「武」についての本質的な所を雑誌秘伝に掲載したので、秘伝読者では無い人の為に一部変更して紹介する。



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 武の存在意味1 武の存在意味2 オランダの子供教室 拳銃と武術

「武」の存在意味
      そして 「武」が鍛えるべきもの

                     
●「武学」はオランダにあった
 先月号で紹介した、35ヵ国から700人余り集まった武神館宗家初見良昭師のオランダ大会。私は大会終了後、要人警護のスペシャリストや各国の軍隊警官などを教育しているモーガンさんに連れられ、現地の武神館道場を見学した。その練習内容を見て、日本に失われた武術そのものがそこにあったことに驚いた(一部内容は先月号コラムで紹介した)。
 中でも秀逸の稽古は、小学生低学年の子供たちが立っているところに、大人のインストラクターが子供に危害を加えに近付いてくる。小学生たちが自分の身の危険を感じたとき、全身を振り絞り「ストップ!」と大声を張り上げる。インストラクターは、その「気迫」にたじろぎ動きを止める、というものだ。
 これこそが「正面向かい合い」だ(筆者著「武学入門」で紹介)。「武」の原点であり、人間関係の基本を作る訓練がここにあった。
 この訓練法は、私が武術のエッセンスから取り出し、一般者向けに行なっている「武禅」というセミナーの一カリキュラムと同じだったから驚いたのだ。もちろん、この練習方法は、私自身が編み出した唯一のものだとは思ってはいないが、日本から遠く離れたオランダでお目にかかるとは思っても見なかった、という驚きだ。
 オランダで行なっていた練習は、子供が対象だから「声量」と「気迫」をメインに行なっており、私の言う「声を届かせる(意識を相手に反応させる)」そのものではないが、結果としてそこにも辿り着く可能性のある練習だ。(人の仕組として、意識【感情を基本とした】が相手に届けば行動は変化する、があり、意識が届かなければ変化しない、つまり、ここで言えば、子供たちの意識がインストラクターに届けば行動が止まる、ということだ。)何故、そういえるかといえば、相手に対して正面から声をぶつけない限り、相手の行動が変化することはない。意識がお互いに感応するので、感応が肉体的運動に変換され行動が変化するのだ。この場合でいえば、相手がひるんだり行動を停止したり、ということだ。
その「正面(意識が正面を取っている)」から、というところが「声を届ける」に繋がる必要最低条件だからだ。つまり、日本の伝統的な「気合い術」につなげるための最低条件であり、「武」の原点をここオランダの地で行なっていたのだ。
 子供たちが繰り返す練習を見ていて、ボディガードのスペシャリストである女性の先生が見本を見せた。それは、相手に今にも飛びかかり噛殺さんばかりの迫力のある「気合い」だ。ライオンやチーターといった動物が、今、正に獲物に飛びかかろうとする気迫だ。ここの子供たちは、紛れもなく「本物」の「武」を見て感じ育っていることをうらやましくも悔しくも思った。
 日本でも武術の色々なジャンルで「気合い」を掛ける、又は出す、は存在するが、現代剣道のごとく「奇声を発する」や「ただ大声を出す(しかし、大声も出せない人達が武術に取り組んでいる不思議もある)」といった、殆どが本質とは全く異なった方向に進んでおり(自己満足であり、自己に対して出している場合が殆ど)、「相手との関係性」など全く無縁のところに有るのが現状だ。
 「武学」ということで補足をすれば、これが出来ないかぎり人とのコミュニケーションが成立しない、つまり、相手が自分を受け入れてはくれない、自分そのものが相手に届くことはないし、それが出来ないかぎり逆に、口先だけの人間を見抜けないという、人が社会生活をする上で絶対必要な能力である。
● 「武」という強さは
 「武」である最低条件は、「強さ」にある。そんなことは、小学生でも知っていることだろうし、まして何らかの武術に取り組んでいる人達は百も承知のことだろうし、それが目的でもある。しかし、それをあえて問題として提出したのは、現在日本に存在する武術には「強さの定義」が曖昧であり、武術そのものの目的が余りにも本来の武術とは遠く離れたところにあるからだ。
 敗戦後、日本の武術はアメリカGHQによって禁止された。しかし、日本から「武」が無くなるのを恐れた心ある武術家達は、その中をくぐり抜けて存続させた。しかし、くぐり抜けた武術であっても、ここでいう「気迫」の表れとしての「気合い」を禁止された。「武」禁止の理由は誰にでも分かるだろう。アメリカは、いや世界は開国百年来日本人を恐れていたからであるし、その恐れの根源は日本人の中に流れる精神にあるからだ。だから、日本人の精神的支柱の一つである「武」を禁止したのだ。
 つまり、まるで敗戦直後の骨抜きの「武」が現実だからだ。
 現代は、江戸時代後期のように「武」そのものが実用的価値はなく、活用する現場がないところから、武の本質である「強さ」を抜いてしまった分けの分らない「技(技術論) 」が花を咲かせている時代だ。いわば、「技のための技」「道場稽古のための稽古」だ。井伊大老暗殺の桜田門事件の時、指が沢山落ちていたという。つまり、その時代も「強さ」を抜いた剣術が花開いていたということだ。「精神的な強さ」が育っていなかったから、実際に現場に直面したとき、パニック状態になり夢中で突進するのみで剣「術」など役に立たなかったのだ。だから、指が沢山落ちていたということだ。
 つまり、「武」に取り組んでいる、という大前提からどういった「強さ」が「武」の言う強さなのか、本当に私(筆者)は「武」に取り組んでいるのだろうか?といったところに、今回のオランダ旅行は改めて気付かされたから、基本的な問題を洗い直し自分自身で取り組みしなおそうと考えたのだ。
 冒頭で書いた、オランダの子供たちの「武」の稽古と日本の子供たちの稽古の違いは、「気迫」と「現実感」の有る無しの違いにあり、結果として大きな差に表れている。オランダの子供たちからは「強さ」を感じさせられた。別段、突きや蹴りをやっているのでもなく、剣の形をやっているのでもない。鬼気迫る「気迫」から強さを感じたのだ。
 その強さこそ「武」そのものではないのか、「武」が作り上げる人間的強さではないのかとその時実感したのだ。それは、子供たちの差だけではなく、私たち大人たちの差でもある。その差はどこから来るのか?簡単に言ってしまえば、平和の国日本に「武」など本質的には必要のないもの、と言う認識が差を作り出しているのだろうか。
 しかし、ここで言う「武」は、日本に伝統的に有る「武」をさしているのであって、近代になり輸入された西洋的なものをさすのではない。しかも、オランダで「武」を学んでいる子供たちは、紛れもなく日本人初見良昭師を宗家とする伝統的な武神館武道なのだ。
 実際として、日本には現在も「武」を掲げるジャンルというか形式と言おうか、それはどちらでも良いが存在するのは確かなことだ。その「形式」の中に「武」は存在するのか?と言う問題だ。
 つまり、「武」が内在させる「強さ」は存在するのか?それは現在の「形式」によって作り出せるものなのか?という根本的な問題を、自分の問題として改めて抱え込まざるを得なくなってしまったのだ。ここが抜け落ちている限り、それはもはや「武」ではない、アメリカが骨抜きにしてしまった敗戦直後の武術風スポーツ、つまり、ゲームだ。
● 戸塚ヨットスクールセミナー
 JR新神戸駅の上にあるオリエンタルホテルで、戸塚校長のセミナーが開かれた。これは、毎月定例のセミナーで、全国各地で開かれているセミナーの一つだ。
 戸塚ヨットスクールの訓練風景は以前本誌でも紹介したが、その時はウインドサーフィンに初挑戦した私の、いわゆる運動技術論としての日野理論が通用した、というものだった。
 戸塚校長と私の出会いは、数年前大阪の大学で行なわれた、大きなオープンセミナーで私も戸塚校長も共に講師で呼ばれて行った時に端を発する。セミナーの講師として参加したのは、マスコミを賑わした、それこそ悪名高き戸塚ヨットスクールの校長も講師でくる、と主催者に聞いたので、本当はどうなのかを自分の目で確かめたくて参加したものだ。
 戸塚校長も武道家も参加する、と主催者に聞かされ、当時校長自身が「五輪の書」を研究していたところから、いくつかの疑問があり、それを解明するチャンスだと感じ参加されたそうだ。お互いにゼミの時間がずれており、戸塚校長のゼミが私のゼミより先に有ったため、校長のゼミに参加させていただいた。
 そこで、戸塚理論の実践と成果をじっくりと聞き、また、ゼミに参加されていた問題児を持つ母親とのやり取りを見、戸塚校長の大きく優しい人となりを実感させていただいた。その問題児を持つ母親が戸塚校長に質問したとき、「その問題は、お子さんの問題ではなく、お母さんが問題でしょう。だから、お金は要りませんから3カ月ほどうちでトレーニングをしませんか?お母さんが変わればお子さんはすぐに変わりますよ」とおっしゃった。何と現実離れした優しさなんだ、と深く感動した。しかし、そのお母さんは、自分でリスクを背負いたくないから、何だかんだと理屈を並べて自己弁護をしていた。余りにも埒が明かないので、「校長ちょっと一言発言させていただいていいですか」と校長の許可を得て、「こらっ,おばはん!校長が今言っていることが分ってんのんか」と一席ぶってしまった。
 この出会いで、戸塚校長の人となりに直接振れる事が出来、マスコミの偏った報道を改めて実感したものだ(※戸塚ヨットスクールとは、問題児や非行を治すために作られたものではない。国際的なヨットレースで優勝するなど、特に1975年、沖縄海洋博記念「太平洋〜沖縄・単独横断レース」で、41日間という驚異的な世界記録で優勝〈太平洋独りぼっちの堀江氏の記録は3カ月〉、未だに破られていないというような輝かしい実績を持つ戸塚氏が、世界で通用するヨットマンになるためには子供の時からヨットをはじめなければ駄目だ、ということで始められた純粋にヨットマン育成の学校だ。そこに、たまたま小学校5年生の登校拒否児が入校。しかし登校拒否を治すことが目的ではないので、ヨット訓練の足手まといになるので早く止めさせようと少々手荒く扱った。ところが1週間もしたら登校拒否が完全に治ったところから世間の評判になり、そういった問題児が多数来るようになった、という経緯だ。)。
● ヨットスクールでは「影伝」が教材として使われていた
筆者「校長、ご無沙汰しています」
戸塚「日野さん、この間はありがとう、この『武学入門』は素晴らしい本だ。『往なす』というのが、あれほど深い意味を持っていたとは知らなかったなあ」
筆者「いやあ、ありがとうございます」
戸塚「影伝といいこの武学入門といい、本当に分かりやすい、影伝でおっしゃってる『無意識反射』は、いくらでも活用できるよ、おかげで出来ないと思っていたジャイブも平気で出来るようになりましたよ」
筆者「使って頂けたら、ありがたいです」
戸塚「スクールでは教材としても使っているんですよ、送り込まれてくる子供達に影伝を見せ、ものの考え方やとらえ方、そこから自分の考え方を作る、ということをさせているのです。この間、面白いことがあってね、その生徒の一人が、散髪をしてやっていたらもっと短くしろ、というんですよ、それで短くするともっとだ、というんです、それで、お前何か反省しとるんか?と尋ねると、スキンヘッドにしてくれというんですよ。日野さんに憧れちゃってスキンヘッドにしてしまったんですよ、スタイルから入っても駄目だ、といってやったのですが、彼等も色々な意味で強くなりたいのですね」
 セミナーでは、問題児の特徴、問題児を持つ親の特徴、戸塚理論から見た精神分析や心理学の矛盾等々、そして、戸塚理論の根幹である「脳幹論」を分かりやすく紹介された。叉、何故問題児が生まれるのか?も教育論や動物学的見地から話された。それらは統括して、戸塚理論はこういった問題を一言で括る「脳幹を強くしてやればいいんですよ」と。
 セミナーが3分の2ほどすんだ時、戸塚校長が「今日は日野先生がお越しになっているので、少しお話をしてもらいましょう」と紹介されてしまった。「えー、今日は戸塚校長のお話を伺いにきたのですよ」というやりとりの中で、武神館宗家初見良昭師とオランダで武神館武道を学ぶ子供たちの話、叉私自身の子育て体験から子供はほめなければ強くなるいう話をさせて頂いた。
● 戸塚脳幹論は「人を強くする」
 「脳幹を強くしてやればいいんだ」、この一言が、武術から強さを求める私と戸塚校長の接点だ。つまり、「強くしてやればよい→強くなれる」という確たる理論が戸塚校長にはあり、この「強い」が「人としての強さ」をさし、「武」が内包する「強さ」であり目的としての「強さ」でもあるのだ。 
 戸塚脳幹論を一言で表すことは出来ないが、敢えて言うならば、まず、脳幹は大脳、小脳と脊髄の中間に位置する部分で、「間脳、中脳、橋、及び延髄」がこれに含まれる。間脳には、自律神経の最高中枢があり、内臓器官の調節を行う中枢も有る。延髄には、呼吸や循環機能の中枢や、その他、生命を保つのに必要な中枢がある。
 つまり、生命そのものとダイレクトに関っている器官だということだ。この脳幹が弱っている(開発できていない)ということが戸塚論で言うところの「弱い」にあたり、問題児の共通項だ。
 したがってこれを強くしてやれば良い(開発してやればよい)、ということだ。戸塚校長が常に口にされる、「人間の行動原則は『快を求め、不快を避ける』だから、感情が人に行動させる」というのがある。そこから、「罪の意識」と言う本能を考えたとき、間違った行動を止める働きが「罪の意識」には有る。例えば、子供を叩いたり首を締めたりすれば、子供は痛がり苦しそうな声を出す。その情報を、目・耳で受け取ったとき、私たちの脳は情報処理をし「罪の意識」という不快感を発生させる。そして、その不快から逃げるためには、今の行動を止めなければならない。だから、子供を殺さずにすむ、という図式になる。
 つまり、本能の強い人ほど「罪の意識も」も強い、ということになるのだ。その強い本能をベースにして、道徳や倫理という理性を作り上げる。そうでなければ、道徳的倫理的な人間にはなれない。例えば、現在起こっている少年犯罪で人を殺しておきながら「罪の意識がない」「淡々と話をしている」「早く家に帰りたい」等と、一般的には首をかしげたくなるような態度をとる少年がいる。これらは、理性の問題ではなく、本能が希薄になっているからであり、その特徴は、表情に表れている、とおっしゃっている。
 簡単に書いてしまったが、この「脳幹論」で過去六百人以上の問題児を預かり、それこそ、殆ど百パーセントの確立で問題児達を立ち治らせているのだ。つまり、脳幹を鍛えること出来る(開発する)、ということと、そうすることで「人は強くなれる」、問題児達は強くなれたから立ち直れたというケチの付けようが無い証だ。
 ここで読者は、この戸塚理論は問題児、つまり、脳幹の弱い人を強くすることが出来るが、武術で言う強さとは違うのではないか?と疑問を持たれる方も居られるだろう。しかし、何一つ違うことはないのだ。(続く)