74回〜79回

79回武禅レポート(2泊3日)

ここ数年、参加者に一つの特徴が見える。
というよりも、年々増加傾向にあることが、今回は如実に現れたというだけだ。
それは、一つのテーマに取り組んで、成功しても成功させた自分に感動しないことだ。
自分自身に対して何とも無味乾燥なことか。
かなり難しいハードルなのに、そして、難しいハードルだから苦心したり、恥ずかしいと思ったり、情けないと思ったり、ナニクソ!と思ったりしているはずなのに、それをクリアした喜びがまるでない。
これは、本当に理解できない。言葉としては、自分をどうにかしたい、とか、成長させたいとか発している人たちなのだが、実際にそういう要素を含んだテーマ、つまり、今までの自分では、そう易々とクリアできないテーマをクリアしても、感動がない。
それは、本当に信じがたいことだ。
しかし、実際に今回参加した 13 人の人たちには、それが無かった。
もちろん、本当は少しはあった筈なのだが、そのことよりももっと他のことに注意が向き、自分自身が自力でクリアしたことには、関心が薄いのだろう。
つまり、実際の作業、実際の行動よりも、頭の中の作業の方を優先しているということだ。
頭の作業は、実際の作業や行動によって作られたり、それらを整理するためにある。
それの逆転現象を起こしているとも言えるし、実際と頭の中とが遊離しているとも言える。
この奇妙な現実を引き摺って生きているのだから、血の通わない自分が出来上がっても無理は無い。
つまり、目の前にいる人に対して働きかけたり、働きかけられたりが出来るはずもないということだ。
それは、セクションの途中で行うゲームによく現れている。ゲームに熱中できないのだ。
子供のような必死さ、無邪気さは見当たらない。
「大人だから」という言い訳の言葉は持っているだろう。
しかし、現実は全てこのゲームの複雑系なだけだ。
つまり、本気で向かわなければ、何一つ自分の血や肉にならないのだ。
その一端でも掴んでくれたかな、と思ったのが、今回の「武禅」だった。

 

私が木刀を持ったときは、相手がただ見ているだけ、遠い感じと言われたことが良く分かった。
私も相手から見たとき、こんな感じにしか見えないと考えたら、さびしい気持ちになりました。
真ん中で感じる向かい合いでは、相手を正面に向かい会えて気持ちがよく、嬉しい感じがしました。
日常であのような向かい合いはしたことがなかったのですが、「これって当たり前のこと」で、それが全く出来ていないと感じました。

 

何度か「武禅」に来ている人は、初めての人と全く違う。
深く関係してないとか、弱いとかはあっても、少なくとも関わっていこうとする姿勢がある。
しかし、初めての人は、ただ一人で立っている、眺めている。
こんなにもはっきり違うんだと改めて感じましたが、はたして私はどうなのだろうと考えたとき、恥ずかしいきもちになりました。


S さんのグループで、 F さんが全員のサポートを受けて歌っていた姿には感動した。
あの「ナマムギ」の時にも出なかった声が前に出て、本当に一生懸命歌っていた。
その姿を見て私のグループ全員感動に涙していた。

 

木刀と向き合ったとき、私は「ここ」に居るのに、いないいないと言われ続けたのが、無茶苦茶に悔しかった。
私はここに居るのに(いると思っているのに)、相手にその存在が伝わらない、こんなに悔しいことは無いと思った。
私はなぜ悔しいのかと言うと、私の考えていることが、相手に否定されたり、認めて貰えなかったりしたからだと思う。

聞いているような人、話しているような人、「〜のような」が、普段の生活には溢れていると思った。
IT が進むことで「会話のような」ことをメールや電話やチャットなどで出来るようになった。
便利な反面、文字という表面のものでしかなく、それは本当に相手が読んでいるのかも、読んで貰う為に書いたものなのかも定かではない。
便利なもののせいで、一人は一人になる時間が減ってしまい、一人ではないことの本当の意味さえも考えたり、気付くことも出来ない。
ケータイの電源も切って、一人の時間を持たなければと思った。
そうすれば、改めて相手のいる幸せ、伝える価値を知る事が出来ると思った。

 

日常こんなに相手の目をみることもなく、ただなんとなくそれっぽい言葉を発し、相手が聞いているのかいないのかも分からず、知ったような口を聞く自分に気持ち悪くなった。
しかも口だけで行動しない。
話す、聞くで「こんにちは」が伝わるところを横から見ているだけで、なぜか涙が出てきました。
なぜなのかは、あまり良く分からなかったのですが、感動したのだと思います。

 

正面が合っているかどうか以前に、受けようとしてくれる人の表情の気持ち良さと、受ける気の無い人の嫌な感じで、こちらの行動が変わってくるのはどうしても仕方がない事。
組んだ相手の言い訳を聞きながら自分の姿が見えてきて、いたたまれない気持ちでした。

春の食材で

 

先生のお話を伺っている時に、泣きそうになったことが何度もあり、自分は一体何をやっているのか、見つめなおさなければいけないと感じた。
自分は通用しないという思いを忘れずに、今をもっと思い切って生きる。
自分が思っている自分と、他人が見ている自分は全然違うことがハッキリ分かった。
だから、自分を見つめなおさなければならない。

 

声を出し続けていた時、とても嬉しくて、思えば泣く寸前だった。
声が出たからか、繋がることを感じたからか、でも続けていたら確実に大泣きしていた。
しかし、今のスッキリ感は、泣いた後みたいだ。こんな風に言葉を交わすことが出来たら、さらに皆を大好きになりそうだ。

 

他人に、自分の気持ちを伝え、他人の気持ちをちゃんと受け止められるようになるには、日々の生活にかかっている。
他人への気配り、他人への感謝、姿勢、目、表情、これらが真剣に生きていくということに繋がっていくと感じた。

チキンストロガノフ

愛想の良いだけの、調子のいい女性ではいけないと思った。
「本気で笑え」と言ってもらった。確かに私が笑うのは自己防衛なのだ。
全部見透かされる。
芯のある、芯から人と関われる女性になろうと思った。

 

本当に私と真正面から関わろうとしてくださっていた。
だからこそ、稽古でもそれ以外の場でも、私のダメなところをハッキリと指摘してくださった。
真剣に私と関わってくれる人と、もっと関わりたいと思った。
私自身もこれから沢山の人と会うが、「武禅」に参加していた皆さんのように、真剣に真正面から向き合い、関わっていかなければならないと思った。

 

 

春の食材2
特製カレー

一人が全員の背後から誰かに向かって「おい!」と言うのは、円形以上に「自分かな?」と気を張って自分の後ろ側に気を配った。
向かい合いとは違い、何も見ずに相手の気持ち、声を感じ受け取るのはこんなに難しいとは知らなかった。
どれだけ「そんな格好」ばかりしてきたかと思うと、恥ずかしくてたまらない。

相手の身体を触っただけで、思ったことが伝わるんだと思いました。
不安な時は不安感、安心している時は安心感など。
身体は正直で繊細なセンサーが付いているので、ごまかしがきかない。
常に心に迷いがないように「ハッキリ」と決ることが重要ですし、大げさかもしれませんが、今まで生きてきた人生があらわれるようなものだと思いました。

 

素直に答えていけば自然と一緒に動くことが出来る。
素直に返して貰うために、より的確で迷いの無い、でも自己主張をしない指示が必要だと思う。
指示というよりも溶け合っていくチョコレートの様な、自分と影との関係のような一体感がある。

 

自分が受け取る側の時、受け取る準備が全く出来ていないのは、今までの人生がそういう姿勢だったからだと思います。
悪い意味での個人主義を押し通してきた結果だと思います。
そして、それを押し通せてきてしまえた今の時代。
まさに「自分の好きなことをやれ」といわれて育ってきた人間の見本ではないかと思います。
これからは「自分の嫌いなこと」を敢えてやってみようと思います。

 

届けようとしても、受け取ろうとしても、相手から何も感じられない時、どうすれば、どうしてあげれば良いのか分からない。
きっと人だと気付いていないと思う。
通じ合おうとしていない。
だんだん腹が立ってきて、「何も伝える気が無いんやったら、始めからこっち見んなー!」と思いました。
それでも、こっちが受け取ろうとしないと、すぐ諦めてしまうし、もっともっとという気になってほしい。

 

妄想によって人間関係を難しいものにしているのを分かっていても振り払えない。
身体も心も自分のものでありながら、思い通りに動かせないのがもどかしい。

まずは、気持ちよく挨拶、礼儀をもう一度徹底してやります。
もう少々の辛口なことなど言われても、全然平気になりました。
失敗は怖くない、どんどんしたほうが良いということがすごく良く分かりました。

 

正面向かい合いの時の感覚に戻って、互いに届くようになってきたと思っていたのに、他の人にジャッジをしてもらうと、全員に「届いていません」と言われたのはとても意外だった。
関係の中ででも、中に入り込むというのは、こんなにも客観的に見えなくなるものかと驚いた。

 

何かが少し出来たときに「出来たね」と判断してくれるのは相手であり、相手が「いいよ」と笑顔で言ってくれることが嬉しく感じる。
自分が「出来たでしょう」と感じたとき、たいがい相手の反応は「ダメ」でした。
相手が何なのか?というところが、少し分かってきているのかもしれません。

 

何よりも嬉しかったのは、朝、分厚いガラスの向こうで、いくら「こんにちは」を伝えても冷たい眼で、他人事のようにしか見ることの出来なかった人が、まっすぐな目でこちらを見て、満面の笑顔をしていたということ「他人と関係するとは、こういうことかと分かったような気がします」と言われて、とても嬉しくなった。
不快な人がいるのではなく、不快なことをする人がいるのだと、考え方を改めなければならないと思った。

 

78回武禅レポート(1泊2日)

2008 年最初の「武禅」だ。
急に冷え込み、また数日前には大雪でまだその名残があり、きっと「武禅」を初めて以来の寒さの中の行でした。
今回は偶然、同い年の大学生が二人参加していました。
両人とも、奇跡的に素直という資質を持っていたので、今回の「武禅」参加が、きっと今後の人生に活かされることだと思います。
ただ、一つ今回の「武禅」で現代という時代を感じたことがあります。
それは、レポートを書き終え雑談の時、参加者だけで固まってしまっていた、という現象です。
これは、未だかつてなかったことです。
「武禅」に、何かを求めて、あるいは、何かしらの興味を持って参加しているにもかかわらず、こちらが声をかけなければ質問をしてこない、つまり、与えてもらうのを待っている状態だったということです。
むろん、これまでも一部そういう人たちはいましたが、全員がそういう状態だったのは初めてのことです。
社会は問題を与えてはくれません。
自分が見つけなければどうにもならないのですが。


最後の声を出しての「こんにちは」は、やっていてスッと合う時と、合わない時の感じが本当になんとなくだけど分かってきた。
声が出る時は、ピタッと合う感じがする。
その為には、声を出す方も受取る方も、それぞれが真剣に声を出さなければいけないし、受け取らなければいけない。
そんなことが何となく分かった。
それが人との関係なんだということを、ほんの少し理解できた気がする。
こんな風にして、とにかく届けたい、受け止めて欲しいという気持ちになって、声を出したのは初めてかもしれないし、どれだけ真剣にやっても、届く届かないが分からないような、難しいことだと分かったのも初めてだった。
ということは、普段の声は全然届いていないということなのだろう。
家族や友人に対し、適当に声を出しているだけなのかなと思う。


まだ、聞き手になるという練習も大事なものだと知った。
相手を受け止めるのに、こんなにエネルギーを出さなければならないものかと思った。
そして、相手への思いやり、相手の動きにピタッと合わせる、など、今までの自分は何も出来ていなかったのだと知った。

他人に、自分の気持ちを伝え、他人の気持ちをちゃんと受け止められるようになるには、日々の生活にかかっている。
他人への気配り、他人への感謝、姿勢、目、表情、これらが真剣に生きていくということに繋がっていくと感じた。

最初に向かい合った時、他の皆さんから「ボーっと突っ立っているだけ」とか「真剣じゃない」とか言われた時は、本当にショックだった。
私自身はちゃんと向かい合っているつもりだったので、なおさらショックだった。
正直に言うと「うそー」という風に、自分以外の人を疑っていたと思う。
相手と向き合うという行為が、どれだけ難しいことなのか分かっていなかった。
今、このセクションが終わって見て思うのは、短時間でも真剣にやれば、人は大分変わるんだということ。
今までは、真剣に向き合ってこなかったことが、ほんの少しだけ分かった気がする。
そしてそれは、相手(kさん)がいて、お互いに言い合う中で変わっていったのだから、相手の言葉とも真剣に向き合ってこなかったのかな、と思う。
kさんの変わりようにも驚いた。
自分が思っている自分の姿と、他人から見た姿が全然違うことに驚いたし、それは、今思うと凄く恐いことなんだなと。

いかに人と繋がっていないか。必死になれない。
今までの一生懸命とは何だったのか。
頭を そぎ落とすことが多すぎて、パニックになりそうだった。
頭をそぎ落とせば、 まったく別の人になれるかも。
形だけを取り繕うのをやめる。
うまくやろうと思わない。
相手を見る。感じる。自分を見る。
本気で生きる。

 

自分の気持ちを伝えたいというシンプルな気持ちが、本当に相手に響き受け入れてもらったという、実感があり感謝の気持ちで一杯になった。

自分の言葉で、自分や他人を全く表現出来ていないことに改めて気付き、少し愕然としました。今まで本当に文字だけの言葉、表面だけで生きてきたのかと思いました。
今まで、真の働きかけ、訴えかけをしていない。
だから今何も出来ない状態にある。
でも、それに気付いただけでも良かったです。

自分の声が本当に相手に伝わっていなかったことを、思い知らされた。
日常生活での礼儀、マナー、気配りが全然出来ていないことを恥ずかしく思った。
朝のそうじ、食事への感謝も、人生を充実したものと感じられるための不可欠なものだと知った。

先生のお話を伺っている時に、泣きそうになったことが何度もあり、自分は一体何をやっているのか、見つめなおさなければいけないと感じた。
自分は通用しないという思いを忘れずに、今をもっと思い切って生きる。
自分が思っている自分と、他人が見ている自分は全然違うことがハッキリ分かった。
だから、自分を見つめなおさなければならない。

声を出し続けていた時、とても嬉しくて、思えば泣く寸前だった。
声が出たからか、繋がることを感じたからか、でも続けていたら確実に大泣きしていた。
しかし、今のスッキリ感は、泣いた後みたいだ。こんな風に言葉を交わすことが出来たら、さらに皆を大好きになりそうだ。

 

77回武禅レポート(2泊3日)

2007 年最後の「武禅」。
それにふさわしく、年齢も職種も多種多様な人が参加した。
私と同年齢の方が、若者の扱いに長けていたことが、今回の行会をより充実したものにしてくれた。

「言葉」と「実体」との違い。「言葉」と「体験」との関連性。それらを休憩の時に、徹底的に実践した。
「それはどういう意味?」という突込みだ。
あるいは、話の中で「〜じゃないですか」といった、暗に同意を求める言葉が含まれていることが多い若者の言葉に「いや、話をしているのは君で、どうしてその途中で、こちらに同意を求めるのか?」と突っ込む。
ある若者は、「そんな突込みを入れられたことが無い」と語っていた。
それは、その若者の短いながらの人生の中で、深く関わってくれる友人がいなかったことを表している。
あるいは、そういった突っ込みを入れる友人を、苦手だとして無意識的に避けていたか、だ。
また、休憩中、なにもせずに自分の世界に入り込んでいる人も多い。
その人達の共通項は、子供の頃家事の手伝いをしていなかったことだ。
いかに子供の頃、親に「あれしなさい、これしないさい、もっと注意しなさい、さっさとしなさい」などとと言われて育つことが大切かを物語っている。
親が手を出しすぎるにも程がある。
そのことが、その子供が大人になったとき、そして親になったとき、何一つ子供に基本的教育、つまり、集団での気遣いや自立して生き抜く能力を、退化させているかを知らなさ過ぎるのだ。
集団での気遣いがない、ということは、その場での自分の役目を感じ取ることが出来ない、ということで、そういう人達の集まりはもはや集団ではない。
そういったことも、現代の親達は分かっていない。
それは、その親達は「親」ではなく、子供と友達だと想っていたり、子供をペット的にしか見れないからだ。平等のはき違いも甚だしい。
親は親、子供は子供、という垣根がある、ということで平等なのだ。


相手の正面に立てたとき、本当に「ここしかない」という感覚があり、思わず笑ってしまった。
相手に立たれた時も同様で、気持ちの良さがあった。ピタッとくる、という言葉がからだで体感できたことは、関係をきちんと人としていく上でのヒントになりました。

人と真正面に向き合うことが、これ程難しいとは想わなかった。
自分の中心がまずしっかりしていないと、人と対面した時に相手の中心が見えない。
自分が相手と向かい合っていると想った時にも、中心がずれていることが多かった。


まだ、何が起こったのか分かりません。
3 人で話をしたり、聞いたりしただけ(言葉は悪いですが)。
たったそれだけのことで、木刀を用いた向かい合いで、こんなにも自分がかわってしまうなんて。
今日、初めてやった時とは大違いです。
たった半日で、人はこんなにも変わるものかと想っていたのですが、観察して頂いた人によると「 2 人とも物凄い変わった」という話だったので、変わったのは自分のこころの中の状況だけではなく、外見というか、周りの人に見えている自分の姿も、大分変わっているのだなと想いました。

 

正解を出そうとしている自分に気付いた。
いい子になって答えを言おうとして、感じたことを率直に口に出せない自分がいた。
自分の感性に自信が持てないからだけど、間違っていたとしても、それが今の自分なのに、そのことを受け止めていない。
もっと勇気を出して口に出してみよう。

出しているつもりの声、届いていると想っている声。 2 人のペアで声を出し合うも、相手の声が響いて来ず、自分の調子も狂って来そうと、相手の反応の為にしそうになっていたが、早口回しを終えた後は、初めての相手にもかかわらず声が届いたように想った。
出せていなかったんだ。
気力は限りなく湧いてくる。

自分の声も相手の声も届いていない。
相手がガラスごしに感じられる。
やっているうちに、それは自分が壁を作っているためだと分かる。
人を受け入れているつもりでも、相手にはそれが伝わらない。
相手の声が一方通行になり、相手の姿が現実感がうすく、蜃気楼のように思えて眠くなった。
声を出すことしか最初意識できなかったが、声を受けとめるのもそれ以上に大事だと思えた。

後向きに座った人達の中から、特定の人に声を届けた。僕の概念の中に、無かったことが実現されてしまうこの稽古では、全く驚きの連続でした。よく考えれば、今日の武禅は全てそういったことの連続でした。ここで学んだことを活かして、これからもっともっと成長していこうと思います。


声が届くと、本当にお互いが気持ちが良く、お互いに笑顔に思わずなってしまった。
その人に届いて、届けられた声が体の中にジーンと響いてきました。
何かを本当に伝えようとするならば、自分の精一杯を使わなければ相手に何も届かないと感じます。
本当に関わろうとしないと、何も出来ない伝えられないし、それが出来ていない自分がいることが、とても悔しく情けないなと想いました。

からだを動かす運動の時、「練習の目的が変わってしまって、結果の現象だけを追っかけている」という先生のご指摘が、とても印象に残った。
短時間で答えを欲しがる姿勢を変えなければ、問題解決が全て応急処置になる、という良い例で非常に為になった。

 

「こんにちは」の挨拶を人に届けるのが、こんなにも大変だなんて思いもしませんでした。
今までの僕が発していた「こんにちは」の言葉は一体なんだったのだろう、という思いで一杯です。自分でも呆れるくらいダメだしを受けました。
しかも、そのダメだしの言葉は全くその通りのこと。やっているうちに何だかつらく悲しくなってきてしまいました。
それにとても悔しい。
こんなにも人に届かない言葉をずっと発していたことに、愕然とします。

相手のからだを感じることは、相手と自分をどう重ねるか、ということ。
今までとは違う「相手を感じる」ことの考え方を教えてもらった。
自分がやられている事に対して、どのように感じるか、どこが気持ち悪いかを感じることが出来ないと、相手を心地よく動かすことは出来ない。
年配の方にからだを起こしてもらった時、年を重ねるということは、凄い事だと想いました。
出来ている、出来ていない以前に全体を見てくれている気持ちがして、嬉しかったです。
終わった時、ありがとうございました、という気持ちになりました。

全てを、その一瞬に出すという集中はとても難しかったですが、その集中して言葉を出すことを日常で繰り返していくことが、本当の意味でのコミュニケーションが出来ていくのだと感じました。

人の話を聞くこと、自分の話を聞いてもらうことが、とてもエネルギーを使うことだと改めて思い知った。
自分のことを殆ど知らない人に対し、自分の経験したことや好きなことを話しても、理解してもらえないことも多く、どうやって分かってもらうかに、大きなエネルギーを使って、また、知らない人の話を集中して聞くことに神経を使って疲れてしまった。

今回初めて武禅での一体感を感じた。「ありがとうございます」と本気の気持ち。その人のエネルギーの大きさを体中に受けてしまい、武禅を通して見に付けなければならないのは、人との関係だと思い知った。

最後の多人数の後ろ向き声掛けは、とても難しかった。
意識が集中できず、 1 点に絞り届かすことが出来ず、大変困った。
しかし、こころがしぼむことはなく、「さて、どうしよう、どう届ける工夫を考え行う。
何度目かの内に、やっと声が届く。疲れは無かった。気力が充実していたのだろう。
ここで学んだことを、自分に活かし大きく生きて行きたい。多数の人々が稽古相手になってくれた。日常生活の中には無いことだ。集団生活で学ぶ事は多い。
今の自分は何をしたら良いのだろう、集団の中での自分のすることを考えた。
他人が全て自分の先生だと言う意味が少し、分かった気がします。

雑談も相手の反応を見て、興味のありそうな言葉を選び、相手が分かる口調で考え話をすると、 2 人の反応も聞いてくれていることを感じ取れ、会話も楽しくなった。
また、相手の話も真剣に、何を話すのだろうと聞く姿勢を持つと、途切れることもあるが、場が白けることはなかった。
今まで、相手を無視して話を進めていたことが、無駄なことだと想った。
今後は、相手の反応を良く観察し、相手が興味を持てていないと感じた時は、違う話も出来るように、内容を広げ何事にも興味を持てる人になりたい。

 

76回武禅レポート

 

とにかく「思い込む」ことしか出来ない自分に腹が立ちます。
もっともっと、エネルギーを出したいのに、いつも何かに引っかかってで来ない。
結局は、自分がこうしたい、という事しか出来ない、ガキのような自分から早く抜け出たいです。

いかに日常において自分で「本気」を出して取り組んでいないかが分かりました。
日常が「受け身」で、自分から発信していないことにも気付かされました。





思いっきり笑ったり、泣いたりすることを止めることによって、争いに巻き込まれることを遠ざけ、生身の自分を殺して生きてきました。
ドキュメンタリーを見て涙するのに、相手の言葉で動こうとしない自分にも腹が立ちます。

相手とシンクロすることは、受けて側の気持ちも思いやらないと駄目な感じがしました。

手を合わせての「こんにちは」では、自分の動作の身勝手さを指摘され続けたが、何としても変わらなかった。
自分のどこをどう変えたら良いのか分からず、はがゆいです。


相手との距離によって、感じが掴め難かったり、ハッキリと胸の感じを掴めたりでした。
立っている側も、相手を掴みにいかないと相手も感じないことが良くわかりました。

先生が今日の人達は、正面を取るのが遅いとおっしゃった。
私も含め、みんな弱いというかおとなしいというか…。

相手を替えてやると、自分が出している信号も、自分が受け取る力も、ものすごく弱いように感じられる。

相手に真剣に向かい合うのは、本当に難しい。
何も考えないようにしようと思うと「何も考えないようにしよう」と思ってしまう。
「真剣に向かい合わなければ」と思いながら、思うことに捉われる。

「気持ち」を伝えようとする、ことが大切だと学びました。

「ナマムギ」や「トナリノキャク」のような意味のないような言葉が「こんにちは」という挨拶の言葉より、相手に届くのは不思議だ。

声が枯れるのは久しぶりです。
「相手に届ける」というのが、これ程大変なことだとは、全く感じていませんでした。

一寸した気の緩みや手加減で全く結果が違った。こんなに一生懸命やって、ほんの少しやっと相手に届くんだということは、頭では分かっていたつもりだったが、初めて実感できました。

思いっきり言い合うのって、なんて気持ちが良いのか!やっていてとても楽しかった。
お互い必死になって何かをするのは、とても良いもんだと思った。

相手の人に「もっと来て!」と思いました。

 

人ときちんと関わりたいと一度も思ったことがなく、これからも多分無いだろうと思っていたが、自分がこんなに人と関わりたいと、実は切に願っていたとは知らなかった。
今まで知らなかった自分を知った。

私がこれまで無視してきた部分を、もっと感じてやることが「自分を大事にすること」だという言葉は、猛烈に耳が痛いものでした。

 

相手から「遠ざかって見える」という指摘があったので、前に出て行くように務めたのですが、それでも引いているように見える、という以上、物理的に距離を縮めるとか離れるといったことではないのだろうと思います。
前に出て行くということを、こんなにも自分ではやっていないことだったかた驚かされました。

 
   

 

75回武禅レポート(1泊2日)

今回、今まで気付かなかったことや、言われてこなかったことが沢山ありました。
その中でも心に残っている言葉は「自分にも相手にも嘘をついたら、お互いに潰れてしまう」と「自分の感覚が鈍くなっているから違和感にも気付かない」の二つです。
今まで、自分が何となく一番恐れていたことが、自分では気付かず先生が言ってくださったこともショックでしたが、同時に自分のことをどれだけ知っていたか、どれだけ真剣に見つめてきたのか、と問うことが出来ました。

今までは理想を思い描いていただけで、何も努力してこなかった自分を引っ張り出して、自分の大切にしたいものを感じるだけでなく、本気で向かい合い見つけていきたいです。

「こんにちは」が上手く伝わらない。いつも相手にあわせているつもりになっているだけで、ただ無難に相手に入り込まずにやっていたり、相手を受け入れるよりも、自分を受けれてもらうことばかりを求めていたようだ。
相手に合わせるのは難しいが、相手に合わせている、と思い込んでしまいがちで現実は合わせられていないことに気付かない自分に気付くのが難しい。

今は、とにかく感性を磨いて、今まで響き会えなかった人達とも繋がり、一体感を持てるようになりたい、そういう仲間を沢山作りたい。
自分の殻に閉じこもっていたらそれはできないから、結局もっとたくさん失敗するしかないという事だ。わざと失敗する、私には難しいがどんどんやってみようと決心した。

よく「人と向き合うことはストレスになる」と言って、向き合うことを避ける傾向にありますが、今回気付いたのはそれは全くの逆だという事でした。
人の間にいるのに誰とも向き合っていないから、沢山の人に囲まれているにも関わらず孤独感を感じ、それがストレスになっていたのです。

初め、何度も心を込めて相手に「こんにちは」と伝えても全然響かなかったのですが、「この野郎!自分の挨拶を聞け!」という気持ちで言ってみたら、この数年間出したことが無いくらい、大きな声を出すことが出来ている自分に驚いてしまった。
今まで「この野郎!」という気持ちになることを避けてきたので、こんな感情になるとどこかが目を覚ました様な感じを受けました。
自分は特に目上の人に対して話すときに、声が小さくなってしまいよく聞き返されることが多いので、発声の仕方を習いたいと思っていましたが、感情を変化させたことで、声の大きさがここまで変化するとは知りませんでした。

遠く離れた相手でも、目の前にいる相手でも向かい合い、関係を結ぼうとするのに声を大きく出すのではなく、一図に本気に伝えようとすると自然に体全体が集中して、声を伝える事に全力を注ごうとする事に気付きました。
まだまだ、出し切れていないかもしれませんが、この感覚を忘れないで人と向き合っていきたいです。

今放心状態です。
届いた時の嬉しさは格別でした。
相手の声がキャッチ出来たときも“やった”という嬉しさを相手と一緒に感じることが出来ました。
同じ課題に向かって、寝食を共にした仲間だから、最後には届けられるようになったのであり、日常生活で家族や会社で届け合うことは、どんなに困難だろうと思います。
また、届いたフリをして相手を駄目にすることの悪さも教わりました。

出しているつもりの声、届かせているつもりの気持ち。
初めはこれ以上は出来ない、自分の限界まで出し切っていると思っていたが、自分の限界を作っているのを、皆で行う早口言葉の掛け合いで、まだまだ出せる、思いは届けられると実感しました。
知らず知らずのうちに引き出されている伝える気持ちは、言っている自分も気持ちよくなってきました。
人に話を伝えるのが苦手で、内に逃げていたのが普通になってしまっていた自分を反省し、これから少しでも良くしていけるように、気持ちだけは張っていこうと思いました。


たった一泊二日の短期合宿でしたが、二日間とは思えないほど充実した時間を過ごすことが出来ました。武禅では無駄なものは一つもなく、自分が自分を見捨てない限り得るものだらけの体験が出来ました。
出来ない(しない)自分を家に帰ってからも、する自分に変えていけるよう努力します。「今」します。

後ろ向きに座った相手に声をかける稽古は、呼びかけて答えてくれなかった時は、以前なら諦めて辞めてしまっているところですが、いくども声を掛け続けられ、また、何故駄目なんだろう、どうすれば相手にわかるだろう、と考える思考も出てき、今まで工夫をすることをしてこなかった自分に気付きました。

相手に声を届かす、相手の動きに合わす、相手と正面から向かい合う、自分の都合だけでは物事は進まないことを知っていたつもりですが、自分の都合を正当化していて、その通りに行動していた自分を反省する良い稽古になりました。

これからは、何事にもよく観察をし、何かを気付き気付いたら改良する気持ちを忘れに行きたいです。
目に見えることに惑わされず、中心を感じる大切さに気付きました。

このセクションで、向かい合うことの基本を行ってみて、自分が人と出会いかんけいを持つ時に、人の目を気にして関係をもっているんだと、改めて実感しました。
今まではきっと無意識に、先入観や偏見などで正面で向かい合うことも、ぶつかりあうことも出来なかったんだ、本気で向き合っていなかったんだと、気付かされました。

「ナマムギ」を今日は相手の閉じた目が開くまで呼び続けるルールだ。
本当に可哀想なくらいずっと呼び続けるのを聞きながら「シビアだな」と感じていた。
お世辞で届いてますよ、というのは通じないし意味が無い。
やっと相手が目を開けてくれた時は、嬉しいというより、この状況から解放される、という安心感が強かった。

後ろ向きの人の背中に向かっての「オイ」という練習では、周りの 2,3 人の人も手を上げてしまった。常々歌の練習で、声が集まっていないと指摘されていたので、これも同じことなのかを試すために、シールに向かって声を集めてみた。
すると一度で一人だけが手を上げてくれた。ピンポイントで この人 に伝えたい、という気持ちと、発声的に声を集めるという事が繋がっているのかもしれない。

 

74回武禅レポート(1泊2日)

一番うれしかったのは、他人とのつながりを確認する事で「人間は一人じゃないんだな」と実感できた事でした。

本気で人と向かい合え、本気で人に感謝できた三日間だった。
言葉にならない感動で、胸が一杯になった。

言葉というものが、自分も含めて色んな人の口から出て、周囲を飛び交っていて、その言葉の殆どを正しいものと判断して生活してきた。
「武禅」を通して、自分の意見同様、他人の言葉もそれ程正しいものではないことを知った。
自分に向けられた言葉の中でも、本気で自分に向き合ってもらえた結果、出された言葉も少ないことを知った。
世の中の見方が、本当に変わった 3 日間でした。

はるかに自分の容量を超えていった 3 日間でした。
全てのセクションが終わり、先生の言葉で「自分とは何だ?他人と本気で向き合ってこそ、自分(自己)が形成される、マネでもいいから、まず目標として型を持て」というようなことを言われていて、自分の中の一番深い暗い部分が、表に、自分で感じられる所に表れたように感じました。
私はハッキリいって、不感症人間でした。
そして、それが悪いとも思いませんでした。
他人は他人、みんな自己中なこのご時勢の処世術はこれしかないと、長年に渡り思い違いをしてきました。
しかし、この 3 日間を過ごした最後、その興味外であり、向き合う必要価値のないと考えていた他人とは、まさに自分自身のことなんだと、胸が締め付けられ涙が溢れました。
今まで作ってしまった、不感症である自分のまとったヨロイが硬いことも自覚でき、それを打破する方法論、メソッドが見えたように感じます。

最後に円座になり、皆で座ったときの全員から感じたエネルギーは素晴らしくて心地よかった。
一人一人を確かに感じることが出来、皆の言葉がストレートに全身に響いた。
人の涙に感応してしまい、何故か自分まで喜びが倍増していくようなこの感覚は、やはり武禅の最大の収穫である。

こんな風に「ありがとう」と言うのは、生まれて初めてだ。
ということは、これまでいかに他人に感謝せず心ない「ありがとう」を口先だけで言ってきたかだ。
人は、相手が真剣に向かい合ってくれるからこそ、感謝するのだということが分かった。
もしも今日、私が「ありがとうございました」という言葉を知らなくても、この感情を伝えるために新しい言葉を生み出しただろう。

相手の話を自分の体験と置き換えると、知らないジャンルのことでも関心をもって、どんどん聞きたいことが出てきました。

この 3 日間を通して、本当に多くの「元形」を頂きました。ここで頂いた元形は、生きていくこれからの基本フォーマットになると確信しています。
元形に日常の様々な事項を「代入」してみると、驚くほど分かりやすくなることを発見しました。
これは自分自身の大きな宝として、しっかりと持ち続け常に意識し続けるようにしていきます。

「こんなことも出来ないなんて」と思うより、こういった事を出来る、出来ないと考えたことも無く、それなのに、出来ないと頭を抱える自分に 2 重の驚きです。



そもそも、なぜ人と会話をするのか?そして会話の目的、目標は?と、今まで私の中でくすぶり続けてきた疑問を解決するヒントが、このセクションで見つけることが出来ました。
結果ではなくプロセスにこそ価値があり、そのプロセスを互いに共感しあう、または引き出す行為が会話をする、ということだと思いました。
今まで、一方的に喋ることに価値を感じていた、自分の浅はかさに言葉もありません。
人と向かい合い、会話し、共感する、という今日一日の内容に、自分の今まで 31 年間、何もして来なかったんだと、思い知らされました。

最後に先生が言われた「自分を知るために他人がいる」は、言葉としては知ったような気になっていましたが、他人をきちんと知ることも触れることさえ出来ない自分が、こうだと考える自分を安易に口にして、分かってもらおうとするクセを自覚した今、何が分かっていたのだろう、と恥ずかしく思っています。

遠く離れた相手に、しかも邪魔な人が前にいる状態での「コンニチハ」。
最初は届かなかったのですが、その内気持ちの中で「届けたい・なにくそ」という感情が多くなって、そのエネルギーを吐き出すと、不思議と相手に届きました。
どの状態の時も共通して言えるのが、当たり前ですが、いいかげんに、バラバラに適当にやった時は絶対にうまくいかなくて、やるべきことをやった時のみ、必然的に出来るということです。何度も書きますが、凄い事だと感動しました。
何でもこれからきっちりと目標を持って、やるべきことをやって目標に向っていきたい、向います。
最後のテストで和子先生に届いたときは、メチャメチャ嬉しかったです。

最後に先生がおっしゃったことが、社会生活のあらゆる真理を表していると思います。
私自身幸い大きな不幸に見舞われたことはありませんが、随分長い間「自分の生き方は、何かが間違っている」と悩み続けていました。
何が足りないのか、何をすべきなのか自分で考え出さねばならないことを、日野先生に出会ったおかげで「問題の本質」と「具体的な解決策」の両方が得られたのは、大げさではなく人生最大の収穫でした。

手の感覚が鈍い。相手の両肩を掴んだら「気持ち悪い」「しっかり掴め」「手の指の感覚しか伝わってこない」と意見を貰ったのもショックです。
相手と真剣に取り組む、向き合う、ということの深さに恐れさえ抱きました。

先生に、相手の話していることを、自分の体験と置き換えて、という指導を受けてから 4 人のバラバラだった会話に、一体感が生まれて、話の内容がどんどん深くなり、熱を帯びてきたように感じました。
相手の話を聞いている間も、自分の体験で共通項がないか、考えている自分、気が付けば必死で話していました。

セクション 5 は、声を届けるのがテーマ。なぜだか、たった今声を出し切って、エネルギーを出して気分がとてもいい。
身体が喜んでいる感じがする。

話し方のコツというセミナーはよくあるが、聞き方のコツば学べて良かった。
自分の足りないところは「誘い水」を中々出さないことだと、改めて感じた。年齢、職業、環境の違う人間でも、皆が聞く耳を持って、自分の経験とリンクさせて会話をすれば、「人は話したい生き物だから、会話は続いていく」という先生のアドバイスを、そのまま実感できた。

今の興奮状態は忘れたくない。こんな気分のまま毎日を過ごしたい。
一生懸命、声を届けてくれると、本当に嬉しい気持ちになれ、自分の声が相手に届いたとき、相手が嬉しく思っていることを感じられた。反感をかうのが恐い、というのは、自分が相手に本気で接していない、ということだと気付いた。
輪が大きくなるにつれ、皆の勢いが強くなり本気は連鎖していくものだと思った。本当に感動した。

「向き合う」練習を具体的に行った。最初は自分を客観的に見ながらやっていたので「フーン、そうなんだ」というくらいの感想しか無かったが、先生から言われた「自分の感情に対して主観的にならないでどうする」という言葉が胸に突き刺さった。
というのも、自分でも知らず知らずのうちに、自分の感覚に対して無感動になっていることに気付いたからだ。
確かにそれでは、死んでいるのと一緒だと思った。

こんな風に「ありがとう」と言うのは、生まれて初めてだ。
ということは、これまでいかに他人に感謝せず心ない「ありがとう」を口先だけで言ってきたかだ。
人は、相手が真剣に向かい合ってくれるからこそ、感謝するのだということが分かった。
もしも今日、私が「ありがとうございました」という言葉を知らなくても、この感情を伝えるために新しい言葉を生み出しただろう。

相手の話を自分の体験と置き換えると、知らないジャンルのことでも関心をもって、どんどん聞きたいことが出てきました。




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