武術界の不思議 武術界の不思議2  「武術界」の不思議3 「武術界」の不思議4 「稽古が終わって」



道場を訪ねてくる人は、色々な目的を持ってきます。
「強くなりたい」といった漠然としたものから、「蹴りが早くならないか?」といった、目的がはっきりとしたものまで色々です。
中には、「これを習ったらどうなるのですか?」といった、主客転倒したものまで、本当に色々な人がいることをしります。
その中でも一番多いのが、最後の「これを習ったら?」というものです。
当初は、その質問に対してきちんと答えていたのですが、そういった質問をする人たちは余りにも程度が低いので、言葉が通じないということに気が付きました。
つまり、「自分自身の問題」とこちら側の問題とを選り分け出来ずに混乱している人です。
それは、物事を整理する能力がない人なので、武道や色々なものに挑戦する以前に「自分はどうしたいのか?」といった、自分に関ることを掘り下げるトレーニングが必要です。
それが、出来なければどうなるかといえば、大方の場合、「あそこで、こんなことを習ったけれど、全く役に立たなかった」という、「責任転嫁」をして生きていくのです。
つまり、自分自身の能力や努力、そういったものを全て無視して、「出来なかったのは、誰かの責任だ」として生きている、という、日本人としてみれば非常に恥ずかしいパターンなのです。

大事なことは、「恥ずかしい」という概念が育っていない、というところです。
これが自分の中で育っていないかぎり、何をしても、どんな生き方をしても、何事も上手く行くはずがありません。
自分を成長させるのは「恥ずかしい」という概念なのですから。
そういったことも含めて、私の道場では「武道」に取り組んでいます。

生徒の中に、A君という非常に熱心で優秀な大学生がいます。
彼は、高校3年生の夏、私の友人の紹介できました。
非常に素直で、しかし、自分自身で「問題を発見する」という能力に欠けていました。
だから、道場に来た当初は、「先生、これは、こうですか?」とか、とにかく色々な質問をしてきました。
私は、「答えることは簡単やけど、答えを聞いても自分が実際として出来ないやろ、そして、私が答えた答えは、私が見つけた答えであって、自分が見つけた答えではないやろ、その私の答えた答えで、君は混乱するだけだから、今必要な質問だけをしろ、そして、自分の力で本当の問題を見つけだせ、人に質問をするということは恥やで、つまり、自分は問題解決の為の努力を何もしません、と言うてることなんやで」といったやり取りを何十回となく繰り返したのです。
そういったことですから、「こいつは、どうなるんやろ?」と心配していたのですが、つい先日、メールで質問が来ました。

大学の先輩が「自分は芝居を続けていこうと思っているけど、芝居を続けていったら食べられるか食べられないか分らない、そしてら、芝居を続けていけるかどうか分らない、だったら、今から就職した方がいいと思う」と言ったそうです。
彼は、「それって、無茶苦茶軽いのではないか?芝居を通して自分を成長させようと、その学部を選んでいるのに、そんなことでは、自分自身の幼稚な頭を成長させることは出来ないのではないか?」と、まず考え、次に、「じゃあ、自分を成長させようと考えている、今の自分の頭も幼稚なのに成長などさせられるのか?」と、非常に高級な内容の質問でした。
そして最後に「その自分自身の矛盾を克服するには、誰かに教わるしかないのか?」というものでした。
そこで私は、「まずその先輩は、自分は芝居をしない、やりたくない、ということの理由を探しているだけだ。そういうタイプの人間は、死ぬまでそうやって逃げていくんや。つまり、自分自身に対して本気の人間ではないということ。また、教わらなければならないのではなくて、自分は教わりたいのかそうではないのか、を『自分が決めること』で、そこには、何の義務感もあっては駄目だ」と伝えました。
彼は、素晴らしく成長していました。

つまり、人の会話の中で、雰囲気も含めて矛盾点に気が付いた、そして、その矛盾点を自分の問題として自分を掘り下げた、そして、具体的に解決しようとしている、と言う点です。
私の道場は、武道の道場なのですが、そこの基本にあるのは「学び方を学ぶ」ということです。
それが「強い人間」の第一条件なのですから。


「武術界」の不思議

私が武術に興味を持ち、右も左も分らず道場の門をたたいたのが、三十二年前(22歳)です。
黒帯(三段)の人に型を教えてもらい、その型の分解組み手をやりました。その黒帯の人の前蹴りを左下段払いでよける、という型の始めの手です。
黒帯の人は、私のお腹を狙うのではなく、私が約束で出す左手を狙って蹴りを出したのです。
私は左手の激痛で後ろに跳んでしまいました。
その黒帯の人はニヤッと笑っていたのを思い出します。

それから、八年後、叉違う流派の門をたたいたとき、同じように約束組み手で、今度は突きで右肘を狙われ、苦痛に顔がゆがみました。
ここで行われたことは、「約束」の稽古です。
しかも、こちらはその約束をまだ守ることが出来ない初心者です。
その型の段取りをまだきちんと習っていないときの不意打ちです。
そして、両人ともニヤリと笑っていたのですが、その笑いはいじけた笑いということで共通していました。

三十二年前の時は、私は切れてしまい「お前、喧嘩売ってるんやったら、始めからそう言え」といって、道場にかけてあった木刀を持ちだし喧嘩の準備をしたら、いじけた笑いで「冗談や」と言ってごまかし、その黒帯は逃げたのです。
また、その後の分は、師範の人に「あいつが俺に喧嘩を売っているんやったら、いつでも相手になったるから掛かってこい、と言うて下さい」と師範に喧嘩の許しを求めたのですが、残念ながら収められてしまいました。

こういったことを、後日よく考えてみると、武術界の指導者も学校の教師製造、というシステムとほとんど同じシステムで作られていることが分ります。
つまり、段位という試験に合格した人は自動的に指導者になれる、大学で教職課程を取れば自動的に教師になれる、となんら変わることはありません。
もちろん、教師の中にも一握りの立派な方がおられるように、武術界でも一握りの立派な方はおられます。
しかし、大方はこの様な何も分らない、何も見抜けない、人格の低い指導者がほとんどです。
つまり、教えることと、自分の強さを誇示することの区別の出来ない人が余りにも多すぎる、ということです。
また、道場での強さと、喧嘩や人生での強さ、人間的強さの見分けが出来ない人が多いということです。

そんな人たちに、何を習えるのか、逆に言えば、教える人は「教えるべき何を持っているのか?」という問題です。
学校で習ったことを、言葉を並べ替えているだけで教えているつもりになっているのと、型の数の量を初心者より多く知っているから教える、のは質的には何も変わりません。
初心者も十年経てば指導者と同じ立場になれるのですから。
大事な中身はどこにあるのか?
時間の長さとともに自動的に教える側に回った人、日本のサラリーマンの年功序列制で自動的に役職についた能無しと、全く同じ構図が武術界にもあるということです。
結果、年功序列で役職になった人たちが会社を壊し、リストラの嵐が吹き荒れています。
同じように、世界に誇れる日本の文化としての武術はどんどん壊れていく、全く同じです。
武術界という特別な世界は存在しない、ということを頭において、一般社会人レベルで指導者のレベルを見抜くようにしましょう。
叉、見抜ける目を養いましょう。
それが武術の基本です。

武術界の不思議2

自動的に指導者になるシステムは、教師や会社のシステムと同じだといいましたが、狭い日本で、全く違った健全なシステムが出来るほうが難しいのだろう。
しかし、もっと不思議なことは、「それをしたらどうなるの?」という疑問だ。
それは、空手であれ合気道であれ、別に何であっても良いけど「それをしたらどうなるの?」だ。
一番簡単な答えは、その道場の先輩たちのようになる、その道場の指導者や師範のようになる、ということだろう。
それも良いのかもしれない。
何の目的もなしに生きているのであれば、そういったことを目的として生きるのも悪くはない。
しかし、それって本当に自覚していることなのだろうか?と老婆心が働く。

自分のことを思い出した時、白紙の状態で入門し(喧嘩歴は別)、白帯から次の色になるのに2ヵ月もかからなかった。
週に3日だから、トータル20日くらいだ。
そして、一日2時間だから、40時間になる計算だ。
これを学生時代の一日約6時間の授業と考えれば、一週間と一日、つまり8日ということになる。
8日で出きることってあるか?
それが、一年もしないうちに黒帯の一つ手前迄来てしまったときには、さすがに驚いた。
それは、自分の上達ぶりに驚いたのではなく、自分は何も上達していない、成長していないことを自分が一番よく知っているので、その自分がもうすぐ黒帯なんて、という驚きだ。
黒帯という一つのステップアップがこんなに早くあっていい筈がない。
当たり前だ、先程の計算から行くと、一日約6時間の授業として、52日間しか授業を受けていないことになる。
それで、何かが獲得できるとしたら、大工さんの手伝いで、掃除が少しはできるくらいになる程度だ。

私の中での黒帯からは程遠い自分自身、その時に改めて自分のやっていることに「技術は有るのか無いのか」と疑問をもったものだ。
もちろん、低い意味では技術には違いないが、しかし、習いたての初心者と、十年やっている人との差はどこにあるのか?という問題だ。
そこには歴然とした差が存在するからこそ技術なのではないだろうか。

その頃は、ジャズドラムを職業としていたので、ドラムという楽器を操るための技術、もちろん、自分のドラムが音楽になるための演奏技術、といった「技術」ということが頭にあったので、技術習得の過程を考えた時、「早く黒帯になれてうれしい」という感覚は全くなく、「これって技術なの?」と非常に懐疑的だった。
技術といえば、頭に浮かぶのは「職人さん」や「芸事」の世界だ。
日本には、色々な職人さんがおり、それぞれ職人芸とよばれる、一般の人とはかけ離れた技術を誇っている。
それは何も前近代的なことではなく、「人の能力の可能性」である。
そこには、見習いと先輩の間には歴然とした差が存在する。
その歴然とした差があるからこそ頑張って追い付いてやろう、という気になれるのだし、技術を学ぶ意味があるのだ。
芸事などは10年でやっと入り口だ。

つい先日、たまたまテレビを見ていたら、板前さんの修業をレポートしていた番組があった。
東京のある料理屋さんに、中学を卒業したての子供たち、22、3人が板前を目指して、入店してくるところから番組は始まった。
しかし、入店から1年半も経てば、2人しか残っていなかった。
それも、今期入店した人たちの中の男性の中で一番不器用な人、女性の中で一番不器用な人の二人だった。
色々な展開はあったのだが、その中で、不器用な二人と相反して、色々な意味で器用にこなし将来を嘱望された同期の男性がいたのだが、その彼も一年くらいでやめてしまった。

料理屋の親方はやめていった若者たちにも、折々に便りを出し店に遊びに来るように奨めていた。
その将来を嘱望された若者は、故郷で中華屋で料理をしていた。
彼の夢は、早く調理師の免許をとり、東京で働くことだ。
元の親方から手紙をもらい、気分転換にと東京へと向かう。
親方の元に顔を出すと、一番不器用だった二人がいた。

彼は、腕には自信があったので、やめたとはいえ中華屋で料理をしているのだから、いくら何でもまだ自分の方が上だと思っていた。
親方が、不器用な二人に、「今日は同期の人が遊びに来ているのだから、おまえ達二人でできる限りの料理を作ってもてなしてやれ」と言う。
遊びに来た彼は、少し不安げに二人の仕事ぶりを見守っていたが、次々と出されてくる料理に目を見張る。
彼は「食べられないっすよ」とポツリ、彼の目の前には、見事に飾り付けられた日本料理が並べられていた。
これが「技術の差」だ。

故郷へ帰った彼も、東京の料理屋で毎日毎日怒鳴られ、泣きながら過ごす二人も同じ時間の中にあり、同じように時間が経った。
しかし、そこには同じ時間ではない空間が存在していたのだ。
きちんとしたことをきちんとした人に習うということの重要さが、この番組を通して改めて思い起こした。
結果は、明らかなものだ。
どんな時間を過ごしたのか、時間が経てば誰の目にも明らかに分る。
それこそ、日本国中インスタント思想が蔓延し、三日でできる○○というコピーの中に、技術としてはこういった日本料理の世界に勝るとも劣らない武術が紛れ込んでいることに、憤りを通り越してあほらしさを感じる。

武の先人達が命を賭けて作り上げた伝統文化を、どれだけ失墜させれば気が済むのだろうか?

武術界の不思議 

私自身が「日野理論」と大上段に構えているように、武術界のニューウエーブに属する様々な人達が「○○理論」なるものを発表している。
また、こういった体系付けの元祖のような中国などにも、様々な理論とでも云うべきものがたくさんある。
そういった中で、良く質問されることに「○○理論」はどうなんですか?がある。
そのことについて見解を述べることは簡単だが、その見解は「私」のものであって、質問者のものではない。
そして、私の見解を聞いたところで、私のレベルのことが理解できるレベルではないかぎり、何も理解することは出来ない。

例えば、ベートーベンの音楽を聴いて「感じが良い悪い」ということは、一般愛好家が好きに話せばよいことだが、その音楽の内容、ということになれば、ベートーベンのレベルにならないかぎり、ベートーベンの音楽を理解することは出来ない、という事と同じだ。
だから、自分の見解やレベルを作ってから質問して下さい、と答えることが多い。
また、その質問の意図が野次馬的なものである、という認識を持っていない、つまり、どこかのおばはん同士が、テレビのドラマの話をしているようなものだということを分っていない、ということだから、つまり、自分と言う主体にとって「何の関係も持てないもの」だと余りにも分っていない、ということだ。
しかし、そういったこととは別に、確かに「○○理論」という名の付いた程度の低いへ理屈や、どこが理論なのか良く分らないもの、また、どこかに書いてあったことを焼き直したりしたものが多いのも事実だ。
それに、追い打ちをかけるように、その「○○理論」の信奉者は、その理論から他の理論を見て、「似ている、真似をしている」等と、下らないことをくっちゃべる。
そこで、最近はそういったことを全部ひっくるめて、「問題は、理論が卓越しているのかいないのか?という問題ではなくて、その理論を作りだした人間は、社会と言う中で『どういう人間なのか』ということが問題なのだ、つまり、実体としての人間はその理論通りに生きているのかいないのか?そして、理論通りに『人そのもの』が成長しているのか?」が問題なのだと、話すことにしている。
したがって、それら色々な理論の信奉者たちは、その理論の質に見合った生き方をしているのか、知性のレベルはどうなのかが問題だということになる。

 

 

稽古が終わって


生徒の先輩が見学したいから、という事で道場にきた。
23才ということだ。見学していても仕方がないので、「参加したら」、という事で参加してもらった。
もちろん参加しても私のところの稽古を理解することは難しいのだが、訳も分からずに見学しているよりましだ。
稽古が終わり行きつけのそば屋で食事。
その先輩が質問してもいいですか?というので「いいよ」というと、矢継ぎ早に色々と質問をしてきた。
「先生はいつ頃から身体のことを考えだしたのですか?」「中学で器械体操をやりだした時や」「それからずっとですか?」「そうやな、ジャズをやっている時も、ドラムを演奏するのは具体的には身体やから、色々考えたで」「表現でいえば」「即興は作品ですか?」などと、およそ自分にはふさわしくない単語が並ぶ。

稽古の時、その先輩の動きを見ていたら、果てしなくひどかった(先輩は大学時代からダンスをやっているのに=やっている、と、やれている、を徹底的に勘違いしているボンクラが山ほどいる。自分自身を客観的に認識できる能力を身に付けなかったら一生の恥やし、誰にも相手にして貰えなくなるんやで)。
つまり、頭が悪いということだ。
自分にとって新しい何かにチャレンジする時、その新しい何かをどうとらえるのか?が全てを決定する。
そこに、頭の良い悪い、つまり、自分にとっての問題を発見できるのか否かが存在する。
それを出来ないのだから「頭が悪い」という事だ。
決して運動が出来るのか出来ないのかなのではなく、「問題を即座に発見できるのか出来ないのか」が、頭が良いか悪いかの定規だ。

先輩が見学に来た理由は、私の生徒の動きや(ダンスをしている)彼に勧められて読んだ私の本に興味を持ったからだという。
であるならば、私に対する予備知識が入っているはずだし、稽古の目的も知っているはずだ。
だから興味をもって見学に来た、と普通ならなるはずだろう。
にも関わらず、本に既に書いてある事を聞く、つまり、読んでいない、という事だ。
揚げ句の果ては「先生は結婚をされているのですか」だ。
この質問になった時、場の雰囲気が一瞬で変わった。
私がテーブルをひっくり返すと思ったのだ。
そば屋でテーブルをひっくり返しても始まらない、それより、本当に情けなくなっただけだ。
すかさず女性の生徒の一人が「先生、女性はなぜこんな分けの判らない話をしたがるのでしょうね」と切り込んだので、場は大爆笑。
しかし、その先輩は何一つ気付いていない、何が爆笑なのか判らないのだ。
「女性は分けの判らないことを話したがるのではなく、物事を深く考えられない人がこんな話にならない話をするだけやで、それに、それを会話やと思っているから仕方ないわ、今まで誰にも指摘されへんかったんやから、あなたね、人とちゃんと話が出来るようになってから話しなさいよ」
「そうなんですよ、私もそう思っているんですけど」となってしまうアホの悲しさ。

つくづく知的障害者の人達と関わっていて良かったと思う。
その人達を知らなかったら本当にテーブルをひっくり返していたかもしれない。
誰がこんなボケ連れてきたんじゃ!

先輩は私の横に座って質問をする。
しかし、その顔は視線は自分の内に向けられており、私に向かうことはない、だから決して自分の外に向かうことはないという事だ。
それが自己防衛の手段になってしまっているという事になる。
そして、質問に対して答えた事に対して何の反応も示さない。
つまり、私への質問は、質問と称する「独り言」であり、こちらから言えば「夢の中の言葉」だし、私の答えを理解できないから反応できないのだ。
「君は、話したい話など全く無いのに、言葉を知っているから今ここで口を開いているだけだ、だから人に話を出来る自分自身の中身を作ってからにしたら」これを理解する事は先輩には出来ないが、内の連中の勉強になるので話した。
私の先輩とのやりとりの最中、生徒は切れそうになっていた。
それが正常な感性だ。
つまり、話のやりとりのありかた、その先輩が私に対する失礼な言葉使い、その他諸々が煮詰まって、切れそうになっていたのだ。
私に対する失礼な言葉使い、というのは、私が偉いから、という傲慢な事ではなく、年上の人に対する言葉使い、という事であり、自分たちの先生に対するタメ口に、という意味も含まれている。
これは教材として利用する手だ。
この先輩は稽古にくるらしい、その中で、内の若い連中がどう先輩を潰してしまうことができるのか、これは面白い。
何故、こんな馬鹿が育つのか、それはすこぶる簡単だ。
親が馬鹿だからだ。
しかし、その先輩は既に23歳だからそいつが馬鹿なのだ。
しかし、軽度の知的障害なのかもしれない、大学には入れるくらいの。






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