2007 年最後の「武禅」。それにふさわしく、年齢も職種も多種多様な人が参加した。
私と同年齢の方が、若者の扱いに長けていたことが、今回の行会をより充実したものにしてくれた。

「言葉」と「実体」との違い。「言葉」と「体験」との関連性。それらを休憩の時に、徹底的に実践した。
「それはどういう意味?」という突込みだ。
あるいは、話の中で「〜じゃないですか」といった、暗に同意を求める言葉が含まれていることが多い若者の言葉に「いや、話をしているのは君で、どうしてその途中で、こちらに同意を求めるのか?」と突っ込む。
ある若者は、「そんな突込みを入れられたことが無い」と語っていた。
それは、その若者の短いながらの人生の中で、深く関わってくれる友人がいなかったことを表している。
あるいは、そういった突っ込みを入れる友人を、苦手だとして無意識的に避けていたか、だ。
また、休憩中、なにもせずに自分の世界に入り込んでいる人も多い。
その人達の共通項は、子供の頃家事の手伝いをしていなかったことだ。
いかに子供の頃、親に「あれしなさい、これしないさい、もっと注意しなさい、さっさとしなさい」などとと言われて育つことが大切かを物語っている。
親が手を出しすぎるにも程がある。
そのことが、その子供が大人になったとき、そして親になったとき、何一つ子供に基本的教育、つまり、集団での気遣いや自立して生き抜く能力を、退化させているかを知らなさ過ぎるのだ。
集団での気遣いがない、ということは、その場での自分の役目を感じ取ることが出来ない、ということで、そういう人達の集まりはもはや集団ではない。
そういったことも、現代の親達は分かっていない。
それは、その親達は「親」ではなく、子供と友達だと想っていたり、子供をペット的にしか見れないからだ。平等のはき違いも甚だしい。
親は親、子供は子供、という垣根がある、ということで平等なのだ。

相手の正面に立てたとき、本当に「ここしかない」という感覚があり、思わず笑ってしまった。
相手に立たれた時も同様で、気持ちの良さがあった。ピタッとくる、という言葉がからだで体感できたことは、関係をきちんと人としていく上でのヒントになりました。

人と真正面に向き合うことが、これ程難しいとは想わなかった。
自分の中心がまずしっかりしていないと、人と対面した時に相手の中心が見えない。自分が相手と向かい合っていると想った時にも、中心がずれていることが多かった。



まだ、何が起こったのか分かりません。
3 人で話をしたり、聞いたりしただけ(言葉は悪いですが)。
たったそれだけのことで、木刀を用いた向かい合いで、こんなにも自分がかわってしまうなんて。
今日、初めてやった時とは大違いです。
たった半日で、人はこんなにも変わるものかと想っていたのですが、観察して頂いた人によると「 2 人とも物凄い変わった」という話だったので、変わったのは自分のこころの中の状況だけではなく、外見というか、周りの人に見えている自分の姿も、大分変わっているのだなと想いました。

正解を出そうとしている自分に気付いた。
いい子になって答えを言おうとして、感じたことを率直に口に出せない自分がいた。
自分の感性に自信が持てないからだけど、間違っていたとしても、それが今の自分なのに、そのことを受け止めていない。
もっと勇気を出して口に出してみよう。

出しているつもりの声、届いていると想っている声。 2 人のペアで声を出し合うも、相手の声が響いて来ず、自分の調子も狂って来そうと、相手の反応の為にしそうになっていたが、早口回しを終えた後は、初めての相手にもかかわらず声が届いたように想った。
出せていなかったんだ。
気力は限りなく湧いてくる。

自分の声も相手の声も届いていない。
相手がガラスごしに感じられる。
やっているうちに、それは自分が壁を作っているためだと分かる。
人を受け入れているつもりでも、相手にはそれが伝わらない。
相手の声が一方通行になり、相手の姿が現実感がうすく、蜃気楼のように思えて眠くなった。
声を出すことしか最初意識できなかったが、声を受けとめるのもそれ以上に大事だと思えた。

後向きに座った人達の中から、特定の人に声を届けた。僕の概念の中に、無かったことが実現されてしまうこの稽古では、全く驚きの連続でした。よく考えれば、今日の武禅は全てそういったことの連続でした。ここで学んだことを活かして、これからもっともっと成長していこうと思います。


 

からだを動かす運動の時、「練習の目的が変わってしまって、結果の現象だけを追っかけている」という先生のご指摘が、とても印象に残った。
短時間で答えを欲しがる姿勢を変えなければ、問題解決が全て応急処置になる、という良い例で非常に為になった。

声が届くと、本当にお互いが気持ちが良く、お互いに笑顔に思わずなってしまった。その人に届いて、届けられた声が体の中にジーンと響いてきました。何かを本当に伝えようとするならば、自分の精一杯を使わなければ相手に何も届かないと感じます。本当に関わろうとしないと、何も出来ない伝えられないし、それが出来ていない自分がいることが、とても悔しく情けないなと想いました。

「こんにちは」の挨拶を人に届けるのが、こんなにも大変だなんて思いもしませんでした。
今までの僕が発していた「こんにちは」の言葉は一体なんだったのだろう、という思いで一杯です。自分でも呆れるくらいダメだしを受けました。
しかも、そのダメだしの言葉は全くその通りのこと。やっているうちに何だかつらく悲しくなってきてしまいました。
それにとても悔しい。
こんなにも人に届かない言葉をずっと発していたことに、愕然とします。

相手のからだを感じることは、相手と自分をどう重ねるか、ということ。
今までとは違う「相手を感じる」ことの考え方を教えてもらった。
自分がやられている事に対して、どのように感じるか、どこが気持ち悪いかを感じることが出来ないと、相手を心地よく動かすことは出来ない。
年配の方にからだを起こしてもらった時、年を重ねるということは、凄い事だと想いました。
出来ている、出来ていない以前に全体を見てくれている気持ちがして、嬉しかったです。
終わった時、ありがとうございました、という気持ちになりました。

全てを、その一瞬に出すという集中はとても難しかったですが、その集中して言葉を出すことを日常で繰り返していくことが、本当の意味でのコミュニケーションが出来ていくのだと感じました。

 
 

最後の多人数の後ろ向き声掛けは、とても難しかった。
意識が集中できず、 1 点に絞り届かすことが出来ず、大変困った。
しかし、こころがしぼむことはなく、「さて、どうしよう、どう届ける工夫を考え行う。何度目かの内に、やっと声が届く。疲れは無かった。気力が充実していたのだろう。
ここで学んだことを、自分に活かし大きく生きて行きたい。多数の人々が稽古相手になってくれた。日常生活の中には無いことだ。集団生活で学ぶ事は多い。
今の自分は何をしたら良いのだろう、集団の中での自分のすることを考えた。
他人が全て自分の先生だと言う意味が少し、分かった気がします。

雑談も相手の反応を見て、興味のありそうな言葉を選び、相手が分かる口調で考え話をすると、 2 人の反応も聞いてくれていることを感じ取れ、会話も楽しくなった。
また、相手の話も真剣に、何を話すのだろうと聞く姿勢を持つと、途切れることもあるが、場が白けることはなかった。
今まで、相手を無視して話を進めていたことが、無駄なことだと想った。
今後は、相手の反応を良く観察し、相手が興味を持てていないと感じた時は、違う話も出来るように、内容を広げ何事にも興味を持てる人になりたい。

人の話を聞くこと、自分の話を聞いてもらうことが、とてもエネルギーを使うことだと改めて思い知った。
自分のことを殆ど知らない人に対し、自分の経験したことや好きなことを話しても、理解してもらえないことも多く、どうやって分かってもらうかに、大きなエネルギーを使って、また、知らない人の話を集中して聞くことに神経を使って疲れてしまった。

今回初めて武禅での一体感を感じた。「ありがとうございます」と本気の気持ち。その人のエネルギーの大きさを体中に受けてしまい、武禅を通して見に付けなければならないのは、人との関係だと思い知った。

 
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