“世界遺産の熊野古道”にある道場で、あなたもプチ修業をして見ませんか?
   
古の昔より修験道の行者達が行をした場。
それが現代に時を移し、ここ日野武道研究所で年に2度、行会が行われています。


「武禅一の行」って、具体的にはどんな状況になるの?誰しも思うことです。手作りのログハウス
九州に住んでおられる館正訓(たちまさくに・自転車乗り『プロフェッショナルサイクリスト』 スピニングインストラクター・ パーソナルトレーナー・ アドベンチャーレーサーという肩書きを持つ風に乗るのが大好き青年)さんが、「武禅」に参加された時の出来事を、ご自分で発行しているメルマガに掲載されていた武禅レポートを紹介します。


「武禅」
には、こういった色々なジャンルのトップアスリートの方や、普通の主婦、OL、会社員、経営者、医者、弁護士、学生、セミナー講師他、年齢も職種も様々な方達が、「本当に本当のことを身に付けたい、本当に人間関係を良くしたい、化粧やファッションで飾らなくても美しい自分を作りたい等」と様々な目的をもって参加しています。
また、色々な自己啓発セミナーや経営セミナー等に参加して、「何かおかしいな」と思われた方達も、終着駅として「武禅」に出会われた方達も多数います。

「武禅」
は、現在の日本に溢れるアメリカ式のものの考え方や価値観とは逆行しています。
でも、それは逆行ではなく、本来の日本人の持つ素晴らしい能力を引き出す事であって、決して時代錯誤ではありません。
そして、真に人間の成長、感性に合わせて作られたものです。

例えば、欧米では「アイ・コンタクト,スキン・シップ」と呼んでいる代物が輸入され、私達日本人が初めて見る人間関係の玉手箱のように扱われていますが、でも本来の日本人にとっては極々初歩的で誰一人として例外なく持っていた当たり前の能力なのです。
それは、「以心伝心・察する・肌触り他」といった、欧米語に無い非常に高度な中身を持つ言葉が残っている事が証拠です。
しかし、現在の団塊の世代と呼ばれる人達から以降の若い人達全員が、そういった日本の優れた文化をエセ日本人の口車に乗り排除してきたので身に付いていないだけなのです。

「武禅」
は、私達日本人の素晴らしい能力、つまり、島国という閉鎖された空間だからこそ育まれた、対環境、対社会、対人間との関係の智慧と工夫を今一度引き出し、目まぐるしく変化する21世紀を自由自在に活き活きと生きる事を目的としたものです。

 

武禅一の行ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

行って来ました。日野武道研究所。
何が一番もどかしいか、と言うと言葉に出来ない ことです。
状況や音を描写したり文章化したりすることは出来るのですが、それでは 何も伝わらないのです。
ここしばらくは、自分の中で感じたことをまとめるために文章化する、と言う作業に なると思います。
また、順番には書けそうに無いので、とっ散らかった文章を皆さん に披露することになりそうです。

バス停だけがポツンとあるような、小広王子口に下りると日野先生が待ってくださっ ていた。
実は一緒のバスに5人の参加者が乗っていたので、僕は奥さんが運転する車 で研究所に着きました。
荷物を置き、皆さんが談笑している部屋に入りました。
ここで、僕は自分の半生を語ることになるのですが、今振り返ると、話をさせられたような気がします。
まず、何よりもその部屋にすっと入っていけた気配、初参加である、つまり、知らない人であるはずの僕に対するみんなの位置。
そんな物が、すべて僕を受け入れている感じでした。

【真剣向かい合い】ー一日目午後開始ー

見つめあうなんと、言葉どおり先生が持つ日本刀の前に立つ。
だが、頭の中を駆け巡るのは「なんだ、これ?」という言葉。何が、どうして何をしているのかわからない。
何度も来ている人達の動きを、必死になってみるが何がなんだかわからない。
「これは何なのですか?」と、聞ける雰囲気でもない。
再び順番が回ってくる。
やはり、何も判らない。
何もかもが違っている気がする。
先生の眼だけを必死に見つめた。
先生がはずすときに、しょうがないか、という表情をされたことだけを覚えている。

ふり返ってみると、自分の前にあるものを何も認識していなかったことになる。
つまり、日本刀を持った人が僕と正対している。
このことに恐怖心を持たなかったということは、現状の認識が出来ていないことだ。
何も見ていない、ということだ。
何度も使った必死という言葉、これも、うそだ。
必死の状態とは、たとえばそれを失敗すると死ぬかもしれない、という状況だ。
いや、「かもしれない」ですら必要ない。
そのような言葉を安易に使える自分でしかないということなのだ。
しかし、この時点では自分の場違いさに心臓を握りつぶされながら、次の向かい合いに移っていった。
今回、僕の中に持っていった目標は、大きく言うと60歳で動ける体でいたい、と言うこと。
細かく別けると、効率よく長時間動ける方法と短時間の出力を得る方法を探している。
ではなぜ、武術なのか?これは上手く言えない。
ただ、興味を持ってしまったから、突き止めて見たいと思っている、と言うことなのだ。

さて、次は4人の参加者が木刀を持ち、その他の参加者がその前に立つ、と言うセッションだ。
やはり手ごたえは何も無い。
ただ、ここでは木刀を持っている人が感想を言ってくれる。
「様子をうかがっている感じ」
「真剣じゃないです」
「遠いです」
わかっているからやろうとしているのに、そんな言葉が頭をぐるぐる駆け巡る。
あまりにも深刻な顔をしていたのだろうか。先生が近づいてきて、
「木刀を持つ側に立ったら見えますよ」
と教えてくださった。
早速、木刀を持たせてもらう。
「あれ?何でこの人あんなに遠くに立つんだろう」
「なんか、覗き込んでいて気持ち悪い人だな」
あ、これがさっき僕が人に与えた感覚なんだ。
人間と言うのは相手に物凄く何かを感じさせているんだな。

イメージを持ったつもりでまた木刀に向かってみる。
木刀に向かう側に回ると、やはり意識するのは難しい。
問題は頭で考えてしまうことのようだ。
身体で感じる。
言葉は簡単に出てくるが、実際にそれを実現するのは難しい。
しょうがないので頭の中で状況をイメージして、それを自分の中で表そうとしてしまう。
何が起こっているのかを感じることが出来なければ、それは死を意味する。
と言うことを頭でしか理解していないのだろう。
もしくは身体はわかっているのだが、頭が邪魔しているのか。

次に行ったのは、肩のつかみ合い。
実はこのセクションはレポートが帰ってくるまでまったく頭の中から抜け落ちていた。
なぜだろう。
向かい合って座り、相手の肩を掴まえに行く。
もちろん相手もつかんでくるのでそれをよけながらだ。
一生懸命やっていたが、今振り返るとなんだか噴き出してしまう。
相手を感じる、と言うことの一端すら見えていなかったわけだから、ガキのじゃれあい、単なる速さ比べでしかなかった。

「レポートや!」振り返る
先生の声で、紙に向かいレポートを書き始める。紙に書き付けるための言葉が出てこないことに愕然とした。

いかがですか?何をしてきたんだろう?と言う感じですよね。でも、僕にとっては本当に大事なことでした。もちろん過去形ではなく、これからも大事なことですが、この時は物凄い衝撃を受けました。
日野先生が言われる、
「人間は頭で理解して動くのではない」
「見て無意識的に真似ることによって動く」
と言うことの、ホンの一端を知りました。
本で読んでも判らないよ、実際に体験しなさい、と言うのが今回の理解です。
ただし、この解釈も正解ではないでしょう。武禅はまだまだ続きます。
貧弱な頭はどんどんパニックに近づいていくのです。

【身体に触れる=相手を動かす】

パートナーの背後に回り、両手で肩を持ち動かす。
これは、本当に説明がつかない。
「相手の身体が動きたいほうに動かすんや、勝手に動かしたらあかん」
先生が僕を動かしてくれた。
思わず目をつぶってしまうくらいぐわんぐわん動く。
実際には外から見ると5センチも動いていなかったそうだ。
でも、怖くなくて、心地よくて。しかも、ゆっくりと動きが止まり、先生が手を離されたとき、腰のねじれが直っていた。
以前からこのメルマガを読んでくれている人はご存相手を感じる知のように、僕の腰は左が下がり気味にねじれている。
これの修正のための人生、と言っても過言ではないほどいろいろ試していた。
それが、たったあれだけの作用で修正されるとは。
しかも、写真で見るような武術家の立ち方になっている。
これが、僕の本当の位置なのか!その驚きが強くて、
「どうやった?」
と先生が聞いてくださったことに、上手く答えが無かった。
言葉を失う、と言うのはあんな感覚かもしれない。
その後もセッションを続けていたら、お互いのコミュニケーションがうまく行かないのか、背中に板が入っているような違和感を感じ、鏡を見るとまた腰がずれていた。
この板、なくしたい!と思うような違和感だ。
この違和感が僕の腰をずらしているのかもしれない。
と言うことは、僕の精神が脳が、僕の身体をずらしているのだろうか。
またしても、脳か。

【こころを届ける=声を届ける】

誰に話しているのか「ここは、どこの細道じゃ?」
「天神様の細道じゃ」
童歌の歌詞を使って、言葉のやり取りをするセッション。ここは何も出来ない、と言う印象が残った。
「格好つけている」
「相手に向いていない」
「声が下を向く。垂れ下がる」
「限界を作っているように感じる」
「諦めている」
「気持ちよさそうじゃない」
「もっと噛み付くような感じで」
そんな言葉を伝えられる。
「それが出来ないから、がんばってるんじゃないか!」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないか!」
そう思ってしまう。何度やってもうまく行かない。伝えられる言葉に素直になれない。
辛く長いセッションだった。
「どうやっていいか、わからないんだよ!」
その気持ちは、多分表に現れる。
「諦めている感じがします。できっこないと思っている感じ」
そのとおりなのだ。どうやっていいか判らない気持ちが、自分を投げやりにしている。
思ったことは身体の動作として現れる。「身体運動は心のイメージの表れなのだ」
ふり返ると、そうだったのだな、と思うことが出来る。
「何で出来ないんだ!」
と、自分に対して起こる怒りも、自分の能力を削ってしまうのだろうか。
どうやれば自分は100%の出力を発揮することが出来るのだろう。

「この干しぶどう、丁寧に食べてごらん」

そんな工程を経て、食べ始めた晩御飯。その場を占める緊張感のせいも有るのだろうが、なんだかとてもおいしい。味を感じる、と言ったら良いのだろうか。
実は、僕は食べ物に無頓着だ。「おいしい」と言う言葉がいえなくて。何人の人を悲しませて来ただろう。
「残さないときはおいしいと思ってるのよね」おいしい夕食
母親に、そう言われた事がある。
でも、今日は食べ物の中にこれだけの味が有る事を知った。そして、それに対して喜びを表すことが「おいしい」と言うことなのだと判った。
本当に、僕は目をつぶって生きてきたのだな。もったいない、というよりも悲しくて哀れな気持ちになった。
食後はコタツを囲んで、先生の話を聞く。
「一人に集中して、伝えることが出来ると、それはみんなに広がるよ」
「待つのなら、自分は静かでなければならない」
巻き込まれると、その場は静まらないそうだ。先生は、僕のためにそんな話をしてくださっている。レッスンで盛り上がるように出来るようになりたい、という話を僕がしたからだ。
でも、それはみんなにとっても、やはり役に立つ話で熱心にメモを取っている人もいる。実は、ここが悩んだところだ。メモをとるべきか否か。今回は取らないで置いた。
次回は、取りそうな気がする。

【身体をほぐそう→声を届ける】ー二日目の朝ー

ペアを組み、相手に腕を極めてもらう。つまりねじ上げるのだ。それを相手の手に違和感を与えないように緩めて外して行く。身体は違和感を感じることが出来る。決められている手を力ずくで外そうとすると、相手は無意識にさらに締め上げる。
でも、まったく違和感を与えないで動かすことが出来ると、外せるのだ。
これは、僕にとって非常に役に立った。相手を感じる、と言う事が、触れている手を通して出来るのだ。これが大きな気づきだったと思う。汗だくになりながら何度も繰り返していると、相手が違和感を感じる瞬間のような物が感じられる。その寸前で動きを止め違う動作に切り替える。そうやって少しずつ外して行くのだ。

「じゃあ、あいさつや」

今度は、パートナーの正面に立ち、
「こんにちは」
と、挨拶をする。またしてもいろんな感想を投げかけられる。
「考えてますね」
「下心がありそう」
「探っています」
「声が出てこない」
「こう、前に投げ出せませんか?」
ところが、昨日と違うのはそれを素直に受け止められるのだ。昨日は、
「出来ないからやってるんじゃないか!」
「そんな言い方はないやろ?」
と、思っていたのに
「あ、考えてるように見えるんだ」
「声が届かないんだ」
そう受け止めることが出来るのだ。少しだけ自分が見えるようになったのかもしれない。
そこから工夫も出来るようになったのだ。
「こうしたらどうかな?」
「これはどうかな?」
自分なりのその状態をふり返ってみると、自我があっけに取られている状態、と言えるかもしれない。もちろん頭は考えるんだけど、その割合が少なくなっていると言えばいいのかな?考えないで感じようとしている状態だった。
ただ、
「お!今のいい感じ!」
と言われると、それを再現しようとして脳が働き、
「また、たくらんでますね」
と、言われてしまうのだが。
「レポートや」
先生がそう言ったとき、もっとやらせてよ!と思っている自分がいた。

【声を届ける】

女性の方と、一人一人向かい合うことになった。独り言?
僕の順番が来たとき、恐怖感に襲われた。
恐怖感、と言う言葉は正しくないかもしれない。
現象を説明すれば、彼女の正面に行くことすら出来なかった。となる。
本当に怖くてしょうがなかった。
足がすくんでしまうし正面が怖いので遠くにしか立てず、しかも正面をずらしていた。
ただ、立っているだけの人の前にいけないのである。
「この人には全部ばれている」
今覚えている感情は言葉に直すと、これだけだ。
上手くやろうとしている自分。
成功して誉めてもらいたい自分。
中途半端に出来るようになったことに起源する自尊心。
あまりにも僕がおろおろしているので、彼女は「大丈夫ですよ」と言ってくださったのだが、何度も仕切りなおしてなんとか言葉を出して、逃げるように場を離れた。
いま、あの日々を思い出すと一番印象が強いのはこの向かい合いだ。
いつか、自分をしっかりと見つめきって、彼女の前に立てるようになりたいと切におもう。

一生懸命に相手と ペアを組んで、離れて向かい合う。
ただし、きれいに整列しているわけではなく、人ごみの中で知り合いを見つけたときのような状況だ。
お互いの線上を他の人が交差している。
「いくぞ!せぇの!」
「こんにちは!」
先生の掛け声とともに、ペアの片方全員が声を出す。
「せぇの!」
「こんにちは!」
僕のペアが首をかしげる。くっそ!聞こえてないんだな?
「せえの!」
「こんにちは!」
お!少し良い反応だ。
「こんにちは!」
彼がもっと来いよ!と、手招きしているのが伝わる。
後で聞いた話だと彼は数回前まで殻に閉じこもったように感じられる人だったそうだ。
でも、今目の前にいる彼は、僕に向かって全力で気持ちを伝えてくれている。全力で受け止めようとしてくれている。
「来いよ!」
「届かないよ!」
今度は彼の番だ。全員が全力で同じ言葉を叫ぶ中で、不思議なことに彼の声が届く瞬間がある。
こんなに離れているのに、きれいに僕の所に届くときがある。
とっても不思議なとても気持ちいい感覚だ。
人に声を届ける。
インストラクターである僕にとって、これほど大切で、これほど難しい事はない。
でも、それが当たり前に出来るようになることがとても大切なのだとおもう。すべてはそこから始まるのかもしれない。

私に話しているの? 顔がはっきり見えないくらい離れたところで、雑談している5人ぐらいのグループに向かって声をかける。
「おい!」
もちろん名前は呼ばない。
「おい!」
声はひっくり返り体中が痛い。
「もっと、点に集中してみなさい。目とか、耳とか」
よし、耳だ。彼の耳を見つめつづける。
「おい!」
深呼吸をする。膝の力を抜いてみる。
腰を意識する。彼の耳を見つめつづける。ふと彼の耳がくっきり見えたような気がした。
「おい!」
その瞬間、彼がすっと顔を上げ僕を見た。
そこに、一本の線があるような感じを受けた。
とても、不思議な嬉しい気持ちになった。
雑談する側に回ると、なんともうるさい感じで「おい」が届く。
がさがさしてると言ったら良いだろうか。
ところが、だんだんうるさくなくなる。
そして、ある瞬間誰かがすっと、顔を彼のほうに向ける。
これも、一本の線がすこんと通り抜ける感じだ。
おめでとう、といいたくなるような不思議な感覚に包まれる。
声がうるさいうちは雑談している人も何となくしかめっ面だ。
でも、声が届き始めると笑顔で話しているような気がした。
ちゃんと届けられるようになると、人を幸せな気持ちに出来るのかもしれない。
ぜひともその能力を習得したい物だと、思った。

【修了テスト】

思いっきり声を出す最後は、審判者(実は先生の奥様)に声を届ける事になった。
僕の番が来て、前に立つ。膝を緩め、腰を入れ、向かって右側の目を見つめる。
「こんにちは」
横で見ていた先生が、「お!」という反応をされたのが、なぜか判った。
もう一度、体勢を整え、
「こんにちは」
審判が非常にいい反応をしてくださる。
「もう少し出るよ」
先生の言葉に嬉しくなり、おなかから声を出すイメージを持って準備する。
「こんにちは!」
「こんにちは」
最高の笑顔で審判が受け止めてくださった。
みんなも拍手をしてくれる。
でも、嬉しいのだけど実感がない。
何かをこなした、という手ごたえがないのだ。
でも、どうやら僕にも出来るらしい、という気持ちを持つことが出来た。
その後、だんだん皆がうまく行かなくなって、収束しないままにバスの時間が来て、解散になってしまった。
みんな仲間
紀伊田辺で特急に乗り換え新大阪駅に降り立つ。
エスカレーターでコンコースに出たとたん息苦しくなった。
上手く言えないが情報過多のような感じなのだ。
物凄いデータが周りに合って、取捨することが出来ない。
それくらい僕の気持ちが開かれていたのだと思う。
この感覚は翌日には収まっていたが、これは持ちつづけるべきだったかもしれない。

これで、今回の武禅に関するレポートを終わりにしますが、最後に先生からいただい た言葉を記載してみます。
「武禅の写真で、どの時が良かったのか?ではなく、悪かったのか?を思い起こしてみて下さい。何故悪いときを思い出すのか?これは一番大切なことです。良いときというのは、全く記憶に無いから良かったのです。
ですから、良いときを思い出せる、としたら、それは後から付けた良いとこ取りの評論になってしまってまったく無意味なのです。悪いときは、何が悪かったのか?を、仮説として取り上げ取り組むことが出きるからです。それは、良くなりたい、という方向があるからです。何かヒントが有るかもしれませんよ」

 

如何でしたでしょうか?これが平均的な武禅の一泊二日です。
「武禅」に参加された方全員がある共通した体験をしています。
何だと思いますか?
それは、紀伊田辺の駅から新大阪駅に着き、あるいは天王寺駅に着き帰宅の途につこうと列車を降りた時、目の前に現れる人達の間の抜けた顔、だらしのない顔、歪んだ顔、醜い顔、怪物の様な顔、自分勝手な顔等々にがく然とすることです。
何よりも、誰も何も見ていない、感情が全くない、ということに気付きます。
そういった人達と同じだった自分、何の疑いもなく日常を過ごしていた自分にその時気付くのです。

「武禅」の場は、全員が真剣に自分に、あるいは正対してくる人に関わります。
その真剣さが、自分自身を磨くのですから、たとえ
一泊二日であっても目の光が増し表情は豊かになっています。
それは、人に対する見方が変わるという事でもあり、より素晴らしい人との出会いの予兆でもあります。

自分にとって本当に大切なことは何なのか?駅を降りた時、回りの人を見た時に発見するでしょう。
そこからがあなたのスタートなのです。

皆で頑張りましょう。いい顔を目指して。
それは、あなた自身の看板でありあなたの全てなのですから。
そして、あなたのいい顔は、回りの人を巻き込み、あなたの人生を豊かにしてくれるでしょう。

 

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