相手も私もタイミングを合わせている段階から凄く幸せな気分になり、伝え終わった後、涙が溢れた。人に伝えたいことがあり、それを伝えることが出来、しかも相手が受け止めてくれて気持ちが繋がっていく。とてつもない幸せ。なまむぎが女の友情!?と化した。

「こんにちは」の一言が、こんなにも人を感動させるものなのか。相手に自分が伝わるとはこんなにも楽しいことなのか。これまでの武禅では体験できなかった感動の中で今回の武禅は終わった。
自分を自分らしくなどと言っていることがバカバカしくなった。今、ここにいる自分以外に何があるのか、何もないではないか。こんなシンプルな喜びを何故今まで気付けなかったのか。
このレポートを書いていても、自分という実体を感じ、その感動と喜びと、何が何だかわからない感情が……。とにかく、涙が出そうで、身体が踊りだしそうで、ムズムズと動き出したくて、本当に本当に参加して良かった。
人間とはこんなにも生き生きと出来るものなのだ。人間とは他人事ではないこの私だ。

私は、人が目の前にいるのに、自分がその前に立つ、立とうとするというのが出来ずに終わりました。それともうやらなくてすむ、と思ったとたんそのありがたみがどっときました。
そして最後に皆さんと挨拶を交わしている時に、場を同じくしたことが自分の中にもちゃんとあって感情が動くのを感じました。遅い。
そして、その気持ちがその短い挨拶の形にこめられるのが大切で、それは練習したり試行錯誤をしたり、何度も失敗しなければできない、それをやるための稽古だったのだ、とようやく繋がりました。
私は普段、「どこかで借りてきた言葉」を使うことを生業としており、また、いろんな場面で、それを使って使って使いまくっています。それが通用してしまう場面ばかりの人生より、やっぱりそれが通用しない人生の方がいいです。
そして、それをかえるのは、やはり自分が変化しないと駄目で、今回、本当に周りは自分の在り様の鏡だ、というのがグサーときました。

相手に届いた時と届いていない時の温度差には驚いた。届いたときの暖かさは、空腹の時においしい手作りご飯を食べたときのようだ。

手と手がちゃんと合っている時は、本当に気持ちが良かった。動きがピタッとするのも不思議でもあり、とても面白いと感じた。普段、何の気にすることもなく使っている手だけれど、今回の事で使えていないことが良く分かった。





相手に声を届けるは、距離が遠ければ遠いほど、間に邪魔な人が入ったときはなおさら、伝えたいという気持ちがつよくなり、逆にその人が近くなる。
近くで声を届けるときに、どうして伝えようとする力が弱くなってしまうのだろう。目の前に人がいたら、ちゃんと向き合わなくてもその人の前に立ち、その人を見ていると思い込んでいる。
声を出せば言葉が通じると思い込んでいる。その思い込みが、掃いても掃いてもチリのようにどこかに残っている。

今回の稽古、3日間のどれをとってみても職業として舞台をやっている以上、本当は当たり前にできていないといけないこと。でも来る前から何一つ出来ないと思っていた。
変なプライドもあって正直恐ろしかった。でも、今は自分の中の問題点や向かうべき方向性みたいなものが明瞭になったことで、むしろ出発点に戻れたような、みなぎった気持ちになれた。

昔からの自分を考えてみると、あいてに興味があっても好奇心のある目でみているだけで、その人に話しかけることが出来ませんでした。
「変なことを聞いてしまうのでは」「嫌がられたらどうしよう」と勝手に思ってしまって恐がり、前に進めませんでした。
今は、人に何か興味をもって聞いてみたいと思ったり、知りたいと思ったらすぐに言葉を出してみようと思います。


視線を感じることをやっていない、という駄目だし。舞台役者なのにそんなこともやれていない自分に驚くというより、笑いがこみ上げてくる。言われたことは凄くよく分かった。
つまり、普段舞台でやっているつもりだった。でも、こんな稽古としてやってみると何も出来ていないことが明白。視線を捉えようとすると、正面の相手との関係は薄くなる。


一度ビタッと相手とコネクトしてしまうと、本当に自然に「好き」という感情が湧いてくる。


一生懸命すればする程、相手を感じるほど、自分はなくなっていく、という事を身体で感じましたが、すごく不思議な感覚でした。
今まで、力むことが一生懸命していることだと思っていましたが、それは違うんだと気付きました。


握手をする、では自分なりに発見があった。相手と自分との関係でごまかしか?これでOK?とやっている間に鈍っていた感覚に、先生の自然さと、他の人との異和感、不自然さの違いに気付いたことだ。
そして、それは先生はただ握手をしようとしている。
他の人は握手をするとは何ぞや?手を出すタイミング?相手に入り込む?正面に立つetc.と色んな手段を使っていて、結局何がしたいのかがストレートに伝わってこないのだ!何で?課題は握手をするなのに、握手しようと相手に手を出していないなんて……。
それでも気付いたのは、そうやって色々な手段を使ったから分かったことで、そんな過程があったから、そういうものはいらないのだと知ることが出来た。
そのための「武禅」だった。


意識を動かしていくことこの稽古、このことをダンスに繋げたい。東京武禅ですでに経験していた刀との向かい合い。なぜこの稽古をもっと早くからダンスに、表現につなげなかったのか。本当に恐竜だ。和歌山に来て良かった!頭で分かったような気になってしまうことの恐ろしさも感じる。

とにかく私に足りないのは、感じたことを相手に伝える言葉で話すこと。32年も使ってきた日本語がおぼつかない。それはもしかしたら本当には感じていないということなのか?

相手の声がこちらに届いた時の気分の良さは、言葉にならないくらいワクワクと楽しい。



先生と他の人が向かい合っているのを見て一人一人が感想を述べていった。
それぞれの意見に、なるほどそうだ、と思った。見ていると本当に良く分かる。まだ見えていないことも沢山あるだろうけど、とりあえず、今の時点で思ったことを言ってみた。
見て思ったからには、じゃあ今度自分がやるときは気をつけてみようなどと思ったりするのだが、自分も他の人が言われたことと同じことを言われた。
「停まっている」「弱い」「そこに立っていない」など。やっているつもりのことを、はっきりとやれていないと言われることは、本当に驚きだ。地面がグラリと揺れる感じがする。
くやしい、恥ずかしい、でもかすかな変な嬉しさが体の中にうずいたのも事実だ。
また自分が刀を持つ側になって向かい合ったとき、色んなことが見えてくるんだということに驚いた。
ただ感じたことをすぐにその場で言葉にするのは難しい。簡単な言葉で済むはずなのに、色々とこねくり回して説明しがちだった。

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