人間関係が得意になる

 

熊野武禅一の行特別行会は今回をもって一応の終了とさせて頂きます。

また、新しい企画で行いと思っています

 

参加者の声

 「達人入門2」で「武禅」は取り上げられています  ●禅について  

第100回「武禅一の行行会」レポートより(平成29年10月7日〜9日)

100回になった「武禅一の行」。

1998年7月に第一回が始まり、その当時はビジネス研修の余波があり、それこそビジネスマンが多かった。

原因は、私が社員研修や講演を行っていたからだ。

最初の頃の「武禅」は、どこから伝わっていったのかは知らないが、大手研修会社の講師が時々参加していた。

何かしらのネタを探しに来たのだろう。

ところがどっこい、大手がやるような「理解形式」ではなく、個人が本気になる、個人が自立をする事が目的だから手も足もでなかった。

もちろん、講師が手本を見せなければいけないので、「理解系」の講師には絶対に無理だ。

当たり前だ、「おまえに何が出来るんや!」だ。

 

今回で最後だと、今回の受講者は知っているので、初めて受講の方も、それなりに危機感を持っている。

そのせいだろう、ワークそのものは最初から、良い緊張感に包まれていた。

木刀を構えて向かい合う、もちろん、武道の武の字も知らない人もいる。

しかし、木刀を構えていると、目の前の人が良く見える「私の前にいません」「ボーっと突っ立っているだけです」そんな言葉が飛び交う。

日常などそんなものだ。

誰も相手を明確に意識していない、つまり、自分自身も意識されていない、いわば抜け殻状態なのだ。

それでも日常を過ごせるし、あるレベルまでは仕事も出来るのだ。

そんなところを徹底的に知り、また、相手を突っ込む。

お互いに真剣だから、そこにどんな言葉があろうが、嫌な気持ちになる人は一人もいない。

むしろ、感謝するくらいだ。

「おっさん、ええかげんにせえよ」日常なら喧嘩になるだろう。

しかし、真剣な場では大爆笑になるのだ。

そんな社会にどうしてならないのか、だ。

社会は、本当に上っ面のことばかりだ。

その事に気付き本気で生きる人になって欲しい、それが「武禅」だ。

本気で生きる人は、必ず良い関係が生まれる。

 

ブログでも書いたが、私が70歳になって「こんな良い奴ら」に囲まれるとは思ってもいなかった。

素晴らしい人達ではなく、良い奴らだ。

きっと彼等彼女達は、自立した自分の道を歩いてくれるだろう。

それを期待させる奴らだった。

 

応援したくなる

目で聴く1

 

今回が2回目の「武禅」になる、25歳と若い理学療法士の感性が秀逸なので、丸ごと貼り付けます。

ワーク中では、かなり私は追い込まれました。
「目で聴く」・「歌う」が本当にできていない。
今の自分のレベルの低さに悔しさがこみ上げた。
そして、ワークの中で高尾さんに「もう1回やらないのか?」と声をかけてもらった。
そのとき、私に対する「優しさ」を感じたとともにその「優しさ」と「期待」に、今の自分では答えられないことがわかった。
それがあまりにも悔しかった。
涙が自然と出てきた。
必死にこらえようとしても出てくる。
でも泣いていても仕方がない、立ち止まるわけにいかない。
その涙を味わいながら、ワークを続けた。
涙が終わったとき、身体が軽くなったのがわかった。

もっと必死になって何がなんでもできるよう努めることしか今の自分にはできない。
何にもできないけど、今できることをやるしかないなと感じた。
すると、ワーク自体がマシになっていった。
本当に頭の中がグチャグチャになっていたんだと思う。

今振り返れば、あそこは自分にとって分岐点だったのではないかと思う。
あそこで、なんとなくワークをこなし時が過ぎるのを待つこともできたはずだ。
しかし、それは全く浮かばなかった。
「とにかくやろう」と決めた。
あの出来事を考えると悔しくなって泣くくらい、それができるようになりたいと自分が思っているということである。
壁にぶち当たろうとも、往生際悪く、できるまで続ける。
このまま突き進もうと思う。

セクションではない時間に先生から「ミミズになれ。」と、その場にいるメンバーでワークをしたのが印象に残っている。
これは今回の武禅ならではないかと思う。
そのワーク中に先生から「自分の頭の中にある身体が身体だと思っているだろ。」と言われたとき、ハッとした。
本当にそうだと感じた。
自分の実際の「身体」で取り組まなければ、「ミミズ」にはなれない。
とにかく皆で切磋琢磨してやりまくろうと思う。

今回の武禅で、参加者のツッコミのおかげで自分と向き合わせてもらった。
とても辛かったが、だからこそ、皆で盛り上がり、皆で笑い、皆で感動的な場を作ることができたのではないかと思う。

そこに関わらせていただいたことに感謝しています。
今回の武禅を必ず仕事、生活に活かし私が成長することが先生たち・参加者の皆さんへの恩返しだと思っています。
今度は私を含めた若いものたちが先輩たちに尻をたたけるように日々精進するしかありません。
目の前のことに集中し、必死に一生懸命にやります。
本当に今回はありがとうございました。

素直という事を絵に描いたような感性。
こんな若者が日本にいるということ、そして、私の周りにいることが本当に有り難い。
彼等に負けないように、死ぬまで頑張るしかない。

「いいね!」を付けたらしばくぞ!!

美味しい夕食

鳥の煮物

牛丼

豚肉と梨の鋏もの

 

最後のセッションも、とても感動した。
個として自分の歌を歌いながらも、それが調和をもたらし、何とも言えない場となった。
まるで、この世の縮図のようであった。
私たちは個として在りながらも、全体として生きて行く、この世の在り様であった。
昨日のグループに分かれ、一人一人が違う歌を歌い始める。
相手の歌をひたすら聞き、聴いているうちに相手と合わさっていく。
一つの輪となったグループが、先生の指揮の下で歌を歌うと、曼荼羅の様になった。
オーケストラの様になった。
何ともこの上ない優美な世界が現れた。
この体験は凄い。
小学生も中学生も、皆がこの体験をしたら、独り独りを大切にしつつも、他者を大切にする世の中となるのではないかと思った。
この輪の中にいる事が出来て、とても幸せだと感じた。
涙する人もいた。
同じ感動を共有している感じだ。

 

個がしっかり存在するから、全体、相手が見える聴く事が出来る。
感じる事が出来る。
ということを体感することができて本当に有難かった。

 

全員の時に、まざっていたのは皆の声なのか?
声という形をしたいのちの鼓動なのか?
人との出会い、いのちの鼓動。
今回の「武禅」での感動は、医療従事者としての自分に、その事を考える役目を自分にくれたように思います。

 

最後はただ一点に向かって歌い、一点にもどって歌い終わる。
「ありがとう」という言葉と拍手に囲まれている。
「一生懸命にすれば、人の役に立つ」感動と感謝の中で、それは本当だと分かる。

 

全員がそれぞれ声を聴いて歌うと、ぶつからずに混じり合うような、全員が別々の歌を歌っているけど、合唱をしているような感じになっていた。
声や曲、歌などとは関係の無いところで共鳴しているようで、最後は、楽しくて感動して、なぜだか笑いながら涙が出た。
最後に先生がおっしゃっていたように、自分の事を一生懸命やったら、それが周りに影響したり、関係したり、人の役に立ったりできるんだ、ということを、この「武禅」を通して教えて頂いた。
本当に「武禅」に参加させて頂いて良かった。

 

その後、日野先生のリードの元、グループが少しずつ加わる。
その時に、歌っている人の歌を目で聴いていると、だんだん意識がまとまり、それが広がってきた。
涙が出て止まらなかった。

 

全員で声を出している時、皆のエネルギーがビシビシと伝わってきて、何が何だか分からないくらいになった。
「人は凄い!」只々そう思う。
そして、それを体感させてくれた皆にこころから「ありがとう」と言いたい。
私の人生は最高です!
まだまだ最高のものにしたい。
人と関わり、思い切り笑い、泣き、感動したい。

 

最後、皆で歌を歌ったのは、とても不思議な感覚で、とても感動的な空間だった。
自分がやるべき事、任された事を一生懸命に、集中してやる。
それが、人と関係できる、人のためになる。
僕は理学療法士である。
それを一生懸命、集中してやる。
特別な事は必要はない。
専門職として、理学療法士として働く中で、任された仕事、必要なことに一生懸命やろうと感じた。
それが目の前の患者さんの役に立つから、日常からやり続けます。

 

生麦1

必死さは伝わる

必死さは人を動かす

真剣は後味が良い


先生に聴いて貰ったら、流れはもちろんだが、例えていうなら、先生と聴いている人の間にある空気中の粒子迄も全てを先生は捉えていて、どちらかが動けば、この粒子に押されて皆が一緒に動いている。
そのくらいビチッとお互いがくっついている。
しかもこれは物体がくっついているのではなくて、心と心がくっついている。
心が通っている状態だと思うが、そこに先生の“我”はないので、“私”が優先され、それはとても心地よく、認められている感じがする。
確かに聴いて貰っているのが分かる。

 

先生が聴き手に回った時の、歌い手側の変容を見て、「聴く」というポジションを考えさせられた。
カウンセリングでも話し手と聴き手では、聴き手の大切さについて散々聞いては来ていたし、体得してきたつもりであったが、先生の姿を見た後ではチャンチャラおかし過ぎる。
自分の愚かしさが面白すぎる。

全身全霊で聴くと、相手がここまで変わるということを、今回見させて頂き感動しました。
本当にここまで聴いてくれる人が、学生の周りにいたら、彼らの人生はどこまで変わるだろうと思いました。

 

「こんにちはを相手に言う」言われた時の印象は、「自分に向かって言っていない」「声がただ音として空間で響いている」ように感じた。
自分が言ったのを受けた相手の感想として「届いて来ない」「弱い感じ」ということだった。
声を出さずに口パクで行うと、それが如実に分かった。
目で相手に向かっていっても、口がゴニョゴニョ動いているだけというのを、自分でも感じた。
日常がいかにエネルギーを出していないか、自分を表現していないかが分かる。

 

誘導の時、面白い事が起きた。
4人組で3人にアドバイスをすることで、上手くいかせることが出来た。
ただ、自分では上手くいかず、何とか一人に助けてもらいやることが出来た。
自分が出来る事、自分の感覚でアドバイス出来る事は違う、というのを身をもって証明してしまった。
ただ、パートナーが上手くいってくれるのは本当に嬉しかった。
自分が出来ない事を棚に上げて喜んでいた。
ただ、自分が出来るようになりたい。
技術を身に付け、もっと医療で応用していきたい。


必死さは頑張れを呼ぶ

9人を聴く


口ジャンケンをやった後に「こんにちは」を言うと、お互いの間の通気性が良く、言いやすい。
でも回数を重ねると、再び考えが始まってぎこちなくなったので、ウイスパーでジャンケンをしてから、その勢いで「こんにちは」を言うと言いやすくなった。
ただ、ウイスパーでも、本当のジャンケンの時は良いが、再現しようとしているジャンケンは効果がない。
自分が「本当に」やっているのか、ただ、その事をなぞっているだけかを注視しないといけない。

 

ここまで出来ないと笑うしかなくなる。

 

エネルギー爆発のセッションがあった。汗をかいた。
こんなに自分からエネルギーが出るとは思わなかったし、皆からエネルギーがほとばしるのを見る事ができて楽しかった。

 

ちゃんと相手を聴いているつもりでも、写真を見ると平面的だったし、目も閉じている。
先生が聴いている時の眼は大きく開いていた。
眼の色もきれい。
「ちゃんと聞いていれば、目は輝く」という事を知りました。

 

その後、Sさんとの「こんにちは」は良くなっていた。
先生に「声ではなく目で相手を聴くんや」と言って頂いた時に、Sさんをそのまま聴けた瞬間が有りました。
今までSさんと話をしている時とは全く別の感覚になりました。
人の深さに涙がでました。
あれが勘違いで無いとしたら、「何て素晴らしいのだろう!!」と計り知れないものに、驚きと嬉しさでふるえが止まりませんでした。

 

相手を感じようとしたリ、自分で手の平を伸ばそうとする手は、「気持ちが悪い」と言われました。
先生にサポートされた後、組んでいた人の手が変わりました。
その時、その人の言葉数は少なくなり、ただ、先生から受けた「感じ」を逃がさないようにしていました。
本当に理屈は無いんだと感じました。

 

ただ、大きい声(音)を出しているだけの自分。
全く相手に届いていないのがよく分かる。
「座れ」という言葉の意味ではないと知ったところで何も変わらない。
座らせようという意図だけが、自分の中にあり、「相手」が不在になっていた。
そういえば、普段から(例えば、生徒に)指示をする時、「もっと丁寧に」、その指示は「誰に」なのかを考え、感じていかなければと思った。

 

その場にちゃんといて、お互いに必死で向き合っている人。
そして必死な人は勝手に応援したくなる。

 

口パクで、必死に相手に届けようとしている姿は、どんな芝居よりも面白いと思った。

 

「武禅」の申し込みのレポートに「すでに目の前に居る相手と向き合う」と書いたが、実際は、ただ相手を眺めていただけだと思った。
言葉だけを知って並べていただけで、中身が曖昧だったことに気づきました。
9人同時に「なまむぎ」をぶつけられた時、その前までは、ちゃんと9人の存在を感じていない状態だったという事でした。

 

ピラミッドでTさんが別組だった。
その声が聞こえて気持ちが悪くなった。
私の組が先に終わり、振り向いてTさんを見たら、気持ちが悪くなった理由が良く分かった。
アドバイスをしたが、何かに拘っていて、中々変わらない。
「心から呼びたいと思える人はいませんか?」と聞いたら、Tさんの顔も身体緩み表情が出た。
感情を見たような気がして、私も嬉しくなり本気で応援したいという気持ちになった。
感情で、気持ちが動くを体感した。

 

「武禅」に来て本当に良かった。
言霊というものが在る事がわかり、それを届ける事が出来るのだという事が出来た。
ピラミッドで届いた時、信じられなかった。
そして「やった!」という達成感が溢れてきた。
手を上げてくれた人が「届きました」と言ってくれた時に、目に見えない実際を感じ涙が溢れてきた。
座っている時に、よく分からなかったが、やる立場になって見えて来た。
自分がすごく甘く、漠としたものしか見ていない事が分かった。
多分、こういう姿勢はここだけではなく、他にもあることだと思った。
そこに向き合う事がこれからの課題である。

 

「おいおい、どこ見てんの」一番最初にそう言われて、自分がそこまで出来ていないのだということが明確になった事は、とても有難かった。
そこまでなのか、というショックも無いと言ったら嘘になるが、それ以上に自分のスタート地点が分かった事、そしてはっきりとそう言って頂けたということへの感謝。
後はやっていくだけだという覚悟が着いた事が、自分の中に残った。

 

ピラミッド

9人に届ける

9人を受ける

ありがとうございました

 

どうしても、声を届けようとすると、声がおおきくなるだけで“中身”がなくなる。
うわべにとことん囚われてしまう。
囚われている自分に気付くことが出来た。
そして、自分に向かう意識が強くて、相手に向かえない。
関係を作る姿勢、準備が全くできていないことも同様である。
出来る、出来ないということを手放す必要がある。

 

「意志を明確にする」確かにそういう目で、「声を届ける」をしている自分を振り返ると、自分勝手に色々な事をやっていた。
「座れ」のワークで太郎さんと組んでいた。
目の前にいるのに、声をかけている筈なのに、私は相手に何もしていないのだ。
近いのに、何も届かせる事ができない自分がいた。
悲しくて、悲しくて涙が出て来た。
でも、泣いても何も変わらない。
常に進化は、具体的なヒントから、身体を通して検証して起こす。

出来ない自分に泣くのではなく、出来ない自分にしてしまった自分自身に泣かないといけない。

今回私は「武禅」で、自分自身に出会う事が出来た。
初めて!今までは、新しい癖をつけていくように、自分が作っていた。
やっと、自分自身と向き合う事が出来た。
自分の幼さを成長させていきたい。
もう、あんな悲しい気分にはなりたくない。

 

逆に木刀を持つ側に回ると、自分の前に“いる人”と“いない人”が良く分かった。
やはり正面に立たれると張り詰めた糸のような緊張感が生じる。
それは外から見ていても感じた。
いざ、自分が行うと、それを全くできずとても悔しかった。
やっているつもりで、でも全く出来ていない。
思っている自分と外から見える自分というものが、こんなに違うものだと痛感させられた。

 

「歌を届ける」で、先生に聴いて貰うと身体ごと包まれて引っ張っていってもらいながら、歌が引き出される感覚があった。
その前に聴いていた時の顔はボケた様な顔をして、人の話を聞いているのかと突っ込みたくなる顔をしていた。
こんな顔で何時もの日常を過ごして、仕事もこんな顔でやっていたんだとつくづく思った。
何となく、薄々は感じていた事でしたが、「武禅」に申し込みをした時に、書いたことが改めてこれで良かったと思ってます。

 

先生に前に立って貰った時、自分の懐に入られボディブローを打たれる感覚があった。
手は触れていないが、内臓をえぐられる感じです。
これが本当の「触れる」なのかもしれない。
自分の中の「触れる」という言葉を書き換えなければいけない。
また、ボディを打つ感じで相手と向き合ったら、少し距離が縮んだ(刀など関係なしに)。
ちゃんと向かい会えば、斬られることはない。

 

相手に向かい会い「そこにいない」「見てくれていない」等言われ、とにかく煮詰まる。
何に対して煮詰まっているのかも分からなくなる。
考えないようにしても、色々頭の中を駆け巡る。
方法ではない。
これが現実であり、これが患者さんに対しての答えである。
考えるという事は、余裕をかましているだけで、相手を舐めているだけである。
とにかく煮詰まるだけ煮詰まり、自分をどれだけ追い込めるかどうかだけだ。
今どうなのか、と問われれば「恥ずかしい」その一言である。
とにかく、恥をかきまくり追い込むしかない。

 

声をこうやって出す事が、こんなに気持ちの良い事だとは思わなかった。
解放されていくのが楽しかった。
……そして、今回の大いなる収穫は、声を聴くことが出来た瞬間があった事である。

 

何度呼びかけても誰も振り向かない。
それを見ていて、目的が無いのが良く分かった。
「何がなんでも」が無い状態で後ろ向きの人を呼ぶことは出来ない。
人と関わる為には、相当なエネルギーが必要だが、こうして「武禅」で、何度もくじけそうになりながら、人と向かい会わないと、その事に気付かない。
いや、まだ気付いたつもりなのかもしれないが。

 

「こんにちは」を言おうとすると無意識に言葉の意味を伝えようとする。
それが嘘くさかったり、相手に声を届ける邪魔をしている。
口パクでやった方がましだが、「相手に届けたい」というエネルギーが足りない。
口ジャンケンをやった後は、スッと言える。
とてもクリアで邪魔なものが無い感じがした。

 

「自己紹介」の声は、本当に気持ち悪い。

 

「手が薄い」「圧がまばら」「手がブレている」という現象を受けて、それに対してどう取り組むのか、工夫することが出来なかった。
ワークをやった結果から、ヒントを自ら手繰り寄せる事が出来なければ、中々先へ進めないと感じた。
触れている手全てが相手に行ってないといけない。
“それをやっている自分”に意識が向いてしまっては、“相手の中に入る”“相手に作用する”ことは出来ない。

 

「目で聴く」言葉通りに眼に意識がいくと、睨みつけている様な状態になってしまう。
先生の「聴く」はそういうものではない。
全てを受け入れてくれている、感じてくれている。
聴いて貰った後の満足感、安心感。眼で聴くという言葉に振り回されているのか。
もっと先生を見ないといけない。
雰囲気、相手の表情の変化、第3者として気付けること。
ワーク中に撮影して貰った写真やビデオに写っている自分の顔は、ただただ気持ちの悪いものだった。
何とかしたい。

 

 

野菜の煮物

何やこれ

酢の物

お漬物

座布団投げ

座布団2

必死になれ
座布団3
特製手作りカレー フルーツあんみつ

特別付録

正面向かい合い
背中に触れる
座布団投げリハーサル
早口言葉
早口2
美女と野獣
膝を突き合わせて
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勝どき
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男性コーラス
男性ソロ
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