目次
一ページ 二ページ 三ページ 四ページ
道場建築開始 現地乗り込み
地鎮祭1984-5-20  
材料の買い付け
材料が搬入された
本格作業へ
上棟式
屋根材を決める

初めての運動会
垂木の釘打ちと武道の奥義
電柱搬入
二階の屋根から

 

現地に乗り込み

設計図をいくらきちんと書けても、模型をいくら精密に作れても家は建たない。建てる技術がなければ建てる事は絶対に出来ない。設計図や模型は七角形で作れたが、実際にそんな事ができるはずもない。何しろ、大工仕事など何もしたことが無いのだから。それは、弟子達も同じだ、誰一人としてそういった経験はゼロ。
「先生、ほんまに出きるんですかね?」「当たり前や、絶対に出きる!何でや言うたら大工でも最初は見習いやろ、誰も最初から出きる奴なんかいてないんやで」もっともな言い訳、もっともな理屈、そのもっともをやってしまうんやから面白い。実は、私自身も建てられるとは思っていなかった。でも、絶対に建つとも思っていた。何とかなる、何とかする。そうして今迄生きてきたんやからな。
設計図が出来、模型が出きるほど不安は募る。同時にワクワクもする。これが面白い。これを味わう事の出来ない人は不幸としか言いようが無い。どうしてか、これを乗り越えた時、最高の嬉しさが待ってるから。絶対に出来っこない、と人が思うことをやるのが面白い。武道でも同じだ。出来ないからやる、ただそれを続けているだけや。出来ないことを見つけるのは最高の楽しみや。

当時はまだヒッピーの生き残りがおり、コミュンを作って皆で生活しようという、馬鹿げた事を言っている輩が私の回りにもいた。それは、お手軽劇団員だったり、にわかフォークシンガーだったり、私のジャンルのフリージャズの取り巻きだったりだ。それの成れの果てが、今幅を利かせている文化人と称する輩になっている者もいる。自分の力では何も出来ないから、皆で生活すれば何とかなる、もしくは、誰かが稼げばそれにくっつくというヒモ思想がこのコミュン信望者達だ。
で、私は彼らと一線を明確に引くために「仲間になりたかったら100万円持ってこい!」と宣言していたのだ。
弟子達は、通常の仕事を辞め、給料の良いトラックの運転手や水商売に入り100万円を作った。日本のジャズ界では知る人ぞ知るベーシスト故吉沢元治さんも、お金を作って仲間に加わってきた。(吉沢さんや私の関わったミュージシャンの話は、また別の項で展開する予定です)
当時は、その吉沢さんが主催して、東京の井の頭公園の中にある区民センターのようなところで、バイオリンの小杉武久さんを始め色々な芸術家達に武道を教えに行っていたのだ。

1984-2-3 ついに動いた。「え〜い、ごちゃごちゃ言うていても何にも始まれへん、とにかく行ってしまえ」私の号令一下、道場建設は現実のものとして動き出したのだ。
このクソ寒い真冬に現地に乗り込んだ。プレハブ住宅を頼み、布団や生活の一式は維新派の稽古場で余っているものを借りたり、自分で持ってきたり、とにかく、必要最小限度の家財道具だ。
現地にはまだ雪が残り、見るからに寒そうだった。とりあえず、どれくらいの面積でどう建てるのかの計測から取りかかる。一寸待て〜、便所がないで、風呂がないで、水道がないで、食堂がないで、な〜んにもないやんけ!そんなら、とりあえず絶対にいるのは便所やろ、便所を作ろう!
穴を掘って回りに石を積み、折れた木を探してきてブルーのビニールシートをかける。これで一丁上がり!風呂は8キロ程離れたところに有る国民宿舎へ。これが大変。行きは良い良い帰りは恐い♪♪♪やないけど、行きは全部下り坂やから自転車で快適や!帰りは全部登りやで、行きは40分、帰りは1時間30分、もう止めや!帰ったろか!本気で思った。当たり前やけど自動車はないで。ほんまに勝手に陸の孤島暮らしをしていたんや。
そこに奇跡は起こった!神はいた!村の人がプレハブを覗きに来て、余りのひどさに空いている農家を無料で貸してくれることになったんや。プレハブを覗きに来た村の人の一人が膝が悪い、と言うのでその場で治してあげた事がそもそものきっかけや。治った人は「えらい人が来てくれたものや」と無茶苦茶喜んだ。どこの病院へ行っても治らなかったそうや。えらい喜んでくれて、その場で引っ越しが始まったんや。
家を見て全員ホッとした。内心帰ろうかなと皆思っていたところやから、地獄で仏とはこのこっちゃ。しかし、道具のいらない芸はどこでも役に立つで。住み慣れた?プレハブ小屋は資材置き場に変わった。
以前村の人達は、山には木はいくらでもあるし、間伐材やったらただやで、と言うてくれていた。しかし、そういう情報をくれた人はいっこうに姿を現さない。仕方がないので、色々なつてを探して岸和田の材木屋さんと顔を繋ぐことが出来た。そこの支店長さんに事情を説明すると、間伐材では駄目、骨組みを考えなければ駄目等、色々と具体的なことを教えてくれた。
本当に「何も知らない」私達だったから。また、別のルートから林野庁の偉いさんに繋がったから、そこでも事情を説明したが、余り具体的な情報を得ることはなかった。ただ、近くの龍神村の材木の方が安いし良い木がある、といったことは知った。
しかし、木を切って道場を建てると言っても「何で木を切るの?」当初は、誰かに借りたらしまいやんけ、とアホなことを思っていた。ほんまに何も知らん。山の仕事をしている人にとって、チェーンソーは右腕のようなものや、それを借りたらしまいや、と思っていたんやから。日本橋の五階百貨店へ行ってチェーンソーを取りあえず買った。「そやけど、これどうして使うんやろ?」  続く

 

「地鎮祭」1984-5-20

 

チェンソーを買って帰り、とにかく木を切ってみた。エンジンが中々かからない。ガソリンの配合を間違えたのかも?物凄いエンジン音とともにチェンソーは動いた。「よっしゃ、その丸太切ってみよ」「なんじゃこれ、切れへんやんけ」チェンソーをノコギリのように動かしたら切れへんで。それは、その数分後までわかれへんかった。たまたま通りかかった山仕事をしている人が寄ってきて「兄ちゃん、それでは切れへんで、こう使うんや」山仕事の人はいとも簡単に丸太を切断した。「なるほど、そら百年やったら切れるかもな」「ありがとう」「ところで兄ちゃんらはチェンソーを使って何をするんや?」「ここに家を建てようと思っています」「…………そうか、頑張りや」「おおきに」
家の大体の大きさは分かったが、どうも家を建てるというのはイメージが湧かない。「基礎工事は業者の人にやってもらおう、素人では水平を出されへんねんからしやないし、家が傾いたらどうしようもないで」という事で、地元の土木の人と打ち合わせが始まった。
平面で百坪ある建物の基礎。詳しく基礎図(布基礎)を書いていったら相当のコンクリートがいる事が見えてきた。そこで、業者の人に「どこの基礎を抜いても構造的に大丈夫かな?」と相談した。つまり、我々の資金との相談だ。図面通りだと二百五十万円ほどいると見積もってくれた。
現地に乗り込む前に弟子の1人が、友人の工務店に設計図を見せ、概算でどれくらいの金額でできるか聞いたらしい。その工務店では大体二億七千万円(20年前)ほどと試算してくれた。「えっ、二億!大笑いやんけ」それを聞いていたので、大体一割強の三千万円ほどで建てられるのではないか、と俺は見積もっていた。というのは、ジャズをやっている時、「自分の出したい音しか絶対に出さない」という主義でやっていたから当初は仕事が少なく、アルバイトを余儀なくされていた時期があった。
その時に、建設現場でガラ出し(工事中にでるコンクリートの欠けらや、ゴミを収集して車に乗せる、という仕事)や、洗い屋(建物が出来上がった後、検査や施主に引き渡す事前に、ガラスについたセメントやペンキなどを落し、新品にする仕事)をやっていたから、大手のゼネコンや業者が見積もっている金額と諸費用との割合をカジって知っていたからや。
話しはそれるが、洗い屋というのは中々面白い仕事やで。ビルやマンションの洗いは面白くないけど、古家屋や、お寺などの洗いは職人という感じで面白かった。古家屋の柱を洗ってきれいにするんやけど、その時に仕上がりの色決めをするんや。簓(ささら)といって、竹の細い串を直径三センチから五センチくらいにまとめたもの、と思ってくれたらいい。その簓を使って、蓚酸や化成ソーダーを付け洗うんやけど、その薬と水との量で色が決まるんや。風格を残しながら洗っていく、これは技術が要求されて無茶苦茶面白かった。
おかげで、塩酸や硝酸の使い方、弗化水素や化成ソーダー、それに酢酸など色々と覚えたで。俺は結構はまる方やから、そういった薬に詳しい薬店を見つけ、色々教えてもらっては試し、この配合では駄目、これはうまくいった、などなど薬屋のおっちゃんと研究したもんや。洗い屋は三ヶ月ほど見習いして、さっさと独立してしもた。最初からそのつもりやったから、どんな些細な事でも先輩のする事、職人のする事を盗んだで。「辞めますわ」と突然言うたら、社長は慌てよったで。人工分のピンハネ(1人頭いくらで計算して、受け取りの金額を見積もっているから)がでけへんようになるんやから。
そんな現場仕事は、おれ自身が考え違いをしている事を教えてくれた。というのは、俺はジャズミュージシャンやから、現場仕事はアルバイトや。まあ、仮の姿という意識があった。その意識は、仕事ぶりにも現れてしまう。もちろん、そんな事を自覚できるはずもないから「俺はほんまはミュージシャンや」と、何時もこころのどこかにあった。
ある時、同じ洗い屋の仲間(後々に独立したときに一緒に付いてきた仲間であり、武道をした時の内弟子になった1人)と話をしている時に、「あっ、これは俺や」と気付いたことがあったんや。話をしている時、その彼は、ウインド・サーフィンのインストラクターの資格を持っていて、本当はそっちが本職や、という事を言いよったんや。俺は、「お前はアホか、本職もへちまもあるかい、今やってるのが本職やんけ、そんな事思っているから仕事が上手いこといけへんねん」と喋ったことで、自分自身に気がついたんや。
それに気付いてから、自分のやっている事を自覚するようになったんや。当然、現場で色々な職種の職人と出会うけど、皆が俺のことを仲間やと認めてくれた見たいに、俺の回りに人が寄るようになったんや。今迄は、別に話しをせえへんかったからハッキリとは分かれへんけど、皆は、俺を違う人種やと思っていたと思う。これは、武道を考える時、無茶苦茶役に立ったんや。もちろん、今でもそれが役に立ってるで。
基礎工事の段取りが着いて着工や。「日野さん地鎮祭はどうするんや、絶対必要なものやで」「あっそうか、まあ、俺は神主見たいなもんやから俺がするわ」「………」「信用してないな、武道家は何でも出きるんや」
1984年5月20日大安、かくて怪しげな地鎮祭から基礎工事が開始された。とにかく手伝えるものは全部手伝う。しやないと、人夫さんに払うお金が沢山要る。値切れるだけ値切る、これ常識。その代わりやれる事は全部やる。やれないことまでやる、失敗してもどってことはない、やり直したらしまいや。一回失敗したらその原因が見えてくる。そやから失敗は面白い、自分を作る最高の宝やで。
レベル出しから木の伐採(5-21)、ユンボの運転やトラックで土砂運び……(5-21)。              続く

(測量で左にいるのは日本ジャズ界の重鎮ベーシストの故吉沢元治さんです。ファンならお宝写真だよ)

 

建築材料の買い付け

土建屋さんの仕事は速い。見る見る基礎が出来上がっていった。丁度梅雨時期に入っていたにも関わらず、皆一生懸命に働いてくれた。1984年6月7日基礎は完成した。工期は16日間、やっぱりプロに頼んで正解だ。しかし、問題はこっからや。何を材料にするのか?全く決まっていない。
結論としては、高さが12メートル50センチの高さを持つ建物だから、それ相応に強度のある材料でないといけない。傑作なのは、この建物の高さが何故決まったのかや。それは、当時の木造建築の建築基準法で決められた高さだったからだ。そして、道場中央部の対角の長さの10メートル。これも、一本ものの材木の最長が10メートル位やないと、強度的に無理だったからだ。そんなことを知らんかったから、スケッチでは当初対角を15メートル位にしていたんや。ほんまに、知らんという事は強いのかアホなのか紙一重やで。まあ、何時も書いてる事やけど、アホな計画、アホな行動をするから正解が分かるんやで。
岸和田の材木屋の紹介で北山杉を買いに行くことになった。そこは、電柱材のような直材(真っすぐな木)専門店だそうだ。基礎工事が完成した明くる日、6月8日京都から園部に向った。材木屋の主人は驚くほど親切に「どこに使うものか」から、その為には「どんな性質の木が良いか」など、教えてくれ材木を選り分けてくれた。
実際、こういった現地にある材木屋にいって分かった事は、「材木は安い」という事や。もちろん、原木やから安いんやけど、それも産地によって違う。そやけど、最終的にはどれだけ流通しているかや、まあ、何でも一緒や言う事やで。沢山売れてるところで買うのが安い、当たり前のことやわな。
しかし、もっと面白いのは現地と言うても、俺等が道場を建てている熊野も、山林の真っ只中で現地中の現地や。せやけど、材木は高いんやで。何でや言うたら、流通の事を詳しく知らんから適当な値段を付けてるんや。それに木を植えることは知っていても、木をどう使うかを余り知らん。という事は、「使い方」を知らんねんから、使い方に適したものを植えていない、という事なんや。
結果、その材木屋で外材(米松)も含めて10トントラック一車分の材木を買った。スケッチを見ながら、材木屋の御主人に相談した結果の見繕いやから間違ってないやろ。明日には配達してくれるとのこと。おかしな事に、その材木屋の主人は別れ際食事まで御馳走してくれた。「何でやろ?」と内心不思議に思っていたんや。現金で買ったからなのかな?というのが一番腑に落ちる考え方なんやけど。
その答えは数ヶ月後岸和田の材木屋からの電話で分かった。「日野ちゃん、この間園部に材木買いに行ったやろ、あの店倒産したで」そうか、俺等が買いに行った時にはもうすでに倒産状態やったんや、そこに現金を持って買いに行ったもんやから、主人は歓待してくれたんや。
さあ、材料は揃った(?)から、後は建てるだけや、と思ったら大間違い。この材料をどう料理するんや。誰がどう料理するんや。つまり、誰が木の刻み方や組み方を知っているんや、という事や。誰も知らん。そこで、近くに住む大工さんに指導してもらうことになったんや。指導して貰いながら覚える、これ一石二鳥やろ。

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材料が搬入された

1984年6月9日朝、雨の降る中、10メートル杉25本・12メートル松3本・8メートル杉6本を乗せ10トントラックが着いた。
大工さんが材料を降ろすためのユニックや場所を手配してくれたので、無事に材料を降ろすことが出来た。
その材料を眺めた大工さんが「日野さん、これでは足らないわ」「えーっ!そんな…」専門家の人が足らないというのだから、足らないのだろう。
必要な材料の寸法と本数を聞き出し、また調達や。あちこちに電話をかけまくったら、和歌山の友人がNTTが使ってた電柱の古材が売り出されているとのことだ。
「よっしゃあ、それで行こう」すぐに返事をしたものの、取りに行くにはトラックがいる。しかし、そんなものはない、ええい、中古のトラックを買え!その事を友人たちに話をしたら、その一人が「じゃあ、そのトラックは俺が寄付するよ」といって、お金を寄付してくれた。
ありがたいこっちゃ。分かりますか?自分が好きなことをやっているのに、全くの赤の他人が共鳴してくれた、ということでっせ。
そのお金を持って、内弟子の一人が知り合いの自動車屋から、養豚場で使ってたトラックを車検代だけで買ってきた。その4トン車に乗って和歌山へ電柱を買いに……。
しかし、予期していたことが起こった。電柱を乗せてトラックはブッ壊れてしまったのだ。エンジンがつぶれた!?ただほど高いものはない、とはこのこっちゃ。トラックを買った自動車に援軍を頼み、エンジンを徹夜で積み替えた。搬送や!搬送や!
かくて、6月14日、電柱材100本が作業現場に到着した。
その材料を見回して、大工さんがつぶやいた。
「日野さん、芯柱になる6本はもっと太い方がええんと違うか。もちろん、このままでもええんやけど」
「……、そうやねえ、同じ作るんやから太い方がええで、よっしゃ、ほんなら探しますわ」
丁度梅雨時なので、作業が出来ない。材料探しに奔走する。という結果から見たら、トラックを買うのにもっと時間をかけられたのでは、もう少し、程度の良いものを買えたのでは、と皆は思うかもしれない。
しかし、それは駄目なのだ。その時のその勢いだから、それが買えて、今現場に材料があるのであって、その一瞬を逃したら駄目なんや。
もちろん、結果論から言えば先ほどのように、逆に良いものが手に入ったかもしれない。しかし、ここで大切なのは「皆の気持ちが一つになっていること」であって、良いものを手に入れることではないのだ。
芯柱はなかなか見つからない、地元では末口(材木の細い方)が30センチで10メートルの杉なら、一本80万円はする、とのことだ。それなら、6本で480万円やんけ。そんな金どこにあるんや。
周り回って、岸和田の材木屋さんに聞いてみた。びっくりするなよ。俺は腰が抜けそうになった。何と、一本11万円であるというのだ。どういうこっちゃ??しかも、ヘリコプターで現地まで運んでくれるそうだ。
これやから人生おもしろいんや。何でそんなことが可能なのか?一つは、護摩山から切り出すついで、一つは、この材木屋の支店長が俺のロマンに興味を持ってくれたからや。
道場の芯柱は、この道場のために切り出された材木の方が良い、しかも、修験道の行場である護摩山にある木が良い、という支店長のこころ使いから実現したんや。
つまり、応援してくれた、ということなんやで。そやから、この道場は俺のロマンに対しての、色々なジャンルの人たちの好意があったから建てられたものなんや。
人は一人では何もでけへん。ほんまに、人生はええこと教えてくれる。
7月20日ヘリで材料は現場に、そして、加工作業へ突入や。

続く
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