「武の存在意味」番外編
               日本固有の「武」を問う
                         

以前紹介した拳銃の体験は日本ではリアリティの無いものだが、現代においては世界では殆どの国で一般的な武器だ。といったところから考えれば、現在日本にある「伝統的な武術」もしくは「古武道」という刀や槍、弓等を武器とするもの、もしくは、そういったものだけを武器とした考え方の中にある体術は武術なのか?と、考える必要がある。
それ等は少なくとも、戦うための技術であることには間違いはないはずだ。そうすると、何と戦うための技術なのか?という問題も明確にしなければならないことになる。まさか、日本人同士、叉、自分と同じジャンルの人のみと敵同士になり殺し合いをする事ではあるまい。現実的に云って、敵がまるっきり想定出来ていない日本において「敵」とは何だ?そして、もしも敵がいないのであれば戦う技術など必要ではない。
つまり、リアルな武術(地球のあちこちで起こっている民族紛争、あるいは独立戦争のごとく戦いであり、戦うための武器であり技術)から見れば無用の長物である。もしかすると、かつては「敵」があり、その敵と戦うための技術であった、というものなのか?とすれば、そういった過去形のものを指して「武道・武術」と称しているのが、今日の日本の武道なのか?という問題もある。

● 日本には「軍人」がいない、つまり「武術」は存在しない

「武」の大前提は、自分の身を挺して守るべきものを守ること、自分の命を引き換えにしてでも守らなければならないものを守る力であり、それは動物が外敵から群れを守る、家族を守るという動物共通の本能だと2号に渡って紹介した。だから、「強い」というこれまた大前提があるということだ。
叉、前号の本文の中で、モーガンさんが語った「私は武道のホビーピープルではない」という一言が、現代日本に「武・武人」は存在するのか?という根本的な問題を提議してくれたと書いた。この問題は、前2号で戸塚脳幹論を用いて入り口を開いたが、もう一つ深い問題が眠っている。
それは、現代においてこの「武人」の条件を明確にクリアするのは軍隊をおいて他にはないということだ。つまり、モーガンさんは日常として、仕事として「武」そのものを必要として生きている「武人」であって、ある職業の片手間に、また、自分の趣味として「武術」をやっているのではない、つまり、「武道のホビーピープルではない」ということだ。
そこで、日本を除く全ての外国には存在する「軍人」と、日本の歴史に残る「武の名人・武人」との違いは何なのか?だ。つまり、もしも、同じだとするならば日本には軍隊が無いという建前上、「武人」は存在しないことになるし、現役の軍人ではないかぎり「武術」は継承していないことにもなるからだ。
この問題が解決しないことには、日本固有の伝統としての「武術」とは何か?そして、その日本の伝統としての「武術」を、なぜ外国の人達(例えば、武神館の外国の人達)がこぞって学ぶのか?が見えてこない。さらに、それを見据えて、現在日本に「武術」は存在するのか?しないのであれば、どう復活させればよいのか?も見えてこない、根本的な問題なのだ。

● 「軍人」とは、そして日本での武術とは?

そこで「軍人」から考えていくと、先程も述べたように前号からの「武」のテーマである、身を挺して国を守るという目的の為に存在し、叉、その個人もそれを自覚しているという大前提があるので、「武」の条件は満たしている。
叉、軍人としての訓練も、その目的を遂行するために、様々な技術をマスターするためにある。その技術は、決して机上の空論ではなく、現実的に「敵を想定した戦争」という意味での実戦技術、つまり武術だ。
だから「強い」のが当たり前であって、弱ければ軍人として役には立たない。本来、武士とはそういったものであって、その武士も軍人と同じ目的を持っていた。というところから考えれば、日本に「武人(武士)」は存在しないと言い切れるだろう。なぜならば、 軍隊が無いのだから。
しかし、現代日本の不思議なところは、軍隊(武士)が無くなっても「武」の表現方法・手段としての形式だけが残っているところだ。だから、逆に矛盾も生まれているのだが……。
つまり、明確な心の形、精神の形としての「武」が存在しないのに、過去の「術」としての表現形式が残っており、その形式をもって「古武術」や「伝統武道」と称しているところだし、個人も武術に取り組んでいると多分自覚しているところだ。
表現するべき場所も時も志(小さくは目的)もない日本の現状で、「武術に取り組んでいる」と言う自覚は一体何だ?ましてや、他に仕事を持っている人が「武術に取り組んでいる」「武術を教えている」とはどういうことか?
つまり、「人の生命を左右する」ような武術を、片手間に出来るものという認識しか無い人もいる、ということも問題だ(このことに関しては、問題が違うので又の機会に回す)。そういった人達が「術」らしきものだけ取り出し、さも術の極めまで獲得できるとのたまう武術商売も盛んだ。
もちろん、こういった現象は現代特有のものではない。戦乱が力関係で収まり徳川幕府が安定期に入った時期、江戸時代として文化を謳歌するようになった頃からのものだ。この時代に百花繚乱といって良いほど様々に分派し、現代に引き継がれている流派が生まれた事で分るだろう。
つまり、「武」と「術」が切り離されていくきっかけになった時期なのだ。
しかし、その時代は現実として刀という武器は存在し、武士という立場やそこから生まれる心得・志も生きていた。したがって、「武」と「術」が切り離されたと云っても、現代とは日常から来る現実感がまるで違うことは想像できるだろう。

● 武術は時と共生きるもの

表現するべき時や場所、さらには目的(ここでいう『武』の大前提)が明確であるから「術」が必要であり、その術は現実に即したものに練り上がるという構図がある。つまり、戦うべき敵、守るべき存在が明確だから、それに連れて敵の武器や戦う手段が明確になる、だから、それに適した「術」が発達する、ということだ。
そこから考えれば「術」は保存されるものではなく、進歩発展するものだということが明白だろう。でなければ「術」の意味がない。つまり、進歩発展しない「術」は現実対応できないということであり、「保存」するということは時間を止めること固定化させること、形骸化させることであり、進歩発展する社会にそして世界に対して、何ら対応できないということを自らが宣言していることになり、その時点で「武術」ではないということになる。ここのところが、伝統芸能・伝承芸能との根本的な違いであることを認識する必要がある。
といった現実を踏まえて、日本固有の伝統武道とは何か?を考えなければならない。この現実を見たとき、モーガンさんが口にした「私は武道のホビーピープルではない」が私の胸に突き刺さったのだ。
しかし、紛れもない事実は、そのモーガンさんは武神館初見宗家の弟子であり、自らが初見宗家を永遠に師と仰ぐと言っていることだ。このモーガンさんの言葉を全て鵜呑みにした場合、初見宗家に何があり、モーガンさんをはじめとする武神館の外国の弟子たちは何を見ているのか?というところから、日本の伝統武道とは何か?が見えてくるはずだ。

● 世界から見たときに、特殊な日本の「武」

ここで述べているように、日本には軍隊がなく目指す敵も、守るべきものもない。ましてや学校教育として、日本という国を否定しているのだから、世界から見ればとんでもない国だということになる。そういった環境の中で「武術」が育つことなど、地球の環境破壊を食い止めるごとく有り得ない。志を育たない様に育てているのだから。
もちろん、その環境を享受している我々個人が、世界標準常識としての「国家意識(極右的発想ではなく、自分自身が生まれ育った国として、そしてアイディンティティとして)」なども育つはずもない(これらの問題は、提議することではなく、個人がいかに気付き行動しているか、に関わることなので詳しく述べない)。
しかし、世界では有り得ないこの日本の現状の中から日本の伝統武道家として、武神館初見宗家は世界の「武」の実戦者達から多くの指示を受け、世界中といっても過言ではないくらいの国々から感謝状や表彰を受けている。
そこに日本人、そしてその日本の伝統武道を「極める」という特殊性が見えるのだ。
先程、軍人と武士ということに少し触れたが、実はここに問題の核心が隠されている。軍人を極端化して言えば「戦うロボット」だ。特殊部隊や軍のエリートになればなるほど精緻なマシンとなる。国家の為に自らの生命を顧みず敵と戦う為に教育・訓練された戦闘マシンだと考えれば分かりやすいだろう。
その「国家」というところが「民族」や「宗教」と置き変わる場合もあるが、「○○(群れ)の為」に戦う、という点で同じだ。しかし、現代日本の風潮である「自分の為」といった、自分が属する世界という基盤を持たない幼児のレベルの幼稚な○○の為は論外だが……。何故幼稚なのかといえば、社会性を全く無視しているからだ。人は人社会の中でのみ生活できる、群れの中でのみ生きていくことが出来るという種であることを全く無視しているという点で幼稚なのだ。

話は逸れるが、オリンピックで日本の選手がここ一番で好成績を残せない原因の一つに、この「自分の為」というふざけた考え方がはびこっているからだ。揚げ句の果てが、「自分を褒めてやりたい」等という言葉が一流のアスリートから出る。世界は、自国の威信をかけて誇りをかけてプレッシャーと気合いが十分なのに、日本の選手はそういった意識を持つ事が間違っていると教育されているばかりに折角の能力が開花しないのだ。つまり、徹底的に過保護で幼稚な教育のおかげで潰れているのだ。
話を戻すと、こういったことは、是か否かではなくて「武」の大前提であり、世界共通の考え方というより人の本能だろう(動物レベルでの群れを守るというところから)。だから、もちろん武士だって同じだったということだ。主君の為、お家の為……、だ。
この時点では、日本の伝統武術が特殊だということは見えてこない。問題はこの先だ。西洋の軍人や日本を除く世界の国々に、伊藤一刀斎、上泉伊勢守、柳生石舟斎、針谷夕雲等に匹敵する境地を持った人物が生まれていないことだ。敵と戦い、戦う技術の中から生と死の価値観、自然・身体工学、人を含む対立物との関係性等を見い出し、全人格が極まった境地に到達したという歴史的に非常に特殊なものだ。
それこそ質は違うが、宇宙に飛び出した飛行士の中には、あまりにも日常を超越した体験の為に宣教師や牧師になった人達がいるのと同じようなものだ。
つまり、敵と戦うための偉大な戦士はどこの国も、いつの時代にも輩出している。それは、常に戦うという相対的対立関係の中にあるのだから、その中で素晴らしい功績を上げたり、武勇を誇るものが生まれて当然だ。日本では、こういった人達を「豪傑」と呼んでいる。豪傑という名称が残っているのだから、当然日本にも存在したということだ。といった意味において、偉大な戦士は決して特別なのではなく世界に共通して居る存在だ。
では、伊藤一刀斎、上泉伊勢守、柳生石舟斎、針谷夕雲等は何が特殊なのかだ。先程言ったように、武士であり戦うことを本文としているにもかかわらず「敵と戦わない」という境地に辿り着いてしまったことだ。こういった「戦わない」というような発想は、ほとんどが宗教家の専売特許(ほとんどが言葉だけだが)なのだが、その宗教と対局にある様な戦うことを本文とする彼らが戦う中でその境地に行った事が特殊であり、それを実際的に「剣技・体術」として表現したことだ。それこそが「無刀取り・相抜け」と呼ばれているものだ。
つまり、戦いながら戦わないという矛盾を見事に体現化したところだ。そして、その「術」を形成していく過程において、「自分自身を形成した・著しく成長させた」という構造を持っているということだ。この一点が日本という特殊な民族の特殊な部分だ。逆にいえば、こういった境地に辿り着いた人が出てしまった特殊な文化だということだ。その特殊性は、対立文化と非対立文化の区分けから生まれる。

日本を除く多くの民族は狩猟を糧として生き、日本民族は農耕を糧として生きてきた。そこから単純に見えてくることは、猟をする、つまり、対象の動物と対立関係であり、その対象の動物を制圧して自分のものにするという民族であり、農耕民族はいわずとも分かるだろう。
しかし、アジアの各地では日本と同じ農耕民族が存在する。しかし、残念ながら同じ農耕民族だからといってこのような人物を輩出していない。それは、同じ農耕民族であっても狩猟民族のごとく対立文化だからだ。それの根本原因は国土にある。地球の中の日本という国土は、砂漠でダイアモンドを探すくらい難しい、つまり、地球上では奇跡ともいえるくらい恵まれた国土にある、という大前提があるからだ。
その豊かな国土のおかげで、本当の意味での対立が生まれない環境が仕上がり、つまり、豊かだからこそ文化が練り上げられる余裕が有り、感性を形成したのだ。その文化が、ここで言う伊藤一刀斎をはじめとする全人格を極めた人を輩出したということだ。

● 日本の伝統武道は生きている

そこで、武神館初見宗家に話を戻せば、初見宗家は日本の伝統的な武術を海外で紹介しているのだが、そこにはここで言う二つの要素が入っている。一つは、「術」としての本質、つまり、ここで言う形骸化され固定化された武術の形式を紹介しているのではなく、「変化に即応する(大きくは、時代に対応している)」といった、本当の日本の伝統的な武術、という事の紹介。もう一つは、戦い方という具体を見せながら、実際には無刀取りや相抜け、つまり「戦わない」を体現している、という要素だ。この二つの共通点は「生き抜く」というところにある。ここが、世界で評価されている点だ。
 各国の戦士も要人警護の人達も、それぞれの目的が有りその為に武術を職業としている。その点において、縦横無尽に変化するという考え方が支持され、叉、行き着くところ自分の生命そのもの、敵の生命と向い合わなければならない。つまり、社会的個人から止揚され再び個人に問題が移り替るということだ。その時に、指針となるものが必要になる。大方の場合それは宗教なのだが、それを戦う技術として具体的に体現している初見宗家と出会い、自分達の持つ価値観や概念をひっくり返されてしまったのだ。
 それは、以前紹介したように、外国の戦士達に「初見宗家は父以上の存在だ」といわしめていることで分るだろう。簡単にいえば、初見宗家の全人格に、武術を通した人の成長・人の偉大さを発見し、自分達の目標と設定したということだ。
 というように、「生き抜く」という全く違った発想を初見宗家を通して知り、日本文化を捉え直しているのが、武神館武道を学ぶの外国の人達だ。当然のことながら、無刀取りや相抜けを武術の絶対的必要要素とし初見宗家が体現しているのだから、つまり、「敵と対立しない」を体現されている技の数々を理解することは不可能だ、といったところからも、支持されているのは確かだが。
 こういったところが、現代における日本の「武道」の存在意味であり、伝統を受け継ぎ現代においてもその伝統を歪めることなく体現しているということになり、初見宗家をして日本の戦国時代は現代に生きていると言えるのだ。
 つまり、時代錯誤の刀や槍、弓等を武器とした伝統武術は、その形式に意味があるのではなく、ここで言う要素を獲得するために必要な材料に過ぎない、という考え方を持ち、「戦わない」という境地を体現することを目的とし、大きな志が自分自身の心の中に形として形成されたとき、本当の意味で日本の伝統武道は再び甦る事になると結論付けたい。