武道論 序2

武道論 序1

宮本武蔵の「五輪の書」が、海外では高い評価を受けベストセラーになっているそうです。
海外ではどういった解釈で読まれているのかは全く知りませんが、私自身が「伝統文化としての武道」を研究する過程の中で、この「五輪の書」は非常に重要な鍵を握っていました。
結果、私が発見したのは歴史に残る武道の達人は、世界に類の無い「身体文化」を創出した人達であった、ということです。
つまり、歴史に残る達人たちは、武術共通の身体を持っていたのです。
そう考えたとき、流派固有の秘伝であるとか奥義は存在しないということになります。
なぜなら、そういった秘伝や奥義というものを打ち破っているからこそ達人として歴史に名が残っているはずだからです。
なぜそうなのかは、後で展開します。
叉逆に考えれば、宮本武蔵が「五輪の書」で述べているように、『風の巻の中で、「
…たとえば、山の奥を尋ねようとして、さらに奥へ奥へと行けば、かえって入り口に出てしまうようなものである。なんの道にあっても、奥義とされる技がふさわしい場合も有れば、初歩の技がよい場合もある。とりわけ兵法の道にあっては、そのうちの何は秘密とし、何は公開するいったことは全く不要である。」省略カ所は後ほど詳しく』の様なものです。

そこで、「日本の伝統文化としての武道」を「身体文化」としてどう定義付け、位置づけていくのかを私の解釈で展開していくことにします。

日本の文化としての伝統武道を考えるとき、この「五輪の書」や柳生但馬守宗矩(やぎゅう たじまのかみむねのり)の「兵法家伝書」も避けては通れない重要な遺産です。
しかし、ここで展開するのは歴史やどういった技だったのか、といった今となってはどうとでも言える評論的なものではなく、その「五輪の書」や「兵法家伝書」から、どういった「身体文化」だったのかを探り出すものです。
つまり、現代という時代において、いかにこれらの伝統文化を活用できるのか、といったところに焦点を合わせたものだということです。
こういう展開になった動機は、私自身が「歴史に残る武道の達人の香りを嗅ぎたい」という欲求によるものなので、具体的に実際的に考えていかなければ、それが実現しないからです。
また、「伝統を受け継ぐ」とはどういうことなのか?も、現代に活用する、というところで絡んでくる重要な問題でもあるので、「武道を考える」ということは、かなりの広範囲にわたるものです。
つまり、宮本武蔵が実際の試合などの体験から導きだしてきた「個人的技術(彼にしか出来ない=つまり、受け継ぐことは出来ない)」から、戦闘法としての普遍性、具体的な肉体の運動としての普遍性、人間全体から、境地や考え方としての普遍性等などを引きだせるのか?というものです。
それが出来ないのであれば「伝統を受け継ぐ」にはならないからです。
伝統を受け継ぐとはどういうことか、そして、武道とはどんな伝統なのか?が大きなテーマだと考えて下さい。

さて、いきなりですが「五輪の書」は、「たった一つの動作、たった一つの動きを五つの角度から書かれたもの」だ、と私は言い切ります。
それは、「五輪の書」は宮本武蔵が晩年、つまり、死ぬ二年前に書き上げたものだからです。
というのは、宮本武蔵自身がたどった「剣」上達の過程や、実際の勝負での駆け引きなど、あらゆる体験を客観的に見つめられる状態になっていた時に書き上げられたものだからです。
つまり、体験を経験として抽象レベルにまで引き上げる力があった時に書いたものだからです。「五輪の書」の端々には「
能々鍛練有るべし」と書かれています。
そこから読めることは、工夫に工夫を重ねなければ、「自分自身で獲得することは出来ない」、つまり、頭も徹底的に使えということです。
そうすれば、日々の体験としての枝葉末節な事柄を経験という智慧に変えることができるというものです。




武道論 序2

「五輪の書」を何回も読み返せば、「一つの動き」の要素を説明しているということが見えてきます。
もちろん、ここで言う「動き」とは、武術のしかも戦闘の為のものです。
ですから、一つの動きの中に、地の巻(兵法の総論)水の巻(個的具体論)火の巻(相互関係での具体論)風の巻(他流との比較を用いた兵法の総論)空の巻(武芸者の境地指針)が含まれていて当然だと分るでしょう。

しかし、風の巻は、地の巻水の巻火の巻という理論を裏付けるものだと考えることが妥当でしょう。
いわば、比較検証論だということになります。
例えば、想像して下さい。
相手と対峙しているとして、対峙している本人自身は、空の巻のごとく指針に沿った自分であり、対峙した刹那、頭の中は、地の巻の様にどう戦うことが有利なのかを決め、具体的戦闘では水の巻火の巻に書かれてあるように動く、ということです。
単純に考えて、「人の動き」は、動きというものだけが単独で存在できません。
どんな単純な日常の動きでさえ、ここで言う要素は含んでいるものです。
だから、「一つの動き」には、ここでいう全ての要素が入っていなければおかしいということです。
逆に言えば、「一つの動き」を具体化しているのは、自分という「身体全体」なのだから、何かが欠けているということが、その人の実力そのものという言い方も出来るのです。
といったところから考えれば、「五輪の書」は、日本伝統の「身体文化」遺産だと言っている意味がお分かりになるでしょう。

こういったことを、私はどこで発見したのかということを少しお話ししましょう。
いわゆる「日本伝統武道」というものは、現代の日本に存在しているのか?という疑問が始まりです。
その疑問は、伝書や小説も含めて残る達人達の逸話です。
その逸話は、逸話なのか具体的に存在したものなのか、少しくらいはオーバーにしてあるが実際の出来事なのか?といったものです。
というのは、私の知るかぎりの町道場ではそういった逸話の欠けらすら見つけることが出来無かったからです。
ということは、「伝統文化」というものがすでに無くなってしまったものなのか?という疑問になったのです。

しかし、ここで明確にしておかなければならないのは、真剣を使った稽古をしているから伝統と呼ぶのか、昔から伝わってきたといわれる形を練習するから伝統なのか、袴を身に付けているから伝統と呼ぶのか、神棚に向かって礼をするから伝統と呼ぶのか、江戸時代を初めとする歴史的流派だから伝統と呼ぶのか、第何代宗家と呼ばれる方がいるから伝統と呼ぶのか、家に巻物をたくさん持っているから伝統と呼ぶのか、それとも、もっと違う要素があるから伝統と呼ぶのか、です。
そう考えていくと、何が何やら分らなくなり判断するのは非常に難しくなります。
そこで、逸話や伝書の類いに残されていること、つまり、ここで言う「五輪の書」や「兵法家伝書」に表現されていることを、具体的身体運動として、叉、全人格として表現しているのを「日本の伝統」と呼ぶ、と仮説を立てたのです。

といったところから見れば、先ほど言った「私の知るかぎりの町道場では見掛けたことがない」と言う結果になったのです。
「一つの動きの中に五輪の書の全てが入っている」ということを、五輪の書を絡めた例で単純化して説明してみましょう。

例えば、先程と同じように敵と対峙したとしましょう。
まず一番初めにあることと言えば、敵と向かい合いその距離を詰めるのか、距離を今の位置より遠くに外すのか、です。
その時に具体的に取る行動といえば、「足を使う」ということです。いわゆる「運足」です。
その足使いは「風の巻」で記している、
1、他流に足つかひ有事”として、“足のふみように、浮足、飛足、はねる足、ふみつむる足、からす足などと云て、色々さつそくをふむ事あり、是皆我兵法より見ては、不足におもふ所也。浮足をきらふ事、其故は、たたかいになりては、必足のうきたがるものなれば、いかにも造にふむ道也。叉、飛び足をこのまざる事、飛び足はとぶをこりありて、とびていつく心あり。いくとびも飛ぶとゆふ理のなきによって、とびあし悪し。亦はねる足、はねると云心にて、はかの行かぬるもの也。踏つむる足、待の足とて、殊きらふ事也。其外からす足、色々のさつそくなどあり。或は沼、ふけ、或は山川、細道にても、敵ときり合うものなれば、所によりとびはぬる事もならず、さつそくのふまれざる所有るもの也。我兵法において、足に替る事なし。常の道をあゆむがごとし。敵の拍子に随ひ、いそぐ時、静かなる時の、身の位を得て、たらず、あまらず、足のしどろになきやうにあるべき也。後略』
とあります。
現代語にすれば、「他流では足のふみ方に、浮足、飛足、はね足、ふみつける足、からす足などといって、いろいろと、足を素早くつかう法がある。わが兵法から見るならば、これらはすべて不十分なものと思われる。
浮足はなぜよくないか?それは、たたかいとなれば、必ず足はうきがちになるものであり、そうならぬために、しっかりと足をふみこむことこそ必要だからである。
飛び足がよくない理由。それは、飛び足をつかうと、どうしてもそれが習慣となってしまうからである。いく度もとぶなどという必要はそもそもないのだから、飛び足というのは好ましくない。
はねる足。これははねるという心もちがあっては、容易にたたかいの決着をつけることができないから嫌うのである。
踏みつける足。これは待ーすなわちその場に固定し、敵に先んじられる足づかいであって、とりわけ好ましくないものである。
そのほか、からす足などといい、いろいろ早い足づかいがいわれているが、沼地、湿地、谷川、石原、細道などにおいても敵と切り合うことはあるのであるから、その場所によっては、飛びはねたり、素早い足づかいなどはできぬこともあるのである。
わが兵法においては、たたかいのときといえども、足づかいは平常の場合とかわることはない。ふだん道を歩むように、敵の拍子に応じ、急ぐとき、静なときと、体の状態にあわせて、足らず、余らず、足が乱れることのないようにすべきである。後略」
となります。

となれば、普段から「歩く」ということにどれだけ神経を使っていなければならないのか?と云うことがまず見え、「相手との関係に応じて的確に足を使え」ということになります。
そして、普段のように「歩め」ばよいのです。その「歩む」具体的技術は、「水の巻」にあります。
1、足つかひの事  足のはこびやうの事、つまさきを少うけて、きびすをつよく踏べし。足つかいは、ことによりて大小遅速はありとも、常にあゆむがごとし。足に飛び足、浮足、ふみすゆる足とて、是三 ツきらふ足也。此道の大事にいはく、陰陽の足と云是肝心也。陰陽の足とは、片足ばかりうごかさぬもの也。きる時、引時、うくる時迄も、陰陽とて、右ひだり右ひだりと踏足也。返々片足ふむ事有べからず。能々吟味すべきもの也』
そして、現代語では、
『足の運びは、爪先をやや浮かし、きびすを強く踏む。足のつかい方は場合によって大小遅速の相違はあるが、ふつうに歩むように自然に使うこと。飛ぶような足、浮き上がった足、固く踏み付けるような足の三つはいずれもよくない。足の使い方にあって、陰陽ということが大切とされている。これは、片足だけを動かすのではなく、切る時も、退く時も、受ける時も、右左、右左と足を運ぶのである。くれぐれも、片足だけを動かすことがないよう、十分に注意するようにせよ。
』です。
この足の運びの実際などは、後で具体的に説明していくので、ここでは省きます。

まず、この足の運びをすればよいのですが、しかし、実際として相手も刀を抜きこちらを斬ろうとしている時、普段のように歩めるでしょうか?
そこで、具体的技術としての兵法がいるのです。
しかし、その前によく考えれば、この足の運びが出来るということは、そして、この運びを考えられたということは、「五輪の書」全体が実現されているから「出来る」ということが分るでしょう。
つまり、この「足つかい」という項を説明している宮本武蔵のレベル全体がまずあり、その全体が戦いの為の具体的注意事項を引きだし、並列に並べたものであって、それぞれが個別に存在するものではないことが一目瞭然だと思います。
ということは、この「足つかい」という具体的なものを入り口として、「五輪の書」全体にたどり着ける可能性がある、ということにもなるのです。