「身体トレーニング」を、本当に自分の為の身体トレーニングにするために

身体は完全だ!-1
上海雑技団

 

身体は完全だ、というのが私の持論だ。病気になっても、怪我をしても免疫系を始めとした、完璧な防御システムで回復させる。
臓器も、骨だって再生する。自動的に生命維持装置が働き、「私」を支えてくれている。記憶し、その記憶装置が壊れないように忘れるという働きもある。
無作為に散らばった記憶の断片を整理統御もする。
とにかく、人生を私を支えてくれている「身体は完全」なのだ。
もちろん、身体を動かす、ということにおいても、手足をバタバタさせているだけの状態から、ハイハイをし立ち上がり、そして歩く。
ものを掴み口に入れる。目的のものを手に入れる。目的に向かって走る。
という具合に身体の側から身体を見ていけば、言葉を変えなければならないことに気付く。
くだらないことで頭が一杯のときでさえ、身体は正常を保とうと、生命を維持しようと休みなく働き続ける。
つまり、身体のどの場面を切り取っても、「私」もしくは私であるはずの思考や意識が直接関係をしていないことだ。
身体は、意識の一瞬をキャッチし、あるいは欲求の起こった一瞬をキャッチし、自動的にそれらを遂行してくれているのである。

ここに一枚の写真がある。生後一年と6ヶ月の幼児だ。
彼の家には馬がいた。彼の兄は4才。4才の兄が馬に乗る姿を見て、馬に乗りたいと思った。
両親はその欲求を読み取り、馬の背に乗せてみた。馬は歩いた。両親は馬に乗るその彼の姿を見て「絶対に落ちない」と感じた。
案の定彼は、馬の背で手綱にしがみつきながらも笑っていた。1才6ヶ月の幼児がだ。
それが乗馬初体験の時の話だ。
2回目になると、彼はどうどうと馬にまたがり、散歩を楽しんだ。それがこの写真だ。
胸骨が引きあがり、股関節が緩み、背の力みがなく、正に馬と一体になっている。
誰がコントロールしたのか。
まさか1才6ヶ月の幼児が、胸骨を引き上げようと意識したわけではない。骨盤を返そうとしたはずはない。股関節を緩めようとしたのではない。
そんな言葉を彼は知らない。
馬に落とされないように、意識的にバランスしているはずはない。
もしも彼が馬に落とされないように、と思うのなら、彼は決して馬に乗ろうという欲求が起こっているはずもないのだ。
ということが身体にとって、そして「人」にとって、そしてそして「私」にとっての根本的基本的メカニズムなのだ。

そして、もう一つ非常に大切なことをこの写真は物語っている。
写真を見ていると、馬の体温が彼に伝わっているのを感じ取ることが出来るし、馬が彼の体温に安心しているのを感じ取ることができる。
もちろん、それを馬と彼が意識的に意図的に行っているというのではない。
知らず知らずのうちに、つまり、無意識的にそれを行っているのだ。
身体が自動運動として…、何を?体温をか?…。
生命そのものを、である。
つまり、生命が「CONNECT」されているのだ。
そこを無意識的に感じ取った親は「安心」を得、「落ちない」と感じたのだ。

なぜ、そんなことが行えているのか。
そこには、「そうしよう」という意識が介在していないからである。
ここに身体の矛盾というべきものが潜んでいることを知ることが出来る。
というよりも、それを学ぶ側から言えば、意識と身体との関係、意識というものがもたらす身体への影響、それも悪影響があるということを知ることが出来るのだ。
「私」の身体の内にある脳、そして、その身体と脳の共同作業であるはずの意識。
「私」であるはずの意識が、その使い方如何では身体の働きに対してのブレーキになることがあるのだ。
つまり、意識が「私」の目的や、夢を壊す可能性がある、ということだ。
そして、その自分の夢を壊すような意識の使い方を私達は行っているのだ。
しかも、ほとんどの人がである。

昨年に引き続き、今年もドイツのフォーサイスカンパニーに招聘され、ワークショップを開いてきた。
「身体として」の身体の使い方を指導してきた。
その過程で、ダンサー同士が言葉もなく、向かい合い手を取り合った。
目からは涙がこぼれていた。
ダンサーは言う。
「生まれて初めて、人とCONNECTしているのを感じた。しかもお互いに」
私のレッスンは「そうしよう」を取り払うレッスンばかりだ。
もちろん、それが日野理論だからだ。
ダンサー達は、ダンスを超え、身体を超え、自我を超え、意識を超え、生命を感じたのだ。
それこそが「生きている」証そのものである。

何故、2才に満たない幼児が馬に乗り遊べるのか、どうして、乗馬として完璧な姿勢を作り出せているのか、ここに「身体トレーニング」の全ての鍵がある。
一言で言えば、身体トレーニングは、文字通り身体をトレーニングするのではなく、トレーニングを通して現在の自分の意識の使い方を知り、作り変えるという作業を同時に行わなければ駄目だということだ。
もちろん、2才の幼児に戻れということではない。
しかし、ある意味では2才の幼児に戻れということだ。
であるから、そのトレーニングはシンプルでなければならない。
そして、部分であってはいけない。
例えば、呼吸法、例えば、稼動領域だけを広げるもの、例えば、各部の筋肉だけを太くするものetc.
運動そのものが複雑であれば、その複雑な運動をこなすための注意だけが身体を支配し、肝心の「自分はこの運動をどう意識しているのか」という、本来の目的に繋がらないからだ。
本来の目的。
それは、あらゆる意味を含めて、自分の成長以外にはない。
どんなジャンルにあっても、自分の成長こそがそのジャンルでの活躍を約束するのであって、身体を機械的に扱い、その機械を使いこなすことが、つまり、身体が縦横無尽に動くことが成長なのでもなく、ジャンルでの活躍を保証するものでもない。

フォーサイスカンパニーで、テーマとなる動きを見せる。
ダンサー達は取り組む。
但し、ダンサーの頭で。
だから出来ない。
また見本を見せる。そして一緒に動く。彼らは口を揃えて言う「simple」と。
もちろん、これは彼らが私から感じ取ったものだ。
彼らの身体は動かないのではない。
言っても、世界のトップダンサー達だ。
人並み以上に動く。
しかし、出来ない。
それは「身体を使っているのではなく、自分のイメージを追いかけているだけ」だからだ。
むろん、それが間違っているのではない。
ダンサーとして間違っているのではない。
身体として間違っているだけだ。
それを直感的に感じ取った、ウイリアムフォーサイス。
今、彼らに求められているのは、この「身体として」なのだ。


もう一枚の微笑ましい写真。
これは先ほどの幼児と犬が遊んでいる写真だ。
この犬は、幼児がもっと幼児の時からの遊び友達だ。
大事なことは、決してこの犬は幼児に怪我をさせない、噛まないことだ。
躾か?
もちろん、それもある。
しかし、もっと本質的には、幼児に「生命」を感じるからである。
先の馬といい、この犬といい、どうして動物にはこういった「気遣い」が出来るのに、人には出来ないのだ。
社会に育てられた人、いや、社会に溢れる情報に振り回されて育つと、この「気遣い」という生命の表れが退化するとしか思えない。
それは戦後60数年の結果が現在だからだ。
社会に振り回されようと意識する人達。
どうか、自分で育っている人、自分で育つ人になって欲しいものだ。

 


上海雑技団から」

雑誌を開いて驚いた!なんと頭の上でポワントをしているではないか。
中国雑技団の一つ広東雑技団の「東方の白鳥」という演目の中のシーンだ。まだある、腕だけで踊り続ける1分半…。
絶句!というよりも、身体の持つ可能性に驚くしかない。同時に、さすが雑技団、だと唸った。
テレビでもじゃんじゃんコマーシャルが流れている。
芸術?そうではなくて曲芸だろう!ダンスでも芸術でもなく、一流の曲芸が広東雑技団だ。

こと、身体のバランス感覚や柔軟性でいえば、この雑技団に敵うジャンルはいないだろう。
昔、初めて中国の雑技団を見たとき、きっと中国の体操選手はこの雑技団の落ちこぼれか、入団できなかった人たちなのではないか、と本気で思った。
とにかく凄い!それは、雑技団は、身体を使った柔軟性や運動、そしてバランスそのものが目的であり、「常人以上のそれらを見せること」が目的だ。
でなければ成り立たないからだ。
なぜなら、雑技団は曲芸だからでそのことが、直接収入と結びついているからだ。

というところから考えると、日本のコンテンポラリーダンス。そのダンサー達の身体の動かなさは理解できる。
「常人以上のそれら」に匹敵するものが希薄であり、舞台が収入と直結していないからだ。
「常人以上の」が希薄ということは、「何を見せるのか」が希薄だということで、当然「何を稽古しなければならないか」が希薄だ。
となると、身体が動かなくて当然だ。
それを補おうと色々なワークショップに顔を出す。
そのうちの一つに私の教室もあるのだが。
しかし、いくらレッスンに通ってもそれは無駄だ。
なぜなら、自分の中に「常人以上の・何を見せるのか・何を見せたいのか」が希薄だから、簡単に言えば、「何をしたいのか」が明確ではないから、そのレッスンから自分自身の方向性を作ることが出来ないからだ。
であれば、レッスンの為のレッスンでしかない。
それは、昨夏のワークショップで散々話をした。
「君達は、ワークショップの達人を目指しているのか」と。

しかし、しかしだ。
根本的にそもそも「コンテンポラリー・ダンス」とは何なのか?こればかりは何時も頭をひねらされる。
クラシックバレエではない、モダンバレエ・ダンスではないとしか言いようがない、というよりも、それらを経て作り出されたもの。
あるいは、それらに対するもの。
また、あるところには日本発の舞踏の影響も受け、なる解説もある。
となると、ますます混乱する。
もちろん、小難しい理論や哲学的言語が並ぶ解説もある。
それらは、似非文化人が好む論調だ。

これは、私が属したフリー・ジャズの世界も同じだった。
音は、音でしかない。
それをどう受け取ろうが自由だ。
が、しかし、音を受け取らずに、自分の狭い世界観だけを音に押し付けることしか出来ないのが、似非文化人だ。
ある意味、この「コンテンポラリーダンス」というものを、一般の手から離していっているのは、小難しい言葉を迷走させ、観客やダンサーの卵を「???」だらけにさせる、頭だけの世界で生きる評論家や似非文化人の類だろう。
どれだけ大層な言葉や理論を並べたところで、所詮身体を動かすことで、あるいはそこに舞台装置を加味することで表現されたもの、そのものに価値があるのかないのかだけだ。
「理論は分かった、でも君はおそろしく絵が下手じゃないか」私の友人が、ある画家との会話の中での一言だ。

武禅へ  武道塾へ  身体塾へ