「武禅」を終えて、紀伊田辺の駅までみんなバスだ。
全員余韻がたっぷりあるので盛り上がる。
紀伊田辺から新大阪へ。
疲れの為、殆どの人が爆睡。
そして新大阪に着く。
そこから東京や、逆の岡山や山口方面の人、新大阪で降りる人。
そこでお別れになる。
そこで一人になって驚く光景が目の前に広がる。
全く生気の無い人達の群れに出会って愕然とするのだ。
3日前まで、自分もその中の一人だったのに。
「武禅」での徹底した向かい合いは、見る目も完全に変える。
今回の「武禅」は、明くる日が大阪教室だった。
だから、「武禅」に参加した大阪教室の人は、その日に来る。
初めて参加した一人は開口一番「よかった!」どういう意味かというと、周りにいる人の気持ち悪さに吐き気が起こり、叫びそうになったそうだ。
「アホか、俺はずっとそれを見ながら生きているンやで」「あっそうか」で大笑い。
20代の時、街は怪物だらけに見えて、ほんとにどうしようかと思った。
生気が無いと言えば簡単だが、問題はそれだけではない。
そんな自分に参加した人は気付き、改めて「生きる」というチャレンジを開始するのだ。
「傷口を広げあえる仲間」
現代の過保護社会では奇跡の場と言っても過言ではない。
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こころの奥底にある「一番偉い自分」は、武禅を通して何も出来ない自分であることを知って崩れてきました。
くずれた代わりに、他人の存在を知ることが出来ました。人との関係を新たに作っていきます。
稽古だけでなく、その後の飲み会でも、何も出来ない自分を知ることが出来ました。
その何も出来ない自分の背中を押してくれた、諸先輩方の優しさに、人生で初めて触れることが出来ました。
ありがとうございます。
アイコンタクトの時に、動けない自分。
また動く気のない自分に気付きました。
私はこうやって、人生に参加していなかったのかもしれないと思います。
目が悪いとか、人の動きが早いとかを言い訳にして。
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理屈を考えてしまう自分がいる。
相手のことを思いやっているつもりになっている自分がいる。
悲しい現実だが、今の自分は相手に心を開いているつもりになっているだけらしい。
今までの自分の認識が音を立てて崩れていく。
ここまで人間相手に接することが下手であったなんてとても悲しい。
ここまでの劣等感を感じたのは何年ぶりであろうか。
こんなコミュニケーション下手な俺だからこそ、周りの人達に不快な思いをさせてしまっているのだろう。
一体俺は何を大切に人とコミュニケーションを取ってきたのだろうか。
言葉だけのやりとり。それも相手の心に響く声ではなく、音だけが聞こえるコミュニケーション。
何とかしてそれを克服したい。せめて何かヒントを手に入れたい。
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声を届ける稽古ということでペアを組み挨拶をしたが、自分の声も全く届いておらず、相手の声も届かなかった。
普段もうわべだけの挨拶をしていたのだと気付くことが出来た。
声を届かすことは出来なかったが、普段ここまで相手の目を見て丁寧に、自分なりにでも本気で挨拶をしたことはなかったように思う。
そういった意味でも、このことは日常でも気をつけていこうと思った。
先生の挨拶のお手本は、言葉ではうまく言えないが、心に響いてきたのはびっくりした。
本当に人を説得できるのは、口先ではなく心に届かせることだと、身をもって知ることが出来た。
自分はロボットのように、無感動になってしまったと以前から反省していたつもりでいて、実際どれほどロボットになっているかを突きつけられた。
気持ちが弱い、くやしさが弱い、怒りがない。
そのことは周囲から見ればまる判りなのに、誤魔化してきた。
その癖が向かい合いの場でも出るばかりだ。
自分が向かい合っている姿を鏡で見たときは、ひたすら気持ちが悪かった。
まるで死体だ。
俺は永遠に人に声を届けることが出来ないのではないか、と思うくらい届けられない自分にむかつきます。
何かをするにあたり、必ず正解は?コツは?やり方は?と思考してしまう。
本当の意味で自分を追い込んだ状態に出来ていない。
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半年振りの道場で、お互いが向かい合う、関係しあうことの清清しさ。
独り善がりにならない清清しさ。
「ただやる」ということの難しさ。
意識が走り回ってしまう難しさ。
でもその中にも、意識が消え静かになる瞬間がある。
それが何とも言えない、言葉で表現できない感覚だ。
向かい合っている相手がクリアになる、真に美しい瞬間だ。
これ以上の素晴らしい体験があるの
か、と何時も思う。
自分を受け入れてくれる人がいる、というのは本当に有り難く又素晴らしいことだと身体で感じました。
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自分のことより、グループの代表をみんなで作り上げていく過程が本当に楽しかった。
他の人達と力を合わせて何かをやり遂げていく。
自分は今まで本気でその事に取り組んだことが無かったと、今回気が付いた。
今日、このセクション、この場でやったことが、 60 余年りの人生で初めてのことだと思える。
日常の会話の中で、相手と話をしているにもかかわらず、声という音や意味だけが飛び交い、さも話しているかのように振舞う。
聞く側も聞いているふりをしていて聞いていない。
私もそれに気付かず人と会話している。
自分も本気で伝えたいことを、本気で人に話をしていない。
全くと言っていい程のダメな自分を知り、変わりたいと思いました。
自分のエンジンを回す。
実際に口に出してやってみると良く分かった。
自分の中のエンジンを回している時は、本当に身体が飛び出しそうになる。
エンジンを回していない時は、何時でも動けるつもりでいても、実際は身体が固まってしまっている。
自分では少しは伝わっていると思っても、相手は伝わっていないというので、今まで実生活で「そんなつもりで言ったのではない」とか「きちんと言ったのに伝わっていない」という事の原因がここにあったのだと分かりました。
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相手との気迫と気迫のぶつかり合いにするにはどうしたらよいか。
大切なのはそんなことじゃないのは判っているが、出来ない自分に腹が立ち、同じグループの仲間の足を引っ張っている気がして情けなく思えてくる。
いい表情には少しなったと言われたが、何が足りないのだろう。
自分の気持ちを相手に、そして周りに伝えることがこんなにも難しいなんて初めて知った。
どんなに真剣にやっているつもりでも、周りがそうは受け取らない。
気持ちや気迫を伝えることを、言葉や思考に頼りすぎていた自分に気が付いた。
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相手に向かい合うこと。それはただ相手の前に目を合わせて立っていることではない。
相手との関係を自分が作ろうとしていないことを感じた。
単に頭で考えた思いのようなものだけで、相手と関ろうとしている気がした。
本当に向かい合おうとしていない。
そのような気配は、相手の正面に立っていなくても、外から見ていても判ってしまう。
とても恐いことだ。そして情けなかった。
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自分が声を届けた時は正直、安堵したが、それも自分のことばかり。
他の方が届けた時とは、皆の反応が明らかに違う。
皆で喜べないのはつらい。
笑い合えないのもつらい。
しかし、これも自分のことばかり。
「上手くやろう」「良く見られたい」等の自意識。
見た目だけ取り繕えば良い。
この甘い考え。
何にしても乗り越えなければならない壁だ。
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声を届かせる事は出来なかったが、普段ここまで相手の目を見て丁寧に本気で挨拶した事はなかった。
そういう意味でも、この事は日常でも気をつけて行こうと思った。
2 人での正面向かい合いでは、声を出した余韻もあってか、相手と対峙するのが少し楽になった。
相手の人からも雰囲気が良くなったと言われた。
まだまだ全然出来ないが、人と関係するということは、本当にリアルなことなんだと改めて痛感した。
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今回のセクションでは、誰とも向き合えていない自分に物凄く焦りを感じました。
何とも言えない孤独感を感じ、とにかくこの「武禅」を通じて人と向き合えるようになりたい。
正面向かい合いの中で「アッ!」という感情を、相手に思い切りぶつけた時、本当に気持ちよくて、今まで経験した事が無い感じでした。
「嬉しい」という気持ちが湧きあがってきました!
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自分はちゃんと向き合っているつもりなのに、「様子を伺っている」感じだとか、「勝手にやって!」という感じがすると、第三者から指摘され、あーこんなところで自分の人生の態度が現れるのか、と思った。
自分では、物凄くちゃんと向き合ったり、相手にエネルギーを送っているつもりなのに…くやしい!
思い込みがどれだけ自分自身を閉じ込め、窮屈にさせているのかに気付かせて頂いたことは、とても大きな財産を頂いたと思います。
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正面向かい合いから声を届けるのセッションは、何がどうこういうより、やっていてお互いが心地よい。
何かをやり合っているのではなく、お互いに同じ価値観で何かをやる時というのは「こんな感じなんや」みたいな事を感じました。
あいさつ一つも届けられない。事務的に聞こえたり、アナウンスのように聞こえたり、目の前の人に届けているつもりにしかならない。
私の声はどこに向っているのだろう…。
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相手がいてこそのあいさつ、言葉である。それなのに、やっぱり自分本位になる。
この自分本位になっていることには気が付けた。
気が付いたのだから、そうならないように、他人、人がいることに「ありがとう」です。
どんどん頭が、意識が大きくなっていく。
何をしていても自分の事ばかり考えている。
ひたすら保身。
これが本当の自分?
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「自分だけ出来ない」ことで焦り、それを認めたくない気持ちがあった。
その内別の者が向かえなくなったのが判って正直ホッとした。
「自分だけじゃない」と。
そう考えている自分にうんざりした。
「自分が一番だ」という考えがあるからだろう。
それが人から何かを学んだりするのがを苦手にしているのだろうと思った。
どうせ何もできないのだから、無茶苦茶何でもやってやろうと思ってみても、終わった時に全力を出し切った感じが全くない。
つまらない照れや恥ずかしさから逃げられない。
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アイコンタクトをしましたが、最初は目を合わすのが恥ずかしかったり、拒否されるのではないかという気持ちで遠慮していましたが、先生の「もっとスピードを出せ」という言葉で、夢中になって行うと、恥ずかしいということも無くなり楽しくなってきました。
アイコントクとの最中、自分を認識してくれたという嬉しさが出て、ありがたいと思いました。
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相手のテリトリー、自分のテリトリーの中の違和感を考えたことも、意識したこともありませんでした。
自分もストレスを感じるように、相手にもストレスを与えてしまっているとは。
なんて自分勝手なのだろう、と考えさせられました。
正面向かい合いの中で「アッ!」という感情を思い切りぶつけた時、本当に気持ちよく、今までに経験したことのないような「何これ?」。
でも嬉しいという気持ちが湧き上がってきました。
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相手に向おうとしていても、一寸のことで周囲に気持ちが散ってしまう。
評価されたいとか、良く見られたい、うまくやらなければ等々。
前々から自分の中にあることに気付いていたのに、これがどうにもこうにも。
こうやっていても、周囲を気にしている自分がいる。
人の目をみることも、こんなに真っ直ぐに向き合うことも、初めての経験だと思う。
どちらかというと、いつも目を見て話すようにはしていたが、口先で話しているだけだと分かった。
聞いていないし、届くようにも話していない。
人との会話って大変です。
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一番嬉しくもあり難しかったのは、やはり後ろを向いた方達の中で、一人の方に手を挙げて頂くことでした。
思い込みの様なものは通じず、本当にその方だけに的を絞って声をかける。
成功した時のあの感動は、人との関わりの中で、いや、今までの人生の中で一番嬉しかった出来ごとのように思います。
最後の皆との挨拶では泣きそうになった。足手まといに違いない自分に、皆は色々とちょっかいを出してくれた。
それに初日で帰りたくなった僕は、ホンマもんのアホだ。
声が届いた瞬間、嬉しくて、楽しくて、それまでの届かなかった状態の気分など吹っ飛んでしまう。
声を受けてくれた人に「ありがとう」と大声で叫びたくなった。
他の人の声が相手に届いた時、全員が自分の事のように笑顔になる。
それを同時に体験し、人は一つになれるんだと本当に思えた。
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