新刊案内
オフサイドブック社から9月に「古武道入門」が出版されました。
肉体トレーニングが全盛の時、肉体トレーニングの限界を創り出す自分自身の「頭」や「感性」。
それらを鍛えることの方が近道だよ。ということを書いた本です。

目次
 
古武道・古武術は神秘なのか?
古武道・古武術なんてどこにもない
第一章「技」はいかにして生まれるか
  まず、古武道に残ることばから
  自然体を支えるのは不動心
  巌の身は、水に浮かぶ木の葉の如し
  巌の身と三十三間堂
  「居着くは死」を教える三十三間堂
古武道的身体とはなにか?
  武道の特異性が身体運動の次元を変えた
達人の「技」とはどんなものか
  相手にふれずに投げる
  視点を変えれば「世界」が見える
「空気投げ」は本当に存在するのか
  「空気投げ」という不思議
  秘技「たまぐるま」


第二章   古武術・古武道による日本的身体の覚醒
 日本的身体としての武技
  文武両道という感性
  伊藤一刀斎没後500年、いまなお最先端の達人
  「感性」の冬眠からの目覚めはあるのか?
 達人塩田剛三の不思議
  身体の微妙なバランスの崩れを察知できる「手」
  体重移動は三方向に
 古武道の「実際」が眠り続ける感性を喚び起こす
  「感覚細胞の破壊」を補うのは、やはり身体でしかない
  目に見えないことに取り組むことが「感性」を蘇らせる
  三船十段の「空気投げ」とギックリ腰
終章 基本は「日常」にこそ有る
  日常生活で「古武道」の修行をする
  人以外のもので「相手」を感じてみよう
  言葉は気持ちの表れ
  「声」は身体を変化させる
  達人の智慧から生まれた「武禅」という行
  達人に学べ「重いものを軽く持つ」



       本文から
  「古武術・古武道は神秘なのか」

日本の「古武道(この本では古武道・古武術は同意語として扱っている)」が静かなブームになっている。
それは、巨人の桑田投手が古武術を学んで成績が向上した、とか、陸上の末次選手がナンバ走りだとか、という具合にスポーツの選手達とリンクしたおかげだ。いずれにしても、日本の伝統的な文化が注目を集めているのは良いことである。
その日本の伝統的な文化が、世界で活躍するスポーツ選手の自信に繋がるのであれば本当に素晴らしいことだ。
となると、その日本的な古武術には神秘的な、もしくは、現代では解析不能な何か特別な技術なり考え方なりがあるのか?と、多くの人が興味を持っても当然である。
また、スポーツ界では直接役に立つ運動論でもあるのか、と関心が出て当然だ。
そこで、その神秘や特別な何かの謎解きをしようというのがこの本だ。 古武道・古武術なんてどこにもない?私は、日本の武道史に残る数少ない達人の境地を実現してやろう、という動機で誰でも知っている宮本武蔵や伊藤一刀斎、柳生石舟斎といった達人たちを実際を通して研究している。
しかしそれが「古武道」だとか「古武術」だという認識はない。なぜなら、達人をそういった括りでは捉えられないからだ。
つまり、達人というのは伊藤一刀斎個人の能力、宮本武蔵個人の能力であって、古武道だから達人だった、古武術だから名人だったのではない。
それは、子供でも分かるように空手だから強い、剣道だから強い、柔道だから達人だ、ではない。その空手の中の○○さんが強い、剣道の○○さんが強い、柔道の○○さんは達人だ、という具合にあくまでも個人の能力である。
であるから、古武道的な動きってどういうのですか?古武術って強いのですか?と聞かれた時に困ってしまう。つまり、この質問は、野球の動きってどういうのですか?バスケットボールの動きって?空手の動きって?と問われているのと同じだ。
もしも、あなたが水泳の平泳ぎでインターハイでもいいし、全日本選手権でも、とにかく日本レベルの競技に出場した人であれば、水泳の動きはどんなものですか?もしくは、水泳は早いのですか?と聞かれたどう答えるだろう。
答え以前に「バカかこいつは」と内心思うのではないだろうか?
そういった混乱が、巷の「古武道で……」「古武術で……」である。
では、古武道や古武術という括りの中には現代スポーツや人生で役立つものは何もないのか、達人という個人的能力以外は役に立たないのか、と言えばそうではない。古武道という括りで役に立つものはあるし、達人だからこそ役に立つことが沢山ある。
それこそ、発想の転換もあるし、発想そのものの違いも、身体のこと、身体運動のこと他、とにかく私達に役に立てられる事は沢山あるのだ。なぜなら、その古武道にしろ達人にしろ、私達と同じ日本人の文化であり、その中の達人が到達した境地だからだ。
現代的に言えば、遺伝子が繋がっているから役に立てる事が比較的容易だということである。

  古武道とは?

では、その役に立つ古武道とは一体何だ?
そのまえに、古武道の「古」を取り除き、武道とはそもそも何なのか、の定義が必要だ。
基本的に武道は、自分の生命を呈して守らなければならないものを守る、その為に強くなければいけない、という必然を伴ったものである。だからこその技術であり、それを研鑽した突き当たりに、この本でいう達人伊藤一刀斎等がいるのだ。
そして、その戦いにおいては三つの基本的原則がある。1-敵は一人か複数かは決まっていない、2-敵は何時攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つだ。
この原則から工夫を重ね編み出された戦う術、それを任意に取り出し、名前を付けたものが「技」だ。その取り出し方の違いが流派の違いであり、それぞれの宗家の世界観・身体観の違いである。
またその技には流派を問わず、二つの重要な要素が含まれている。その一つは、相互に離れた場所から相手の攻撃の為の意志の変化、意識の変化に気づき行動を起こせる、という要素。その一つは、相互に武器あるいは身体が接着した状態での、相手の攻撃の為の意志の変化や意識の変化に対する気づきと行動である。
目的は二つとも同じなのだが、相互が接着していない、と相互は接着している、という違いであり、共に相手の攻撃の為の意識の変化・意志の起こりを察知する為のものである。
もちろん、この二つの要素は、三つの基本原則をクリアする為のものだ。
これらの三つの原則二つの要素から編み出されたものが、現代において役に立つのだ。逆にいえば、この原則や要素から編み出されていないものは役に立たない、ということになる。
もう少し違う角度からいえば、これらの原則や要素が含まれていないのが、現代の格闘競技、スポーツ競技である。
例えば、K-1のリング上で、突然刃物は出さない、剣道の試合で相手のチームの選手が乱入し、身体に直接危害を加えることはしない、空手の試合で金的だけを狙ったり、目を潰すことはしないし、誰も二人の試合に乱入しない。
たとえ試合で負けても、仇討ちということで闇討ちや食べ物に毒を混入させたりしない。
というルールの上で成り立っているのがスポーツ競技で、これらのルールがない上に、生命そのものを賭けているのが武道だという違いである。
つまり、武道の三原則がないのがスポーツ競技だ。しかし、誤解しないように、ここで言っているのは違いであって、どちらが良いか悪いかを決めているのではない、ということを。

  戦いの三原則から達人が生まれた

これらの原則や要素が生まれた時代、それはいわずと知れた戦国時代だ。その戦国時代にあった武技・武芸・武術を「古武道」と呼ぶのである。
しかし、これらの原則や要素を満たしたのは、宮本武蔵や伊藤一刀斎という武道史の中のごく僅かな達人以外にはいなかったのだ。
1- 敵は一人か複数かは決まってない、2-敵はどう攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という三つは残念ながら、単純な運動論、身体操作ではクリアすることは出来ない。
つまり、体力にものをいわせ、体格にものをいわせ、生まれ持った身体能力だけではクリアできなかった、ということだ。
敵は目の前にいる人間だけだと思っていたら、後ろからも横からも来た。まだ相手は攻めてこない、と思っていたら、後ろからいきなり攻めてきた。敵が武器として持っているのは刀だけだと思っていたら、懐から手裏剣を出して投げてきた。
後ろからは、弓で狙っていた。横から槍で突っ込んできた。
という状況が、三つの原則であり、これをクリアするのが「技」である。ただし達人の、という但し書きが付く。普通に考えてみて、映画や芝居ではないのだから、この状況は単純に運動能力が高いということでクリアできるほど甘くはない事は想像できるだろう。
むろん、敵味方共に生命が賭かっているから、現代の剣道競技のように、ポイントにならない箇所や打突が浅い時「まだまだ」と声が掛かり終わるものではない。ポイントにならない箇所であっても、打突が浅かろうが手が無くなっていたり足を落としたり、肩の骨が斬られていたりするのだ。
と考えると、武士であれば誰でも、また、剣の免許皆伝であれば誰でもこれをクリアしたとは考えられないだろう。また、単純運動論や身体操作でクリアできないことも想像できるだろう。
だから、要素として、相互が接着している、相互は接着していない、に関わらず相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力が必要なのだ。つまり、敵の攻撃の意志の起こりを攻撃という具体的動作が起こる前に察知し、それに対応する能力が必要だったということである。
では、これら武道の原則や要素は現代の何に役に立つのか?
武道とは、武道の三原則の通り、一人あるいは複数の敵を相手に戦い勝ちを収める為に切磋琢磨し、工夫し、という過程を指す。一人あるいは複数の敵、つまり、人との駆け引きでありその駆け引きの究極の形である。

相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知する為の能力は、相手に対する気遣い・気配りであり、それらは人間関係を円滑に行う為の、また、仕事を円滑に行う為の目に見えない一番大切な能力である。
というところから言えば、人間関係術として現代で大いに役に立つのだ。もちろん、人間関係のみならずここに上げた要素は、現代のスポーツでも役立たせる事は出来る。
また、ものの考え方としても役に立たせることが出来る、と断言しよう。

  武道的身体とは

武道というものは分かった。ではその武道家の身体、武道家としての身体は、現代のスポーツ選手とどう違うのか。また、武道家は一般では見かけることの出来ない特殊な動きを要求されているのか。という疑問を持つだろう。
決定的に違うのは、武道では一瞬のミスが自分自身の生命を落とす、という条件が常にあることだ。街を歩く、茶店で座る、座敷で座る、風呂に入る、食事をする等、日常全ての動き・行動が直接自分の生命と関わっている、という自覚を持っているのが武道家である。
という日常から武芸の稽古を積んでいくのだから、当然スポーツ選手の動きと違うだろう事は想像できるだろう。
でも。武道家の身体は、といえば別段普通の人と同じだろう。しかし、武道的身体と言えば、これはまるで違うといえる。
それは、ごく一般的に武芸十八般と呼ぶくらい様々な武器術を体得していたからだ。それを想像しやすく敢えて現代のスポーツに当てはめるとすれば、十種競技の選手の身体能力だろう。
陸上競技の単独種目しかやっていない選手と、十種競技の選手を比較すれば様々な違いがあるのと同じである。
武芸十八般。剣術・居合い術・短刀術・槍術・薙刀術・手裏剣術・鎖がま術・杖術・棒術・弓術・馬術・柔術・砲術・十手術・捕縛術・三つ道具・忍術・水泳術だ。これには諸説あるが、大方はこういったものである。
これらの武術を体得した身体は、これら十八の種類を媒介として精密な動きが形成されていくし、力をふんだんに出せる身体になった。何よりも身体感性が向上したはずだ。
それは、数学・国語・理科・音楽・英語他を獲得することで、頭を柔らかく使えるようになった、それらを総合して一つのことを考える力が深くなっていった、という結果と同じ様なことだと考えて良い。
決して、「人」は一つのことで一つの能力を伸ばす、という単純機械的能力しか持ち合わせていないのではないし、一つのことで一つの能力が開花するのでもないのだ。
この辺りのことを、経験的に知っていたのが当時の武道家の一部におり、その一部の人が達人だったのである。
もちろん、こういった武芸十八般を体得していなければ、敵と対応できないという必然があったからなのだが(もちろん、敵を知り己を知れば百戦危うからず、の意味も含まれている)。

  武道的身体の特徴は「身体感性」にある

武芸十八般の体得が「身体感性」を向上させた。それは、自分自身の身体と剣、そして相手との関係の事である。自分と短刀と相手の関係、槍、薙刀、手裏剣…、との関係が明確になった。つまり、これらを「武道的に使える」身体になったというのだ。
えっ!使える???身体??
「使える」は「使っている」ではない、例えば日常において洗顔する時、手を小刻みに動かそうとか、まず上下に動かし顔の表面に余り圧力が掛からないように、等と考えながら、もしくは、意識しながら洗顔していないだろう。
それが「手を使っている」ということだ。その、手を使っているという中でも、丁寧な手と粗雑な手がある。その丁寧な手で、目的が何よりも早く達成されなければいけない。その手を「使えている」というのだ。この洗顔で言えばいわば、エステのプロの手だ。
また、宮大工の頭領がノコギリを、ノミを、カンナを扱うような手を「使える手」というのだ。
つまり、アマチュアの手とプロの手の違い、超一流の職人の手と猿手と呼ばれる、手の能力を出し切ったことがない、鍛えられていない現代人の手との違いである。
道具が身体の一部のように見える、という比喩があるように、「使えている身体、道具」は身体と一体化している。そこには、道具と身体との長年の葛藤があり、その葛藤で培われ身体に具わったのが「身体感性」だ。
したがって、武芸十八般の体得で運動能力が向上した、という単純な視点ではないということである。
武道の原則である、1-敵は一人か複数かは決まっていない、2-敵は何時攻めてくるか決まっていない、3-敵の武器は一つとは限らない、という中で、武芸十八般があり、だからこそその難関を乗り越えて行くには単純な運動能力ではない、と達人は悟ったのだ。
それが次の二つの要素、相互に離れた場所から相手の意志の変化、意識の変化に気づき行動を起こせる、相互に接着した状態で相手の意志の変化、意識の変化に気づき行動を起こせる、である。
つまり、人が生理的に起こす身体反応や反射を利用出来る、も「身体感性」なのだ。

  武道的身体は自然身体運動(連動する身体)を獲得した

武芸十八般の効用は、身体運動からスキを排除していった事だ。無駄な動きを無くしていったのだ。
目的に対して、一番合理的な動きを取れる身体が形成されていったのである。
では、その一番合理的な動き、という「身体運動」とはどういうものなのか?
これも古武道ならではのもの、達人ならではのものである。
一口で言えば、身体運動を身体として使っていた、ということであり、それは身体として自然な連動系で行われる運動のことだ。そして、その運動は相手に応じて、敵に応じて動く身体運動である。
それは動物の動きを見れば分かる、俗にいう「しなやかな動き・滑らかな動き」の事だ。猫の動き、犬の動き、ライオンの、虎の、キリンの、猿の如く、餌をとる木に登る他、何か対象に対しての一切の無駄のない滑らかな動きのことである。
では、人は動物のように連動した動きはしていないのか?といえば、そうではない。個体差、つまり、それぞれの人のすでにある身体の歪みや動きの癖の違いはあっても、そのそれぞれの人の身体なりに連動した動きは誰でもしているのだ。
但し、自分自身が運動を意識しなかった場合のみである。
「こいつを投げ飛ばしてやろう」という意識が働いた時、また感情が働いた時、筋肉は緊張し連動どころの騒ぎではなくなる。それでもし相手を投げ飛ばせないとしたら、もっと力んでいくという結果になる。
先ほどの職人の手、使える手ではなく、ぎこちなく無理矢理の手になっていく。
つまり、体力体格勝負になっていく、ということだ。身体感性の芽はどこかへ吹っ飛んで
しまうのだ。
では武道では「こいつを投げ飛ばしてやろう」とは思わないのか?
そこだ。そこが大事なところだ。
「こいつを投げ飛ばしてやろう」と思わないのに投げることなど出来るのか?

ここで武道の玄関の扉が開く。