日野身体理論の中の、身体操作そのものの質を上げる為の練習、そして身体そのものの質を向上させる為の練習として、胸骨操作、両腕回し、ねじれ、縦系の連動、背骨を感じて行く、という基本的なものがある。

例えば、両腕回しをするとする。最初は、胸骨を使うことで、両手が振り回される。
つまり、胸骨操作と両腕が動くのを意識的に繋げる、という目的。
また、両腕が振り回される事で、腕の重さを感じ取れるようになる、という二つの目的があるのだ。

そして、縦系の連動を使って、両腕が振り回されるを試してみる。
もちろん、目的は縦系の連動と、腕が振り回されるのを意識的に繋げるのと、腕の重さを感じ取れるのは、そこに含まれる。
というように、運動そのものが変っても、この場合は「腕の重さを感じ取れる」は共通させるのだ。
つまり、ここでの大きな目的を「腕の重さを感じ取る」にする、ということなのだ。

また、武道の型、振り付けなども、胸骨操作だけを主要な目的として行ったり、縦系の連動だけで行ったり、あるいは、ねじれということを頭においておこなったりしなければいけない。
この場合は、同じ型でも、それを動かす動機が違えば、型のニュアンスが変わるということを実感する目的も入る。

そして、武道としての型、ダンスとしての型、という本番を想定した稽古も常に行う必要がある。
そこで、必要な能力というのは、幻の舞台を設定出来る事である。
それは、カーネギーホールやパリオペラ座のような大舞台で有る方が良い。
また、歌舞伎の舞台、能の舞台のような、芸達者な人達と並んで踊るような設定も良い。
そういった事が出来なければ、舞台を幻想化する力が身に付かない。
いくら本番の舞台を沢山こなしていても、それ以上の、つまり、幻の舞台をイメージ出来なければ、その舞台はただの空間でしかない。
観客から見れば、そこに幻や夢を見ることが出来ないということだ。

また、自分の動きに対して、観客の視線はどちらか来ているのか、そして、自分のどこを見ているのか。
それを身体で感知出来なければいけない。
つまり、舞台に上がるとは、恐ろしいほどの客観的視点が必要なのだ。
したがって、自分が段取りを追いかけていたり、自分の幼い自意識である「上手く出来なかったらどうしよう」とか「間違ったらどうしよう」というような、意識がある限り、そこをクリアすることは出来ない。
全く違う意味で、「舞台が怖い」であり「舞台は楽しい」と、身体の底から沸き上がって来なければ、全ては嘘だ。
同時に、自分自身が舞台に上がれる力があるのか、無いのかを自己判定出来ないということだ。永久に、自分本位の主観でしか、自分や舞台を捉える事が出来ないからだ。

しかし、基本的な個人稽古として、例えば、腕回しを毎日千回、あるいは、一万回、とやらなければいけない。
そうすることで、身体の端々の筋肉が収縮するようになり、柔らかく強靭で退化しにくい筋肉に身体が変化するのだ。
つまり、身体そのものの質的成長も、パフォーマーにとって必要不可欠な義務である。
舞台に上がる人と、観客とは完全に差別化されていなければならない。
それは、良い悪いの関係なく、観客は何に対してお金を払っているのか、ということの自覚と関係する。
例えば、大衆演劇の役者は臭い。
しかし、それが悪いのではなく、そうすることが、その観客に対しての観せる、であり、観客も満足するからだ。
その大衆演劇の臭さは、非日常である。
だから、観客はそこに足を運ぶのであって、舞台に日常の隣にいそうな人をわざわざお金を払って、観にいくことも無い。
という当たり前の事を考えた時、日常では見られない身体を持っている、ということ自身が、価値を持つのである。
ただ、これには時間がかかる。
日々の鍛錬だけが答えを出してくれるからだ。
「出来た、出来ない」という考え方では、残念ながら特別な身体を作り出すことは出来ない。
プロの身体とアマチュアの身体という差は、開いたままだ。
プロとは何なのか、もちろん、それを生業としている人はプロだ。
しかし、そういった事実、現実の話ではない。
概念として「プロとは何か」という問題を持っているのか、いないのか、という問題だ。
もしも、自分をプロだと決めるなら、何をすべきかを徹底的に考える必要がある。
その内の一つが、新しい身体の創造と身体操作の質の高さである。

話は逸れたが、もしも、腕回しを続けるとすると、上記した腕の「重さを感じる」や、繋げるということは、自動的にやれるようになっている。
ただ自動的にやれていることだから、意識的なものではない。
したがって、改めて自覚的に繋がっているのを確認する必要はある。

この例の、腕回しをやり続ける、ということのもう一つの意味は、やり続ける事で最初に感じ取ったものと、 1 年後 3 年後と時間が経過した場合、全く異なった感じ取りが出来るようになっている事を、実感できるからだ。
それは、同じ事をやり続けているという基本があるから、自分自身の身体そのものの成長、そして、感じ取る能力の成長、気付く為の成長などを、身体そのもので出来るようになる、ということだ。
つまり、これらの継続的稽古は、正解を求める作業ではなく、身体感性をどこまで成長させる事が出来るか、という自分自身に対する挑戦なのだ。
そして続けること、続けられること自体が、プロとしての自覚の表れでもある。

 

●数人で合唱し、その時のそれぞれの声を聞き分ける。

この稽古は、声を聞き分けようと集中すればする程、身体全体で聞くようになっていく。
その、身体全体で聞いている感じを掴むという稽古である。
身体全体で他者の声を判別するように、共演者の動きそのものを身体全体で感じ取るということに繋がる。
針が一本落ちた音を聞き分ける集中された身体
それが他者と共演出来る、心理状態、身体状態である。
その集中された身体だから、横で動く共演者を感じ取り、その流れを裏切ったり、同調したりと、自由にコントラストを演出できるのである。
つまり、この稽古は本番にとって一番大切な感覚を磨く稽古だと言って差し支えない。

●二人が向かい合い、片側がリーダーで歌を歌う。

その歌を、先ほどの身体全体で聞く状態を作り聞く。
そして、リーダーの歌に入り込む。
相手の気分の起伏(呼吸)に完全に乗ったら、それを崩さずに動作を起こす。
そうすると、相手は転がる。
この稽古は、ある一つの集中状態から、新たな動きをする時、意識が動く。
そのことをどれだけ平坦な状態で出来るか、の稽古だ。
その事で、動き全体が均一になる。
それは、観客から見た時、意識のブレが見えないので、身体がクリアに見える事に繋がる。

つまり、この二つは、絶対に切り離せないものだということである。

という具合に、基本的能力とその応用能力という稽古方法が、最も重要な方法である。

Dance1