「Feel&Connect」


「感じる」は、感じるである。どこにでもある言葉「感じる」だ。
雨を、寒さを、暖かさを、ぬくもりを、冷たさを、嫌悪感を、痛みを、喜びを、悲しみを、切なさを、といった、ごく普通に日常で誰もが感じている「感じる」だ。
そして、他人のそれを感じる「感じる」だ。
それらは身体を通して、こころを通して感じている。
目から耳から、口から、肌の触感から、声の響きから、その場の空気から、視線から、感じている「感じる」である。
そして「つなげる」。
身体が感じたことをことばに繋げる、という“つなげる”である。こころが感じたものをことばに、あるいは行動に結びつける“つなげる”である。
頭に、あるいはこころに浮かんだイメージを行動に結びつける“つなげる”である。
身体に感じる刺激をたどり身体内に線としてつなげる、寒さを暖かさを行動につなげる、嫌悪感を喜びを悲しみを切なさを、行動に結びつけるつなげるだ。
対する人のこころとこちらの行動をつなげる、対する人の瞬きほどの動きとこちらの動きをつなげる、対する人の呼吸とこちらの行動をつなげる。

したがって、つなげるは、“感じる”という目に見えないものを具体化する為のキーワードでもある。その場合の、つなげると感じるは、表裏一体のものである。
つなげるという作業は日常レベルにおいては感じるのように、身体に備わったものだが、武道という日常とはかけ離れた働きを要求されるものでは、自分の感受性を高め作り出さなければならない能力の一つだ。


武道の動きにはダンスや、巷に色々あるパフォーマンスのような自由性はない。むしろ約束でがんじがらめだといっていいだろう。
自分だけの考え、思いつき、イメージで動く事は出来ない。ましてや、感情にまかせて動く事は駄目だ。
しかし、クラシックバレエのように、明確な振り付けがあるのではないし、あたり前の事だが決められた型を行うのでもない。
その場に応じて、戦う相手に応じて動きを瞬時に造り出さなければならない。
そして、それらの一挙手一投足は、全て相手に対して働きかけ尚且つ力を発揮しなければならない。
決まった動きしか出来ないということは、即、自分自身の死を意味するからである。
相手に対しての無駄な動きが一つでもあると、そして、動きに力がなければ同じように自分の死を意味する。
なぜなら、武道の動きの全ては敵という「相手」との関係の中にあるもの、つまり、相対関係で変化に即応出来る実力差が全ての鍵だからだ。

例えば、足を一歩踏み出すにしても、不用意に、あるいは自分勝手であってはいけない。
その何気ない一歩を相手に見破られたら気付かれたら、その瞬間に相手の刃がとんでくるという「関係の中」なのである。
したがって、武道の眼目の第一は「相手の実力を知る」になる。しかも、相対した瞬間にだ。
それが出来なかった場合は、こちらの一寸した意識的な身体の動きを作り、相手はどんな反応をするのかを知り、そのことで相手の実力を見極めなければならない。
つまり、常に異なる相手と、自分自身の実力差を比較する目を持っていること、自分自身が相手に対してどう表現したか、そして、それに対しての相手の反応、それらを捉える客観的な目を持っていなければならないのが「武道」である。
簡単にいえば、自分勝手な「自分」、自分本意の世界しかもたない「自分」では駄目ということである。

武道の動きは、このようにがんじがらめの制約を背負って初めて存在する。
しかし、このがんじがらめの制約が、身体の無限の自由性を発揮するのだ。
では、具体的な武道の動きはどうなっているのか。
武道の全ての動きの主導権は「相手」にある、が答えだ。
相手に合わせるといえば、余りにも簡単な作業に聞こえるだろうし、また、どこかで聞いたような使い古されたことばにも聞こえるだろう。
相手に合わせていると自分が思うことではなく、相手が合わせられていると思うことだ。
しかし、相手がどんな攻撃をしてくるのか分からない、相手が一人で攻撃してくるとは限らない、相手がどんな武器を持っているのか分からない、という前提の中での相手に合わせて動くのが武道の動きである。
であれば、実際問題として、対する相手の予期せぬ動きを、全て相手に任せる、合わせるのは至難の業だと理解できるだろう。
という中での相手に合わせるである。ことばを変えれば、相手と関係を持つ、相手と関係した中で動きが造り出される、である。
相手と関係した動き、つまり、相手と有機的なつながりがある動きが武道の動きである。風で旗がなびくように、風で木の葉が揺れるように、風で柳がしなるように、風の強さに応じて動くそれである。
川で流されている木の葉のそれだ。波に揺れるヨットのそれだ。
だから、相手と自分を結ぶキーワード、相手との有機的な「つながり」を持つ為のキーワードは「感じる」なのだ。
相手の攻撃の気配、具体的攻撃としての身体運動他を全身体全能力で感じ、そのことを自分の身体に繋げた時、身体の動きは無限に造り出される。
相手に応じて作り出されるのだ。究極のコンタクト・インプロビゼーションである。



人の動きは、骨格の可動範囲と筋肉の大小で限定されている。つまり、いくらトレーニングを積んでも、肘は外に曲がらない如くだ。
だから人は、その範囲内でストレッチをし、筋肉トレーニングをする。むろんそれを間違っているというのではない。自分の限界を知るからこそのトレーニングだからだ。
しかし、この自分の限界を脱するためトレーニングは間違っている。問題は、身体の使い方を間違っているから、その限界が見えているのである。
いくらストレッチや様々なトレーニングで可動範囲が増えたところで、身体の使い方は何一つ変わっていないことを知る必要がある。
では身体の使い方の限界は、つまり、身体の使い方の限界はどこからくるのか。それは自分自身の身体に対するイメージ、動きに対するイメージ、認識、固定観念などが限界を作っているのだ。
つまり、自分の頭が作り出したイメージなり考え方以上に身体は動かない、ということだ。したがって、頭が限界を作っているといってもよい。
もう一つある。
そのイメージや固定観念はどこから来るのか。
それは、自分自身が生まれてから現在までの生活習慣や、価値観、といったものの集大成であるクセだ。

また身体そのものは、神経伝達が筋肉に及び、その筋肉の収縮運動の複雑な組み合わせ動く。
そしてその複雑な収縮運動は全身に及ぶ。
つまり、身体は常に全身的に連動し、連関し動いている。しかし、それは自覚しているものではない。認識の及ばないところでの身体の働きである。
大きなのびをした時、ふくらはぎがつったり、足の指がつったりするだろう。思いもかけない重さの物を手にした時、ぎっくり腰になることもある。
足の小指をどこかにぶつけた時、全身に痛みが走るだろう。そのように、身体は繋がっているのだ。
憂鬱な時、動きが鈍くなり、喜びがある時快活な動きになる。緊張すれば脇の下に汗をかき、動きはぎこちなくなり、尚かつ気持ちが上の空になってしまう。
お腹が一杯になれば眠くなる。空腹であれば、イライラする人もいる。
というように、動きだけの連動だけではなく、身体は感情からも生理的変化からも影響され、つまり、身体はそういった全てが絡み合い、繋がり連動されているものなのである。
それが身体である。そこには全人類、何一つ例外はない。

ショッピングをする、カフェテラスで紅茶を飲む、風呂に入る、恋人と楽しく語る、食事をする、書店で本を探す、ラッシュアワーでもみくちゃになる、仕事でミスをする、友達と喧嘩をする、好きな音楽を聴いてなごむ、ボーッと歩いていて車にはねられそうになる、ハッキリ話せない、部屋で一人でいるetc。
このなにげない日常を過ごす自分と身体は同じものなのだ。
つまり、武道であろうがダンスであろうが、「自分」という身体からみれば何一つ特別なことではない。
全て、まぎれもなくこの身体の働きである。
そして、この身体は人類誕生以来さほどの変化も進化も行われていない筈なのだ。
であれば、自分の身体に無限の可能性を与えるも、限界を作るのも自分の「頭」だということになるのではないか。
では、トレーニングとは何をトレーニングしなければならないのか。
そこを考えなければ成長したり、進化することはない。
トレーニングの為のトレーニングにしかならないのだ。
それでは、単にトレーニングの達人を目指しているということにしかならない。

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