80回〜89回


89回武禅(2泊3日)

今回の「武禅」の最終参加者を見ると、女性の方が多かった。
これは過去 88 回の行会で初めてのことだ。
それが良かったのかどうかは分からないが、最後のワークでは、殆どの人がお互いに成長を認め合い、喜び合っていた。
レポートにも記されているが、たったの 2 泊 3 日でも、人は変化するという実際を体験し、人の素晴らしさ、関係の素晴らしさ、仲間の素晴らしさを満喫していた。
初めての参加者も多数おり、ナビゲーター的役目をする常連が殆どいない中、初日こそ緊張で硬くなっていたが、二日目からは女性の柔らかい雰囲気が功を奏し出した。
それは、レポートを書いた後の休憩でも、自然と場が和み、深刻な雰囲気にはならなかった事で分かる。
自分の問題点や、武禅での疑問を出し合い、ともすれば休憩時間をはみ出すこともあった。
女性は最初こそ理屈を並べるが、そもそもが直感的だから、自然とそちらに移行する。
また、同じ突っ込むにしても、言葉が直感的、あるいは日常的な言葉を使う。
男性の場合は、正解や正論を並べる。
つまり、女性は比較的身の丈に合った言葉を使うが、男性は自分とはかけ離れた他人事の言葉を使う。
そんな違いが、今回の「武禅」を通して明確になった。

初参加の男性が、行が進むに連れてどんどん自分の殻に入っていった。
それは男性にはよくある事だ。
女性の場合の多くは、涙を流すことで、そこを吹っ切る。
理屈か自分の事か、の違いだ。
自分の問題を自分のこととして捉え、涙した男性は皆無だ。
そんな中で、今回一番最初に、殻を破った男性は、前回初参加の時に涙を流していた。
切実だったのだ。
もちろん、男性に泣けと言っているのではない。
自分の事なのだから、本気で自分と向き合えと言っているのだ。

その男性のグループを見ていると、女性達が本気で叱咤激励し、一丸となり本気でその男性を応援していた。
その熱が他のグループにも波及し、参加者全員が応援した。
それが場であり、仲間ということだ。
誰かリーダーがいるわけではない。
自然発生的にそうなった、としか言いようが無いのだ。
本気で応援した女性の一人は、その男性への言葉は自分に対して投げかけているものだった。
つまり、他人事では無かったのだ。
理想的な関係が、そこには有った。
だからこそ、他人にその熱が伝播したのだ。
こういったことは度々起こる。
その場合、必ず中年の女性が中心になっている。

次回は90回目の「武禅」になる。
もう90回もやっているのだ。
100回までは続けようと思っているのだが、 実際問題疲れる。

 

 

お互いの成長、あるいは変化に共鳴しあうという体験は、日常生活の中ではほぼ体験することが出来ない世の中で、本当に「武禅」の存在がどれほど大きな意味を持つのか計り知れません。
そして、それは永遠に有るわけではない、という現実をしっかりと認識し、一回一回を全力、毎回、今回が最後、という気持ちで参加しないのであれば、意味の無いものと思い頑張ります。

 

人と関ることで、人が変わる。
今回掴んだことが、どれだけ大きいか。
今までは死んでいたのだ。
これから人と関ることが楽しみになった。
今回の「武禅」の参加者が再び揃うことは無いだろうが、必ずまた来ます。

木刀での正面向かい合いでは、初日と比べて、みんなが別人になったように、しっかりと向き合えていた。
たった 3 日間で、これほど人が変わるなんて、本当に奇跡だ!
そして「こんにちは」では、メチャメチャ相手にぶつける。
相手が向かってきてくれる。
嬉しすぎて、楽しすぎて、胸のあたりが熱くなってくる。


いつも、今過ごしている時間を、自分の為にプラスになるか、マイナスになるかと、計算しながら行動している自分がいる。
実際、自分ではそんな自分が好きではない!
もっと、自然に生きて行きたいと考えているのに変われない。
変わろうとしても、引き戻す自分がいる。
この自分が変われたら、パフォーマンスも変化するだろうか?


正面に向かい合うことが出来ず、向かい合っている“つもり”“ふり”をしていた自分。
それも指摘されなければ気付かなかった自分。
この 3 日間で、向かい合うことの気持ちよさを感じること出来ました

 

同じ相手とばかり練習すると、相手のクセや間、タイミング等が分かって、出来たような気になっていた。
相手を変えると全然駄目で、読み取る事より、押し付けてばかりだったことに気が付いた。
全てにおいて、相手と自分の関係がどうかが、一番大切な事に気が付きました。

 

声を届けていなかった。
「こんにちは」と毎日のように言っている言葉なのに、全然届いていなかった。
大きな声を出したら届くのではなく、こころからの叫びが言葉になって届くものだと知りました。

 

確実に自分の届ける先がはっきりしてくると、声の響きまで違ってくる。
相手に声を届けようとしたら、曖昧ではいけないという事。
届け先がはっきりとしていない言葉は、相手に伝わっていないという事を発見しました。

 

今を大切に生きよう、と心から思えました。
参加者一人一人に“ありがとうございました”を言える喜び、武禅を通じて過ごした 3 日間。
14 名の中の関係性も繋がっていた気がします。
とても貴重でありがたい体験をさせて頂きました。

 

皆さん初日とは全く違って、目付き、顔付き、姿勢、すべてビシッと凛として、立つ姿がとても気持ちよかった。
最後の挨拶でも、もっともっと関っていきたいいう思いが溢れていて、とても感激しました。
今回は常連の人達の多くが参加していなくて、しかも女性が半数以上ということで、どうなることかと思っておりましたが、何か何時も以上に感じたことが多かったように思います。

 

今回の「武禅」は、私の過去 5 回の参加経験の中で、皆が一番一つの輪の中にいたのではないかと感じました。
それがとても嬉しいことでした。


とにかく緊張しました。
相手に明確に意思を向けて声をだしているつもりでやってしまって、中々その人に届かないで、思いもよらぬ所へ声が散っている状態を、自分がしていると気づきました。

 

やることに意識が向いていると感じながら、向かい合っている気がしました。
他人に言われて、初めて分かることが沢山あり、自分の思っている自分が、本当の自分ではないと、頭で分かっていても、全然出来ない。
伝わらないのではなく、私自身が伝えていないことに気がつきました。
“向かい合っていない”“立っているだけ”“気持ちが無い”“かたちだけ”。
今日初めて会った人達に、色々な事を言われてありがたいと感じました。


初日にやった向かい合いと、最後の向かい合いは全く別のものでした。
たった 3 日で、人は変われるのに、今までの自分は何だったんだろう?
一緒に稽古をして下さった皆さんに、ただただ感謝です。
この場の 14 人の存在が、もっと素晴らしいものになる様に、私はもっと生きたい、そして、もっと人と関れる人間になります。
本当に感動するとはこういう事だ!
言葉にならない気持ちが、こんなに湧いてくるとは思いませんでした。
言葉にするのはもったいないです。

 

 

他人と向き合うことが、こんなに嬉しいことだったとは。
最後に全員と「ありがとうございました」と言った時、ありがとうと、人に感謝することが、なんて気持ちがいいのだろうと思った。
人と笑顔で顔を合わせることが、とても嬉しかった。
この「武禅」で一緒に過ごした皆さんのことが好きになった。
人間には、これほど素直で清く美しく、温かいところがあるのだなと思った。
この場にいさせてもらえた事が本当に嬉しかった。

今まで私の思いや言葉が通じなかったのは、全部私の問題であったことが分かりました。
向き合ってないのに、何を言っても通じるわけはなかった。
ただそれだけのことなんだと。
どんなつまりはなくても、私が、私が、で全ての事を進めてきたんだと気づきました。
この 3 日間で、沢山のことに気付き、学びました。
人と人とのつながりも、とても良い事と知りました。
私は、こんな良い機会、人達に会えてとても幸せです。

 

「握手」で相手の手が動かすことが出来る回数が増えていったが、すぐに「それは本当か?」と疑うクセをつけないといけない。
普段の生活で、当たり前のようにやり過ごしていることが沢山あるが、「ウソ」が山ほどあることに気付いていない。
全てを疑い検証し、それを何度も繰り返すことで、「本当」の事に気付くチャンスを見つけることが出来るかもしれない。

 

全く声が届かなかった。
悔しいやら情け無いやらで泣けてきた。
ずっと届かないといい続けて貰った T さんに感謝する。
正直に言ってもらえるのは有りがたい。
43 年間生きてきて、私は全く声を届けていないことに、また改めて情けなさが出た。


何だか分からなかったけど感動した。
女性が多かったので、場が和む温かい雰囲気の武禅だったが、和やかなだけではなく、個々がそれぞれ目的を持って精一杯に取り組んでいた。
その精一杯が、最後に大きな感動となって涙が溢れた。皆の気持ちが素直に伝わって来て、人と関れることに嬉しくなった。
その自分の変化に驚いた。

円になっての「なまむぎ合戦・わー」で、相手のエネルギーがどんどん向かってきて、それに対して自分の膨らんでくるエネルギーを相手にぶつけ盛り上がっていくのが、滅茶苦茶楽しくて嬉しくて、相手を近くに感じられた。
前回の武禅でのこのセクションは、実は恐く思っていて、自分のところに来ないで欲しいと思っていた。
しかし、今回は凄く楽しくて、どんどん向かって来て欲しいと思え、自然と笑いがこみ上げてきた。
何だか懐かしい感じがした。

今回最初に向かい会った組で、最後に向かい合った時、「どうすれば」が消えているのに気づきました。
「どうすれば」ではなく、「何を感じたら」でもなく、私の前にこの人が立ってくれているという事、そして私に向かい合ってくれている事が、有り難く、嬉しく…いえ、本当はその時には、そんな事さえも頭にありませんでした。
ただ、何かの感情が動いて、自然と笑みと涙が出てきてしまっていたのです。
そこに理由は無く、本当に私と関ってくれている人がここにいる!と感じたというのは確かです。
何回も「武禅」に来ていて、毎回それは感じていた筈なのですが、きっと毎回同じである筈がないですね。
でも、言葉にすると、それしか言いようが無いだけで、この今の体験は初めて出し、きっと一生に一度の事なんだと思います。
だけれども、これがあったことで、今後もっと豊かな人間関係を築けるだろうと予感します。

昼食

「身体に触れる」ふれる、近づく事で他人に違和感、嫌悪感を与えてしまう自分を変えたいと思いつつ、やはり未だにそのとっかかりも見つけられません。
「自然に」と思えば雑な動きになり、「丁寧に」と思えば、慎重のつもりになっただけの、わざとらしい変な動きになってしまう。
上手くやろう上手くやろうとそればかり。
この「武禅」に来てまで、その場をやり過ごすようなことをして何をしているのだろう?

日常生活での人との関わりが、いかにいい加減にやってきたかを実感した。
連続で相手に届いた時、明らかに自分からエネルギーが湧き上がって来ているのを体感した中で、声が届いた。
あんな状態になったのは初めてだった。
日常に戻って、エネルギーをいかに維持するか“出す”ことをやっていくかが、とても大切だと思った。

今回「武禅」に来たのは、朗読の表現力を高めるヒントを得たい、という目的があったのですが、小手先の技などよりも、もっと一番大切なものに気付けて幸せでした。

 

木刀もって立っている二人の姿。
初日とは全く別人でした。
何のブレもなく、静かすぎるくらい静かに向かい合っている二人がいる。
凄い!

 

「なまむぎ合戦」での、皆さんの表に出てくる輝きに圧倒されながら、必死に向かって行き、返し返される。
考えている一瞬もないまま、やり取りされる生の声。
相手と関ろうとするエネルギーは、どんな表面的なきれいな言葉よりも、自分の喜びに変わるものだと感じました。

 

踏み込んで失敗して自分を追い込む。
こういう場でやろうとしているのに、やっていない自分。
何をしに来ているんだ。
やろうと思っているだけ。
この期に及んで逃げ続けている。
どんどん存在が薄っぺらになっている。
やらないから不安だけが大きくなっている。

胸のつかえが苦しくて、勢いよく「こんにちは」を届けるワークでは、途中で声がどこかに逃げていく感覚だった。
「もっと、もっと出せ !! 」「もっと出せる」と何度も言われ、何度もチャレンジしたら胸のつかえが外れた。心はいつも一体何に対して使っているのだろう、使ってきたのだろうと思ったら、愕然とした。
頭ばかり使っている。
心はちゃんと使っているのだろうか?


関係性を持って向き合えるってことは、とても楽で嬉しいことなのだと実感した。
私は、ブレブレだった立ち方に芯が通ったこと、受身的だったのが、スッと前に立てるようになったと言われました。

日々、自分がどんな風に生活しているのか、いかにおぼろげか、このレポートに書く言葉もそうだけれど、自分の習慣にしていることや、良いとしていることが、ちゃんと積み重なっていないと感じました。
根本的に変わらないと、何にもならない。
今、頭で考えても何も出来ない自身の状態が、多少気持ちよく苦しくもあります。
もちろんショックです。

 

「相手を感じよう」とか「周囲の流れを大切に」とか、そういう言葉に支配されて、一歩踏み込めないということもあるのか。
書きながら、また思考の迷宮に陥っている。
「あかんわ!」

 

2 泊 3 日で、 1 週間分くらい、先生とみんなといっしょに時間を過ごせた気がします。
仲間を見ていて、「人間って、変われるんだ」と確信させて頂きました。
「出会いがあり、仲間がいて、人と関係することで自分は変わっていける。
一人では何も出来ない」この先生の言葉を、本当の意味は分かっていませんでした。
それをこの 3 日間で、身体で味わうことが出来、これを原点にして、進んでいける気がします。
「武禅」は恐ろしいものだと思っていましたが、こんなに素晴らしい場所が、今の時代に存在するなんて……。

いつも思うことは、人は誰のアドバイスででも段々変わることが出来るんだ、ということです。
凄いと思います。
先程も、木刀向かい合いで、全然関係しようとしなかった人が、続ける内に少しずつ、変わっていく。
相手に呼応して、良くも悪くもなるんだと実感しました。

 

「正面向かい合い」で、相手の方が初めて向かい合えたと、涙を流されるのを目の当たりにして、僕も背中がゾクゾクし感激した。
何か本当につながりあえ、お互いに正面に立つ気持ちの良さを分かち合えたことが、とても嬉しかった。

 

88回武禅レポート(2泊3日)


今回は、以外に女性の参加者が少なかった。
男性が多いと、ワークそのものの進行が難しくなるのだ。
女性は直観的に動いたり、一つ一つの出来事に対しての、反応が女性の方が表現が豊かだ。
だから、場に笑顔が増え和らぐ。
真剣であればあるほど、笑顔が必要なのだ。
男性が多いと、まず考えるから入ったり、「上手くしよう」というような見栄から入るから、深刻になる率が増える。
深刻になるというのは、思考が停止してしまうということだ。
それではワークが実りあるものにはならない。
その辺りを人は誤解している。
真剣にやるから笑顔はいけないと。
真剣だからこそ、笑いが生まれるのだ。
「ナマムギ合戦」というワークがある。
これなど、人が本気正面からぶつかり合いをするから、本気の笑いが起こる。
だから場も人も活性化する。
当然、そのワークは相当レベルが上がる。
だからその直後のワークは、全員が相当レベルを上げる。

しかし、時間と共にまたテンションが下がってくる。
それは毎回共通していることだ。
その原因は単純だ。
自分の頭を使い出すからだ。
しかも、自分で自分の首を絞める思考の仕方だからだ。
「どうしたら上手くいくか」「どうしたらいないと言われないか」「どうしたら〜」が頭を支配すれば、それだけ自分の影は薄くなっていき、相手の人から見れば「こいつ、完全に私を無視している」となってしまうのだ。
「どうしたら〜」ではなく、実際にチャレンジ、相手の反応を知り、その反応からチャレンジの仕方を変えていけばいいのだ。

だが、行動を起こす前に思考する人が大半である。
その方向が完全に間違っているのだ。
「他人に良く見られたい、間違ったら駄目、あるいは、間違ったら恥ずかしい」という根源的な、自我の幼さが方向を間違えさせるのだ。
当たり前だ。
他人に良く見られたい、それで良い。
間違ったら駄目、それで良い。
間違ったら恥ずかしい、それで良い。
だから、何度も間違って正解を探し、その結果、他人から良く見られる自分に成長するのだ。
他人との関係を円滑に出来る自分に成長するのだ。
その間違いを繰り返す場が「武禅」の場だ。
「武禅」が稽古の場だとは誰も思っていないということだ。

そこまで、幼い自我が邪魔をするということだ。
本来、数十年掛かるその過程を、短期でやってしまうのが「武禅」なのだ。
ワークショップも同じだ。
ワークショップが本番ではない。
「武禅」が本番ではない。
本番は自分自身の人生であり、自分の属する社会、あるいは人間関係の筈ではなかったのか。
本末転倒する自分を冷静に眺めてみよう。

 

 

皆から「相手を見ていない」との指摘を受けました。
事実、普段から私は相手を見ていない、人と話す時も目を見ていないし、違う方向を向いているということが、今思い出されます。
そんな自分に何が出来るのか。
声を届かせる以前の問題です。
相手と関る以前の根本の問題です。
そんな自分に気付きショックを受けたセクションでした。

 

「武禅にこなあかへんで」と先生に言って頂いてから、 1 年くらい逃げていましたが、今回参加できて本当に感謝しています。
時間は掛かってしまいましたが、あの一言が私を動かしたのは間違いないのですから。

2 人で雑談をした時「めちゃ、話にくいです」と言われ愕然とした。
自分の頭の中では、話しやすそうな人を演じていたつもりなのに。

 

相手の人に「こんにちは」と言われた時、自分の胸に響いて嬉しかった。
人の声が届いて、私が受け取った生まれて初めての経験だった。
何故か涙が出てきていた。


 

今回の「武禅」では、過去 3 回の武禅で気付いたこと思ったこと、それらを基に自分の考え方や、物事を見る目の拠り所としていたものが、全て浅はか過ぎて話にならないということに気付かされました。
それと同時に、実感として幼稚で恥ずかしいという感覚を強く持ちました。
このままでは本当に嫌なので、諦めずにどこまで行けるのか進んで行きたいです。

 

普段何気なく会話をしていることが、どれだけ表面上だけの軽いものだったか、、、、、というのを痛感した。言葉の音だけに頼り、それは全く相手に届いていないし、届けたい、伝えたい、とも思っていないのかもしれない。
とても冷たい会話だらけの日常を生きていることを、残念に感じた。

 

人間関係を自分で切り拓く工夫、努力を殆どせずに生きてきた。
それで騙し騙しやってきたが、周りの人に不平を持ちながらだ。
自分で場や人間関係を、切り開ける人間に「武禅」を通してなりたいと思う。

 

全く他人や他人のリアクションを見ていない。
話すだけで見る余裕が無いとの指摘。
普段薄々感じていたことが、皆の前でクリアに知ることが出来た。
人に関心が無いことも、一対一の向かい合いの時に分かり、このままじゃ本当に嫌だと思った。

「届いてこない」「一人で言っている」「とりあえず言っているだけ」と指摘されて、届けるようにとか、気持ちを込めてと思ってみるが、何も変わらないと指摘。
言葉とは何なのか、話とは何なのか、聞くとは、見るとは何なのか、完全に見失った。
いや、最初から無かったのかもしれない。
職場では約束事で、話を聞くかもしれないが、だからこそ相手に届くように話さなければ、聞いていない奴は居る。
本当に参った。
他人のせいにする事があったが、全て私が「相手が聞けるように」話していなかっただけだ。

 

皆それぞれが、それぞれのアドバイスで変わっていくのを見て、もっともっと変われるんだと思えてきました。できるだけ自分の言葉でジャッジしたりすると、それが自分にも帰ってくるのを感じました。
人の言葉を使わず、自分の中から絞り出すことがいかに大事がを知りました。


グループでの雑談では、日常こんなに勝手に一人で喋っていて、他人の話を聞いていないのかと、改めて驚きました。
セクションごとに、感覚が極端に変化するので、ちょっと整理がつかない感じです。

 

みなさんに「ただ見ているだけ」「遠くから眺めているだけ」他の言葉を貰い、普段の自分のクセのようなものが頭をよぎりました。
人をよく見るのですが、観察しているだけで、何かしら独り善がりの想像をして、相手にリアクションかけるとか、相手の事を考えると言うことはしていない。
あーそうだ、いつもそうだ、と分かりました。
私の周りにいる人達に、あやまりたい気持ちになりました。


先生の話にあったように、全部逆のことをやっているか、一人の作業を繰り返すかになってしまいます。
とにかく、今の自分の延長線上には、何も無いという事実は見せてもらっているので、考え方、感じ方を組み直した、別の基礎を作っていかなければ何も出来ません。

 

「雑談をし、見ている他人がジャッジする」
なんていう、有り得ない稽古にびっくりしましたが、それが即日常だと思うと、こんな実践的な稽古なんて、絶対にどこにも無いと思いました。
ジャッジされて、自分が今まで良いと思っていた喋り方や間の取り方、相槌、うなずきの殆どが、テクニックをやっていたと気付かされました。
「自分で書いた原稿を読んでいるみたい」と言われたのが、ハンマーで頭を叩かれたようだった。

自分のこころと身体を使いこなすのは難しい、というのは分かっているつもりだったが、それを初めて体感した瞬間だった。
身体を使うのも難しいが、何度も繰り返せば何とか少しは出来るようになるし、目で見えるものなので“あっ、使うのは難しいんだ”というように感じられるが、こころに関しては目に見えないので、“難しい”と言われても本当は分かっていなかった。
ピラミッドで、あれだけ“この人に伝えたい”というような、強い気持ちで呼んでも、こころ(声)は誤魔化し切れなかった。
その嘘をついている自分に気付いた時、初めてその嘘という壁を壊して相手に届けられました。
手を上げてくれた瞬間は嬉すぎて「そうです」が、どもってしまった。
ありがとうございました。

武禅参加者全員の前で自己紹介。
「勝手にやっている」「一人でやっている」と指摘を貰った。
その事も勿論だが、自分が判定側のときに、実施者へのコメントについて、感じてはいたものの言葉に出して言えず、引っ込めてしまうことがあった。
実施者にとって、他者からのコメントは、成長の材料なのに私の頭でアレコレ考えてしまい、出せなかったのは悔しい。
他の参加者からは、ハッキリと突っ込んで欲しくて居るのに、私は自分の中で勝手に言い訳を考え出して、相手を突っ込まない。
自分という奴は本当に卑怯だと思う。

 

 

もう直ぐ武禅も終わり。
3日間であった出来事は、普段のことそのままだと思う。「人生の縮図」でもなく、普段の生活そのまま。
自分のやっていること、そして私の存在に対する他人が感じること。
リアクション。私の人間関係。
それら数十年の人生、繰り返している毎日の 3日間を切り取っただけ。
他人が私に感じていることがハッキリと分からない日常生活と違って、先生と仲間がハッキリと言葉で教えてくれる。
これらの経験を活かして、今までと変化した人生を歩みたいと思う。

玄関口で、どうぞと言われているのに、入らない。
飛び込み台で、ただ飛び込めばよいのに飛び込まない。
これも私の人生の中で、常に繰り返されている。ただ飛び込めばよいのに。
主に人間関係についてだ。
もし飛び込めば、私の人生は大きく変わると思う。

 

この 3 日間、日常生活とは別世界だと、最初は思っていた。
しかし、日常にこそ当たり前に必要であった。
武禅だけにある、特別な事にしていたのは、本当に私のピンとはずれていた。

 

自分は人を目の前にしただけで、心理的な動揺が生まれたいました。
だから、壁、又はフィルターを通して、相手を覗く、見ないで音声だけの繋がりを持つ、ひどい場合だとそれもしない。
もっと自然でクリアな状態を表現して、人の中に溶け込んでいけるような、日常を送っていこうと思います。

 

自分が届ける側になった時は、ほんの少しの意識の変化で、見え方が大きく変わってしまう事を、実感させられました。
送り手、受け手、どちらの立場になっても、相手を見ていなかったと思います。
人から見えている自分は?という事を改めて考えさせられます。

日常生活で、自分の意見が通らなかったり、言った事を覚えて貰えなかったりすることがありますが、それは相手の問題ではなく、自分がきちんと相手に伝わる様に話していなかったと知りました。

 

相手にとって口当たりの良い言葉、傷つかない表現、当たり障りの無い言葉で。
そんなことを何十年も自然にしているうちに、物事の本質をきちんと見極める事が出来なくなっていました。
それには気付かずに、自分を誤魔化していたのだと思います。
自分が悪い人と思われたくない、傷つきたくない、それが根底にあるので、相手のことを思っていっているようで、実は全く違っていました。

「アイ・コンタクト」は、かなり難題でした。
アイコンタクトを感じることも難しく、また、発信するのも難しく、正面に向かえ合えていないという、何を取っても出来ていないことだらけ。
自分は本当に普段人と向かい合っていないのだな、とつくづく感じました。

 

向かい合いや、アイコンタクトの感覚は鋭くなってくる分、相手の精度も上がっているので、ジャッジ役のとき、何を可として、どういう言葉を口にすれば良いのかが、どんどん難しくなっていきました。

相手と関係せずに、一人よがりになる自分を、とても感じました。
この事は今までも武禅で感じていましたが、その姿が非常に幼稚で恥ずかしいと、これ程実感として湧いてきたのは初めてです。
日常の中で、この姿を晒して気付かないでいたとは、相手にどれだけ失礼で不快な思いをさせたのか。
向かい合う、感じる、届ける。全てにおいて、自分のレベルが低すぎて、今のままでは話になりません。

声を届けるのセッションでは、組んでいた相手の目に涙を溜め始め、私としては「えっ?これって届いているの」で、相手の人に「どんな感じなのですか」と聞くと「こんにちはを、言われているのを感じる」と言われました。
私の中で分かっている事は、これが本当に届いたとして、届かせる事が出来たのは、先生の今朝の話があった事以外に考えられません。
視点が変わりました。

 

最初の「こんにちは」では、皆、音声再生のように聞こえた。
二人が向き合って、「こんにちは」と言っているのだが、目を閉じて他人のそれを聞いていると、まるでバラバラだったことに驚きました。
また、グループで雑談をしているのを、横で聞くというセクションでも、見ていると会話が成立しているように見えましたが、目を閉じて声だけを聞いていると、やはりまるでバラバラでした。
日常生活が、それと同じだったと分かり、ショックでした。

「こんにちは」の声が、相手に向かっていないのが、目を閉じて聞いていると良く分かる。
それが分かっていて、気持ち悪いと感じるのに、いざ自分が相手に「こんにちは」を言うと全く届かない。
これまで職場で挨拶の大切さを人に言ってきたが、自分がこんな音だけの挨拶しか出来ないのは、とても恥ずかしい。

 

「なまむぎ」も何回もやる内に、力むんではなく、怒るんでもなく、強い意志を示すような感じになって行きました。
その後、 1 人→ 2 人→ 5 人と変わるたびに、難しくなって、数十人に喋る機会の多い仕事の筈なのに、自分がただ大声で音を出していただけだったことが分かりました。
だからこそ、これは自分にとってとても大切なことだと思いました。

4 人で話をして、お互いに通じ会えるか、では、自分の話をしたい、という風にしか見られていない事に愕然とした。
人の話に耳を傾けるタイプだと自認していたが、独り善がりであったようだ。
家でも妻からは、同じようなことを言われた事があったが、妻の思い違いと言っていたが、それがそもそも独り善がりであったようだ。

 

 

「見る」事の難しさというより、「見る」という感覚を全く使えてこなかった。
これはかなりショックだった。
「身体に触れる」では、触れる前から、相手に近づいた時から、不快感を与えている。
これは日常でも感じることだが、実際に「気持ち悪い」と言われると、本当に何とかしなければいけないと思った。

「なまむぎ」では、多くの人が真っ直ぐに向かい合い、声を出してきていたので、凄く気持ちが良かった。
頭の中に邪魔なものが無く、ただひたすら「なまむぎ」に集中して、相手の声をもっと「聞きたい」、身体全体で受け止めたい!という、気持ちをむき出しにして、相手と向かい合えた瞬間は本当に感動しました。

 

私が相手に「こんにちは」という番の時、他人と認識して「こんにちは」と言うことが出来た。
別にタイミングを計らずとも、自然と目の前の人に、挨拶の言葉が出てきた。
これも初めての経験だった。
今までの挨拶は、全て義務感からの言葉だったと分かった。
私は、まともに人に話しかけたことは無かった。
妻子でさえも。
これからは、一人の大人の人間として声を届けたいと思う。

 

87回武禅レポート(2泊3日)


87 回武禅は、臨床心理の専門家が参加してくれていた。
心理療法の専門家であり、大学の先生だ。
おかげで、心理学の概要を知ることが出来た。
武道という全く別の視点から「人」を捉え、アプローチしている「武禅」に大いに興味を持ち、今年の福岡のワークショップに参加してくれ、今回の参加となったものだ。
休憩時間は、西洋の心理の捉え方と、日本的な武道からの捉え方の違いを、お互いに知る機会になった。
「武禅」は、毎回同じカリキュラムだ。
しかし、その同じカリキュラムだからこそ、参加する人自身の成長や勘違い、あるいは間違いを正す事が出来るのだ。
そんなアプローチ法も、西洋側から見ると新鮮なのだ。
一般に普及している、心理学からの言葉は多い。
その言葉の使い方の間違いや、言葉の持つ層構造性についても、話は弾んだ。
人はそう簡単に変化したり、成長したりすることはない。
何を基準として、変化したとか成長したと言えるのか。
というところでの、基準作りが「武禅」の目的の一つでもある。

『最初の頃は明確に「この人は私を無視している」というような事は、分からないものでしたが、明らかに分かる事の方が多いです。』
という成長もあるのだ。
もちろん、ここでいう無視は、面と向っているにもかかわらずということで、所謂いじめに象徴される無視ではない。
人の事を明確に分かるということは、自分の事も分かるということに繋がる。
そして、他人の事の方が認識しやすいから、そこから入るのが自分を分かる近道なのだ。
今回は、和やか過ぎという感もあった。
それも面白いものだ。
同じように目的を持ち、緊張感に包まれて参加しているにも拘らず和やかになり、緊張感が無くなって行く。
それが良い方向に作用すれば、相当鋭い体験が出来る。
悪い方向に作用すれば、稽古が「稽古ごっこ」になってしまう。
それこそ、一寸した心理の働きが伝播し、場を変化させ個人を変化させてしまうのだ。
そういった場のことも、「武禅」として回を重ねているから、明確に分かる。
それはこちらの勉強だ。
しかし、今回の武禅は何といっても、参加最年長 70 歳の女性が光った。
多分、参加者中一番気付いたのではないかと思う。
切実度の差だろう。

「〜出来なければならない」と思っている限り、自分自身の切実さ等溢れてくることもない。
所詮、知識として記憶の片隅で埃を被らせるのがおちだ。
それくらい、自分自身に無頓着であり、無関心だということだ。
そのくせ、外からの情報には敏感だ。
という自分自身にまるで興味が無いのには驚くほかは無い。
いじめで「他人を無視する」というのがあるが、その前に「自分を無視していること」に気付かないのだろうか。
そんなことにも気付かせてくれるのが「武禅」だ。


集団で声を受け取る側になったとき、全く分からなくてもしかしたら、自分には誰もいってくれていないのかと、不安になりました。
自分の方面に声が聞こえたような気がした時に、手を上げて当てずっぽになっていました。
自分がいかにいいかげんに話を聞いているのかを実感しました。
全く何も出来ませんでしたが、出来ていない自分をよく分かりました。
全く出来ないまま仕事をしていきたくありません。

 

最後に最初に組んだ 3 人に戻った時、一人の目が完全に違っていたのでスゴイ!と思いました。
その時、先生が言われた
「普通にやってみ、相手を攻撃する気とか、殴る気でとか、そんな気もないし、出来ないくせに、それを思っても全部ウソの上塗りやろ」との言葉を聞き、正面向かい合いを T さんとやった時、生まれて初めての感覚に涙が出そうでした。
その都度余計なことをせず、大切な人と向かい合いたいです。

全てのワークが終了して思ったのは、今まで自分は人と極力関ろうとしていなかったと言う事です。
今回の「武禅」に初めて参加させて頂いて、何が出来るようになったとかではなく、自分が出来ない事、しようとしていなかった事、気付いていなかったことを沢山発見しました。
今後の生活では、もっと人と積極的に関っていこうと思います。

 

毎日している「こんにちは」の言葉も、相手にきちんと届けるという意味では、全然出来ていないのだと実感しました


いつも挨拶をするように「こんにちは」と言えば良いのだけれど、相手に真っ直ぐにや、もっと心を込めてなど、考えている内に、どんどん不自然な「こんにちは」になっていった。
ただ、日常でも本当に「言いたい!」や「嬉しい!」という心を込めて「こんにちは」と言っている事は少ないような気がして、気持ちの良い言葉の筈なのに、その言葉も大事にしていない自分がとても悲しかった。

 

「自分で自分を好きになる」という言葉は今までも聞いた事があるけど、「そうだよね」とは思っても、そうしようと思って考えたことは無かった。
そうした「つもり」だった。
もっと真剣にならないといけない。

 

「武禅」参加者の皆さん、先生方と寝食を共にし、ワークをさせて頂いたこと、全てが人生で初めてで大きな経験となった。ワークだけではなく、朝起きた瞬間から、夜の楽しい宴会まで、全てが勉強になった。
人生の先輩から多くの事を学ばせて頂いた。
人に向き合うことがこんなに難しく、でもこころから温かい気持ちになれるということを肌で感じた。
明日からの日常の中で、今回の武禅で気付いたことを活かして行く。

「こんにちは」と言う時に、ただ声を出しているだけなので、相手に届いていないというのは、普段働いている時によく感じていて、感じているのだから直ぐに自分は出来るだろうと思ったら、全然出来なかった。
ちゃんと、きちんと相手に届けるという事を、今までした事がないのに、いきなり出来るはずは無いということが分かった。

 

 

先の事を考えても仕方が無い」「今しかない」「足すことは出来ないけど、放ることは出来る」という、先生のお話が最後に響きました。
人と向き合うときに、他のことを考えている自分がいました。
その相手や状況に、完全に向き合えてないのだと、いらない考えを放って人と接すると気持ちが良いです。
また、人と気持ち良く向き合うには、自分からも働きかけるという事も、やっと感じとして感じられたのも嬉しかったです。
今までの自分は、常に受けのみで、相手に向って行くことをしなかったのですが、それを変えて自分からどんどん接して行きたい気持ちになり、目に前が明るくなった感じです。
凄くワクワクして感謝の気持ちで一杯です。

 

先生がおっしゃったように、ここに参加すれば何か変われるかもしれないと考え、そのまま終わったように思います。
自分で変わろうとする気持ちが全然足りなく、参加された皆さんのテンションを下げた気がします。
自分の中に閉じ篭って、全てを出す気持ちが足りませんでした。
駄目なところばかりが出てしまいましたが、ここに来る前よりも駄目な部分が沢山あることに気付けました。

 

「こんにちは」ときちんと言いたいと思った。
今まで全く意識したことは無かった。
もっと相手と向かい合いたいと思った。
まだまだモヤモヤと考えるけど、もっと真剣に生きなければと思った。

全く相手に声が届いていない自分を知ることが出来た。
26 年間、誰にも声が届いていないし、声も聞くことが出来ていないなんて、とても悲しいし悔しい。
絶対に届けられるようになりたい。先生に聞いて頂き、声が出やすくなったことにも驚いた。
届ける側も受け取る側も、相互の関係が大切だということを実感した。

 

前回新大阪駅で、そこまで道場から同行した方々と別れる時、「このメンバーでこの様に会う事はもうないでしょう」と言われ、帰ってからその意味の深さが分かりました。
が、今終わって輪になり挨拶をしようとした時、改めて思い出され、こうやって一緒に向かい合って貰った時、時間や空間を共有してもらった有難さを感じました。

「手持ちのもので何とかする」「 10 年後ではなく、たった今」という言葉が頭で渦巻いています。
「それを知ってどうする」と言われ、現実はまさにその状態だと思いました。
だから自分の実力以上の望みを抱いたり、逆に卑下してしまったりするのだと思います。
どの場でも、気を散らさずに目の前の事に集中して取り組めば、道は開かれるのに、今していることが正しいか気にしすぎて、何も進まない。迷いは正解を求め、その正解は常に他人にあることになるので、やってもやっても自分の中には何も残らず、磨り減った感じになっていました。

後ろ向きの集団に声を掛ける稽古で、自分は短時間で相手の人が手を上げてくれたことに嬉しくなり「出来た!声が届いた」のだと勘違いをしていました。
自分の中の目的が「出来ること」になっており、「出来た、良かった」をしていて、やっている事が違うということに、先生の話で気が付きました。
今回、私がやっていることは、「出来るようになる」ということを、全ての稽古でやってしまっていたのだと思いました。
これを続けていては、 10 年後も変わらず、何も無く生きているのだということを思った時、恐くなりました。
「声が届いたのではなく、事故」という言葉にハッとしました。

「正面向かい合い」は本当に回を重ねるごとに、自分の感じることがハッキリしてくるので面白い。
最初の頃は明確に「この人は私を無視している」というような事は、分からないものでしたが、明らかに分かる事の方が多いです。
自分の事だけを一生懸命やっている結果、合わない、合わせられないというか、会う筈が無いと感じました。

 

体操の時、「出来た時の喜びがない」「感情が動いていないから、体験として蓄積されていない」と話されました。
以前から、話が出来ない自分をなんとかしたいと思っていましたが、何とも出来ずにいました。
やはり体験になっていないので、話にならないのだと思います。
今まで、何をやってきたのかと、とても情けなく悔しいです。

 

今回は「捨てる」「聞く」を特にしっかりやりたいと決めて武禅に参加しました。
雰囲気が和やかすぎたので、もっとピリッとした空気の中で、向かい合いや声を届けるをやりたかった。
相手も同じように具体的な何かを持って参加している人と向かうと、ピリッとした。
相互関係が出来ていると、とても気持ちの良い空気になった。

 

2 人組で声を届けようとした時、聞いた貰う相手によって声の出方が全く違った。
ただ目の前に座っているだけでは、声が出辛いと感じた。
本当に聞いてもらえると、声が出やすく引っ張り出される感じになった。

声で相手に思いを伝えるのは、無言で向かい合うことよりやさしいと思った。
でもやってみると、声を出すことに意識が行って、相手の顔がうすらいでいく。声でも視線でもなく何かを伝える。
自分の何かは意思なのか?

 

自分自身がどう思っているかではなくて、どのように他人は自分の事を思っていると、思われるかが大事なのですね。

基本的に「伝える・聞き取る」ということが不完全な為に、 2 人で組んでその中で周囲から羨ましいと思われる状況を作るというのは、大変なことでした。
だけど、その中でも駄目なのは「伝える・聞こう」という姿勢や気持ちが、基本的に無い人がいる。
感情が出ていない人と組んだら、こちらも何もする気が起こらないことが判りました。

「こんにちは」と毎日、毎日使っている言葉が、相手に本当に伝える事がこんなにも難しいのかと思った。
何度も口に出しているうちに、どんどん記号のように、またセリフを言っているようになってしまった。
「ナマムギ合戦」をやってすぐ、「こんにちは」を言うと、相手も私もとても気持ち良く「こんにちは」が言えた。
でも、やはり何度も繰り返しているうちに駄目になってきてしまう。
何も考えずにスッと言った時が一番上手く行くようだ。

今回は最初のレポートに書いたように、かなり皆のテンションが低い感じがあり「なまむぎ」をやるまでは、全く手ごたえ無しの感じでしたが、その後やや上向き程度で、向かい合えた感じがとても少なかったです。

 

自分自身の身体が認知、知覚されていない為に、繋ぎきれない。「ここに意識が行けば、あそこには行かず」もっともっと自分の穴を発見し、その穴が何で出来るのかを、自分として認識して行かないと駄目で、永久に変わることは無い。
「もっと努力せいよ!」

 

 

毎日している「こんにちは」の言葉も、相手にきちんと届ける、という意味では全然出来てないのだなと実感しました。

 

相手の「こんにちは」を聞くことも難しかった。
自分は一生懸命聞こうとしているのに、相手には「壁がある」「向ってきていない」「おかしな顔」としていると言われてしまう。聞こうとしている、聞いているつもりだということなのだと思った。
ジャッジしてもらえば貰うほど、頭ばかり働いてしまう。
直ぐに頭で考えてしまうのが私の悪いクセだ。

声を届けるには、視線や身体、こころ等何か一つが欠けても届かないと思った。
家族、友人、職場での会話の中で、これほど相手に本気で向ったことがない。
これからの日常の中の何気ない会話も、もっと大切にしなければと思った。

 

一番最後、「こんにちは」を届けた時「ハイ」と笑ってくれた時は、心底嬉しかった。

自分勝手と自己放棄の違いの話には、ハッとさせられました。

 

最初全く歯が立たず、糸口もつかめずにいましたが、最後の方になってようやく自分勝手にやっている自分に、気付く事が出来ました。
まさに「自分が」やってしまっていました。
「相手の」だけに絞ってやると、前とは全く違う感じがしました。
この感じを普段のコミュニケーションに活かせるよう頑張ります。

 

T さんと向い合わせて頂いた時、生まれて初めての感覚に涙がでそうでした。
涎がたれそうな程、リラックスしてお風呂に浸かった様な、何とも言えない感じでした。
その都度、余計なことをせず、向かい合いを大切にしたいです。

 

今まで自分は、常に受身のみで、相手に関っていくことをしなかったのですが、それを変えて自分からどんどん他人と接して行きたい気持ちになり、目の前が明るくなった感じです。

 

86回武禅レポート(2泊3日)

 

「武禅」を終えて、紀伊田辺の駅までみんなバスだ。
全員余韻がたっぷりあるので盛り上がる。
紀伊田辺から新大阪へ。
疲れの為、殆どの人が爆睡。
そして新大阪に着く。
そこから東京や、逆の岡山や山口方面の人、新大阪で降りる人。
そこでお別れになる。
そこで一人になって驚く光景が目の前に広がる。
全く生気の無い人達の群れに出会って愕然とするのだ。
3日前まで、自分もその中の一人だったのに。
「武禅」での徹底した向かい合いは、見る目も完全に変える。
今回の「武禅」は、明くる日が大阪教室だった。
だから、「武禅」に参加した大阪教室の人は、その日に来る。
初めて参加した一人は開口一番「よかった!」どういう意味かというと、周りにいる人の気持ち悪さに吐き気が起こり、叫びそうになったそうだ。
「アホか、俺はずっとそれを見ながら生きているンやで」「あっそうか」で大笑い。
20代の時、街は怪物だらけに見えて、ほんとにどうしようかと思った。
生気が無いと言えば簡単だが、問題はそれだけではない。
そんな自分に参加した人は気付き、改めて「生きる」というチャレンジを開始するのだ。
「傷口を広げあえる仲間」
現代の過保護社会では奇跡の場と言っても過言ではない。



こころの奥底にある「一番偉い自分」は、武禅を通して何も出来ない自分であることを知って崩れてきました。
くずれた代わりに、他人の存在を知ることが出来ました。人との関係を新たに作っていきます。
稽古だけでなく、その後の飲み会でも、何も出来ない自分を知ることが出来ました。
その何も出来ない自分の背中を押してくれた、諸先輩方の優しさに、人生で初めて触れることが出来ました。
ありがとうございます。

 

アイコンタクトの時に、動けない自分。
また動く気のない自分に気付きました。
私はこうやって、人生に参加していなかったのかもしれないと思います。
目が悪いとか、人の動きが早いとかを言い訳にして。

理屈を考えてしまう自分がいる。
相手のことを思いやっているつもりになっている自分がいる。
悲しい現実だが、今の自分は相手に心を開いているつもりになっているだけらしい。
今までの自分の認識が音を立てて崩れていく。
ここまで人間相手に接することが下手であったなんてとても悲しい。
ここまでの劣等感を感じたのは何年ぶりであろうか。
こんなコミュニケーション下手な俺だからこそ、周りの人達に不快な思いをさせてしまっているのだろう。
一体俺は何を大切に人とコミュニケーションを取ってきたのだろうか。
言葉だけのやりとり。それも相手の心に響く声ではなく、音だけが聞こえるコミュニケーション。
何とかしてそれを克服したい。せめて何かヒントを手に入れたい。

相手との気迫と気迫のぶつかり合いにするにはどうしたらよいか。
大切なのはそんなことじゃないのは判っているが、出来ない自分に腹が立ち、同じグループの仲間の足を引っ張っている気がして情けなく思えてくる。
いい表情には少しなったと言われたが、何が足りないのだろう。
自分の気持ちを相手に、そして周りに伝えることがこんなにも難しいなんて初めて知った。
どんなに真剣にやっているつもりでも、周りがそうは受け取らない。
気持ちや気迫を伝えることを、言葉や思考に頼りすぎていた自分に気が付いた。

相手に向かい合うこと。それはただ相手の前に目を合わせて立っていることではない。
相手との関係を自分が作ろうとしていないことを感じた。
単に頭で考えた思いのようなものだけで、相手と関ろうとしている気がした。
本当に向かい合おうとしていない。
そのような気配は、相手の正面に立っていなくても、外から見ていても判ってしまう。
とても恐いことだ。そして情けなかった。

声を届ける稽古ということでペアを組み挨拶をしたが、自分の声も全く届いておらず、相手の声も届かなかった。
普段もうわべだけの挨拶をしていたのだと気付くことが出来た。
声を届かすことは出来なかったが、普段ここまで相手の目を見て丁寧に、自分なりにでも本気で挨拶をしたことはなかったように思う。
そういった意味でも、このことは日常でも気をつけていこうと思った。
先生の挨拶のお手本は、言葉ではうまく言えないが、心に響いてきたのはびっくりした。
本当に人を説得できるのは、口先ではなく心に届かせることだと、身をもって知ることが出来た。

 

自分はロボットのように、無感動になってしまったと以前から反省していたつもりでいて、実際どれほどロボットになっているかを突きつけられた。
気持ちが弱い、くやしさが弱い、怒りがない。
そのことは周囲から見ればまる判りなのに、誤魔化してきた。
その癖が向かい合いの場でも出るばかりだ。
自分が向かい合っている姿を鏡で見たときは、ひたすら気持ちが悪かった。
まるで死体だ。

 

俺は永遠に人に声を届けることが出来ないのではないか、と思うくらい届けられない自分にむかつきます。


何かをするにあたり、必ず正解は?コツは?やり方は?と思考してしまう。
本当の意味で自分を追い込んだ状態に出来ていない。

 

自分を受け入れてくれる人がいる、というのは本当に有り難く又素晴らしいことだと身体で感じました。

半年振りの道場で、お互いが向かい合う、関係しあうことの清清しさ。
独り善がりにならない清清しさ。
「ただやる」ということの難しさ。
意識が走り回ってしまう難しさ。
でもその中にも、意識が消え静かになる瞬間がある。
それが何とも言えない、言葉で表現できない感覚だ。
向かい合っている相手がクリアになる、真に美しい瞬間だ。
これ以上の素晴らしい体験があるの か、と何時も思う。


自分のことより、グループの代表をみんなで作り上げていく過程が本当に楽しかった。
他の人達と力を合わせて何かをやり遂げていく。
自分は今まで本気でその事に取り組んだことが無かったと、今回気が付いた。
今日、このセクション、この場でやったことが、 60 余年りの人生で初めてのことだと思える。

 

日常の会話の中で、相手と話をしているにもかかわらず、声という音や意味だけが飛び交い、さも話しているかのように振舞う。
聞く側も聞いているふりをしていて聞いていない。
私もそれに気付かず人と会話している。
自分も本気で伝えたいことを、本気で人に話をしていない。
全くと言っていい程のダメな自分を知り、変わりたいと思いました。

 

自分のエンジンを回す。
実際に口に出してやってみると良く分かった。
自分の中のエンジンを回している時は、本当に身体が飛び出しそうになる。
エンジンを回していない時は、何時でも動けるつもりでいても、実際は身体が固まってしまっている。


自分では少しは伝わっていると思っても、相手は伝わっていないというので、今まで実生活で「そんなつもりで言ったのではない」とか「きちんと言ったのに伝わっていない」という事の原因がここにあったのだと分かりました。


自分が声を届けた時は正直、安堵したが、それも自分のことばかり。
他の方が届けた時とは、皆の反応が明らかに違う。
皆で喜べないのはつらい。
笑い合えないのもつらい。
しかし、これも自分のことばかり。

 

「上手くやろう」「良く見られたい」等の自意識。
見た目だけ取り繕えば良い。
この甘い考え。
何にしても乗り越えなければならない壁だ。

声を届かせる事は出来なかったが、普段ここまで相手の目を見て丁寧に本気で挨拶した事はなかった。
そういう意味でも、この事は日常でも気をつけて行こうと思った。

 

2 人での正面向かい合いでは、声を出した余韻もあってか、相手と対峙するのが少し楽になった。
相手の人からも雰囲気が良くなったと言われた。
まだまだ全然出来ないが、人と関係するということは、本当にリアルなことなんだと改めて痛感した。

今回のセクションでは、誰とも向き合えていない自分に物凄く焦りを感じました。
何とも言えない孤独感を感じ、とにかくこの「武禅」を通じて人と向き合えるようになりたい。

 

正面向かい合いの中で「アッ!」という感情を、相手に思い切りぶつけた時、本当に気持ちよくて、今まで経験した事が無い感じでした。
「嬉しい」という気持ちが湧きあがってきました!

自分はちゃんと向き合っているつもりなのに、「様子を伺っている」感じだとか、「勝手にやって!」という感じがすると、第三者から指摘され、あーこんなところで自分の人生の態度が現れるのか、と思った。
自分では、物凄くちゃんと向き合ったり、相手にエネルギーを送っているつもりなのに…くやしい!

 

思い込みがどれだけ自分自身を閉じ込め、窮屈にさせているのかに気付かせて頂いたことは、とても大きな財産を頂いたと思います。

正面向かい合いから声を届けるのセッションは、何がどうこういうより、やっていてお互いが心地よい。
何かをやり合っているのではなく、お互いに同じ価値観で何かをやる時というのは「こんな感じなんや」みたいな事を感じました。

 

あいさつ一つも届けられない。事務的に聞こえたり、アナウンスのように聞こえたり、目の前の人に届けているつもりにしかならない。
私の声はどこに向っているのだろう…。

 

相手がいてこそのあいさつ、言葉である。それなのに、やっぱり自分本位になる。
この自分本位になっていることには気が付けた。
気が付いたのだから、そうならないように、他人、人がいることに「ありがとう」です。

 

どんどん頭が、意識が大きくなっていく。
何をしていても自分の事ばかり考えている。
ひたすら保身。
これが本当の自分?

一番嬉しくもあり難しかったのは、やはり後ろを向いた方達の中で、一人の方に手を挙げて頂くことでした。
思い込みの様なものは通じず、本当にその方だけに的を絞って声をかける。
成功した時のあの感動は、人との関わりの中で、いや、今までの人生の中で一番嬉しかった出来ごとのように思います。

 


最後の皆との挨拶では泣きそうになった。足手まといに違いない自分に、皆は色々とちょっかいを出してくれた。
それに初日で帰りたくなった僕は、ホンマもんのアホだ。

 

声が届いた瞬間、嬉しくて、楽しくて、それまでの届かなかった状態の気分など吹っ飛んでしまう。
声を受けてくれた人に「ありがとう」と大声で叫びたくなった。
他の人の声が相手に届いた時、全員が自分の事のように笑顔になる。
それを同時に体験し、人は一つになれるんだと本当に思えた。

「自分だけ出来ない」ことで焦り、それを認めたくない気持ちがあった。
その内別の者が向かえなくなったのが判って正直ホッとした。
「自分だけじゃない」と。
そう考えている自分にうんざりした。
「自分が一番だ」という考えがあるからだろう。
それが人から何かを学んだりするのがを苦手にしているのだろうと思った。

 

どうせ何もできないのだから、無茶苦茶何でもやってやろうと思ってみても、終わった時に全力を出し切った感じが全くない。
つまらない照れや恥ずかしさから逃げられない。

 

人の目をみることも、こんなに真っ直ぐに向き合うことも、初めての経験だと思う。
どちらかというと、いつも目を見て話すようにはしていたが、口先で話しているだけだと分かった。
聞いていないし、届くようにも話していない。
人との会話って大変です。

相手のテリトリー、自分のテリトリーの中の違和感を考えたことも、意識したこともありませんでした。
自分もストレスを感じるように、相手にもストレスを与えてしまっているとは。
なんて自分勝手なのだろう、と考えさせられました。

 

正面向かい合いの中で「アッ!」という感情を思い切りぶつけた時、本当に気持ちよく、今までに経験したことのないような「何これ?」。
でも嬉しいという気持ちが湧き上がってきました。

アイコンタクトをしましたが、最初は目を合わすのが恥ずかしかったり、拒否されるのではないかという気持ちで遠慮していましたが、先生の「もっとスピードを出せ」という言葉で、夢中になって行うと、恥ずかしいということも無くなり楽しくなってきました。
アイコントクとの最中、自分を認識してくれたという嬉しさが出て、ありがたいと思いました。

相手に向おうとしていても、一寸のことで周囲に気持ちが散ってしまう。
評価されたいとか、良く見られたい、うまくやらなければ等々。
前々から自分の中にあることに気付いていたのに、これがどうにもこうにも。
こうやっていても、周囲を気にしている自分がいる。

 

85回武禅レポート(2泊3日)

今回の「武禅」は、先日の東関東大震災の時、被災した宮城県の病院で勤務していた医者も参加していた。
彼は 5 年ほど前から、折に付け時間を作り武禅に参加している。
医者といっても、まだ研修医を開けて数年しか経っていない駆け出しの医者だ。
今回の災害時、病院に次々に運び込まれてくる被災者を目の前にし、完全にパニックになった。
無残な姿を見て吐き気をもよおした。
しかし、当たり前の事だが、先輩の医者達から 叱られ、我に帰り治療に専念できたと言う。
そこから、それこそ不眠不休の医療活動になるのだが、不思議に身体は疲れないばかりか、冴えわたって来た。
通常では有り得ない量の患者さん達をこなす。
完全に許容量を超えたその時の時間は、彼を短期で何にでも対応出来る医者に作り上げた。
そんな体験を、今回の受講者は聞けたのは、ラッキー以外の何物でもない。
武禅では何時も「人は切羽詰まった時には、自分の能力を開花させる」と話すが、その実際のことだ。
もちろん、彼の話をどう聞くかは、それぞれの人だ。
そんな貴重な話も飛び出した「武禅」だった。

行の開始前、皆でお茶を飲む。
その時に、初めて参加する人には、その目的を改めて聞くことにしている。
そこでの話は、自分にとっての問題の話になる。
そんな会話を武禅の度に繰り返している。
そこで何時も指摘するのは、それは問題ではない、ということだ。
例えば、「正面向かい合いをする」というセクションの時、出来ないことが問題なのではなく、「ちゃんとやらなければ」とか「間違わないようにしなければ」というような意識。
あるいは、「正面に向おう」とか「正面を感じなければ」というような意識が発生する。
そういった実際にやらなければならないこと、以外のことが意識に上がることが、根本的な問題なのだ。
どうして、やらなければならないことをやらずに、全く関係の無いことが意識に上がるのか。
それは、自意識が過剰だからだ。
つまり、他人から「こう見られたい」「こう見られたら嫌だ」という、子供の頃や思春期の頃の自意識過剰さが、未だ成長していないということだ。
それがどっしりと潜在的に自分の中に根を下ろしているのだ。
「ちゃんとやらねば」と思うのであれば、実際にちゃんとすれば良いだけだ。
では、ちゃんとするというのは、どういうことなのか?
そここそが実際の作業になるところだ。
しかし、そこを自分で突っ込んでいないので、具体的にどうすれば良いのかが選択出来ないのだ。
そこでの目的が明確ではないから、頭の中で言葉が空回りを繰り返すのだ。
それに連れて未熟な自意識が反応を起こし、その連鎖でますますおかしくなる。
そこでの目的とは。
例えば、上司と正面向かい合いをしようとしてするだろうか。
きっとそれはしないだろう。
上司とは話す目的、仕事上での伝達や打ち合わせ等の目的があるから話すのだ。
その時に、きちんと相手の目を見て、相手に向って話す、ということが「正面向かい合い」の入り口になる。
つまり、「正面向かい合い」ということはどこにもないのだ。
つまり、自分の日常の等身大を「正面向かい合い」に被せるということである。
その意味で日常で自覚的に相手の目を見て、相手に話す、それが基本になり、その事が曖昧な、つまり、相手と対峙するということが曖昧な自分を見直して行く、ということが「正面向かい合い」の入り口である。


やっているつもり、自分の事ばかり考えている自分、相変わらず集中力のなさ、直ぐに集中できない。
目の前のことだけに集中できず、あっちこっち行く。
自分の何時もの生活ぶりを振り返ってみれば、物事を始めるまでに時間がかかる、集中できるまでに時間がかかる、すくに入っていけない、考えすぎる、とらわれすぎる。
だから何かをやっていても、一寸したことがあると、そちらに気を取られ、アレッ何をやっていたのだろう?
ということになる。

 

木刀を構えて向かい合う。みんなはどんどん変わっていく。かっこよくなっていく。
でも自分は全然変われない。
同じ対処を繰り返し、頭が空回りしているからだ。

 


色んな人がいたが、一人だけどうしようもない「オイ」があった。
人に関ろうとしない、自分だけで言っている声。
音声だけが機械から漏れているようだった。
気持ち悪かった。
自分が相手に対して、あのような振る舞いだけはしないようにしようと思った。

聞くということも、普段全くしていないということも良く分かりました。
受け取ろうという気が無いので、相手も(普段)相当話し辛いと思います。
話というのは、待っていれば自然に入ってくるものではなく、こちらから捕りに行かなければ、何も得られないのだということが良く分かりました。

 

今回のセクションでの、相手の正面をとるで、相手の正面に納まる感じが、何となく感じ取られ、その感じを優先すると、相手からの評価が良くなりました。
この感じは今まで、感じていなかったことでした。


何をしていても、結局頭の中で勝手な像を作り上げているだけで、相手を全く見ていなかった。
やっている事が子供と変わらない、というより、意識がある分子供よりもよくない。

 

「声を届ける」セクションの時、自分の聞き方が「とりあえず相槌を打っているだけ」と言われ、普段からそのように相槌をしていると気付き自分が嫌になった。
聞く時も、全力で聞かないと、相手の全力も聞く事が出来ない。
聞くだけでなく、相手が自分に話をしたいと感じるように聞きたい。

T さんと組むと親しみやすく、 H さんと組むとやりにくい、というのも「自分勝手」な好き嫌いが、無意識的に出てしまっている様に思える。
「身体」にせよ「言葉」にせよ、いつまでたっても自分勝手が付いて回る。

 

今回は、私の側のグループからの、ああすれば、こうすれば、に応じていくのは、自分へのチャレンジであったが、とても良い経験になりました。
関係性の稽古というのは、本当に無限にあり、先生の作るプログラムはユニークかつ実用性があるので、やりがいがあっておもしろい。

 

声を届いたかどうか、聞いたかどうかの面白い実験があった。
体格の大きな男性が小柄な女性を後ろから羽交い絞めにする。
その女性に対して私が声を届ける、女性は私の声を聞く。
2 人の体格差は歴然としており、力では絶対に無理という条件だ。
私は一生懸命に届けるのだが、余りの体格差で力で押さえ込まれているのが分かる。
そこで、もっと届け!という気持ちで押していった。
それに対して女性もそれまで以上に喰らい付いてきた。
お互いの気持ちが一つになった時、女性は男性の羽交い絞めから抜けていた。
お互いの気持ちが向き合い、それによって障害をクリアする、正直感動した。
自分がどうこう、というよりも、お互いの気持ちが本気で向き合った時、とてつもない可能性が見える事に、「ありがとう!」と本気で伝えた。

 


最初の肩動かしの前に、人間はストレスを感じるという話は驚きだった。
参加されている人達の中に、脈診の出来る人が二人いたので、その人達に実際に検証させてみた。
被験者の女性の脈を取り、参加者が順にその女性と握手をする。
そうすると、その女性の大腸の機能が低下しています、と脈診を取っている人がおっしゃった。
全員、目を丸くしていた。
もちろん、自分も握手をすると、皆と同じ結果だ。
ただ、先生がその女性と握手をすると、機能が復元し、他の弱っているところも活性化しているそうだ。
先生が触れるというのは、最高級難度だとおっしゃっていたが、こんな深い裏付けがあるなんて誰も教えてくれなかった。
コミュニケーションの深さを思い知ったセクションでした。
私も相手にストレスを与えない存在にならなければと決心を新たにしました。

 

「ナマムギ合戦」では、やることを分かっている人と、分かっていない人のやり方が全く違うので、いい意味、相手の今のレベルを垣間見る事が出来た。
アホの顔で、大声か声色かえて、言う事にはしゃいでいるおっさんに、ホントムカつく。

 

両手で相手の肩に触れるという作業が出来ない。それまでに、近づくだけで、既に身体が拒否反応しているというのは凄い事だ。
「相手には拒絶されている」という前提があって関係に入る。
それを知っているのと知らないのでは大違いだ。

 

相手がいるから全ての稽古が出来ているんだと、改めて感じた。
組む相手のおかげで、自分の身体をもっと深くしれたり、向かい合いで深く関れる。

 

自分の殻に閉じこもっている姿には呆れ果てる。
はらが立ってもしようがない、はらがたつエネルギーを使うのもいやだ。
全く人のやっていることも、言っていることにも興味がなく、そして最後に全員からの視線を向けられてもヘラヘラと笑っている。
もしかしたら、自分もそんな時があるのかもしれない。
それだけは絶対に気付くようにしよう。
気持ち悪いだけしか見えないから。


人の正面に立つ、ということを何回かやっていくうちに、正面を取るが目的になり、正面を取れた!という感覚になる。
「正面をとってどうするの?」と聞かれて初めて、自分は正面を取る、をどう理解しどう捉えているのか、という作業をせずにやっている事に気付いた。

 

 

まず目的が明確で、その目的をより合理的に行う為に身体技術が必要。
私自身どちらかと言えば、何をするにもその逆をしていたような感じがしました。
日々目的が何なのか、ずれていないかチェックしていきます。
先生がおっしゃった幻想の中にいては、何も進まない、現実に私自身を引き戻したい。
いつも失敗するのは、幻想の中で進めようとしていたからです。

もっと感情を出したい!「ナマムギ」の後、他の方から見て進化がありました。自分の中で沸き立つものが先にないと、結局他人には何も伝わらないと思いました。

 

 

「ナマムギ合戦」のように、とにかく出さなければいけない時は、余計な事を考えていないので、どんどん出せる。
「ナマムギ」の時の状態を、何時も出していなければならない。
その方が断然気持ちが良いからだ。

 

一生懸命やっていると、何かがクリアになってくる。
余計なことを考えなくなってくる。
向かい合いが良くなってくる。
では、今までの一生懸命って何だったのか?

 

最後の A さんの「オイ」、本当になんだか悲しく、死んだ人がそこにいるような、気持ちの悪い姿でした。
思い込み、自分だけの世界にいる人には、絶対になりたくない、子供には、絶対にああいう大人にはなって欲しくないし、させません。

 

自分がやっていることと、周りから見えている自分は全く違っていて、それを正すには周りの客観的な意見が大切だということが体感できた。


相手の前に一歩入っての正面。行く方はまだ自然に出来るが、受ける方は難しい。
出来るとか難しいとかでなく、相手がいるのか、相手は来てくれているのか?
気持ちは目に出ると思いました。
死んだような目をした人とやった時は、行くのも受け取るのも、こちらもただの置物状態でした。

相手の正面に立つ。こんなに人の目を見た事、向かい合った事があっただろうか。
目を見るとその人の事を色々考えるが、目を見合うだけで友にもなれる(敵にも)。

 

「立っているだけ」と何回も言われました。
自分では向かっていても、それは、向かっているように自分が思っているだけでした。

椅子に座ってのアイコンタクトで、気が付いたこと。
椅子から椅子に移動する時、足がバタつく時とスムーズに足を運べる時があった。
相手に合わせて移動をする時は、静になる。
逆に自分勝手に動くと足もバタつき、頭の中も騒がしくなる。
アイコンタクトの後は皆目がハッキリとする。
しかし、しばらくすると皆ボケてくる。
色々と考えるからだろう。
同時に目の前のことをやっていないことだ。
目の前の事を本当にするか、しているつもりなのか紙一重だが、その結果の差は物凄く大きい。

あと、全て相互の関係で、出来ないのはお互い様だと感じました。
お互いに足を引っ張るのではなく、高められるようなパートナーとの関係を作っていきたいです。

 

話を聞くときも形をやってしまい、目の前の声を聞けない。声を聞くのが目的なのに、本当に別のことをやってしまう。
目の前に、声を届けようとしてくれている相手がいるのに、無視をしている。

全ての身体にまつわる事を、具体的にここまで解らせる方法がある事の驚きと素晴らしさには、強烈な新鮮さがあります。
ある意味で、逆に胎児に戻ってやれば出来るみたいなことです。
本当に身体を使うというが、身体というそのものの自分が勘違いで、身体を見ていた、あるいは、考えていた「アホな自分」の発見がおもしろいの、一言です。

「こんにちは」距離にして約 1 mのところにいる相手だが、自分の口から出た言葉はどこかへ行っているらしい。
「全然私に言ってくれていません」相手には届いていない。
近いけどなんて遠いのだろうか。

 

声を届けることの意味の深さと難しさは、セッションを重ねれば重ねるほど、その大変さが分かる。
しかし、それはやり続けるということでしか、辿りつけないものだと思います。

自分の仮面を外せ!ということがまた出てきた。
できたつもり、分かったつもりが先行して、まぐれの一発が再現できず四苦八苦。
どんどん分かっていきたいのに、それまでやってきたことが、うまく繋げてこれていないから、上に積み重ねてはいけない。
出来ている人との差がどんどん大きくなって、相手にも迷惑で申し訳ない。

 

人から力を得るということの事実を体感。
周りの人の影響が私を良くも悪くもする。
だから、人を見る目、どんな人と一緒にいるかが大事。
影響を与えてくれる人、与えられる、受けられる自分。
自分は人と関係することにおいて、大きく作用されるのだから。

ここ来る度に自分に本気で関ってくれる、何時もの人々、そして初めて出会う人々、そうでない人も含めて、人と関係することを体感させてもらっている。
ここで出会った人達のおかげで、人と関る事の大切さ、喜びを教えてもらった。
そのおかげで、家、職場等々、実際の場が変化していっている。
「行」の最後の「ありがとうございました」が本当に心地よく、全身に響いてくる。
胸の奥が熱くなり涙がこぼれそうになってしまった。

人とちゃんとかかわる、という事が、自分にとって物凄い力になるということが分かった。
自分だけで何かをするには、時間も力も要る。
いや、本当は力は要らないのか。
ただ人とちゃんとかかわっていたら、時間も力も短縮出来ることが分かった。

 

まだ行が始まった入り口ですが、全体を通して分かったつもりになって、自分勝手にしているだけだった事が、とてもショックでした。

 

84回武禅レポート

3月11日東北地方に地震と津波が発生し、広い範囲で途方も無い被害を及ばした。
被災され方達には、こころよりお見舞い申し上げます。
そんな突発的な大惨事が起こった中での「武禅」。
関東方面からの参加者の人達から、キャンセルが相次いだ。
それは当然だ。
しかし、それにもめげずに、関東方面からも多数参加した今回の「武禅」だった。
遠方はフランス・コニャック地方から、美味しいブランデーと共に参加してくれた人もいた。
カナダからは、残念ながら渡航自粛勧告が出て、不参加となった。

行が始まってしばらく全員の様子を観ていた。
何時もと何かが違う感じだったが、それが何が違うかは分からない。
少し低調な感じもするが、とは言っても集中力が足りない訳でもない。
静かな静かな始まりだった。
道場生が多かったせいもあるかもしれないが、何時も以上にグループのまとまりが良かった。
それこそ、皆が皆をフォローし、工夫をし各テーマに向かうという感じだ。
それは、最終日に行後の写真を撮るが、一様に引き締まった顔、するどい目になっていたことで、助け合ったということが良く分かった。
絶対に煮詰まってしまうというセクションがある。
皆に声を届けるというセクションだ。
それが、一人良くなり、続いて一人と、良い意味での相乗効果がお互いを成長させたのだ。
「深刻になることと、真剣に取り組むことは違う」
このことが浸透しつつあることが、見て取れる。
笑顔が絶えない「武禅」だった。
84回にもなる「武禅」だが、何か転換期のような印象を受けた。
近年には稀な行会だった。


まず、今まで誰にも「こんにちは」といっていなかったことに気付きました。
よくて、言っているつもり、相手に届いたかどうかという事も深く考えず、言いたいことだけ言っていたと思います。
あいさつも出来ていないのに、武道に取り組んでいたということに茫然として、武道に取り組む以前に、もっと人に何かを言う、聞く、という事を大事にしたい。
聞いているつもりだけで、実は聞いていなくて、言っているつもりで、実は言っていないということがハッキリしました。

向かい合いは、一日目にやった時とは、相手が全然違う顔になっていました。
私も前とは全く違うと言われました。
一日目の時は「どうしよう」と思っているばかりで、頭の中が先行してしまってばかりでした。
何も考えずに、スッと立てた時は、静かになり気持ちよかったです。

とにかく、どこまで言っても自分、自分、自分。
目の前の相手を見ていない。
ここまでは、指摘されて気付くのだが、ここから先がどうしていいか分からないのだ。
正直、全く駄目で、ここまでへこんだのは久しぶり。
これから先、どうなっていくのだろう。


まだ、うまく言葉で説明できない。
ただ、今まで生きてきて、こんな感覚に目を向けたことが無かったし、まして、相手と合わすなんてやったことがなかった。
じゃあ、一体今まで家族や仕事仲間、友人とは何を合わせてここまで来たのだろうか。そういうフリをしてきた気がする。
まだ、全然出来ないけど、真剣、本気って、こういうことなんだと思いました。

 

そうだった、どうやったら?じゃないんだ。
どこか他人事のようになってしまっていた。
何の為にわざわざ参加したのだ。
何か新しい事を習う為に参加したんじゃない。
相手に、もう聞いているのがしんどい、と言われた時、今まで何も大切なことを、相手に届けずに策ばっかり考えてきた自分を情けなくなった。

2 日目にやった「こんにちは」をやった。
驚いた!もちろん、出来ないのだが内容が違う。
ここに来て初めて、相手のこととの事を気になるようになってきた。

自分が呼ぼうとした人が手を上げてくれた時の感動、思わず涙が出そうになった。
今まで、自分の呼びかけに応えてくれて、こんなに嬉しく思ったのが初めてでした。


本当は切羽詰っていないんだ。
結局、口先ばかりなんだ。
変わりたいとは口先ばかりで、今までの自分を手放す気は無いままだったんだ。
そんな独り善がりのままでいて、相手の前に立つことすらままならない。
だけれども、一歩も引きたくは無い。


見たままを言う、言葉にすること。
これにも時間がかかってしまう。
これまで日本語を、言葉を使ってきたのは一体何だったのか、と思う。


人と向き合うことを避け、関わることを避け、自分だけで何とかしよう、何とか出来ると。
思い上がりもいいとこだ。
それじゃあマズイ、そんなの嫌だ!

 

臆している自分、自分勝手に遠慮している自分、相手に真剣に向かおうとしない自分に嫌という程気付かされた。
頭で考えるな!
本気で目の前の相手と向かい合え!と。



結局自分のことばかり考えている。
アメリカ人の中に一人でいた時、何も伝えられなくて死ぬほど悔しく悲しい思いをしたから、英語をやっきになって学んだ。
あの時よりも本気にならなくては!



3日目、自分では何も変えたつもりは無いのですが、相手や第三者の目からは「明らかに良くなっている」とのことでした。
自分で何かしようというのは、自分の頭の中で創り上げた理想像に近づくということですから。
また、僕が第三者になって二人を見た時、二人のその姿と関係とが、とても美しく見えました。
「こんな美しい光景があったのか」という驚きです。

相手を感じたり、相手に届けるのではなく、自分の作業に没頭してしまう。
という事は、先生が言ったように無意識でも、何か手段や方法があると思い込んでいるのだ。
だから、相手を無視してしまう。
相手を見ずに、手段や方法を見つめているのだ。
日常でどれだけ同じ事をしているのかを考えると、怖くなりました。
理屈だけ頭に浮かび、真剣になれていない自分が情けなくなりました。

 

人に伝えるのが、こんなに大変だとは思わなかった。
こんなことも出来ないで、普段何を考えて生活を送っているのか愕然とした。

 

前回の武禅に続き、脈の変化を体験させて貰いました。
体は凄いです。
先生が立っている人に近づ時と、他の人が近づく時の違いを見ていて、人に与える違和感について根本的に勘違いをしていたと気付きました。

 

最後の方で、日野先生に「今日までズ〜ッとそうしてきたんや」と言われたのを聞いて、今まで僕が出会ってきた皆に、そうした態度をとり続けてきたのだと気付いた。
そんな自分を変えるには、途方も無い時間と労力がかかりそうだと感じ茫然としました。


人に伝えるのが、こんなに大変だとは思わなかった。
こんなことも出来ないで、普段何を考えて生活を送っているのか愕然とした。

 

前回の武禅に続き、脈の変化を体験させて貰いました。
体は凄いです。
先生が立っている人に近づ時と、他の人が近づく時の違いを見ていて、人に与える違和感について根本的に勘違いをしていたと気付きました。


「こんにちは」と、生まれてから何万回も言っている言葉が、ただの音にしか聞こえなくなってくる。
今までも、ただの音しか発していなかったのかもしれないし、偶然言えてたこともあったのかも知れない。
何れにしても、どのように言うか、どのように届けるか、という方法に走れば、相手には届かない。

 

ナマムギ合戦では、必死で届けたい、ちゃんと聞いて欲しいという欲求のまま声を出した。
そんな風に人に喋ってきただろうかと思う。
泣くほどやったのは、初めてだった。


三日目に、初日のペアの人と「正面向かい合い」をした時に、その人の目が全く違う、ものすごくきれいになっているのに、正直驚きました。
3 日前の目と本当に同じ人の目なのかなと思うほど、相手をきちんと見ていました。
物凄いです。
私自身も、人の前にスッと立てて、正直びっくりしました。

第三者として、他の人の向かい合いを見ていて、そこには全く人間関係が無いことに気付き驚いた。
第三者として見えることが、自分が当事者となった時には、全く出来ない。
自分は人間と関係を結べていないのでは?と正直、愕然としてしまった。

一日目の最初に組んだ 4 人組みで、他の 3 人と「再会」してびっくりした。
向かい合いをする前から、初日とは全く別人の澄んだ目をして「よろしくお願いします」と礼をしただけで、すでに向かい合っている感覚があり、感激というか泣きそうになった。
みんなもとてもきれいだった。
そして静かだった。

最後の「こんにちは」
他の人の声が届く姿、様子を見ていたらこころがふるえてきた。

今回初めてお会いした皆さんに、本当に親身になってお世話して頂き、深く感謝しています。

 

83回「武禅」レポート(2泊3日)

1 年ぶりの「武禅」だ。
意外と 1 年という時間は長い。
それは、 1 年ぶりにという意味ではだ。
もう 8 年くらいになるだろうか。
埼玉から 2 人の青年が「武禅」に来た。
素直そうだが、生気が無く表情が乏しく、現代の若者そのものだった。
正面向かい合いも、声を届けるも、きっと何のことか理解出来ていなかっただろう。
しかし、彼ら 2 人は直感的に「武禅」は人生で役に立つと信じた。
自動車を買うくらいなら、その分「武禅」に通った方が良いと言っていた。
それから一度も欠かさず「武禅」に埼玉から通った。
その間に二人とも結婚し、一人は 2 歳の子供がいる。
毎回見ているから、その成長は見えなかった。
しかし、今回 1 年空いたおかげで彼らがよく見えた。
驚くほど成長していた。
もちろん、彼らは社会人だから、数年前から職場では相当使える人材に育っていた。
一人の青年は、会社で面接を担当し、彼が選んだ人は皆仕事を良くするという。
人を見る目が育っていたのだ。
肩書や経歴に惑わされることなく、面接に来た人と向かい合った瞬間、その瞬間に感じた印象で人を選ぶ、そう「正面向かい合い」を実践出来ているのだ。
彼が面接を担当するようになって、会社は変わっていった。
人を見る目というのは、そういう力があるのだ。
また、東京からダンサー二人が参加した。
彼女たちは、ある意味でどの参加者よりも姿が際立っていった。
それは、自分自身の仕事を明確に自覚しているからだ。
それぞれのセクションが、自分に届くようにしていったからだろう。
二人の正面向かい合いは、周りの空気を張り詰めさせていた。
その空気感は確実に観客に伝播するだろう。
今回は、トロントやアムステルダムという超遠方からの参加者もおり、そういった人達の真剣さに、常連の人達も感化され、より密度の高い「武禅」になった。

向こうを向いた相手に声を届けるのは、本当に自分に出来るかどうか不安ばかりだった。
しかし、やるしかなく、今まで習ったことをただやった。
相手が手を挙げてくれた時は、「うそっ」としか思えなかったが、自分に感動した。
相手に届けるとは、目が合っているとか外観ではないと思い知らされ、これからこの体験を毎日使う様生活します。
最後の挨拶は、こころがジーンときて、目頭が熱くなった。毎日を真剣に向かい合えるように生きたい。

 

最後の「こんにちは」は、ありのまましかないから、思い切りやった。
2 回目で OK が出て一安心した。
全員での挨拶は、こころがジーンときて、目頭が熱くなった。
これから毎日を真剣に向かい合えるように生きたい。

 


とにかく相手を見ていると良く分かる
「くさい事」
「あきらかに変な事」
を自分がやり続けていることに、自分の客観性のなさを痛感。
ここを変えないと、せめて自覚していないと、自分の身体を舞台に乗っけてはいけないと思う。
やるしかない。
といっても自分のやっている事に夢中にならずに、相手が見えて感じていく作業を徹底しなければ駄目だ。

 

ちゃんと関わろう。
ほんとうにちゃんと関わろう。
目の前にいてくれて、自分を見てくれていることが、こんなに嬉しいことだと、知ることが出来たのだから。

気持ちが出ていないから、相手に応じ切れない。
何故自分は気持ちが弱いのか、出来ていないのか、を考えた時、自分は今まで一つ一つの出来事に、勝負をして来なかった、自分の評価が決まるのが怖くて、勝負をさけてきたからではないか?と考えられる。
だから、気持ちも出てこない。
しかし、仕事柄これから勝負はさけられない。
きちんと勝負していかなければ。

 

歩いている人に対しての声かけは、もう笑うしかなかった。
何をしているのか!
これでは一生寝ているのと変わらない。

初参加の武禅だったのですが、私としては久しぶりに、自分自身に新たな試練を向かせる機会となった。
参加しなければ確認できない事もあったので、トロントからという時間と距離はありましたが、武禅は本当に価値のあるものだと確信いたしました。
単純に、一生懸命な人達との出会いは、本当に気持ちの良いものでした。
今回知り合った人達、有難うございました。

 

今までの自分は誰に言葉を出していたのか。
音として伝わる言葉で会話をしていただけで、本当に声を相手に届けることは出来ていなかった。
でも、それで相手に伝わると考えていた。
「私には言ってくれてません」
「一人で大声を上げているだけ」
そんなことを言われ続けると、目の前にいるのに何故伝わらないのか。
なんて情けないのかと涙が出てきた。
相手に届かせたい。

 

アイコンタクトで、相手の意識が自分を向いているかどうかを、判断する感覚は 1 日目と比べると随分変わっている。
全員が、ただ目をみているだけでは、無くなった感じだ。

 

O さん S さん、一緒に組んでいて、場を作る雰囲気が前とは違うし、楽しみながらやっている。
前回 3 人が揃った時と大違いだ。自分は相変わらず「やろう」の言葉が頭の中を占めているままだ。
身体のことも、当然だけどずいぶんと先にいる。
過ごした中身の違いだ。負けたくない!

「おい」の声を届けるのに、とても時間がかかってしまいました。
焦点がボケていたり、声が広がりすぎたり、とにかく、出来ない全ての要素があったのだと思います。
その間、皆さんが辛抱して下さっていた事、有り難く感謝の気持ちで一杯になりました。

 

今まで考えていた人間関係は、本当にきちんと相手と向き合ったものなのかと、レポートを書きながら不安になった。
しかし、初めての相手にこれだけ否定される場合は殆ど無く、このような体験を初めて感じ、これだけ思ったとこを言える場は、ここしかないのではと思った。
否定されたことを、これから自分がどう生かしていくかと思っただけで頭が混乱している。
自分勝手になり、他を無視することも今まで分かっておらず、先生の言葉で「はっ」とした自分が恥ずかしい。

 

「ナマムギ」を初めて会った参加者と、精一杯叫び合う、現代社会や学校教育の中では絶対に見られない光景だ。
それだけ自分が、今まで人と向き合う事を真剣に考えた事がなかった、という証拠であり知識も持たなかった為、日野武道研究所でこの様な事を行っていることも知らなかった。
もっと、心から感じられる人間になりたい。

 

アイコンタクト、「ナマムギ」などでも、時間が経つに連れ、皆がどんどん良くなっていくのが見て取れた。
最後の「こんにちは」を伝えた際の、皆さんの本当にきれいな顔をみて、こころの底から嬉しくなった。

よく「相手の話を必死で聞けば、こころを開いてくれる」と言われているが、それを実践するのは、それほど簡単なものではない。
組んでいた人の声を先生が聞くと、私の場合とまるで声が違って、気持ち良さそうに声が出ていた。
それを見ていると、自分は人の話を聞いていないことが良く分る。
聞こうとすることで、自分のことを考えて、全く聞けていない。

訳が分からない。
最後に円座になった時、涙がにじんてきて一人一人に
「ありがとうございました」
と言葉を交わすと、涙が流れてきた。
気持ちが高ぶり、誰の顔をみても本当に感謝の気持ち、
「ありがとう」
の感情が自分の身体中を駆け巡った。
ズーッと大昔、自分も覚えていない時代の、自分の記憶の中にもない感情だった。
ただただ
「ありがとう、あなたと必ず再会したいです」
とそれ以外には、何も無かった。
自分の中の何かが外れた。

まず、相手に向かう姿勢がおかしく、それを直すと、直ったかそれらしく見えているのかに気を取られて、今自分が何をしているのか、分からなくなってしまっている。
目は見る為にあるのに、目を見ているように見せかける為に使っている、だから、他人が真剣なのか、そうでないのかの見分けがつかない。


「相手に向かおうと頭がしているだけ」
「声を届けようとしているだけ」
「自分勝手に声を出しているだけ」
「相手の声を聞こうとしていません」
初めて武禅に参加した時に言われた言葉が、全部そのまま自分に向かって来た。
何かが変わった筈、ほんの少々だろうけど、少しは何かが変わったのではと、自分を甘えさせていた事が情けない。

今、何をやっているか?
何が大切か?
もっと本質を見極めなければ、何をやっているのか分からなくなる。
自分は時間の使い方が下手なのは、このように、これをやるには何が大切か?
が分からない、見極められないことも大きな原因だ。


「こんにちは」を相手に届けるで、相手の方が耳をふさがれた時に、何としても相手に届けたいとの感情が噴出してきて、そのまま「こんにちは」と言うと、相手の方に一番ましですと言われて、何だかとっても嬉しかったです。

相手と関係することが、本当に出来ていないのだと思い知らされました。
声を届けるは、最後まで出来ずに、受け手に助けてもらう形になりましたが、人として社会生活、人生を生きる中で、大切なことは何かを、勘違いしている事を実感しました。


自分がやっていることは、誰とも関わってないのに、自分は関わっていると思っている。
一人幸せな夢でも見ているのか。
悪夢だ。

 

普段、人とコミュニケーションをとろうとした時
「この人は苦手」
「この人は○○」
と、先に頭で判断したことは、全て相手に伝わっているのだと痛感。
いくら表面上、笑顔や話を合わせても上手くいかなくしているのだ。
それが今の自分。

 

普段関わっている人達と、表面で笑いながらどれだけ完全に拒否しているのだろう。
それでは応えてくれるはずも無い。
そうやって毎日を過ごしている。
何とかしないといけない。

 

82回「武禅」レポート(2泊3日)

約半年振りの 2 泊 3 日の行会だった。
今回は数年ぶりに参加した人が 2 人いた。
「今の自分は、少しでも成長しているのかどうかを試してみたくて」と男性。
「周りに振り回されすぎていて、自分を取り戻すのはここしかない」と女性。
「その顔は気持ち悪いです」と本当の事を面と向かって言われたり、言ったり出来る場は、日本では本当にここしかないかもしれない。
「武禅」は参加者全員で、成長して行く場だ。
だから、「武禅」での行は、誰一人としてクリアしない。
それは、参加者同士で判定するから、その判定度そのものがアップしていく、つまり、回を重ねるほど、感性が鋭くなっていくので、判定がどんどん鋭くなっていくからだ。
「武禅」での行は何も出来ない、達成感など起こらない。
しかし、日常では知らない間に成長している自分がいる。
それは、周りの人間が気付くからだ。
自分が思う成長など、他人から見ればほとんど無いに等しい。
しかし、大方の人は自己完結型だから、つまり、自分の世界から飛び出そうともしない人ばかりだから、他人から見えた成長など頭に無い。
きっと、そういう人達は、自分は人が沢山いる社会で生きている、ということを知らないのだろう。
いや、自分が無視すれば、それこそ子供の頃のように、頭を隠していれば、鬼には見つからないと思っているのと同じだ。
「武禅」に来る人達は、それに気付いてどうにかしようという人達だ。


伝えるものがないのに、伝わるわけがない。
余りにも伝えることが出来ないので、つらくなっていたが、伝わらないのも当然で、ただ歌っていただけで時間が過ぎていただけだった。
今まで、人にどれだけ伝えられていただろうか。
伝えたい人にも、伝えなければいけない人にも、届かない何かを違う方向に投げていただけ。
助けて、と求められて、顔だけ笑って逃げていた。
もし、伝わっていれば、もっと変わっていたはずの出来事がいくつもあって、そうすれば人生がきっと違っている。
伝える気持ちもない。
伝える気もない。
伝わるわけがない。
背伸びをした上から目線のアドバイスで、どれだけ人を不快にさせたかわからない。
どれだけ小さな器の人間に見えていただろう。
今まで関わってきた人に申し訳がない。

血管が切れるほど声を出した。
相手に届けるということが、これほどエネルギーの要ることなのだと実感した。
しかし、相手がいるからこそ、こんなにも声を出せたのであって、一人ではここまでの声は出せない。
「何くそ!!」という気持ちが、自分以上の力を出させてくれる。
自分にはこの「何くそ!!」という気持ちが圧倒的に足りない。
ということは、対象に対して正面から向かっていない、真剣に向き合っていないということだ。
頭で処理して、正面から向き合うのを避けている。
正面から向き合っていれば、絶対に「何くそ!!」という気持ちが起きるはずだ。
それが無ければ、どんどん萎縮してしまって新しいことなど出来ない。

本当に難しい。
自分がいかに人に対して様子を伺ったり、察して貰いたがっているか、ありありと見えた。
人に対して大声を張り上げたことも、感情を爆発させたこともなかった。
自分を押さえつけ過ぎたせいで、気持ちが出せないようになっていた。
それは、ずっとそうしてきたせいなのは、分かっていたけれど、出そうと思っても、すでにもう何も消えてしまったことがビックリした。
本当に何も出て行かない。
人どころか自分の外にすら「こんにちは」が出て行かないように思える。

別の部屋で、相手に向かって発する声を聞いた。
そうすると、全くの発声練習にしか聞こえなくて驚いた。
相手を目の前にして、いかに自分の言葉が伝わっていなかったか。
言葉を聞いて、頭で理解しても、頭で分かっているだけで、実際には「伝わって」いないことを、知ることが出来た。
声を出して言葉をつむぐ、発することはしても、相手が耳で聞いて目で見ていても、相手の頭の中だけで処理して終わるのではなく、相手の身体の奥底まで響かなければ、本当に伝わっているとは言えないと、身をもって学んだ気がする。

相手に本当に伝える、ということがこれ程までに難しいとは思ってもいなかった。
本当に伝えるとは、全身全霊で相手にぶつかっていくこと、本気になって向かい合うことなのだということを気付かせて頂いた。
今までの自分は、相手と真剣に向かい合わない場面も多く、相手に合わせたり、自分の意見を押さえて相手の出方を伺っていたり、意見がぶつかりそうになると、衝突するのが面倒くさくて適当に合わせていたりした。
でも、本当にいきようとするなら、悔いの残らない人生を生きるには、相手に失礼のない様、自分を偽らず、正面から向かい合うことが大切なのだ。
ということを再確認させて頂いた。
相手があるからこそ自分がある。
自分勝手になりがちな世の中だけれど、この時を忘れずに生きていきたい。

 

人の声を聞く、受け取るは、ほんとうに難しいと一層感じました。
一瞬でも、別のことを感じたり、考えてしまった瞬間、相手の声が聞こえなくなる。
相手に申し訳ない、つらいおもいをさせてすみません、という気持ちになる。
今まで、聞くことができなくて、失ったものがどれだけあるだろう。
自分勝手に生きることが自分ではない。
当たり前のことを都合よく解釈して、ごまかして逃げてばかりいた事実。
「そうではない」と言ってくれる人の存在が、これほどあたたかいものだと初めて知りました。

 

こちらから聞きにいかないと、相手の声をキャッチできない。
先生から教えて頂いたことを基に挑んだセクション 9 でした。
本当に聞くのは難しく、判断ではなく感じたら手を上げるということをやってみたのですが、どうしても、これは?とか、これなのかな?と考えてしまいました。
嬉しかったのは、思わず手を上げてしまった時に、相手の方も私に届けていたことです。
届ける時、最初は色々と考えてしまい、全然駄目でしたが、ふと何も考えずに、タダ向かえた時があり、その時に相手の方に受け取って貰えたので不思議でした。

 

整体師という仕事は返上しなきゃいけない、と思うほど人を触っていない。
丁寧に触っていると思っても、相手の体が固くなっている。
それが結果。
相手が固くなる原因を作ってどうする。
いつも、いかに適当に人に触れているか。それを突きつけられた。
それは、いくら治療をしても治るわけがないだろう。
相手の体に触ってもいないのだから。
棒の押し合いの後、明らかに触り方も触られ方も変わった。
気持ちよく、柔らかく動けた。
しかし、次の回になると駄目。
こんな微妙な差なのだ。
こんな少しの違いで、人はこんなにも変わってしまう。
もっと、もっと、もっと、人と触れ合いたいです。

 


小さいときから傷つくのを恐れて、自分の意見をハッキリ言えない子供だった。
人当たりもよく、相手と話を合わせることは出来るが、そこから深い付き合いが出来る友達というのは、ごく限られた人達だった。
もしかしたら、相手とだけでなく、自分自身に対しても真剣に向き合ってこなかったのでは、と思う。
先生の「自分の人生一度きりやで」という言葉が響いた。

 

立場がかわって「オイ」と呼ぶ方になった時、今回はなかなか目的の人に届かず、弱いか広がるかで長くかかってしまいました。
長い時間付き合ってくれて、こちらを聞こうと我慢してくれている人たちに申し訳なくて、間違ってでも手を上げてくれた人に「ありがとう」という気持ちになりました。
終わった後、これは届く稽古ではあるけれど、当たるか当たらないとか、本当はどうでもよくて、人の関わりの中にある自分をどう見るかを知る事が、大きかったのだ、と、今更ながらアホな自分にはがゆくなりました。
生きた時間の中で、どれだけ他人を大事にしていなかったかを思います。

 

正面に立つとは、どれだけ難しいことか、今まで知りませんでした。
「正面」も「立つ」も言葉では知っていますが出来ない。
こんなに微妙で確実な正面。人をこんなに真剣に見たことは今まで無かったかもしれないです。
自分の正面に立ってくれたとき、嬉しくて鳥肌がたちました。


「聞いている」ということを伝える、ということは、初めて大切なことだと知った。
聞いていますと、相手に伝わっていなければ、伝わっていない、聞いていないと同じだということ。
それは、日常生活において、とてもとても大切なことなのに、意識したこともなかった。


自分が自分を生きている。
でもその自分は、場の中で作り上げていくもの。
自分の「否定・怖い、人も怖い、涙も恥ずかしい」と思っている感情は、自分が自分を生きてることを忘れさせる。
嬉しいも悲しいも悔しいも、全てを閉じ込めて過敏に批判を恐れて。
だから何も反応しなくなってしまった。
本気で生きることなんて、もう分からないとふてくされて諦めてしまった。
そこにいない。
自分が自分を消していた。
逃げたくない。

日常生活においても、相手に対して自分を演じているというか、自分の壁を作っているというか、真剣には向き合っていない、と思い当たることが沢山思い出されて、涙が出てきた。



人の体は奥深い、と、上っ面な言葉で言っていたけれど、ほんとうに何も知らない。
自分の体を思うように動かせない。
ひどい話で、知ろうともしていない。

 

81回「武禅」レポート

今回の「武禅」は、 20 歳代、 30 歳代、 40 歳代、 50 歳代、 60 歳代と、見事に揃った行会になった。
しかも、北は北海道、南は九州と絵に描いたような構成だった。
大学生、公務員、農業、医者、会社員、自営業、スポーツトレーナー、教師他と、職種も多岐に渡っていた。
「正面向かい合い」ということの重要性を深く感じるのは、やはり年長の方達で、若い人にはもう一つピンと来るものが少ないようだ。しかし、その 20 歳代の中の一人の青年の感性は素晴らしかった。
カリキュラムを解説したり、表面的な技術の分析が多い中、全て自分自身のこととして捉えていた。

しかし、人はどうして表面的なことを分析するのだろうか。
技術というのは、そうする必然があるから生まれるものであって、技術だけが独立してあるものではない。
特に、人間関係でのものは、その人の必然以外に発生するものはない。
例えば、巷には様々なコミュニケーションスキルというものが溢れている。
もちろん、それはそれで良い。しかし、それを使用する人間に、人と関わりたいという欲求がなければ、コンピューターが出す音と何等代わることはない。
むしろ、それよりも違和感を覚え、不快になるだけである。
ということに気付く感性が育っていないということと、「技術」というものに逃げた方が容易に、自分自身の人との関係そのものを直視せずに済む、という理由が潜在しているのだ。

というようなことを直視するのが「武禅」である。
「私に声を届けてください」「私を見てください」「私に触れてください」と、いくら言われても、それを自分の姿勢のせいにしたり、微妙な視線のズレのせいにしたり、あるいは、手の圧力のかけ方を知らないということにし、そのことの精度を増すような工夫をする。
そうではない。
自分が目の前の人に関わりたい、という好奇心や興味がないからなのだ。
つまり、自分は生身の人間として、その人の前に立っているのではなく、人間関係の「技術」として、その人の前に立っているだけなのだ。
あるいは、自分を理解してもらおうという努力を全くしていないからなのだ。
にも拘らず、「分かって欲しい」という欲求はある。
だから、技術の無さ、無知のせいにする。
分かって欲しいのなら、その為の努力をしろ、それだけだ。分かって欲しいに技術はいらない。要るのは「本気」だけだ。
今回の 2 泊 3 日の行。そんなことに人は気付き、他人の大切さを手に入れた。

 

今回は S さんと久しぶりに会った。
なによりも, 60 歳を越されているのに,以前より元気だ。
歌はうるさかったけど,自分はあそこまで必死に,全開で取り組んでいただろうか。
こちらはSさんよりも倍の若さなのなのに,半分も元気じゃない。
おかしいぞ。
SK さんも,以前よりよく笑うようになった。
それと比べると,自分には感情が無いに等しい状態だ。
先生のおっしゃっていた「感情を育ててきたかどうか」の差か!ちくしょう!!

 

身体を動かされている時に、今までに感じたことのない違和感を感じた。
一度目は悲しみが湧き上がってきて泣きたくなる様な感じだった。
不思議だった。
私の身体をほったらかしにして動かされている感じがした。

今、ここに居る、ということが出来ません。
しかし、昨年「武禅」に参加させて頂いた時よりは、出来ない、ということがより実感されます。
相手に向かえない、向かっているつもり、であって向かうことが出来ません。
むしろ、自分で意図せず相手と向き合った瞬間の方が、相手に向いているようでした。

 

相手の肩を持つ。
「気持ち悪い」と言われた。
普通に持っているつもりが、そういう風に感じるのならば、今までどれほど人に不快感を与えたか分からない。

「私を見てください」何度も同じ言葉が自分に向かってくる。
常日頃、私が見ていたのは何なのか?自分に聞いてみた。
しかし、そんなことはどうでもよく、目の前にいる相手のことを感じなければいけない。
相手との関係、これが全てである。
突然のジャンケン。
何故か気合が入った。
言葉に熱がこもる。
周りの温度が上がったわけでもないのに、体が熱を帯びている。
体でジャンケンをしているのか?何もかも忘れて真剣にやった。
そして「正面を取る」を行う。何が違うのか分からないが、胸骨付近がモヤモヤしている。これも体験したことのないものだ。
ジャンケンの効果なのだろうか。
それとも、ジャンケンを通してのものだろうか。
再び先ほどの三人組での向かい合い。
先ほどした時よりも「向かってきている」との言葉を頂いた、その瞬間頭が働いた「駄目です、前に立っていません」。
何か出来るようになったと思えば、もう一度同じことをやろうとして頭を使ってしまった。
このやっかいなクセを取り除かなければ、何も出来ない。出来たとしても、それは自分の中だけ。
腹が立つが出来ない。
人から言われ、自分でも分かるくらい、何をやっているか分からない。
やってみせる。
超えるということを。

 

ゆっくりではなく丁寧に、という先生の言葉は感覚としては良く分かるのですが、自分がやるとなると難しくて、でもやっぱりそのことを言葉で表現すると丁寧という言葉にしかならないのだと思うと、つくづく言葉で知っていても分かっていない言葉なのだと思います。

 

「立っているだけ、見ているだけ」と周りから見えていて「もっと向かってきて下さい」と言われても、自分の意識がどんどん自分の中のあらゆることに向かってしまいます。
姿勢とか重心がとか思っている時点で、自分は目の前の人の前には居れてないのだと思います。
じゃぁ、どうすれば?と、また自分の中に入ってしまうようで「関係」というものに、まだ自分が届いていない。
関係を持つところまで自分が出て行けていないのだと思います。
少しでも「外に出たい」です。

 

先生から、もっと色んな方と組んで、違いを見つけてアプローチの糸口にすることと指摘された。
全くしていなかったので、改めてショックを感じました。
ずっと同じ方としかやっていなかったのは、やはり一つには怖さのようなものがあったと、まだまだガードを固めてばかりいることがあります。
これが自分の行動原理なんだと思います。
何が怖いのか、何故怖いのかをもっと知らないといけない、もっと突っ込んでいかないと、これからも変われないのだろうと思います。
このままにしては駄目だ。
「精一杯」に足りていないまま終わりたくないです。

 

今回ほど、自分の成長(人と関わり合う事)にとって、人との関わりが大切だと深く感じたことはありません。
今まで、どれ程いい加減な気持ちで接していたのかという事が分かりました。
今回は、今の私の精一杯向かい合いました。
体がとても元気になっています。
気持ちもすっきりしています。
皆さんありがとうございました。
これからも、もっともっと真剣に向き合います。
新しいことにもどんどんチャレンジしていきます!

 


最後の声かけは最初に選んだ一番奥に座っている方には呼んでも呼んでも届けることが出来ませんでしたが、相手を代え自分からより近くの人に座っている方に何度も何度も呼びかけついに自分の声がその方だけに届いた時、伝わったとき涙がこみ上げて来る程うれしかったです!

 

今まで自分の気持ちや伝えたい事が、伝わっていると信じて仕事やプライベートを暮らしてきましたが、多分、何も伝わっていなかったんだと思いました。
私は、人一倍、人見知りをする方なので、他人に対して自分から入っていくことがとても苦手です。
だから、無意識に、いや意識的に避けてきた事が沢山あると思います。
今日、この数時間でそれじゃ駄目なんだということに気付けました。


「声を届ける」
いつも通りやってみる。
「届いていない」。
大きな声でコンニチワ。
「届いていない」聞こえているが届いていない。
声は相手に届かずどこかに消えていった。
しかし、耳では聞こえる。
音として。
喉が壊れるほどの大きな声を出すが届かない。
大きな音を出しているだけ。
相手に届いているのは音。
日常で会話をしているときの、あれは声ではなく音なのだろうか。
意味を知っている単語だけを聞いて、人と会話をしていたのだろうか。
相手のことを考えず大声を出すのは、相手にとって非常に失礼なこと。
今まで相手のことを考えていたと思い込んでいた自分は、今日なくなった。
しかし、また直ぐに頭を使う自分が出てくると思います。
言葉という伝達手段がなくなった今、どのように届けようかと悩みました。
「体を使って」やってみること。
今度も体です。
全身を使って届ける。
何がどうなっているのか分からない。
でも、相手に届けることが出来た。
相手の体に入っていく。
そういう風に感じられた。
血管が切れるくらい出した声は届かなかった。
それなのに声を出さず全身を使った時は相手に届いた。
「口先だけ」その言葉を理解した瞬間だった。


 

ああ、こんな感じなのかなぁ、と思えていたのだが「違います」と一言。
駄目なものは駄目、そういって頂けるとこちらもありがたい。
そのかわり、余り経験がない分ズバッと言われると「グサッ」とくる。
自分ヨワッと思いながらも進めていく。
出来ないものが出来る喜びというのを本気で感じたくなった。
「とりあえず、それでいいよ」そんなものなんていらないし、欲しくない。

 

自分が本気でやっていると思っていても、全然相手には本気で関わってくれているとは映らない。
やっていないと映る。
相手は無く、自分の独り善がりでした。
25 年間、本気と信じていたことは独り善がりでした。


相手に向かって「こんにちは」と言う。
しかし、相手は「私に向かって言ってくれていません」という。
なので、大声で「こんにちは」まだ駄目出し。本気で大声で「こんにちは」相手は「私にではありません」自分の声はずっと独り言だったようだ。
本気になれば出来るだろう、そう思っていたが、その本気も駄目だった。
「このやろー」と思って、怒りをぶつけてみる。
と思っても、実際は思っているだけ。
どうすればいいのだろう。

 

「こんにちは」という日常使っている言葉が、いかに口先だけで相手の心に響いていないかよく分かった。
そして、いくら大声で叫んでみても届いていないのでショックだった。

8 人が後ろ向きに座っている。
その中の一人を呼ぶ。
「オイッ」誰も反応しない。
「オイッ」反応なし。
相手を見る、見る、見る。
「オイッ」
違う人が反応。
何度も何度も呼ぶ。
しかし、相手には届かなかった。
相手を変え、また呼ぶ。
「オイッ」 2 人が反応。
1 人は狙い通りの人だが、もう 1 人違う人が反応。
まだまだ定まっていない。
「オイッ」
届いた。
何とも言えない気持ちになった。
ありがとう、気付いてくれてありがとう。

自分が木刀を構えた時、目の前に立っている人に対して、不快というか不愉快というか、何か苛立ちを感じました。
目の前にボケッと突っ立って眺められている。
でも、自分が木刀を構えている人の前に立ち、コメントを貰うと「立っているだけ、見ているだけ」と言われました。
自分がやられて嫌なことを、無意識でやっている自分が悲しくなりました。

 

アイコンタクトは、自分が思ったのが相手の方と通じてなかったり、実際動くのを見て慌てて立ったりすることもありました。
また、終始誰かとコンタクトする、というのが出来ず、視線が宙をさまようこともあり、あ、今自分から避けていたなと思う瞬間があったりしました。

 

「武禅」に参加し始めた当初、声を届けるセクションが終わり、先生に質問したことがありました。
「相手に声を届ける時、口を大きく開けることは関係のあることですか?」
「関係ない、そっちの方向に行くとあかんで」
今まで、私は進んではいけない方向に進み続けていたような気がします。
「武禅」への参加を重ね、色々な方法を学びました。
いつの間にか、その手段を学ぶのが目的になってしまっていたのではないだろうか?と、今、自分に問うております。
今回の「武禅」で行った、目を閉じ輪になっての声かけでも、その手段しかやっていなかったのではないだろうか?色々な手段を試してみたが、肝心の中身が伴っていなかったのが原因で、あれ程の長時間になってしまったのではないか?と思うのです。
キャリアが長ければ長いほど、その中身が成長していなければならないのに、それに向き合ってこなかったような気がします。
色々な手段は知っているが、肝心の中身が伴っていない。
だから、いつまで経っても相手には届かない。
武道セミナーでは「身体を知ることは面白い」とは思っていても、それは武道とは別のもの。
「身を捨てて守る」という大切な理念について、しっかり向き合って来なかったのではないだろうか。と今感じております。
感情を育てる稽古、私の人生にとっての武道とは、武道の価値、理念についてもう一度深く考えなければ…しっかりと向き合っていかなければ、また同じことを繰り返すことになるのではないかと恐怖を感じます。
 

 

80回武禅レポート(2泊3日)

今回の武禅は、 5 年ぶりに顔を合わせた人達がいて、さながら同窓会のようでもあった。
3 人の青年達は、同じ車で隔月に行われる「武禅」に東京や埼玉から欠かさず通っていた。
その内 2 人は結婚をし、一人には女の子供もいる。
そういった日常の変化や成長を、語り合っている光景は美しい。
もちろん、お互いに正面から対峙するので、ハッタリは通用しない。
3 人は、それぞれに顔を合わすと知った時から、不安ややる気が渦巻いていたことだろう。
それがなければ、ある意味で顔を合わせる意味が無い。
3 人は、ほとんど同じ時期に「武禅」に初参加したのだから。
それぞれが、「武禅」の場でそれぞれの成長を認め、それぞれこころに秘めたものが出来た筈だ。
永遠のライバル。
それも、それぞれが勝手に決めたライバルだ。
だから、面白い。
それぞれは、社会で立派に仕事をし、周囲から頼られる存在になっている。

今回の武禅に参加した人から、「どうして武禅を続けるようになったのですか」という質問に、「初めて参加した武禅で、その時すでに常連で正面向かい合いが出来ていた、若くきれいな女性に『気持ち悪いです』と言われ、相当ショックだった。その女性のように凛としたい、と思い通うようになった」と答え。
もう一人の男性も「同じ女性の肩を動かすをやった時、手を払われたのがショックで」と、みんなで大笑いした。
しかし、それがもし今回参加している人達であれば、ショックを受けただろうか、と考えると、みんなそれで終わっているだろうと思う。
3 人の青年は「本気で何年通ったと思っているんだ」と。
また逆に、その時の女性は、3人の青年にそんな羨望やライバル心を持たれたことは知らない。
人と人、というのは、そんなものなのだ。
自分の知らない内に、誰かの成長の手助けをしているかも知れないのだ。

たった、一度の体験で何かが出来る筈も無い。
それすら分からない世の中になって来ている。
字を書けるのに何年かかった?それ以上に困難なことに立ち向かっているということも分からない。
何しろ、自分のレベルを上げるということなのだから。

いずれにしても、時間が起つというのは良いものだ。
この 3 人も、内心それぞれの成長を確かめ合い、また成長の闘争心に火を付けたからだ。

とても不思議な体験でした。「ナマムギ〜」と相手から言われて、相手が何を伝えたいのかと、相手の表情や仕草、声の感じなど全てを感じようとするようになっていった気がします。
何故だか、切なくなって涙がでそうになりました。相手と関係するというのは、とてもエネルギーの要ることだというのも、凄い発見でした。

 

みんなと一緒に居れることがうれしいし、みんながとてもクリアでいいなぁと思った。
うそじゃないこの顔、ちゃんと見ているなお互いと。安心感というか、近い感じがした。
一期一会かもしれないけれど、出会えて一緒に出来て本当に嬉しかった。

「武禅」に参加して本当に良かったと思う。
それは先生が最後に言われたように、自分に対して厳しく意見を言っていただく貴重な場だからだ。
世間では自分に凄く優しい。
いや、そういう人ばかりと付き合っているのだ。ここに来るまでは、自分は人付き合いが苦手だと感じていたが、それに伴って人の意見を聞く機会も少ないし、聞かないので自分のことも分かっていないことが分かった。
正面から向かい合う。逃げずにやりたい。

 

「自分を見て貰えなくて寂しい」と言われた時は、こっちも無茶苦茶寂しかった。

久しぶりに声を届けるをやった。
以前の「武禅」と自分が明らかに違うところを発見できた。
以前であれば、オイと声かけをして、目指す人が手を上げてくれなかったらパニック状態になり、ただやみくもに声を張り上げていた。
しかし、今日は上手くいかなくても「じゃあ、どうする」と冷静に考えることが出来た。
これがいつも先生が言っている「その場に対応できる」と言う事の一端なのだと思う。
まだまだこれからだが、さらに稽古をして成長していきたい。

「ナマムギ〜」の時に、 A さんが真剣に接してくれて、それがとても嬉しく、また、自分の冷めているのをどうにかしたい一心が沸いてきた。声を出したくても出ず、はがゆい思いが一杯だった。
それをどうにかしたいと思って全身で取り組んでいく毎に、少しずつ声が出てくるのが嬉しかった。
それと同時に、ただ立っている自分から、相手と関係しだしてくる自分を感じることが出来たことも嬉しかった。

 

ジャンケンのとき、ある男性と組んでやっていたら、どんどんイライラしてムカついてしまった。
全然楽しくなかった。
こいつ何にも今やっていることにも、私にも関わっていないと感じるというか、見えてしまって、どんどん腹が立って蹴りたくなった。
人間同志関わらないで、表面上のコミュニケーションがいかに不愉快になるか、よーく分かった。

一緒に組んだ K さんは、若いのに表情の硬い人でした。
しゃべる時、いちいち考え込むのがクセ。
そのせいか、こちらを見て私に語りかけてくれているとはとても思えませんでした。
それが「ナマムギ〜」の言い合いで一変したのには目を見張りました。
やわらかい笑顔になって、目を見て話をしてくれて、まるで別人のよう。
日頃から、こうやって声を出す機会があればいいのに、と話をしましたが、大声を出すことが大切なのではなく、相手に働きかけるエネルギーがこれくらいあれば、この表情を続けられるのでしょうね。
それだけの思いがあるかないか。

 

相手に伝えているようで、全くの一人よがりでした。
挨拶だけでも、これほど難しいとは思っていませんでした。
それも、全て口先だけ形だけで済ませてきたことで、相手に伝える、相手と関わるということを無視してきた自分自身の行動が、そうなってしまう原因を作っていると思います。
今までの人生の中で、これ程相手のことを「聞く」ということに集中したことがなく、本気で聞いていなかった。
患者さんの話を聞くときに、果たして今日のように、真剣に聞く準備をしてこなかったと反省しています。
聞く、話す、という基本的なことが出来ていない自分に唖然としました。

相手と「一致」を探っていた時は「気持ち悪い」「違和感がある」と言われてしまった。
そんな時は、やっているこっちから見ても、相手が緊張していく様がよく見えた。

人と向き合うことがこんなにも難しいと、今まで感じられなかったのは確かです

知らない相手と向き合うというのは、緊張感が先にたち、相手から自分の姿が、ただいるだけと言われた時は、すごくショックだった


 

皆さんの会話を目を閉じて聞いていると、本当にラジオかテレビで話しているようにしか聞こえなくて、逆に不思議な気がしました。
毎日の生活の中で、夢の中の出来事のように人と関係できずに、例えば、親子の関係、夫婦の関係が終わるのは、絶対に嫌だと思いました。

ほんの少しだけですが、相手に圧倒されて行く内に、「負けるかくそっ!」という気持ちが出てきて、多少は変わったのかな、と思いました。

 

熱い、そして頭がクラクラ、ガンガン、血管が切れそう、本当に楽しかった。
「ナマムギ〜」合戦は、これまでで最高に激しいものだったと思います。
昨夜感情が出せないと言っていた人たち。
自分の意見が言えなくて小さな声でボソボソしゃべっていた人たちが、大きな声でイキイキとガンガン強気で押していく姿には、胸が熱くなりました。

僕は人生の中で向かい合っていると感じていたが、ともすると自分一人の世界にいたのかも知れません。
もしかしたら、これは仕事に関しても同じかも知れません。
形や形式が違っても、向かい合うをという事をしなかったのかもと、不安がよぎります。

最後の後ろ向きでの呼びかけで、声が届き手を上げてくださった時は、心の底から「受けてくださってありがとうございました」という気持ちで一杯になりました。

みんな本当は人と関わりたがっていると、強く認識した。
輪になっての「ナマムギ」合戦の時、必ずみんな相手に言い返していた。
ということは、みんな、人とちゃんと向き合いたいんだ。
いくら外側は、ややこしい自意識やら幻想でコーティングされても、中身は血の通った人間なんだ。どんな人も!

すぐにうまくやりたいだけの自分が出てくる。
ここで何か出来て満足をしに来たんじゃない。自分が出来ないことを分かりに来たんだ。
どれだけおかしいかを確かめに来たんだ。
「武禅」ごっこをしている場合じゃないだろ!

●武禅レポート1(48〜52回)

●武禅レポート2(53〜61回)

●武禅レポート3(62〜66回)

●武禅レポート4(67〜73回)

●武禅レポート5(74〜79回)

●武禅レポート6(80〜88回)

●武禅レポート7(89〜)




topへ

日野武道研究所サイトマップ/English

武禅一の行
・ 武禅で何をするの
・ 行会案内
・ 参加者のレポートから
・ 武禅の一日

武道塾
・ 武の存在意味
・ 武道に極意なし
・ 武道的対人論
・ 合宿レポート
・ 教室 
●海外での指導

身体塾
・ 骨格で考えよう
・ 身体を連動させる
・ 身体の法則性
・ 身体の学び方
・ 表現者へ
●海外での指導

●武道を学校に導入?
●稽古と意識
●ギエムという芸術
●文楽は武道だ
●胸骨トレーニング
●メンタルトレーニング?
●トレーニングとは?
●稽古と学ぶ
●故伊藤先生のこと
フォーサイスカンパニーでの一週間

●練習の仕方

●過去のワークショップ一覧

・日野晃の著作物/DVD他

・メディアでの紹介

・予定表

・ブログ(毎日更新)

・グッズ・本やDVD・Tシャツ販売

・リンク

・過去の更新履歴

・お問い合わせ


●お問い合わせ