武道的対人論

 

(2005年 雑誌秘伝掲載文から改訂)


人生は、スポーツ競技のようにルールが厳密にあるのではない。
つまり、その競技によって反則が決められていたり、勝敗が点数やノックダウンというように、明確な勝ちか負けもあるのではないということだ。
失業しても、その後何かのきっかけで自分が打ち込める仕事を見つけ、充実した人生を送れる事もある。
その逆もある。
病気で余命数ヶ月と宣告され絶望した、しかし、奇跡的に病を克服する場合もあるし、その逆もある。
という具合に、人生には何一つ「絶対にこうだ」といえるものはない。
同じように、その人生で必要不可欠な人間関係も同じである。
恒久的な関係は存在しない。
例えば、結婚何十年という夫婦がある。
それは恒久的な関係ではないのか、と思うだろうが、その何十年の間で人は様々な体験があり、それを糧としてレベルが変わる。
同じように、関係の質も変わっていっているのだ。
ただ、第三者が見た時には、結婚何十年だから恒久的な関係と見えるだけであって、実際的には関係は変化していっているものだ。
同じように社会も国も、関係する国々の事情との兼ね合いや、突然の天災やテロのような人災によって変化を余儀なくされる。
物の発明や発見でも環境が変化する。
大きくいえば、常に動いている、変化している社会や環境の中で、個人も変化し関係も変化して生きているのだ。
そして、この変化は「今」始まったのではなく、有史以来であり、地球の誕生から、とこれを言い出せば切りがないが、とにかく、人を含め全ては常に変化しているのだ。
もちろん、これは私の意見ではなく、見たままの事だ。

であるから、「絶対にこれだ」という物の考え方、画一的な考え方しか出来ないでは、時代に、人生に社会に、人間関係に対応できない、適応できないということになる。
だから、マニュアル的にしか物事を考えられない人、杓子定規にしか物事を捉えられない人、つまり、考えを持たない人、考えの浅い人の多くはストレスに悩む。
そのストレスの多くは、自分の属する環境が「自分の思い通りにならない」から、というのが原因だ。
もちろん、同じように企業であっても、その時代の変化に対応していない、つまり、企業努力の怠った会社は潰れていく。
そして、自分の思い通りにならないと思う人は、環境のせいにするし、対人関係であれば相手のせいにする。
それは驚くほど巧妙に相手のせいにしてしまうのだ。
巧妙にというのは、自分でも意識しない程にという事だ。
しかし、いくら環境のせいにしようが、相手のせいにしようが、企業が潰れたのであれば、また、ストレスに悩んでいるのであれば、それを自分自身が環境に対応する努力、企業努力をしていないのは事実であり、相手の、環境のせいにしている自分、あるいは企業そのもののとってきた行動が帳消しになるのではない。

 

企業の話は別として、相手のせいにする人とはどんな人か、といえば、「場(自分の属する環境)を認識出来ない人」だ。
つまり、その場にふさわしい言動の取れない人で、自分勝手な人の事だ。
自分の属する場とは一つではない。
会社であればその会社であり、その職場であり、その職場での人間関係であり、その関係の中での動きの中でである。
もっと言えば、歩いている道路、電車、エスカレーター、家庭…、とにかく、自分の一日丸ごとを考えれば分かる事だが、同じ場はない。
その場その場で、的確な対応、その場その場に適応しなければならないし、そうできるように人間は仕組まれているのだ。
何しろ、人は数十万年単位の環境の変化を生き抜いてきた生物だからだ。
しかし、この仕組まれた能力は、能力であるが故に磨かなければ、あるいは自分が自分の中のものに気付かなければ表面に出てくる事もない。
そこが一つの分岐点だ。
つまり、自分にとって都合の良い考え方しか出来なければ、様々な変化に対応できないということであり、実はそれは、人類誕生から数十万年に渡り今日まで綿々と連なる能力を無視しているという事にもなる、ということである。


「あなたを友達だと思っていたのに」「あなたには裏切られた」「あなたを信じていたのに」「あなたはそんな人だと思わなかった」他、これらは、友人だったり、恋人、あるいは親子、夫婦、職場他、での人間関係の中で登場する言葉である。
しかもこれらの言葉は、大方の場合相互に発せられる。
では何故相互に発せられたのか?
それは考えるまでもなく、誰かと誰かとの相互の関係の 歪み で発せられたのだと分かる。
では、発せられた人は本当に「裏切り者」「信じられない」人なのか。
そして本当に「裏切られた人」なのか。
それは大方の場合その通りだし、大方の場合誤解でもある。

しかし、これを戦いで考えた時、例えば上段から刀で斬りかかってくると思っていたのに、手裏剣を投げられた、これが「裏切られた」である。
また、絶対に手投げ弾を投げるような戦い方をするとは思っていなかったのに、投げられた、これが「信じていたのに」である。
路上で数人に襲われた。
数人は素手で顔面を殴ってくるだろうと思っていたのに、隠し持ったナイフで、あるいはメリケンサックで殴られた。
同じように「裏切られた・信じていたのに」なのだ。
しかし、これらは全ておかしいだろう。
つまり、自分が勝手に、自分の頭の世界で描いた幻想に、それぞれの相手や敵を当てはめていただけで、敵や相手を誤解していたに過ぎない。

その誤解の原因は、その場での的確な対応をしていないであり、自分と他人は同じではないという事を認識していなかっただけのことだ。
つまりそれは、相互の価値観の根本的な違いがあったり、思考の レベル差 、自意識の 差 、社会性の 差 、世界観の 差 、性格の 違い 等があったりで、一概には言葉通りだとは言えないという事だ。
そして、相互がそういったことに全く気付いていない場合が多いのだ。
つまり、先に記したように人間関係はスポーツ競技のように、一定の条件の下に一定の能力を競い合うのではない、それこそ条件で守られた中で関係をつくっていくことではないからであり、それを知らない事が多いということである。
いわば、生命を保証された、つまり、餌・身の安全・病気・アクシデント他に対する対策が、ほどこされている動物園内で育っている動物なのではなく、様々な 生物 が生息する草原で、あるいはジャングルで生活する動物と同じなのだ。
であるから、そこには、「誰が味方か・協力者か」「安全な環境なのか」「何が生活に繋がるか」「信じるに足りる言葉か否か」等を嗅ぎ分ける能力が必要なのだ。
その能力こそが、先ほどから述べている、人類誕生以来人に備わった能力、つまり、本能の一端なのだ。
そこから言えば、自分と同じ他人はいないにもかかわらず、そのことを深く認識していないのだ。
しかし、だからといって、例えば、「裏切られた」というのを間違いだという事ではない。
例えば、長い友人関係にあり、その中で期日までにお金を返すと言って借り、返さない人に対して「裏切られた」というのは正しいし、返さなかった人はまさしく「裏切った」のだ。

 

何を言いたいのかといえば、こと人間関係においては、先ほど記したように、自分と同じことを考える、あるいは思う他人はいないという大前提がある、ということを忘れてはいけないということだ。
そして、相互において関係する為の共通の条件が、あらかじめ決まっているのではないのだ。
つまり、関係も他人も自分の思ったようなものではない、ということでもある。
と考えてくると、武道などの道場の約束稽古は一体何だ、ということになる。
先ほどの戦いの例が戦いであり、それが武道の実際なのに、そういった即興的な、あるいは、その場に対応できる考え方を養う事など出来ない稽古、それが武道の道場の稽古であるならおかしい。という話である。
つまり、戦いの実際、人間関係の実際は画一的なものではないし、大きくは人に仕組まれた能力を無視しているということだ。
しかし、そんなことは、今更のことで社会一般通念としては当たり前のことだ。
が、しかし、その当たり前のことを「言葉的には理解はしている」が、現実として実際としては、まるっきり分かっていない人が多いのも現実だ。
つまり、殆どの人が「他人は自分ではない→思い通りの関係を持てない」に対応出来ていないのだ。

なぜそれを言えるのか。
それはこの「信じていたのに」とか、「裏切られた」という話は、歴史の中で際限なく繰り返されているからだ。
歴史という長いスパンではなくても、自分自身を振り返った時、その短い人生の中でも、相変わらず繰り返していることを思い出せるはずだ。
もちろん、私も含めてだ。
学習能力が不足しているのである。
もしも、そんな体験を持っていないとしたら、周りの人を見渡せば相変わらずの人はいくらでもいるはずである。
そこから考えても、「他人は自分の思ったような人間ではない」という事を認識していない事が分かるはずだ。

しかし、ここは単純に学習能力が不足している、だけでは解決できない要素が混在している。
それは武道にある言葉の「居着くは死、居着かざるは生」の教えだ。
自分の考えに、あるいは、自分そのものに固執するという事である。

武道史に残る言葉は、どれも深く広い。
それゆえに、個々のレベルで理解され、個々の正解を唯一の正解としてしまう。
それを「居着くは死」という。真理やものごとの本質を求める為の作業の中であっても、常にこの居着くは死という落とし穴や罠が張り巡らされている。
だから「自分自身という人」は危ういのだ。
個々は全て間違ってはいない。
しかし、それが単に自分のレベルだとは気付かない。
自分よりも深い、あるいは高いレベルがあるという事を全く知らないのだ。

全てに適応できると、何の根拠もなく思いこんでいるのだ。
したがって、ここからも自分と他人の差異を分かっていないに辿り着く。
また、この言葉は矛盾を含んでいる。
居着くのは駄目、つまり、拘るのは駄目、固執するのは駄目、それは単に自分のレベルの事であり、それに拘るのは命取りになるということなのだが、その裏には「居着けるのか」がある。
つまり、「物事に固執する→自分の編み出した意見を持っている」が無ければ「居着かない」になる必要もないということだ。
そして、居着くほど取り組むからこそ、居着くは死だと気づけるのだ。
つまり、自分の考えを曲げずに歩き続け、幾度も壁に当たり、絶望、あるいは冷や汗を脳に、心に感じた時に「居着くは死」と対面できるのである。
つまり、自分の愚かさと対面できるという事だ。
それは対面と同時に、目の前が開けるという事なのだ。
したがって、文字通りの「固執しては駄目→何でも良い→優柔不断」という図式ではないということだ。

ここは重要なところだ。
先人が残した言葉や手本は全て結果である。
人が何かに取り組む時、それらを利用するとする。
それは人の成長にとって一番大切だし良い事だ。
しかし、ここで間違ってはいけないのは、ここでいう矛盾を発見しなければ駄目だという事だ。
その発見が自分自身が手本や言葉に辿り着くための過程だからだ。
過程無くして結果はない。
当たり前だ。
しかし、大方はその「過程とは?」を考えるという作業をせずに、「結果になりたい」という思いだけを手本とする。
つまり、自分の思いが手本とすり替わってしまっているのだ。
だから、当然手本にはならない。
つまり、自分は手本だと思ってはいるが、実際にしている事は「手本にしていない」という事であり、だから目的を実現させる事は出来ないのである。

では「自分と他人との関係」つまり、社会的、個人的という総合的な「人間関係」において、それを克服、あるいは征しようとすれば何が必要なのか、何が重要なのかだ。
「他人は自分の思ったような人間ではない」を実現する為の方法として使える先人の言葉がある。
それは「敵を知り己を知れば百戦危うからずや」だ。
他人を知り、それを通して自分を知り、あるいは、自分を知り、それを通して他人を知る、それ等を循環させ深く人を知る、という図式だ。
そして、前述の相互間の『思考のレベル差、自意識の差、性格の違い他』を即座に見破らなければいけない、という「敵を知り己を知れば百戦危うからずや」の実際を知らないのだ。
しかし、これもまた周知の事実でありながら、実際としては全く実現されていないことである。
つまり、現代人は実際的な対人対応能力が欠落しているということである。

少し前のある新聞のコラムに、新入社員が廊下ですれ違った上司に「こんにちは」と挨拶しなかった。
それをたしなめた上司に「挨拶をしろ、という指示は受けていません」と言い返した、と書かれてあった。
という実際的対応能力のなさだ。
というよりも、常識のなさだ。
私自身もこんな事は、日常茶飯事的に体験している。

 

というところで「武道」である。
武道は典型的な「対人関係技術」である。
と同時に「個人的人間技術」でもある。
対人が、敵だからであり、対人だからこそ成立するジャンルだ。
そして、その敵と向かう個人、敵という個人、そこに「生命の存亡」が関わっているという非常に特殊な個人的技術である。
しかし、2005年という現代、そして日本において「敵」という概念は存在しない。
もちろん「味方」という概念も存在しない。
そして、武道でいうところの試合も、刀を抜いての仇討ちも存在しない。
それどころか、刀を振り回すのは犯罪だ。当然、人を斬るのも犯罪である。

話は逸れるが、以前武神館初見宗家のオランダでの大会に同行した際、イギリスの高弟の一人ブリーンさんが「日野さん、私は多くの人のように武道のホビーピープルではない、武道で生きているのだ」と言っていた(秘伝掲載)。
彼は、シークレットサービスの仕事をしており、軍隊やその道のプロ達に武神館体術・武術を指導している。
したがってその先には、当然の如く実際の戦場がある。
事実彼の生徒や、初見宗家のお弟子さんで戦場経験者は多数いる。
まさに、初見宗家の武道を実際として使い、教えているのだ。
その自覚が「ホビーピープルではない」と言わせしめたのである。
この言葉に二の句は出なかった。

であれば、「武」そのものが存在しない日本
つまり、身を捨てて国を守る、あるいは、大切な人を守るという教育、そしてその上に立脚している具体としての軍隊が存在しない日本では、日本の伝統文化としての武道は消滅しなければならないのか。
モーガンさんの言う実際が無い日本には武道の存在価値はないのか。
全てはホビーピープルに成り下がらなければいけないのか、といえばそうではないのだ。

日本の伝統文化は、それほど単純なものではないし、日本の歴史はそれほど単細胞ではない。
その「武道」は消滅する運命にあるものではない。
現代にこそ必要なのである。
もちろん、精神論としてでも机上の空論としてではない。
それらは宗教に任せておけばよい。社会における対人実践対応の為の先人の智慧として必要なのだ。
しかも机上論としてはなく、自分自身の思考も感性も総動員し、尚かつ身体の動きとして学ばなければならないものなのである。

何故か。
そこにある稽古は「自分としての現実社会」であり、その稽古を通して「現実としての自分自身」を客観的に認識出来るからであり、その自分自身を認識する事が目的だからだ。
つまり、そこが「道」であり、日本固有の文化なのだ。
つまり、対人実践対応の為の智慧を実際として使えているのか否か、を客観的に知るということ、その事が文化的価値としての「武道」なのである。
という武道を成立させる為に、要求されるのは「仮説力」だ。
それもかなり高度に仮説設定をする力が要求される。
例えば、竹刀を真剣だと想定出来るか、であり、素手の突きを小刀だと、あるいは様々な武器だと想定出来るのか、だ。
しかし、勘違いしないで欲しい。
当たり前だが、武道は小学生のチャンバラごっこや、テレビゲームのようなバーチャルなものではない。
したがって、ここでいう想定は単なる想像遊びではないということだ。
稽古にどれほどの現実感を持てるか、 現実以上の現実感 を想定出来るのかである。
この能力を必要とするから、子供には取り組めないし、社会生活の少ない子供には必要のないものなのだ。

 

仮説設定力は、稽古と自分自身の生きる場である社会、細かくは会社、家庭、あるいは、他人との関係等を結びつける道具である。
だからこそ、稽古には段階的にだが、 現実以上の現実感 が必要なのである。
例えば、道場の稽古で相手が中段に突きを出した。その突きにかすかに身体に触れたとする。
その時に 冷や汗が出た のか、 背筋が凍った のかという現実感だ。
この仮説設定力を養わない限り、武道は実際的には消滅するしかない。
なにしろ、現実として刀を持った生命のやりとりは無いし、そのやりとりからしか「対人関係技術」の本質、つまり、自分という 人間の精神的・心理的・生理的もろさ や、その 影響を受ける思考や運動能力 、そして、それらを統括しているであろう 自意識のレベル を掴み出すことなどできないからだ。
それらを自分自身の中から取り出すからこそ、「他人」というものが自分にとってリアルになり、ここに「他人は自分ではない」が明確化されるのだ。
決して道場の中、人の話の中、活字の中等に武道の本質など存在しないのだから。

 

さて、前記した対人対応能力の欠落した現代人だが、その現代人が対人対応能力の極みの武道をするというのはおかしな話だと気付かないだろうか。
しかし、こうも取れる。対人対応能力が欠落しているから武道に取り組むことで補おうとしていると。
もちろんそれであっても良い。
むしろ、こちらが現代的だろう。
しかし、それは取り組む人が「使うべき現場」を認識しているのかどうかにもよる。
例えば職場で、例えば家庭で、と明確に現場を設定出来ているのであれば、そして、その現場で大きな失敗をした、深い絶望感を持った、だから何とかしたい、であれば大いに役に立つということだ。
だから、たんに武道をすれば対人対応能力が高まるのかと言えば、そんなことは絶対にないと言い切れる。
なぜなら、たんに武道をする人は、武道での稽古を自分自身の問題に置き換える力がないし、まず、自分の問題がないからだ。
ましてや、使うべき現場が道場だと思っている人など論外である。
つまり、道場の中だけでしか通用しない対人対応能力など、子供のゲームの世界と同じレベルのものだということだ。
自分自身の問題、つまり、ここでは対人対応能力の欠落から失敗し、リスクを真正面から受け、それこそその事で冷や汗を出し、背筋を凍らせて自分自身に問題があると認知した人のみ役に立てることが出来る、ということである。
失敗のしていない人、絶望感を味わったことのない人、リスクを背負っていない人は、まずそれを体験することだ。
それからでも決して遅くはないと断言しよう。

対人対応能力の最高峰としての武道

 

ここの大前提は、先ほどの「他人は自分の思ったような人間ではない」である。
したがって、道場稽古のように上段に斬りつけて きたら 、腕を握って きたら 、中段を蹴って きたら 、というように、こちらにとってだけ都合の良いようには、人は動かない(攻めてこない)ということだ。
だから、ここをクリアする一般的な方法として、敵が「○○きたら」、を1000通り以上も稽古をするという例がある。
ここが問題だ。
「○○きたら」そのものが、「○○する」を行うためにあるもの。
つまり、「○○する」という答えを出すために、あるいは、見せるために作られた問題として「○○きたら」なのではないのか、という疑問を持つ。
何故その疑問を持つのか。
それは現実的に敵が存在しないのに、誰が刀を持ち上段から斬りつけてくるというのだ。があるからだ。
もしも、それを正気で考えているのなら、今すぐ精神鑑定をしてもらう必要があるだろう。
時代は2005年だということを分かっていないのだし、アニメの世界と現実の世界の区別が出来ないのだから。
しかし、しかし、○○きたら、という例えば、上段から斬りつけてくる、は、武道にとって必要であり重要なものなのである。
?????だろう。

では、ここに書いていることは矛盾ではないか、と思われるだろう。
しかし、早合点しないように。時代は 2005 年だという事をふまえた上で、がある。
だから、先ほど記した「仮説を立てる能力」がここに必要なのだ。
そして、この上段からの斬りつけを、自分の持つ実際の問題に転嫁する力が必要なのである。
その為に、日常の中での絶望感であり背筋を凍らせた体験が必要なのだ。
つまり、自分という 人間の精神的・心理的・生理的もろさ や、その 影響を受ける思考や運動能力 、そして、それらを統括しているであろう 自意識のレベル を認識する為に必要なのである。
それが現代に生きる武道の存在価値であり、存続させる価値の中身だ。
その為に日常において、 冷や汗が出た のか、 背筋が凍った のかという問題を持っていなければならない。
但し、この一点ばかりは、道場でも職場でも学校でも家庭でも教えることが出来ない。
一重にその人の現実感という感性にかかっているだけだからである。

 

よく聞かれる「武道を習ったら、強くなれますか」だが、ここまで読んだ読者なら理解出来るだろう。
それが武道の目的ではないことを。
したがって、絶対に強くなれるはずもないということを。
しかし、強くなりたい、と思った自分の内面に潜む問題を問題として捉えた時、自覚された時、武道はその手段としてその人の前に姿を見せるものなのだ。
その人にとっての問題がなく、「強くなりたい」と子供のように、幻を見ていても死ぬまで幻は幻で終わるのである。
逆に言えば、その人には武道は必要なかったのだ。
そこに強くなければならない必然、つまり、自分の属する社会や場での現実があるのなら、つまり、その現実の中で自分自身が背筋を凍らせたのなら、また、深い絶望を味わっているのなら「強くなれる」のであって、何の現実性も必然も持たない人が武道をしたところで、それはフィットネスの一つにもならないのだ。
もう少し丁寧に言えば、その人にとっての最初の言葉「強くなりたい」の、「強い」とは自分にとってどんなことなのか、何に対してなのかが明確ではない。
したがって、目的地のない切符などどこにも売っていないから、辿り着くことも前に進むことさえ出来ないという自明の理だ。
これは人生や仕事など、全てに当てはまる。
「目的が明確ではない」ということ自体、その人にとって何の必然性もないということである。
だから、せめてこれだけでも知って欲しい。
目的は明確でないと実現出来ないのだと。
そして、その目的は良い事悪い事に関わらず、冷や汗が出た、涙が出た、背筋が凍った、自分に絶望した、という体験が生み出すものだと言うことを。
決して勝手な「思い込み」が作るものではないという事を。

自分という 人間の精神的・心理的・生理的もろさ や、その 影響を受ける思考や運動能力 、そして、それらを統括しているであろう 自意識のレベルを丸裸にする為にある武道。

それは具体的には、自分自身の思考回路の作り替えだ。
極端に言えば、人の持つ見栄や体裁、虚栄心、固定観念等が作り出している思考の壁を壊すところから始めなければならない。
それらは、幼い自意識がベースとなり壁を強固にしているものだからだ。
幼い自意識とは、自分と他人の区別がつかない小学生レベルの意識のことだ。
その壁を壊すのが 冷や汗が出た のか、 背筋が凍った のかという日常での感性である。
この冷や汗や背筋が凍る、あるいは涙が出るという現象は、先の見栄や体裁、虚栄心、固定観念等、又自分心の思考の壁を無意識的に乗り越えた時に起こる現象だ。
そしてそれは、自分自身とその対象の人だったり、ものであったり、あるいは歌や風景、あるいは映画や絵画他と正対したという証拠でもある。
つまり、自分自身が他人と、あるいは 自分以外のものと出会えた瞬間 でもあるのだ。
自分に「素直」であった瞬間だ。
そうだ、自分に素直であれば、他人や自分以外のものと出会えるのだ。
そして、それが人に仕組まれた能力が発揮される為の入り口なのである。
それを意図的に作り出すのが、ここで言う「武道」なのだ。

上段に刀を構えられた前に進み出る。
刀を構えた人は当然斬りかかる。
斬られるしかないのか。
逃げるのか。でなければ、じゃあどうする?
斬られるしかない、逃げる、避ける、と考えるとチャンバラごっこになる。
なぜなら、現実には自分の前で刀を構えた人が、自分を斬るはずもないからだ。
当然刀側の人に、相手を斬る必然も、生命と正対する勇気もない。
だから、逃げる必要も避ける必要もない。
しかし、もしもその相対した関係の中で憎悪なり、敵意なりがあり、精神状態がおかしくなって、本当に斬りかかられたとしたら、避ける事も逃げることも出来るはずもない。
と現実的にその状況を考えた時、斬られるしかない、逃げる、避ける等という発想はチャンバラごっこだと分かるだろう。
もう一つ大事なポイントがある。
ここで、逃げるなり避けると思う人は、「自分の思っているように斬ってくる」が無意識的にあるのだ。
だから、避ける、あるいは逃げると思えるのだ。
つまり、「自分と他人とは違う」ではなく、無意識的に自分と他人は同じというレベルなのだ。
ということを、この稽古を通して知る事が出来、「じゃあ、どうするの」とその自分としての現実と対峙する事になる。

そして、ここでは何を稽古するのかといえば、決して「こうきたらこうする」を憶えるのではない。
前提は、「自分は他人とは違う」なのだから、相手に対して自分の考えが及ぶはずもない、が基本である。
それを自分の頭で頭を徹底させるのだ。
具体的には、対峙している相手が、何かの弾みでピクッとでも動いた時、反射的に避けようとする自分があるとする。
その反射を起こした自分に対して自分が突っ込むのだ。
「あっ、動いてしまった」と。
それは、反射そのものが間違っているからであり、反射からの行動も間違っているからである。
つまり、現実に向かい合っている相手に対して、幻や妄想を持っている事が、例えば、「こう斬ってくるかも・こう突いてくるかも」という思い込みが、その反射の原因であり、逃げる避けるという行動を引き起こしているからだ。

というところで、相手と対峙するのである。
対峙は、相手の正面に、相手と真正面からだ。
真正面とは、見た目の姿勢の事ではない。
自分自身の精神が相手と真正面ということ。
つまり、自分の頭の中に妄想・幻想・思い込みの類が無い状態の事だ。
これは、言葉を換えれば先ほどの「素直」だ。
自分に素直という状態だ。
だから、今まさに目の前にいる人と真正面から対峙出来るのである。
出会えるのである。
しかし、ここを言葉では入る事は出来ない。
つまり、言葉の意味を理解しての稽古はあり得ないということだ。
それは、素直になろう、という言葉を「思うだけ」だからだ。
しかし、これが殆どの人だ。
言葉(意味)から入るとどこまで行っても、妄想・幻想・思い込みから抜け出る事が出来ない。
そこの堂々巡りになる。

ではどうすればよいのか。
ここに必要になるのは、「身体の持つ受信能力」をフルに使うことだ。
先ほどからの、人に仕組まれた能力の事だ。
身体がすでに感じている事を、選択し認知というレベルに引き上げるだけでよいのだ。
そして「相手の真正面に」立てればよいのだ。
相手の真正面は、自分の真正面ではない。
つまり、自分の思っている「相手の真正面」ではなく、相手から見た真正面でなければいけないのだ。
稽古はどこまで行っても「相手」という他人でなければならない。
相手から見て、あるいは、相手から感じた真正面に立つ。
すると不思議な事に、相互に相互が非常にリアルに見えるようになる。
それは何故か。相互が相手に対して意志を持ち、相互を感じているからに他ならないのだ。
そうすることで、相手の正面に立てた時、何か相手の印象が変わると言っておこう。
もちろん、頭は「素直」という状態になる。
すると、何が起こるのか。
ここで先ほどの武道の約束稽古、例えば、上段から斬り込んでくるとした時の、相手が「斬る」という意志の発動を感じる事が出来る。
つまり、「先の先」を実現する事になるのである。

そして、これが変化し画一的ではない人間関係で、唯一変化に即応出来る能力なのだ。
相手がどんな攻撃を仕掛けようとしても、つまり、刀で斬る様に見せて手裏剣を投げようが、手投げ弾を隠していて投げようが、その「投げる」という意志を感知できるのだ。
ここが約束稽古でしか出来ない事であり、変化そのものの人間関係に的確に対応できる実際なのである。


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