武の存在意味2
雑誌「秘伝」に掲載した「武の存在意味・戸塚ヨットスクール校長との対談」の続編です。若干の書き換えで紹介します。
「文武両道」が「人」を作り上げる
● 「脳幹」が開発されていない人達
戸塚理論が言うところの「強い」に興味を持ったのは、いわゆる問題児は様々な面で「弱い」ということであり、だから「キレる」という防衛行動にでる、そうなのだから「強くしてやればよい」という単純明快な切り口と実績があったからだ。
この「弱い」は本能に関る「脳幹」が受け持つ、という実に具体的なところまで解明されており、さらには、人は「文武両道」によって形成される、と明確におっしゃっておられるからでもある。
こういった「キレる」という問題は、現実的には問題児といわれる少年や少女達の問題だけではなく、その問題児を育てている親達も環境としての大人も同じ問題を抱えている。更に言えば、私たちそのものの問題でもあるのだ。
その親達も「弱い」から、守らなければならないはずの子供を守れずに、親が子供に対して防衛本能が働き、子供を守らずにキレる。そこで責任転嫁という悪知恵で、カウンセラーや病院、学校、はたまた社会へと問題を持っていき攻撃をする。持って来られた人達は、これ叉「弱い」人達ばかりだから、「子供の意見をよく聞いて」「学校ではいじめはない」などに代表される、これもまた相談されている個人が答えを出すのではなく(本人達は出しているつもりの人もいるが、頭が悪いのでそれが分からない)責任転嫁をし、解決にも何もならないことをさも分かった風に当事者の親達にアドバイスをする。結果、現在の多くの事件になっているのだ。とにかく、全てが弱いと言い切れるだろう。
つまり、「弱い」から、自分で責任をとれないのだ、だから、問題をうやむやにしたり先送りしたり、自分の責任回避という行動だけを取るのだ。
校長「いやあ、日野さん親はひどいもんですよ、ベンツで子供をヨットスクールへ連れてきて、犬や猫の子を預けるように『何とかしてくれ』でしょう、挙げ句の果ては費用を払わない人もたくさんいるんですよ、正に、この親にしてこの子ありですよ」
本来、子供に対して働くはずの無い防衛本能が働いてしまうという、種保存という生物の本能から見れば、実に無茶苦茶なことが起こってしまうのだ。親が子供に対して防衛本能が働く、親の本能が弱いからその上に乗るべき理性も貧弱だ、当然すぐ極限にまで達する、つまり、パンクするキレる、だ。すると、子供を殺す、子供を虐待するという行動に出る。
つまり、親(大人)も「弱い」のだ。といったところから「弱い」の実体を戸塚理論では「脳幹が正常に働いていない」、つまり、脳幹が弱っているのだから鍛えてやればよい、ということになり、それをヨットという道具を使って鍛えることをし奇跡的な結果を生みだしているのだ。
2年前、私の道場に来られた戸塚校長が「日野さん、今や戸塚ヨットスクールでは問題児を立ち直らせることは一寸やそっとでは出来ない、日野さん所のやり方ではだめだろうか?」と言われたことがある。これは、戸塚ヨットスクールの問題が尾を引き、やれ体罰だ、虐待だと無責任極まり無いマスコミが報道し、警察もそれに乗り「人の成長」「躾け直し」という根幹を何も分からずに監視しているものだから、本当に重要な「危機感を根底にした本能の開発」を短期間で植え付けることが出来なくなったからだ。つまり、脳幹を鍛えることが困難になってきたというのだ。
私は、「武道ではもっと無理があります。だって、本当に木刀で殴らないと知っているのですから」と答えたことがある。最終的には、山の中に一人で放り出して3日後に迎えに行く、といった方法しかないのではないか?などと案を出しあったものだ。
● 「武」の存在意味と大前提
ここで言う「弱い」「強い」は、直接的に「武」に繋がっている。つまり、「武」により何を鍛えるのか?という問題だ。叉、何が鍛えられるのか?という問題だ。間違っても「武術」ではない、「術」以前の「武」だ。となると、「武」とは何か?を押さえておかなければならない。
「武とは、自分の生命を投げ打っても守るべきものを守る力」、というものであり、それは具体的には、自分の家族であったり群れであったり大きくは国家を守る力だ。そして、自分自身の志というべきレベルの高い目的を守る力でもある。だから、今日よく武術でうたわれている「自分自身の護身のため」とは、全く正反対に位置するものだ。
これは、動物で考えてみるとよく分かる。猿でも野犬でも、とにかく群れを持ち生活する動物にはボスがいる。もしも、自分の群れが他の群れや、天敵に襲われそうになったとき、身を挺して群れを守ろうとする。もちろん、家族単位で生活する動物は、家族の危機の時には家族を守ろうとする、これが「武」の本質としての存在意味だ。たとえ、草食動物であっても肉食動物からの襲撃に立ち向かい、自分の子供を守ろうとする。だから、強くなければいけない、ということは大前提にあるものだ。
この図式はそっくり人間に当てはまる。「武士」という職業軍人が誕生したときに「武」が始まったのではなく、何万年という人の歴史の始まりとともに、それがオーバーな表現であるなら、弥生時代に集落で生活するようになったころから存在するものだ。だから、当然どんな民族にも存在するものであり、「武」という括りで言えば日本独特のものではなく、動物共通の本能なのだ。
といった「武」の本質を、現代において道場武術で鍛えることは出来るのか?という問題だ。
道場では、「武」は潜在的にあるもの、もしくは、「術」を極めていけば「武」は育つ、と解釈しているか、そういったことを知らないか、だ。
つまり、人には潜在的に「武」がある、としているのか知らないのか、ということだ。先月号で紹介した、武神館オランダ道場での子供たちのトレーニングは、正にこの部分の教育を行っていたのだ。彼等は、人武を鍛えなければ育たない、という極々当たり前の考え方で子供たちに接していたのだ。
● 文武両道とは
日野「戸塚校長、改めて聞きますが人は誰でも強くなれるのでしょうか?」
校長「もちろんです、誰でも強くなることは出来ます。どうしてヨットやウインドサーフィンかといえば、人は陸で生活するするようになり、水というのは危険なものである、と認識しています。だから、水に落ちる恐怖、そこから這い上がろうとする力、そういったことが『脳幹』を刺激し、正常に働くようにさせるのです。具体的にいえば、細胞は、外から掛かる負荷に応じた機能を持とうとします。そこから考えれば、脳細胞に精神的負荷をかけ、それを取り除く行動をする、ということです」
日野「取り除く行動というのは、以前校長がおっしゃっていた『本能は、快を求め不快を取り除く』というところの、取り除く、ということですね」
校長「そうです、そしてその負荷は、我々の脳が予定している最も質の高い負荷で、それを適量与えるということです。最も質の高い負荷とは、誰にでも分かる通り『生きるか死ぬか』です」
日野「なるほど、するとそれを取り除く行動とは、『生きようという行動』になるわけですね」
校長「日野さんなども経験があると思うのですが、危ない遊びをしたでしょう?」
日野「そうですね、今から考えると相当危険なことをして遊びましたし、危険なことが遊びだったですね」
校長「昔の子供はなぜあれほど危ない遊びをしたのでしょう?細い木の先まで上っていったり、橋の欄干の上を渡ったり、階段の手すりを滑り降りたり、親が見たら心臓が止まりそうなこの行動は、本能のトレーニングのために行われていたのです。動物としての人はこういったことを無意識的に知っているのですね。それが、幼児の頃からゲームだ、塾だと強制することで本能の開発、つまり人間性の開発を全くしていないのです。だから、こういったところにある恐怖を、ヨットスクールでは人工的に作りだしているのです」
ここで言う『生きようという行動』は、ドーパミンを大量に分泌する、つまり、脳幹が刺激されているということであり、そのことが本能を鍛えているということになるのだ。だから、結果として「強い身体(健康という意味も含めた)」の基礎を作っていることにもなる。
日野「ところで、校長は『文武両道』と唱えていらっしゃいますが、校長のいう『武』とは、どういったものを指しておられるのでしょうか?」
校長「文武両道とは、バランスのよい理性を作り出す為のものだと言うことです。『武』は『情・意』を強くしますから、実践において進歩の法則をつかむことが出来ます。『情』とは、本能に関る感情のことで、『意』とは、意志のことです。だから、強い感情強い意志となるわけですね、感情が弱いとすぐにキレる、意志が弱いと何事も成し得ない、そこから言えば、先程の『快を求め不快を避ける』の『快』は非常にレベルの低いもの、例えば、何もしないということでしょう。そして『不快を避ける』はやはり何もしないということになりますが、そこに少しでも負荷が掛かると、つまり注意などを受けるとキレるという行動で不快を避けるのですね。したがって、大きな負荷、例えば長年にわたって修練しなければ身に付かないことには手を出さないし出せない、しかし、大きな負荷をかけた人は、大きな喜びがあり満足感を得る、といった図式です。だから、これらを強くすることが強い理性を作る根幹になるのです。そして正しい理性を育むことで本当の意味で強い人になる、ということです。強い人は強い力を持つ、その力は群れのためにあり、自分のためにあるのではありません。その使い方を間違ったものが暴力です、この辺りもきちんと押さえておかなければなりませんよね」
● 術を習っても強くはなれない、強いから術を学び使えるのだ
ここで言う「強い」は、「強い本能」ということであり、それはバランスの取れた人のことをいう。そしてこの「強い」が人の根幹であり、「武」の根幹でもある。とすると、この根幹を鍛えるべき何かが現代の武術に存在するのか?と考えざるを得ない。
何を言いたいのかといえば、冒頭で述べた「弱い人」や「問題児」は、マスコミの中にだけ存在するものではなく、例外なく私たちをも含んでいるのだ。つまり、私達が「弱い」という局面に出会ったときに「弱い」ということが分かり(自分の世界以外の世界で自分を通用させようとしたとき、自分の世界観が狭ければ通用しない、という局面が訪れる。その時に自分の弱さを発見できるのだ。だから、色々な世界を体験しなければ自分の弱さを知ることが出来ない)、少年が「問題」を起こしたときに「問題児」となるだけで、そのベースに流れているものは殆ど同じだということだ。
なぜなら、戦後、日本国中同じ価値観の教育を受け育っているからだ。そこに例外の入る余地はない。
そして私達は、戸塚校長がいう「文武両道」の「武」に取り組んでいるにもかかわらず、「術」には取り組めても「武」には取り組めない。つまり、脳幹を刺激するべき質の高い負荷「生きるか死ぬか」が存在しないということだ。
もちろん、そういった環境の中でも武神館の初見宗家のごとく「強い人」は存在するが、それは現代において極稀なことだと言っても言い過ぎではないだろう。未だ、GHQの亡霊にうなされているのだ。
そういった「武」という基盤が確立されていないところに、「術」が乗っかっても何の意味があるのだろうか。いや、乗っかるのだろうかという問題だ。まるで、学校の授業のように、また学習塾のように人生にとって人間にとって意味のない「方法論」だけを展開したところで、学問を「何に使うのか、また本当に自分は使えるほど強いのか」という根幹がおざなりにされた現状で、何が育つのか、何が鍛えられているのか?だ。
勘違いしないで欲しい、「術を習ったから強くなるのではなく、強いから術を使える」のだ。決してこの逆は有りえない。これは、勉強の本質と同じだ。頭が良いから色々な学問を修められるのであって、学問を習ったところで頭は良くならない、その学問を知ったに過ぎない、社会見学したに過ぎない、したがって学問を活用することは出来ない、高校を大学を卒業し、社会に出ればそれまでの勉強では全く通用しない世界に入るという事実が、意味のない学校生活だったということを物語っている。
そして、ここにも「何に使うのか、使えるのか」が全く存在しないことにも気が付くだろう。こういったことは、私自身が大手企業の新入社員研修などに関っていたこともあり、如実に感じる問題だったのだ。とにかく、使い物にならないのだ。
武術という世界も、ここで言う現代の間違った教育システムで育ってしまい「弱い」「事実と正面から向い合えない」人間になってしまった私達、また、その子供の象徴としての「問題児」、を作り出すことと同質の間違いを犯していっていることにほかならない。
● 私は「武」のホビィピープルではない
少なくとも、私が出会った武神館のモーガンさん(イギリス人)は、ここで言う脳幹が鍛えられたバランスのよい理性を備えた強い人だ。彼が、つぶやいた一言は強烈に私の魂に突き刺さった「ミスター日野、私は皆のように武道のホビーピィプルではない、武道を生きているのだ」
彼は、武神館初見宗家に約二十年間ついており、これからも永遠に師だという。中学を卒業し軍隊に入り、その後民間で武術教官として、また、要人警護のスペシャリストの養成をして活躍している。その彼が、師と仰いでいるのは、日本人の初見良昭師だ。
彼は、ここで言う質の高い負荷を「軍隊」という中で体験し、要人警護というところでも体験し続けている。そして、「武」の本質である、「自分の命をかけて守るべきものを守る」を実際に実現している。つまり「強い」人だ。彼と話をするほどに、ここで取り上げた問題が身体から沸き上がる。「武」を獲得し「術」を学んでいる人は外国にしかいないのだろううか?
日本の伝統文化の一つであり、百余年前日露戦争で大敗を喫したロシアの社説に掲げられた、「日本人は世界にとって驚異である、今からその対策を練らなければいけない」と日本人を恐れた根源である「武」が残っているというならば、そして受け継いでいるというならば、ここで言う「武」そのものを示し、また鍛錬の方法としての「生きるか死ぬか」を提示しなければならない。
その時こそ、我々日本人がGHQの呪縛から解き放たれ、本来の日本人が甦るのだ。![]()