(手品の起源ではない)。それは、「人とは錯覚する動物」だからだ。 この事が「武術」の「術」に直接関わる重要な「人の特性」を解き明かす鍵だ。
又、怖い・悲しいに代表される「感情」も、切り離すことの出来ない要素の一つだ。前者は、意識も含めた具体的運動を支配するもの、後者も、自分自身の行動を支配すると同時に筋肉運動も支配するため、自分自身が自分自身の手で克服しなければならない、という意味で「術」を具現化するに際しての重要要素だ。これらが相互に絡みあって意識に変化を及ぼし、筋肉運動を硬着化させたり、逆に脱力させたりで「技が掛かったという状態」になるのだ。
つまり、こういった人の内的特性が人の運動を支配しているのだから、「極意」があるとすればここにこそそれを解き明かすヒントがあるのだ。
という処から言えば、「極意」という実体は現象として「ある」と言える。つまり、現象としてはある、結果としてもある、というだけのものであって形としては「ない」という事になる。
又、その現象は「相手との兼ねあい」で「ある」ものだから、人それぞれの違いにより臨機応変に変わるものだ。だから、一つの形として「ない」という事にもなる。そして、ここで非常に重要なことは、常に述べている「相手との兼ね合いで(敵と戦う)」という事だ。
つまり、自分一人の「個人的能力(例えば、居合で剣を誰よりも素早く抜ける、とか、動きが素早い他)」といった事で完結するものではなく(実現するものではなく)、人との相互の関係で成立するものだということだ。つまり、人間関係の中で発揮できる能力だ。だから「事実(変化)に即応」であり、それを実現するための「こだわらない→発想を転換できる」という能力なのだ。
そこで、何故いきなり「手品」なのか?だが、それは手品も「人との相互関係で成立するもの」だからだ。つまり、「人」というものの特性をどれだけ把握しているのか?そして、それを管理できるのか?が「術」を成立させる基盤となるものだから、その特性の一つとしての「人は錯覚する動物である」ということを認識しておかなければならないという意味において、一番一般的な対象として「手品」を出してきたのである。
さて、何故「人は錯覚するのか」だが、それは「判断する」という思考や、自分自身の「目的に対する方向性」が有るからであり、それを支える体験的蓄積、それを自分自身の観念にまでクセ化した、いわゆる固定観念や既成概念、自分自身固有の価値を持つ動物だからだ。そういった諸々の観念や概念を覆されたとき、もしくは、許容幅を超えられたとき、人は錯覚するのだ。
又、自分自身の単純な思い込みも、錯覚の原因になる。そういった、前頭葉系列に支配されているのが人間だ。この基本的なことを押さえておかなければ、「武術」は単純な筋肉運動や筋肉鍛練という肉体運動的な考え方で捉えてしまう間違いをおかす事になる。
世界の第一級の手品師のテーブルマジックを見ていると、本当は超能力か何かではないかと思ってしまうほど感動する。それは、手品師である、そして、その手品を観る、という設定があり、その職業のスペシャリストだと分かっているから「手品だ」と思えるのであって、そういった手品に全く白紙の状態の人が居るとすれば、その人にとって手品は神懸かり的な不可思議な現象だと思うだろう。現にその昔は古今東西そう思われており、特に宗教者や宗教的な儀式に用いられてきた(もちろん、錯覚ではなく純粋に不可思議な現象もある)。
つまり、いにしえの昔から「人は錯覚する動物である」という事を、言葉こそ違え認識されていたのだ。現代においては、テレビを始めとして様々な場所でショーとして多くの人を楽しませてくれるのだが、それは、私達が手品だと知っている、という大前提がある。つまり、我々は手品師に錯覚させられているのだと知っているという大前提だ。にも関わらず、見事に罠にはまりそれを喜ぶ。
ここで分かることは、「錯覚させられていると知っている」にも関わらず「錯覚させられる」という点だ。つまり、「知っている」という事と、実際として「錯覚させられる」という現象は関係していない、したがって「知っているから錯覚させられない」、というものではないという事だ。
この事は「知っている」という事と「出来る」という事の違いと同じ質のものであり、「知識と知恵」とも同質のもので、人は往々にして間違いやすい。これを間違うと、自分の人生を間違うと言っても過言ではないので呉々も気をつけて欲しい注意点の一つだ。
「知っているから錯覚させられない」が何故起こらないのかは、先に記した「自分自身の判断という媒介を通してしか、我々は物事と接していない」からだ。だから、下手な手品師と上手な手品師の違いは、手先の技術は別にして、錯覚させるための話術や動きが出来ているのかいないのか、という事になる。
そういった点から言えば、武術の「術」とはこの点で共通する。中でもイリュージョンと呼ばれる大掛かりな道具を使ってのものより、テーブルマジックと呼ばれる客を目の前にして行う手品が共通する。いくら目の前で種を明かされても錯覚してしまうのだから。
● 「一緒に動く」それが錯覚を誘発する、しかし、それの実現は果てしなく遠い
例えば代表的な例として、初見宗家に対して例えば突きを出すとしよう。その前に、突きを出す人が立っている位置をA点とした時、そこから初見宗家の立っている場所までの距離があり、それは、一歩でたどり着くのか二歩なのかは別にして、ある距離が存在する。相互の関係での難しいところはここだ。
つまり、相手の立つ場所は、初見宗家から見て常に一定ではない、という不確定なものだという事だ。そして、その距離から初見宗家の場所を目がけて行く速度も一定ではない。更に突きの速度も一定ではない。突く場所もおおよそ顔面では有るが、決まってはいない、という不確定なものだ。この点だけを考えても、これに対処するために作り出されたとする、ある一定の肉体運動をさして「極意の運動」というのは間違っていることが分かるだろう。
さて、こちらが初見宗家に対して動き出し突きを出す。その時に、初見宗家は「動いているような、動いていないような」という「判断しにくい」現象を作り出す。いうならば、こちらの速度、例えば、車で時速四十キロで走っているとすれば、その横に全く同じスピードで走っている車があったとして、その車を見たとき奇妙な感覚に襲われたことがないだろうか?それと似た感覚を覚えるのだ。その奇妙な感覚こそが「極意」の要素の実体の一つであり現象の一つだ。
この場合であれば、自分の横ということで、逆に言えば、相手の車と同じ速度で運転し並ぶ事は運転技術の範囲で可能だが、例えば自分の正面から速度を認識できない車が走ってきたのに対し、それと同じ速度で、つまり、一定距離を保ったままバックするという技術が、ここで言う初見宗家の動きの一つだ。
それが初見宗家がおっしゃる「相手と一緒に動かなければ駄目です」の難しさだ。もっと言えば、物理的に一緒に動くという事だけではなく、意識も相手と同じように動いているのだ。だから、そこで錯覚が生じるのだ。
こちらと同じように初見宗家が動く、その事によって自分が初見宗家に向かって進んでいる速度を勘違いする。同時に、初見宗家の意識も、こちらの攻撃を避ける意識で動いているのではないので「初見宗家は、そこに在る(一緒に動いているから動いていないように見えてしまう)」と無意識的に判断(選択)する、だから、「そこに在る」宗家を目がけて突きを出してしまうのだ。
無意識的な「判断(選択)」というのはここで言うように厄介なものではあるが、逆に便利なものでもある。例えばこの時、宗家自身の中で「避けよう(動こう)」という意志がチリほどでも頭をよぎれば、この「判断(選択)」は瞬時にそれを察知し、宗家の罠にはまることを防ぐ事にもなるのだ。
しかし、絶対にそういった状態を作りださない、というところが「達人」の達人たるところなのだ。
結果として初見宗家はこちらと同じ速度で動いているので、こちらが宗家のところにたどり着いた時には、すれ違ってそこにはいない、もしくは初見宗家の罠にはまっている、という事になる。
というように、動きの一つの例を経過として文章化すればこういったようになるのだが、残念ながらこれはあくまでも言葉であって実体ではない。つまり、もっと膨大な情報交換がその瞬間には行われており、だから、錯覚し、初見宗家の動きに対して変化が効かなくなるのだ。
● 何故「一緒に動けるのか」、その鍵は入り口にある
「極意」の実体は、こういった現象として見ることが出来るものではあるが、それは相互の関係においてのみ現象化するのであって、個人の肉体運動技術として独立してあるものではない事が理解できるだろう。そういった意味において「極意」を鍛練することは出来ないし、そもそも「極意はない」という事だ。
この一つの例の「一緒に動く」にはもっと難しい点がある。その難しい点は、この例だけのものではなく「敵と対峙する全ての場合」に共通することだ。それは「一緒に動くには動き出しが同じでなければならない」という、言葉で言えば至極当たり前のことが、この大前提としてある。
武術はスポーツ競技ではない、したがって対峙してヨーイドンで始まるものではない、という前提がある。その中で、相手と同調しなければならない難しさだ(道場での稽古は、流派やジャンルの違いがあっても、大方の場合、スポーツ競技のようにヨーイドンで始まる。その稽古だけでは歴史に埋もれた『達人』の能力を垣間見る入り口に立つことすら出来るはずもない。もっと言えば、ヨーイドンすらも自覚されていない場合がほとんどだが。)。
肉体運動的にはよしんば同じになったとしても、意識が相手と同調していなければならないという難しい点がある。相互が同調しているからこそ「動いていないように見える」という錯覚が誘発されるのであって、具体的肉体運動として動きが同じになったとしても、同調していない場合は先程の「判断(選択)」が相手との違和感を感じ取ってしまうのだ。
つまり、錯覚は誘発されず、逆に相手につけ込まれてしまうという結果になってしまうということだ。この「差」が実力の差ということだ。という事は、勝負は入り口でついてしまう、という事になる。だから、この入り口での同調の取り合い、もしくは判断(選択)を誘導する主導権の取り合いが勝負そのものだと言えるのだ。
初見宗家が行う演武の複雑さに頭を抱えている外国の人達に宗家は「別にややこしいことはしていません、入り口をやっているだけですよ」とおっしゃっていた。その入り口とは、ここで言う「相手と対峙した瞬間」という意味を含んだ武術とは何たるかの入り口なのだ。頭を抱えるのは「見なければならないもの、もしくは、自分が見ようとしているものが間違っている」という事だけなのだが、それこそが、それを選択している自分の人間的実力であり人間能力だ。当然のことなのだが、誰にでも理解できることが目の前に在るのではない、つまり、初見宗家の何たるかが見えるはずも理解できるはずもないのだ。
ピカソの絵を展示してあるところに行けば、誰にでもピカソの絵を見ることは出来るが、ピカソの絵を理解(知識ではなく)できる人間はほとんどいない、というのと同じだ。
同じように、誰にでも油絵のセットを買えば油絵を描くことが出来るが、誰でもがゴッホになれるものではないというのと同じだ。
だからこそ達人だということを抜かしてはいけない。したがって「達人とは」を、現在の自分自身の延長線上に置いたとき、「達人とは」は何も見えてこない(クリアすべき問題点が見つからない)し、たどり着くというのは幻想の中の夢だという事だ。
● 「極意」は「達人」だという事
この「相互の同調」という考え方は何に根差しているのか?だ。この「同調」という考え方は、世界のどこにもない日本独特の考え方だ。それは、この民族独特の自然に対する観察眼、自然との共存関係そのものの考え方だ。太陽が朝昇る、夜が来る、風が吹く、雨が降る、季節が移り変わる、地震がある、火山が爆発する、洪水がある、津波が来る他、といった常に移り変わる自然現象という事実を、何の固定観念もなしに受け入れたとき、つまり、人知を超えた自然の営みに対抗・対立するのではなく、又、一定の価値を決めるのではなく共に同じ価値としてあるもの、「仕方がないもの(諦め、受動的なものではない)」として受け入れるという概念を持ったとき、そこに初めて「共存(自然との)」という現象が実現できるのである。その共存を支えているのがこの「対立・対抗しない(自然と戦って制圧するという西洋的なものではない)」という考え方だ。
この「共存」が「同調」を作り出した考え方だ。
それは、一つの考え方というものではなく、事実を事実として捉え(正面に向かう)その事実の中にある法則性などを紡ぎだす力を持つ直感的なものだ(拙著『武学入門』でも触れている)。その力が達人の根底を支えており、だから、同調であり負けないにたどり着くのだ。
こういった事が「達人」の根幹であり能力だ。つまり、「極意」というのは、そのまま直接「達人」という事になり、当然、「術」という分別的な考え方ではたどり着くことも、周辺を触れることも出来ないのだ。「極意」は「人の能力」であり、日本人の特殊な自然観に根差したものだという事だ。
初見宗家はおっしゃる、「私は自然を教えているのですよ」と。
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