●67回〜73回

73回武禅レポート(1泊2日)

声を届けるのがこんなに難しいとは、全然思っていませんでした。
最後全員で、早口言葉をしたのは、メチャ燃えました。
今も、身体が熱いです。のども痛いです。
だけど、気分爽快!!相手に真剣に声を届ける入り口を感じました。こころもからだも、開放感で一杯です。

相手の声を聞く姿勢は、今までいい加減だったと気付かされました。
人の話を聞く態度ではない自分に、誰が真剣に話をしてくれるのか、と自分が情けないです。

3人で三角形を作って「生麦〜」「隣の客は〜」、ようは意味のない言葉を精一杯相手に届かせようとする練習。
はじめは単調にローテーションしていたが、途中から相手に向かって言い返すことも出来るようになると、俄然ヒートアップした。
言われた相手に対して「何だこの野郎・ふざけんな」みたいな気持ちを込めて言い返すと、自然と身体が前のめりになり手も動いてくる。
あっ、伝えたいというのはこういうことなんだな、と感じた。
ただ、時々冷める一瞬がある、これはどういうことなんだろうか?



相手と向き合うポイントが合ったときは、すごく気持ち良かったです。先生が針の穴で会うぐらいと言っておられた様に、ピッタリ向き合えた時、すごくうれしかったです。
きちんとポイントが合ったときは、身体の真ん中ですごく大きな何かを感じました。
胸骨の引き上げも、引き上がると視野も驚くほど広くなり、気分がUPしたので猫背は駄目だと改めて思いました。

腕を引くは、めちゃめちゃ楽しかったです。
先生が私の手について来て、まるで自分の分身のようでした。
あんな風に、相手に身を任せるのも、相手と向き合えてこそなんだと思いました。
自分は相手に身を任せるのが出来ないのが悔しいです。
でも、何も考えないで身をゆだねると、少し気持ち良かったです。
相手の身体に触れることで、色々なことが伝わってくるのが面白く、相手と関わる気持ち、相手を感じられるようになりたいです。

感じられない、頭で考えるとかえって良くないので、感じられないことについては考えない方が良さそうだ。
感じようと務めることに集中しよう。
人の話も聞けていない。聞いたまま受け入れよう。
「わからない」というのは違う。
頭の中で作ってしまわないように。

自分が人と向き合えていない、ということが分かった。
それだけでも充分収穫だ。
今まで自分がぼんやりと感じていたことだが、今日、人と向かい合うことによって、先生の話を聞いて、それが自分の中ではっきりと形になった。

人と向き合うのは頭でも目だけでもない、というのは分かっているつもりでしたが、本当は日常では、人と向き合っていないことがあると気付き、相手にも失礼であることに改めて気付きました。
リアルな相手と向き合うことが、リアルな自分に繋がっていくのかなと。

最後の先生への「こんにちは」、自分が向かっていき、それに応えてくれた時、身体の中から出てきた温かい気持ちがとても気持ち良かったです。前回の武禅の時も一度だけ、同じような体験をしましたが、とにかく心地良かったです。

受け取る姿勢はすごく難しいと気付いた。先生が前に来たとき「こんにちはを届けたい」と思った。
そして、受けとめてくれる何かを感じた。
受け取ってくれたときの、届いたときの感動は、言葉に表せない。
普段の自分が、相手ときちんと向き合えていないことを、はっきりと自覚した。
相手との関係にこれだけ感動でき、嬉しいことなのに、自分は何て無駄にしてきたのか!自分から逃げないで、取り繕わないで生活したいです!

「ナマムギ」の言い合いでは、お互いの言い合いのぶつかりあい、自分が必死になるのではなく、相手に「なんだコノ」という感情でぶつかっていけたのは、日頃ないことなのでとても気持ちよかったです。

正面の合わせあいを、何度も調整しながらやっていると、合わせるための時間がどんどん短くなっていく。
お互いがお互いとも、合っていると感じた場所、そして、こちらが何か身体の中心に圧のようなものを感じている時、その状態で相手から話しかけられたら、自分はちゃんと、相手の話を散漫にならずに聞ける。
相手の話をちゃんと身体で受け取れる自信が湧いた。


 

 

71回武禅レポート(2泊3日)

「何かつっかえていたものがとれ、とてもスッキリした感覚です。
自分が人から見てどんな人物なのかを、本当に見せられたと感じています。
問題は自分の中にあり、答えも自分の中にある。ただそれに気が付いていないだけで、気が付く為には他人が必要なのだと感じました。
いかにぬるま湯の中で生きてきたか。
でも、その中でモヤモヤしていて、それを何とかどうにかしたくてここに来て3日終わった今、自分の身体がとても暖かく感じています。
これからは、しっかりと自分で決めて、前に進んでいきたいです。
人は一歩一歩しか進めないけれど、その速度は速めることが出来る。実際、今の自分が3日前の自分とは違うということをありありと感じているし、それはとても嬉しいです。



何も書けない位、すごくすごくワクワクして気持ちが高ぶっている。
他人が他人ではなく一つになれる。
これは凄いことだ。
自分だけのことではなく、他の人の喜びや悔しさなど、諸々のものが伝わってくる。
自分が声を届けたい人に声が届いたときのワクワク感と、他の人の声が届いた時のワクワク感に変わりがない。
独りよがり、自分勝手とはどんなことなのか、本当によく判った3日間だった。

充実した3日間で、色々な事を感じることが出来ました。
身に自然に入って来ている事も感じられただけで、忘れてしまいそうにぼんやりしている事もあるのですが、物事に向かう時の意識が変わったので、体の中から何か変化がありそうな感じです。
今のような心地の良い緊張感を持ち、日常を過ごせるようになれば、舞台に立った時の、自分の立っている場所から見た世界も変わりそうです!

3日間の武禅で一番身にしみたのは「他人と自分」の間に、もっと色んなことを見つけたり、生んだりできるんだなぁ、ということと、自分は「分からんからやる、出来ないからやる」ということを、もっとこころの中に持っていないと、すぐに逃げたり避けたりになるということ、あと、言葉とからだの隔たりを自分なりに改善するために、色々な行動と考えで試行錯誤してみよう、ということ。
とにかく人と会う、人と向かい合うことの中から、少しずつでも今の自分が見ていないものを見て行きたいし、見たくないと思っていたものも“勢い”をつけて、見れるようになりたいと思いました。



この3日間で、今までの生き方より、もっと自分に素直に人にも素直に生きていける方法を学ぶことが出来ました。

来てよかったです。きっとまだまだズレている部分があるのかもしれませんが、その時その時、人との関係において自分で決めて逃げずに自分を意識せず、集中して対応できるようにやってみます。



 

人の話を聞くことの難しさを痛感しました。
話を聞くには、聞くことに対しての用意が出来ていないと話がとんでもない方向にいってしまい、結局あれっ?何の話してたっけ?みたいになってしまうんだなとも感じました。

私の苦手な話を聞く・話すというセクションだった。最初の世間話では、ただただ相手の話を一生懸命聞こうというだけのものであった。
いつもの調子で、私の中で会話が弾むという感覚は無く、上辺だけの時間が過ぎていただけだった。
その後、先生からポイントのアドバイスを受け、明らかに会話の密度が変わった。
話を聞くという作業に、こんなに準備と技術が必要だったとは、目からウロコでした。
余り人と接するのが得意ではない、と言っていた男性は、聞き手の聞く技術にすっかり乗せられて、楽しそうに延々と話を繰り広げていた。

話をしたり、聞いたりしている時に、正面向かい合いをやった時のような、暖かくなる感覚があった。「聞く」ということは受身ではなく、自分から向かっていかないと「聞く」ということにはならないのだと感じた。
いかに今まで「聞く」ことをしていなかったのだろう。
会話はとても面白く「聞く」ことをすると「話す」ことが、今までと違って感じられた。
今までは、「言いたい、言いたい」という思いだけで話をしていた。今まで人と話をしていてこんな感覚があっただろうか。
もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
「聞く」とは、とても楽しいのだと知った。もっと、色々な人の話を聞きたい!

人と話をしている時に、今まではただ「聞いてますよ」と分からせる為に、相槌を打っていましたが、それは間違っていた。
どれだけ多くの人生を歩んできたか、それによって受け取ることも出来る、色んな体験があってこそ話を聞くことが出来るんだと思った。

ことばを交わすことで、自分もその人が見たものを見ようとするような感覚でした。
物事の具体的なディティールよりも、その人がどうしてそういう行動をしたか、あるいはしなかったのか、ということに触れるたびに、その人の見た景色が自分の前に広がっていく感じがしました。

「うまくいく人」と「そうでない人」いいほどがいるとき、自分は必ずといっていい程前者を選び、「うまくいかない」を実感することを避けたがっていました。
やっぱり失敗することが恐いのだと思います。
失敗だと捉えてしまう自分も弱いと思います。
自分が得意とする事への駄目だしは、ありがたく聞けるし受け止めるのに、苦手なことに対しては、駄目だしされると単純にへこんでしまうだけ、というのがあるのに気付きました。
中・高・大と得意科目を絞り込んで徹底してやることで、受験を乗り切ったこともあり、「できない」を追及したことが自分自身殆ど無かったです。
自分に対してもそうだし、他人に対しても同じ様なことを基準に行動しているんだと思いました。
「できることできそうなこと、でないこと」への恐怖心をしみじみ痛感しています。

「守ろうとしている」と先生に言われた時、核心をつかれたと感じました。
「もっと入っていくような感覚で」と言われた後は、さっきまでの頑張ろうとしていた力がとれ、肩の力がふっと楽になりました。
握手をしているように感じました。
普段でも、何か必死に守ろうとしているところがあり、そしてそのせいで「頑な」と言われ、無意味に何かを守ろうとしているのだろうと、どこかで感じていながらも、どうにかしようとしていませんでした。自分で自分を変えようとすることから逃げていました。
もっと余計な力を抜けるようになりたいです。
正面向かい合いは、実際に握手をしていなくても、まるでしっかりと握手をしているように感じられ、全身が暖かくなりました。

目の前の人と向かい合いながらも、他の二人の視線を感じるという稽古でしたが、目の前の人すら向かい合えない自分がいた。
前の人に集中すると他が見えなくなり、他の二人を感じようとすると目の前の人に集中出来ない。物凄く難しく最後まで出来なかった。
その後、一人と向かい合いをすると、午前中合わすことすら時間がかかっていた人と、数秒でピタッと来るものを感じた。
物凄く気持ちが良く、ズーッと永遠にこのまま時間が過ぎてもかまわないと思える程だった。
相手の人とピタッとなる向かい合いは、一本の線のようなものがお互いに繋がっているように感じた。
心がとても落ち着いている。
自分がそう感じている時には、相手の人も同じように気持ちが良いと言ってくれた。
物凄くうれしくなった!

ここのこの関係も今回限り、次に会う時にはそれぞれが変わっているし、同じメンバーが揃うこともない。「同じ事をしたってしゃぁないやん」と先生の声が聞こえてきそうです。
それが寂しいのでもなく、ただ、会えて良かった。同じ時間を過ごせて良かったと思ったら涙が出てきた。
卒業式で泣けない私の初めての体験…、とここまで書いて、何時でも何でも初めての出会いと別れなんだと気付いた。

“ナマムギ”のリレーゲームは私の苦手な事なので、出来るかと正直ドキドキだったのだが、何時の間にか慣れていて落ち着いている自分に驚いた。
次は何を言う、誰に当てる等を何も考えなくても動けるのは、多くの人にとっては当たり前のことかもしれないが、そうできないと自分で決めていた私には、そういうトロくささが嫌いなところだった。
今「なーんだ」という気分。先生との雑談の中でもあったが、持っていても仕方のないものを大事にしがみついていて、今やるべき事に目が向いていないのがありありと出てきた。
だから、これからどうするかははっきりとした。

 

「声を届ける」というセクションだったけれど、声ではない別の何か、それはエネルギーとか、思いとかという言葉を使っている何かを届けている感覚だった。
輪になってのゲームでは、正直負けまいと意地になった部分もあるが、「もっと私にちゃんと言え!!」と感じ、言い返した。
受ける方の稽古をやった時は、最初にきっかけを出す側でないとしても、準備が出来ていなかったり、きちんと向き合っていなかったりすると違和感を感じた。
一方的なものではなく双方向なのだと感じた。
これがコミュニケーションなのだと実感している。

 

「こんにちは」を2人向かい合わせでする受けの練習。いかに相手にとって話しやすい自分でいるか、最初にすごく言いにくくて壁があるように感じると言われる。
何度やっても受け取ってくれないと言われ、先生に見てもらうと「眺めている・観察している目になっている」と言われた。
「こいつはどんな奴だ」と見ている目。
自分ではそんなつもりはないのに!壁を作っているのは自分だった。

 

人と目を合わせて向き合うことが気持ちよく感じられたのは初めてでした。
その時は、頭の中で相手の考えやこころを探ったりしないし、自分の邪念もなく、ただ相手と通じた感じがしました。

 

70回武禅レポート(1泊2日)

「こんにちは」を血管が破れるくらいの気迫、気持ちでやり続けるうちに、今までの自分の限界を超え、相手を反応させる声に近づいていくのが分かった。
自分の声を相手の心に響かせることこそ、自分に足りないものであったので、この短期間の練習で感触を掴むことが出来、驚きと感謝でいっぱいです。
日々、車の中、山の中で鍛錬したいと思います。


目標を決めてそこに向かって動くのと、目標なしに動くのでは力の入り方に大きな差があった。
一点に向けて力を集中するよう意識することで、不可能だと感じていたことも可能になってしまう。
これは体の動作だけでなく、人間の生き方にも当てはまることだ。反対に一寸したストレスを受けただけで、自分の実力を発揮できなくなる。
人間とは非常に敏感な生き物であることを実感した。


日々がぼやけている。
そうだから人に声をかけても伝わらないのかもしれない。
何となく話す。
何となく言葉をホッポリ出したり浴びせていく。
あの人に言葉を伝えるのだという明確な意思がない。
だから伝わらないのだと思う。
そして、伝えるのは物凄くエネルギーがいることなのだと、初めて分かった。
省エネで生きてきたから、言葉を相手に飛ばす方法も知らないが、それ以前に言葉を相手まで届かすエネルギーがない。
全てにおいて、エネルギーが足りない。
うまく言えないが、自分はまだ人を人として見ていないし、接していない気がする。

セクションが進むごとに、頭で説明するのがどんどんうまくなっていく。
大体の練習で自分も含め、皆、まず頭で考え説明する。そればかりがうまくなってくる。
何を感じたか、に全く関心がいっていない。先生が時々「だからどうなん?」と聞いてきたことに対しても説明しようとしていたと思う。
どう感じたか、まんまそれだけを味わうことを大切にしていきたいと感じた。

体操では意識の変化があれほど肉体に影響を及ぼすのを知り、自分も色々と考えさせられた。
肉体は意識が一点に集中するだけでも変化する。
日常生活の自分がどれ程ブレた生き方をしているのか、ということがよく見えてくる。
毎日向かう目的は持っている。
ただそれは、何となくの目的で、何かやっているように満足する為の、仮の目的かもしれない。
だからしょっちゅうブレる。
すぐ他のことに手を出す。
さらにそれも急に思ったことだったりするから、中途半端に終わる。

一番最初に刀を持って相手と正対したときは、ただがむしゃらに力が入っている感じがした。
ところが相手と自分との正中線を合わせて立つ、ということをやった後に刀を持って正対すると、なぜかとても心地良く、相対しているにもかかわらず、形状しがたい爽快感があった。
相手との一体感を感じつつ、真剣に向かい合うことがこんなに気持ちがいいことだとは、今まで全く気付かなかった。
相手と深く向き合えるようになれば、さらにどういう感覚が湧き上がってくるのか、それを味わえるようになりたいと思う。


過去を振り返ってみて、自分の心に入ってくるような言葉をかけてくれた人たちは、皆自然と私の中心線に入ってきて語り掛けてくれたように思う。
頭だけで考えた言葉の内容よりも、相手と向き合う姿勢がどれだけ大事かがよく分かった。
これまで自分が大切に思っている人たちに対してすら、このような姿勢で言葉を投げかけてはいなかった。
ということは、相手には伝わっていると自分では思っていたことも、実は伝わっていなかったということだ。
これからは、どのような相手と話すときも、相手の中心線に入れるように意識していきたい。
また、先生がおっしゃったように、他の人が中心線に入って来てくれる自分になれるような姿勢を努力して身に付けたい。

セクションの最初で、自分は精一杯声を出しているつもりだったし、相手の方の声も自分に届いていると信じきっていたが、最後の「なまむぎ〜」の声の掛け合いを経て、最初に自分が届いていると思っていたことが思い込みだったことが凄く良く判り、ある意味ショックだったが、ほんの少しのレベルだが相手に声が届くようになったことが、凄く嬉しかった。
しかも、最初やった時は一生懸命、何とか相手に届くようにと思っていても全く出来ていなかったのが、最後には自然と出来るようになったことが、とても嬉しかった。
他の方達も、セクションの始の時とは、全く別人のようになっていたことにも驚いた。
今朝は朝が早くて睡眠も3時間程度で、普段なら疲れる一日を送ってしまうのが、11時を過ぎてた今もとても元気な自分に自分でもびっくりです。


自分は今まで相手の中心線に入って話したことはなかったし、また、入らないように随分と自分を誤魔化していたように思うし、ある意味都合のいい逃げの場所に自分を持っていったように思う。中心線は自分の本当の姿を写し出す鏡のようなものだと思う。
だから先生が中心線に立たれる時、逃げも隠れも出来ない状態で、自分の弱さを全て見透かされているような気がした。
これからは、中心線をどの人に合わせても、入られても堂々と合わせられるような中身をもった人間になりたい。
嘘のない自分、妥協のない自分となれるよう中心線を磨いていきたい。
最後の「声で人を振り向かせる」では、自分が精一杯やっているつもりのレベルでも、実はその人には届いていないことがよく分かった。精一杯のレベルを、今までの自分は間違えていた。

 


 

 

69回武禅(1泊2日)

正面向かい会いで思い知らされたのは、いかに自分の脳と体が分離しているかでした。
向かい合うはずが、見詰め合う。睨んでしまう。目を見開くことで、無駄に目にエネルギーをためようとしている。
そんなことをしても一人ピエロになっているだけなのに。
目ではなく、自分自身を取り巻く空気まで相手にぶつけたいと思うのと比例して、どんどん姿勢が前のめりになり、相手への力が弱まってしまう。
地に足つけて!胸を開け!顔は上げて首を引け!!って、脳は言って体はそれに反応する。
相手をそっちのけにしているのに気付かずに。結局頭に振り回されて、自分の番が終わる。
木刀を持てば相手が遠いのが良く分かる。
けど、それにもまして、構えている自分の方の意思の弱さにも気付かされる。
あくまで向かい合い。どちらも真剣でないと意味がない。
もっともっと全身から力を出したい。
獄中にいる気分でいるのに諦めている。
そんな囚人のような力しか出なかった。
私は獄中から出てやる!!
そんな気持ちでセクション2に挑みたいと思います。


自分が何かを伝えたい、という以前に、相手がそこにいること自体が嬉しい、というのを初めて感じて何か不思議な気分でした。
相手がいて初めて何もかもが始まるんだと知っていても、実感として当たり前のこととして気づいてなかったし、考えたことも本当は無かったというのがショックでした。


声を相手に届かせようと思っても、心のどこかに本気になりきれない自分を発見してしまい、常に逃げの部分を隠し持ってしまっているのがとても情けなかった。
いざとなれば、いつでも本気になれると思っていたのは大きな間違いだ!ということが痛いほど分かりました。

2人の時は、これが本気だと思っていたのに、2人の間に人が入っただけで声が届かないどころか、音も聞こえない、相手に対して何も届かないことに気付きました。
自分自身が思う本気や限界というのが、全部ウソなんじゃないかと思いました。
あまりにも日常で本気になっていないから、勝手に自分で自分の限界を作り、そんなものだろうと思い込んでいたし、自分の能力や可能性を全部自分自身で摘み取ってもったいない。
自分で自分を捨てるようなことをしてきました。


.


 

相手に伝えたい、届けたい!とそれだけを考えて「こんには」と声をかけました。
サークルになり目を閉じた相手めがけて気持ち一杯で伝えると、相手が応えてくれて、受けとめとくれて、伝えられたことがとてもとても嬉しくてたまりませんでした。
三角形に椅子を並べ、後ろを向いた相手に声をかけるときには、中々届かなくて、それが自分の今のパワーなのだと痛感しました。
いくら「おい!」といってもパワーが足りない。「なにくそ!」っていう意気がまだまだ足りないように思えました。
自分の中にある、まだまだ埋もれている力を思い切りぶつけたい!
何で出てこないねん!!って凄い悔しいです。
「おい!」のたった2文字やのに、ボルテージが足りないなんて、今までの話し方のお粗末さが、嫌というほど分かってしまいます。

自分と他者との距離について知らず知らずのうちに、自分も傷つかない相手も傷つかない距離をとっていたのかな、と感じた。
一対一では、自分の周りにガードの為の見えない壁を身に付けているようで、その距離を縮めることは出来なかった。
グループでやったとき、とうとうその壁を捨てされられた自分を感じた。


相手を思いやる、きちんと見ることがこんなに難しいんだと思った。
最後のゲームは凄く面白かった。
今日初めに組んだ方たちが、どんどん自分を見せてくれて楽しかった。
そして、皆が一生懸命なのにあまり他の人を見ていない人もいて残念に思ったりもした。
ああいう人にはなりたくない。
出来なくても真剣にその場にいたいし、生きていく。


何回も練習を繰り返したり、回数を重ねるごとに良くなるというのは、思い込みに過ぎないことを実感させられました。
自分の思い込みで物事を見ている危険さ、つもり程度で頑張っていると感じてしまう自分の甘さを感じざるにはいられません。
もちろん、出来ているとは思っていませんでしたが、ここまで相手に声が届いていないとは想像していませんでした。


普段から小さな声しか出していないので、最初は中々うまくいきませんでした。
でも、少しずつ自分の声が大きくなっていったので嬉しくなってしまいました。
ささやきの「なまむぎ」は大声よりもさらにこころに届いたのには驚きです。
セクション3での胃袋を吐き出すくらいのボルテージで、声を出すことを日々の会話で忘れないようにしたいです。

サークルになって声の掛け合いをしている時、他の皆がどんどん変わっていくのを見ていると、その流れで自分も声が出しやすくなっていた。
皆の目が変わっていった。顔も変わっていった。私はまだ足りない。
全然エネルギーが足りない。
一発でそのテンションまでいけるように、常に本気で。だけど自分が頑張り過ぎない。
→これは発見でした!!


セクション1の時には思わなかった、相手が傍にいる目の前にいる、という感じが強くなったように思えました。
今日、初めてあった相手なのに、懐かしいような、全部ではないのですが、受け入れられたような温かい気持ちになることが出来、何も無いのに出会えた嬉しさがこみ上げてくる、不思議な感情を経験することできたように思えます。


目を閉じている相手に向かって声を届ける、を実際にやってみて、やる前には本当にそんなことが出来るだろうか?
何時間かかってももしかしたら届かないのでは、と思っていたのですが、相手が目を開けてこちらを見てくれたときは、とてもうれしく愛おしささえ感じてしまいました。

68回武禅(2泊3日)

相手も私もタイミングを合わせている段階から凄く幸せな気分になり、伝え終わった後、涙が溢れた。
人に伝えたいことがあり、それを伝えることが出来、しかも相手が受け止めてくれて気持ちが繋がっていく。
とてつもない幸せ。
なまむぎが女の友情!?と化した。


「こんにちは」の一言が、こんなにも人を感動させるものなのか。相手に自分が伝わるとはこんなにも楽しいことなのか。これまでの武禅では体験できなかった感動の中で今回の武禅は終わった。
自分を自分らしくなどと言っていることがバカバカしくなった。
今、ここにいる自分以外に何があるのか、何もないではないか。こんなシンプルな喜びを何故今まで気付けなかったのか。
このレポートを書いていても、自分という実体を感じ、その感動と喜びと、何が何だかわからない感情が……。
とにかく、涙が出そうで、身体が踊りだしそうで、ムズムズと動き出したくて、本当に本当に参加して良かった。
人間とはこんなにも生き生きと出来るものなのだ。
人間とは他人事ではないこの私だ。


私は、人が目の前にいるのに、自分がその前に立つ、立とうとするというのが出来ずに終わりました。
それともうやらなくてすむ、と思ったとたんそのありがたみがどっときました。
そして最後に皆さんと挨拶を交わしている時に、場を同じくしたことが自分の中にもちゃんとあって感情が動くのを感じました。
遅い。
そして、その気持ちがその短い挨拶の形にこめられるのが大切で、それは練習したり試行錯誤をしたり、何度も失敗しなければできない、それをやるための稽古だったのだ、とようやく繋がりました。
私は普段、「どこかで借りてきた言葉」を使うことを生業としており、また、いろんな場面で、それを使って使って使いまくっています。
それが通用してしまう場面ばかりの人生より、やっぱりそれが通用しない人生の方がいいです。
そして、それをかえるのは、やはり自分が変化しないと駄目で、今回、本当に周りは自分の在り様の鏡だ、というのがグサーときました。


相手に届いた時と届いていない時の温度差には驚いた。届いたときの暖かさは、空腹の時においしい手作りご飯を食べたときのようだ。


手と手がちゃんと合っている時は、本当に気持ちが良かった。動きがピタッとするのも不思議でもあり、とても面白いと感じた。
普段、何の気にすることもなく使っている手だけれど、今回の事で使えていないことが良く分かった。


相手に声を届けるは、距離が遠ければ遠いほど、間に邪魔な人が入ったときはなおさら、伝えたいという気持ちがつよくなり、逆にその人が近くなる。
近くで声を届けるときに、どうして伝えようとする力が弱くなってしまうのだろう。
目の前に人がいたら、ちゃんと向き合わなくてもその人の前に立ち、その人を見ていると思い込んでいる。
声を出せば言葉が通じると思い込んでいる。
その思い込みが、掃いても掃いてもチリのようにどこかに残っている。


今回の稽古、3日間のどれをとってみても職業として舞台をやっている以上、本当は当たり前にできていないといけないこと。
でも来る前から何一つ出来ないと思っていた。
変なプライドもあって正直恐ろしかった。
でも、今は自分の中の問題点や向かうべき方向性みたいなものが明瞭になったことで、むしろ出発点に戻れたような、みなぎった気持ちになれた。


昔からの自分を考えてみると、あいてに興味があっても好奇心のある目でみているだけで、その人に話しかけることが出来ませんでした。
「変なことを聞いてしまうのでは」「嫌がられたらどうしよう」と勝手に思ってしまって恐がり、前に進めませんでした。
今は、人に何か興味をもって聞いてみたいと思ったり、知りたいと思ったらすぐに言葉を出してみようと思います。


視線を感じることをやっていない、という駄目だし。舞台役者なのにそんなこともやれていない自分に驚くというより、笑いがこみ上げてくる。言われたことは凄くよく分かった。
つまり、普段舞台でやっているつもりだった。でも、こんな稽古としてやってみると何も出来ていないことが明白。視線を捉えようとすると、正面の相手との関係は薄くなる。


一度ビタッと相手とコネクトしてしまうと、本当に自然に「好き」という感情が湧いてくる。


一生懸命すればする程、相手を感じるほど、自分はなくなっていく、という事を身体で感じましたが、すごく不思議な感覚でした。
今まで、力むことが一生懸命していることだと思っていましたが、それは違うんだと気付きました。


握手をする、では自分なりに発見があった。相手と自分との関係でごまかしか?これでOK?とやっている間に鈍っていた感覚に、先生の自然さと、他の人との異和感、不自然さの違いに気付いたことだ。
そして、それは先生はただ握手をしようとしている。
他の人は握手をするとは何ぞや?手を出すタイミング?相手に入り込む?正面に立つetc.と色んな手段を使っていて、結局何がしたいのかがストレートに伝わってこないのだ!何で?
課題は握手をするなのに、握手しようと相手に手を出していないなんて……。
それでも気付いたのは、そうやって色々な手段を使ったから分かったことで、そんな過程があったから、そういうものはいらないのだと知ることが出来た。
そのための「武禅」だった。


意識を動かしていくことこの稽古、このことをダンスに繋げたい。東京武禅ですでに経験していた刀との向かい合い。なぜこの稽古をもっと早くからダンスに、表現につなげなかったのか。
本当に恐竜だ。和歌山に来て良かった!
頭で分かったような気になってしまうことの恐ろしさも感じる。

とにかく私に足りないのは、感じたことを相手に伝える言葉で話すこと。
32年も使ってきた日本語がおぼつかない。
それはもしかしたら本当には感じていないということなのか?


相手の声がこちらに届いた時の気分の良さは、言葉にならないくらいワクワクと楽しい。

先生と他の人が向かい合っているのを見て一人一人が感想を述べていった。
それぞれの意見に、なるほどそうだ、と思った。
見ていると本当に良く分かる。
まだ見えていないことも沢山あるだろうけど、とりあえず、今の時点で思ったことを言ってみた。
見て思ったからには、じゃあ今度自分がやるときは気をつけてみようなどと思ったりするのだが、自分も他の人が言われたことと同じことを言われた。
「停まっている」「弱い」「そこに立っていない」など。
やっているつもりのことを、はっきりとやれていないと言われることは、本当に驚きだ。
地面がグラリと揺れる感じがする。
くやしい、恥ずかしい、でもかすかな変な嬉しさが体の中にうずいたのも事実だ。
また自分が刀を持つ側になって向かい合ったとき、色んなことが見えてくるんだということに驚いた。
ただ感じたことをすぐにその場で言葉にするのは難しい。簡単な言葉で済むはずなのに、色々とこねくり回して説明しがちだった。

67回武禅レポート’(1泊2日)

伝わらなくて、無理に押し付けてしまう「なまむぎ」ではなく、伝わらないからちゃんと伝えようとする「なまむぎ」のスタートに入るのに、それだけ時間が必要だったというのは、普段がいかにそういうことをしていないかということだ。


出来ないからといって、笑って誤魔化す人に自分を見た、勝手にやって相手が全く動かないのに、ずっと同じ事をしている人の中にも自分を見た、んー?と思いながら「どうぞ」で、まぁ、付いていってしまう人の中にも自分を見た。
腹がたったけど、自分もそういうことをしているのだ。稽古の仕方がそんななのに相手に対して、何て事が出来るわけがない。


最高の充実感です。生まれて初めて死ぬ気で他人を助けてやろうと思えました。
イヤまだ全然だろうけど、無我夢中で他人に呼びかけて、届いて目が合ったときの感動、必死で他人の声を聞き取ろうとして、体のシンにバスンと来たときのうれしさ、忘れません。
「オイ!」が「助けて!」に聞こえました。必死で声を届けようとしてくれている姿が目を閉じていてもリアルにイメージできて、まるで目の前にいるような気持ちになりました。もっと、もっと仲間を思いやります。



真剣にやる。私は最近感じてないのかも知れない。
毎日、全て笑っていれば私の仕事は進む。
こころで何を思っていようが、身体が何を感じていようが、笑顔でいれば悪く言われる事もない。
どちらかというと良いといわれる。笑って、何も知らない、何も分からないと言っていれば良い。笑って楽しんで毎日を送っている。
ムリなんてすることもない、睡眠不足くらいです。
だから真剣にといわれてもよく分からない。だから、真剣に参加されている方々の前に立つのが恐いと思った。
そして逃げた。
また、目の前のことから私は逃げた。
逃げクセは、当たり前になって他のことにすり替えている。
逃げていることすら気付かない。



.


 



必死な人と必死にやっていない人をみていて、私もあんな風に見えていたのかな、と思います。
笑って誤魔化して逃げたり。
そういうのは駄目なことだと強く思いました。
本当に何も分からないまま全てが終わってしまう。
それを許さないこういう場に出会えて本当に良かったと思います。
逃げ続けていた頃は、分からないということだけを必死に伝えていて、後は何もしない自分とか、色々思い出します。

相手の正面に立つということが、あんなにしっくりくるとは思っていなかった。
ちゃんと前に立てたら分かるという自分に驚いた。


人の目をちゃんと見ることは気持ちの良いことだと初めて知った。
私は今まで怖い人や嫌いな人の目は見ないようにしてきたな、と思いました。
日常に帰り、嫌いな人や怖い人の目をちゃんと見て暮らそうと思います。
それが気持ちの良いことなので、そうクセ付けていきます。
仕事場の人間関係にストレスを感じるので、目を見るということをまずして見ます。


どうしてこんなに自分をだせないのだろう。
いつも良い子でいてロボットのようにはもう動きたくない!!もっと出したい!もっと動きたい!もっと感じたままに体を動かせるようになりたい!もっと相手とつながって生きたい!
頭だけで自分を動かす生き方はもう嫌です。
五感を取り戻したいと思います。
死んだような感覚から抜け出して、自分の人生を生きたいです。


声の大小は関係ないのかもしれないが、人に声を届けるということがいかに難しいことで、日頃いかに適当に話していたのかをすごく感じた。
勝手にボソボソと話をする学校の先生が嫌いだったけど、教壇に立つ私はきっとそんな先生達と同じなのだろう。本当に恥ずかしい。


「出来なければいけない」と思うことから、少し離れられました。どんな自分であるかを知ることが大事なのであって、本当に、出来る出来ないの問題ではないということを実感しました。
こう書いていると、自分が変われば世界は変わると先生がおっしゃった意味が納得できます。


思っていたより鈍感すぎて、ここまでよく生きてこられたなぁと、改めて思いました。
親に何でも守られて生きてこれただけで、自分の感覚で生きてこなかったんだということも痛感させられました。
恐ろしいことに、こんな鈍感な私にも子供はいます。
子供には良い環境を!と思ってきたのですが、自分がこんなにドンでは、子供も感じられるようになるのか、と不安になってきました。


相手を動かすときも、大事にしっかり肩を持って動かさないといけないように、人に対して日常でもそうしなければ不快になるようなことを平気でやっているんだろうと思いました。

 


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