ここに掲載したのは、雑誌「秘伝」1999年12月号と続いて2000年1月号です。

「伊藤式体操」という運動概念
                        日野武道研究所
                           主宰 日野 晃

 昨年、朝日放送ラジオでコーナーを担当していた時、その番組を制作したプロデューサーの川崎さんに「日野さん、伊藤式体操を作った伊藤昇さんを知ってまっか?」とたずねられた。「いやあ、残念ながら知りませんわ、その伊藤さんが何か」「この間、朝の番組に出て頂いたのですよ、そこで、日野さんの話になってえらい盛り上がったんですよ……。」伊藤先生と川崎氏は、少林寺拳法を通じての知り合いであった。 
 「伊藤さんが、『大阪に注目する武道家がいるんだ』、とおっしゃるので、誰ですか?と聞いたら、なんと日野先生ということだったんで、よう知ってます、という事で盛り上がったんですよ」
 といった流れで、今年の三月、朝日放送主催で伊藤氏とのジョイントの講演会が大阪で開かれ、その時に初めて伊藤先生とお会いしたのだ(講演会の模様は秘伝ジャーナルで紹介)。

● 伊藤式体操と日野理論の相似点

 伊藤先生は、私が七年ほど前、雑誌『格闘技通信』で現在の日野理論を展開し始めた頃、たまたま私の理論を目にし興味を持っていて下さったそうだ。伊藤氏の最新刊『スーパーボディを読む』を川崎さんから頂き、早速読んでみて驚いた。それは、観点や表現方法の違いこそあれ、私が発見していった運動理論とかなりの部分でリンク(ねじれや胸の使い方など)していた事と、「人の動きを見る視点が非常に似ていた」事だ。
 こういったことは、よく考えれば驚くことではない。十数年前フェルデンクライスの身体訓練法を始めて目にしたとき、背中の使い方や腹筋と背筋の使い方で、手や足が動く、という「人の動きの原理」に対する考え方に共通点を見付けた時にも、同じような驚きがあった(このフェルデンクライスの具体的身体運動については、いずれ意見を述べようと思う)。
 つまり、人体の仕組みそのものは、細胞の数や骨・筋肉の数など、大小の違いこそあれ「人類普遍」のものだ。とすると、人体をそういった原点から捉えて運動を考えていけば、共通していたり似ていて当たり前だということが分かる。
 逆に考えれば、人体を深く捉えたところで共通項が無いということは、その理論は間違っているかレベルが浅い(理論を考えるレベルが浅い)、と言えるのだ。
 理論の間違いやレベルの問題は、本人の持つ特殊性、つまり「個人のクセ」を普遍だと勘違いするところから始まるもの、又、個人のクセを一般化しようとする馬鹿さ加減からくる間違いだ。
 しかし、こと「身体運動」ということに関しては、先程の人体としての共通項が存在しているかぎり、ジャンル固有の運動現象は限りなく存在するが、基本的には特殊な運動理論は存在しないということなのだ。
 そういった点から、伊藤氏の本を読んで、改めて私の運動に対する考え方は間違っていなかった、と確信させて頂いた。
 しかし、大きな問題点がある。それは、いくら理論が正しくても、具体的運動に引き下ろした時、その理論を実現させるものかどうか?という、非常に実際的な問題もあるのだ。こういった身体論などは、どちらかと言えば理論よりも実際にその運動をすることで、 目指す身体が形成できるのかどうか、の方がウエイトを持つといっても良い。
 そういった意味で、伊藤式体操の実際はどういった動きになるのか、非常に興味が湧いてきたのだ(写真を見ることで分かることは有るが、「運動」ということで言えば、静止した点が問題なのではなく、その運動そのものが問題なので実際に体験しアドバイスを受けてみなければ重要なニュアンスは分からない)。

● 伊藤式体操の目に見える効果

 「脇腹を伸ばす、骨盤を動かす」、といった具体的な伊藤式体操を基にして、私の動きを探ってみた。例えば、私は相手との距離が腕の長さしかないところから、相手の顎を蹴ることが出来る。これは伊藤式によれば「骨盤が丸く使われている」からなのだが、私の頭の中に「骨盤」という単語が無かったので「股関節を緩める」というトレーニングを指導している。もちろん、この股関節を緩めるトレーニングで養われることと、「骨盤を使う」という事で養われることは違うのだが、ここでいう、至近距離から足を上げる、という運動だけを取ってみた時、伊藤式体操は著しく効果を発揮した。これは、私の教室で足の上がらない人に試してみた結果での話だ。
 そして、自分の蹴りをビデオに取りじっくり検証してみると、「骨盤を丸く使っている」のだ。ここが面白いところだ。つまり、自分の概念の中に無いもの、もしくは意識として持っていないものには気が付かない、という人の持つ特性が明確に現われているということだ。これは、人の成長や技能の上達と深く関わる重要なポイントでもある。こういったことを充分に注意していないと、人は成長も上達もしない。読者の中で何かに取り組んでいる人で、成長や上達をしたい人は、くれぐれも注意して取り組んでほしい。
 そういった事もあり、東京に出向いた時、朝から稽古をしている道場に突然お邪魔をしたこともある。早朝だというのに、多くの人が自分の身体に熱心に取り組んでいる光景を見て、来られている人の「意識の高さ」を羨ましく思ったものだ。
 伊藤先生が「日野さんも体験されたらいかがですか」とおっしゃって下さったので、遠慮なく参加させて頂いた。
 自分が自分の枠の外に出るのはいつもながら楽しい。つまり、私の場合だと、私自身の身体能力が、私の日常とは異なった理論を理解する能力を持っているのかどうかを試す絶好のチャンスだということだ。私の理論と、伊藤式体操はリンクしている、といくら言葉で書けても、私がそれを実際的な運動として体現化できなければ、それは嘘ということになるのだ。その辺りのスリルがたまらなく楽しい。
 昨年は、戸塚ヨットスクールで、生まれて初めてウインドサーフィンにチャレンジし、私自身の「肉体の連動」や「無意識反射に対する反応」などを、別の角度から確認させて頂き、運動方法や理論が間違っていないことを、私の身体を通して認識できたのは非常に楽しかった。同時に、明確に理論化された身体は、五十才という年令からも新たなスポーツにチャレンジし克服できる、という可能性を実証したことにもなるのだ。

● 身体のプロたちが学んでいる

 今回の取材は、そういった経緯があり実現したものだ。
 渋谷の道場に着くと、飛び入り参加させて頂いた時にお世話になった人達も数人いた。道場に来られている多くの方達は、プロのダンサーやスポーツ選手、役者といった身体そのものを材料として活躍されている人達や一般の方達が大半で、武術に取り組んでいる人達は圧倒的に少ない。
 これは、武術をしている人達の「身体に対する意識の低さ」が理由だろうし、「武術そのものの持つ目的が明確ではない」こともあるだろう。むろん、それぞれの武術の稽古体系中には、身体トレーニングは組み込まれているのだろうが、目的が明確ではないというところからくる、「取り組む」という事に関する意識の低さも手伝っている。
 伊藤先生に、体操を使わさせてもらい顕著な効果が見られたことなど、色々と身体の話をしながら、開始時間を待っていると俳優でパフォーマーの中村ゆうじさんも稽古に来られた。本誌の私の理論も読んでくれており(伊藤先生の教室では、私のビデオや理論を積極的に紹介してくれていた)、今回取材があるということで、番組収録の合間をぬって稽古にきてくれたそうだ。
 私は、武術的運動を分析していく中で、「身体意識の分離」が必要不可欠の要素だと発見した。そこで、身体の分離を特徴としている動きとしての、ブレイクダンスを研究したりマイムを研究した時期があった(詳しくは12月発売の『武学』で)。その時、中村ゆうじさんの動きからマイムの特徴を引き出すヒントにさせて頂いた事もある。
 又、武神館初見宗家のご友人である、伊藤先生と少林寺拳法での同輩の黒田師も、初見宗家にすすめられて私に会いにきてくださった。色々ジャンルの異なった人との出会いは、新しい何かが生まれるチャンスでもありワクワクする。
 稽古が始まった。今までお邪魔したときお世話になった、通称「フトシくん(吉川太)」と言う、ブレイクダンスの世界チャンピオンで、現在はアメリカなどでも活躍している現役バリバリのダンサーがサポートしてくれることになった。フトシ君は、年令が幾つになろうが、バリバリで踊っていたいということで、伊藤先生の門を叩いたそうだ。

● 伊藤式体操の実際

 体操は、既に本誌でも紹介されている通り「伸ばす・縮める、反らす・丸める、ねじる」という三つの要素で出来上がっている。このように、言葉で表現すると簡単そうに見える運動も、実際にチャレンジしてみると非常に難しい。
伊藤「日野さん、日野さんは身体が動くのだから、一般の人になったつもりでやって下さいよ、でないと、面白くも何ともないですから」
著者「はい、分かりました、でも、この体操は難しいですよ」
 体操が始まり、フトシくんにサポートをされながら進行していく。両腕を後につき、腰を床に付け、両膝を曲げた姿勢で骨盤をを左右に倒し「骨盤と肋骨の分離」をはじめる。伊藤式体操での実際的特徴として、常に、この運動に戻る。このことで、身体のそれぞれの部位に対しての実感が変化するのだ。つまり、体操前と後の身体の変化を味合う為であり、肉体的変化を実感するためのものだ。
 この方式は、非常に合理的でしかも実感を持たない人に対しての矯正効果もある事が分かる。色々な分野の「身体を動かす」事で何かを表現する場合、一番大切なことはこの「実感」だが、こればかりは本人の問題なので、メソッドでどうすることも出来ない。それを克服するために、同じ姿勢、同じ運動に還る、という方法は、そこで繰り返し摺り込まれる言葉とともに血肉化し、実感を呼び起こす。
 この時点で、伊藤式体操の具体的運動は、素晴らしく実践的だと感じた。

● 二十年前に「胴体」を見切っていた

筆者「この胴体を動くようにすれば良い、ということや、あらゆる運動はその胴体の三つの動きのバリエーションにすぎない、という発見はいつ頃の事なのですか?」
伊藤「大体はもう二十数年前には気が付いていたのです。少林寺拳法をやりすぎて身体を壊し、ヨーガをやりだし身体を厳密に見るようになったのですね、それから色々と運動を観察していると、結局、胴体が動いているかいないか、そして、その胴体は三通りにしか動いていない、と気付いたのです。」
筆者「普通、武術というところから見れば、例えば、効率的な突きはどうすればでるのか?という疑問を持ち、そこから、腕を考えたり胴体や足の事を考え、ほとんどはそのレベルで止まり、その流派としての動きというところにおさまってしまうのですが、『胴体の動き』という一般論にまで引き上げた、ということがすごいですね。それは、だから二十数年前に現在の形が出来上がっていたのですか?」
伊藤「いや、そうではなく、それから十年位胴体を動かす、ということに的を絞り試行錯誤をし、十年前には骨格を通してきちんと説明できるように体系化できたのです。だから、身体って面白いと感じてからは、どんな機会も逃さずにずーっと人の動きを観察し続けているのですよ(伊藤氏は、ダンスであれ日舞であれスポーツであれ、とにかく興味を引く動き、分からない動きを自分の目で確かめる努力をいとわないそうだ)」
筆者「そうでしょうね、そういったところからくる実感が『胴体力』というネーミングにも繋がっているのですね」

● 武術としての「力」は

 こういった練習の端ばしで、「力」というものに対する一般的概念の間違いや、「運動」をする際の意識の置き所の間違いを簡単な実技を交えて行なう。
 後腕支持の姿勢で、肩甲骨と肋骨の分離がスムーズにいくようにし、腕を肋骨の上に乗せる、すると、腕は体操前よりも伸びた状態になる。これは、腕が伸びたのではなく「肩」にロックされた症状がなくなったからなのだ。そうすると、腕は解き放たれ身体としての本来の自由を取り戻すのだ。
 そういった状態を作り、肩に力が入らないように立ち上がる。腕は体側にそって、肩からぶら下がった状態で止まっている。サポートしている人が、その腕をしっかりと掴み床に正座する。捕まれた人は、「前に歩く事」だけに集中し前に歩きだすと、座っている人は、前進に絶えきれず思わず引きづられてしまう。これを、腕力や全身を緊張させ座っている人を引っ張るようにすると、びくともしないばかりか、こちらのバランスが崩れ座っている人に引き下げられ転げてしまう。
 もちろん、この運動そのものが武術として成立することはない。しかし、「身体」ということ、そして「人との関係」の中で行なわれる、という武術の要素は、こういった「身体と意識の兼ね合い」の基礎的なことをどれだけ認識し、体現化できるか?なのだ。なぜなら、いくら複雑に見える色々な動きも、こういった基礎的なことの組合せにすぎないからだ。
 だから、自分のレベルでしか見えない(物事は、自分自身の認識のレベルに応じてしかものは見えない、という人の特性の一つ)武術の現象をいくら練習しても、「達人」というレベルにはたどりつかないのだ。
 次号では、武術的な「腰」を作る、骨盤の動きや、伊藤式体操の難しさ、即席で行なった「日野武道論」の実際の模様などをお伝えする。

 

「胴体」を見切った伊藤昇という達人
                         日野武道研究所
                            主宰 日野 晃

 肉体の全ての運動は、胴体を「伸ばす、縮める・丸める、反る・ねじれ」という、三つの要素で出来ている、と絞り込んだ「伊藤式体操」とは具体的にどういった運動なのかを知りたくて、渋谷の道場へ訪ねていったことが、この取材のきっかけだったと前号で紹介した。
 実際に伊藤式体操を体験し、又、私の道場でも使わせてもらっている中で、「伊藤式体操」は、数ある○○体操や△△理論と並列に並べるべきものではない、ということに遅れ馳せながら気が付いた。その私が気付いたところから、「伊藤式体操」の受け取られ方を見ていると、大きく誤解されているのではないか感じる。
 つまり、「伊藤式体操」は、武術のための、とか、○○スポーツに適した、といったローカルなものではなく、又、スポーツ理論の様な部分品的肉体概念から作り出された寸足らずなものでもなく、「人体の全体運動から考えだされた普遍的価値の有るもの」だということを分かっていない、ということだ。
 例えば、ストレッチの一種だとか、ウオーミングアップ・柔軟体操の一種の様なものと捉えているということだ。
 もう少し俗っぽく言えば、昨日まで何も知らなかったおっさんやおばはんが、あちらこちらから情報をパクリ、さも自分が作りだしたようにした○○式体操とか、○○術・○○法、○○運動論といったコピー商品のようなバチものと並列に捉えているということだ。そういったバチものが、商業雑誌や色々な本にでっちあげられ、それがまかり通っているが、そういったものと同一視されているきらいがある。同一視と言わないまでも、お金儲けだけのために作られた健康グッズや、アメリカのフィットネスの通販商品の一つくらいの認識ではないだろうか。

● 伊藤式体操の価値と肥田式強健術

 本誌でも時々紹介される、「肥田式強健術」という非常に優れた身体論が日本にある。明治後期に、肥田春充(明治16年〜昭和31年)が様々な運動理論や解剖学などを解析し、独自に作り上げた肉体改造法だが、この結果としての体操を理論として理解するのは比較的簡単だが、具体的に取り組むのは至難の業だ。それは、見た目に複雑で難しいというものではなく、動きの種類も少なく簡単そうに見えるが中身が難しいという事だ。
 この「肥田式強健術」も身体そのものを絞り込んで考えた結果、見た目にはシンプルな運動になっているのだ。世界は、この強健術をどれほど評価しているのかは知らないが、少なくとも現在世界で用いられている西洋運動理論は未だに追い付いていないことだけは確かだし、百年経っても追い付かない事は分かる。
 十数年前、何かの本でこの「肥田式強健術」のことを知り、早速「河合式強健術」をはじめ、肥田春充の書いた本をあさり実際に試してみたことがある。しかし、よくよく試していくと身体に対して極度に精密に実感できなければまず出来ない、というごく当たり前の難問題を含んでいるところに辿り着いた。
 この原稿は、「肥田式強健術」の物ではないので詳しくは書かないし、私より詳しく研究されている方達がたくさんおられるので出る幕ではないが、知らない読者のために世界を越えているということで一つ紹介すれば。
 肥田春充のある本の中に、『以前日本でボクシングのヘビー級の試合が行なわれ、その時対戦した、マホメッド・アリをして、「……まだマスターはしていないが、すっかり私を改善することが解る。そして、その美しい身体についてもっと知りたい」と言わせしめている』ことから、すでに西洋スポーツ理論を超えたものであることを、身体運動のプロであり世界チャンピオンの天才ボクサーが、見抜いていたというエピソードが書かれてあった。
 もちろん、日本でも多くの軍人や武道家が「肥田式強健術」の素晴らしさを認めており、多くの人達が学び当時の新聞や雑誌には常に取り上げられていたそうだ。
 つまり、この「肥田式強健術」に勝るとも劣らない価値を持っているのが、「伊藤式体操」だということだ。身体運動を自分自身の表現の一つである、と捉えている舞踊の坂東玉三郎氏をはじめ、前号で紹介した俳優でパントマイマーの中村有志氏他、色々なスペシャリストたちが学んでいることが、ローカルな理論ではない事を証明している。又、伊藤先生のお人柄上広言しないが、誰もが知っている世界のスペシャリストも数多く学んでいるのだ。

● 何故伊藤式体操は「普遍的」といえるのか?

 我々の「手」や「腕」は、胴体を動かす迄もなく自在に動く、「足」も同様だ。しかし、それら自分の身体としての末端をダイナミックに動かそうとしたとき、また、その動きに何らかの意味や価値が必要なとき、単純に自然成長的に動かしている動きでは間に合わない(スポーツの専門やその他芸術などを見れば解ることで、天才を除いて自然に世界レベルになることはない。つまり、ダイナミックに肉体は動かないということだ)。だから、色々なジャンルには身体の動きのためのレッスンが必ずあるのだ。
 問題はその部分だ。それ等のレッスンは、全てジャンル固有の物であると言っても過言ではない。例えば、バレエのレッスンが陸上の短距離走に直接役に立つことはない。だから、そういった意味もあり対症療法的という言い方をしたり、肉体を部分品的に扱う、という言い方を私はするのだ。つまり、そのジャンルだけで成立する動きが悪いのではなく、ジャンルそのものから「身体」を眺め、そこでの運動理論を身体普遍の運動理論だとしているから間違っていると言っているのだ。
 誌面の都合で詳しくは省くが、そういったジャンルの枠を取り払い、人体の構造から眺めた結果「全ての人はダイナミックに動き、そして、身体意識を高めることが出来る」という体操が「伊藤式体操」なのだ。だから普遍性があり、その辺りに転がっている理論ではない、と私は見たのだ。
 そして、その体操が「伸ばす・縮む、反る・丸める、捻り」という胴体の三つの動きに集約させたことが素晴らしいのだ。先に言ったように、腕や足は単独でも動くし、意図的に動かすことも可能だ。しかし、それら腕や足というのは身体から見たとき、胴体の末端だ。だから、その中心になる胴体を三つの動きで動かすことによって、腕や足の動きをコントロールする、と言う世界に例のない体操であり理論だということだ。

● 難しさの中身は二つある

 しかし、掛け値なくこの三つの体操は難しい。その理由は、「伸ばすのですよ」と、伊藤先生がやさしく声を掛け、やさしそうに指導してくれても、身体そのものに対する実感や、「伸ばす」という運動は、身体のどこをどうすれば出来るのか?を身体は全く分からない、という大前提があるからだ。にもかかわらず、人は伊藤先生のやさしい「言葉」につられて「はい」とうなづく。
 何事によらず、この「身体は全く分かっていない」という大前提に気付いてこそ、初めてスタートになるのだが、99パーセントの人はこれに気付かずにスタートする。そうすると、この伊藤式体操はどこにでも転がっているストレッチに早代わりすることになり、西洋の対症療法的(身体を部分だけしか見ない)な幼稚な運動理論と同じ事になる。この、対症療法的なものか?運動の本質を解いているものなのか?を、選り分けられない人にとっては、伊藤式体操は全く価値を持たないことになる。
 前号で紹介した、後腕支持で、骨盤を転がし肋骨部を緩め肩を残していると、骨盤から肋骨・肩にかけて徐々に捻れ、結果背中が反る、という条件(感覚)を身体に記憶させることが難しい。それを間違うと、肩を無理やり残し背中を反らす、という運動を行なってしまうのだ。すると、先ほど言ったストレッチと変わらないようになる。この、背中を反らす、ということが目的なのではなく、骨盤の転びを意識し肋骨と肩部を切り離せていることを実感する。その事によって、肩から見たとき、肋骨部から骨盤にかけてねじれのグラデーションが出来上がっている、それを実感することが目的なのだが、残念ながら伊藤教室でも結果としての静止状態の「背中を伸ばす」をしている人を見かける。そこが、一番難しいところだ。つまり、「自分の身体を確認できない」というところと、「運動の意図を明確に把握する」というところが難しいところだ。

● 検証方法として最適の「武術」

 道場でのトレーニングの中で、例えば「骨盤を意識的に使える」検証例として、武術としての動きを紹介される。この方式は、私の道場でも行なっている。こういった検証の方法が無いかぎり、自分がその運動が出来ているのかいないのか、それとも、まるっきりの勘違いなのか、勘違いとすれば、勘違いなのはどの点なのか?ということを、明確に認識することが出来ない。
 つまり、厳密な検証方法が無いかぎり自分は何をしているのか解らない、そして、何が出来るようになれば良いのかも解らない。したがって、自分の行動は、お遊戯か小学生低学年の学芸会をやっているに等しい、低レベルのマスタベーションになってしまうのだ。ついでに、老婆心として言うと、「癒す・ウエルネス・身体にやさしい」他、といったコピーが巷には山ほどあるが、これらは冒頭で述べたすぐに消える通信販売の類だ。なぜなら、こういった厳密な検証方法を持たないからだ。客観的な検証方法が無いものは、「自分なり」という言葉に踊らされる。すると、自分なりなのだから頭や身体にストレスをかけることをしない。結果、「人そのもの・身体そのものを過保護に扱うものは、自分自身をどんどんひ弱にし、以前より神経質な自分を作り出すだけで、決してストレスに打ち勝つ自分を作り出すことは出来ない」になるのだ。つまり、結果として何も癒されていない、ということになるというわけだ。
 伊藤先生が正座しているところを、相手が伊藤先生の骨盤(腰)を強く押す、という事だが、肋骨が骨盤の上にきちんと乗っているので、つまり、体重が骨盤に集約されているためピクリともしない。次いで、左腕を相手の肉体のバランスの弱点に触れる。すると相手は、伊藤先生の左腕に反応することが出来ずに転んでしまう。もちろん、全ての生徒さんたちが出来るのではない。「骨盤をコントロールできている人」のみが出来るのだ。何とも解りやすい検証だ。しかし、だから難しいと言うことだ。
 こういったデモンストレーションにも見えることは、色々な武術でも見かけるが、そこには必ずと言っていいほど謎めいた言葉が登場する。例えば、「丹田に集中する、気を集める、重心を落とす」等などだ。
 もちろん、こういった言葉が間違っているのではない。現代においてその言葉を使っている人間が、明確にその言葉を実体化し実感しているのかどうか、という問題だ。大方の場合、その言葉だけがあり、実体は百貨店で売っている子供向けマジックのたねのごとく幼稚な仕掛けでお茶を濁しているだけだからだ(それを見抜くのが武術の基本だが)。
 だから、学ぶ側の人間としては、それを具体的に「身体」というところに持ってきた時、どこがどうなのか?という問題が省かれてしまうという問題だ。つまり、具体化するための手立てがない、ということになるのだ。しかし、伊藤式体操では、具体的、しかも普遍的な骨格という材料でそういった言葉を見事に解剖している。
 ここで、だから簡単だ、と誤解してはいけない。具体的であればあるほど、出来ないのは「自分のせい(身体認識の欠落)」であり、「取り組み方の間違い」ということになり、幻想に責任転嫁は出来ないということだ。私自身も、謎めいた言葉を現代語に置き換えようと、身体そのものに着目しているので、ここで言う「骨盤に対する意識化」という考え方はよく理解できる。つまり、ここ伊藤式体操では「骨盤をコントロール出来る」が、武術での謎めいた言葉を解く鍵の一つになっているということだ。

● 「中心軸」を実感すれば

 又、「伊藤式体操」のもう一つの根幹は、「中心軸」だ。これを実感するために、様々な工夫が見られる。例えば、正座をし両手の平を前方に向け、両肘を前に突き出しくっつける。バスケットボールでの、フリースローでボールを構える手を両手でやっている感じだ。片側の肘を、その状態に固定し、反対側の肘を後に円を描くように動かす。この運動は、骨盤と肋骨を遊離させた上半身の「ねじれ」であり、中心軸の実感だ。
 しかし、前方で固定した肘に力みがあるかぎり、又、動かす側の腕や肩を意識すると全ての筋肉は緊張する、つまり、肘を固定しようと肩などの筋力に頼ってしまうと上半身は円滑に動くことはない。すると、当然「軸」など実感できるはずもなく、ただ、その運動をしている、ストレッチをしている、ということになってしまうのだ。だから、難しいし身体に対する実感的工夫が生まれてくるのだ。
 この中心軸が決まってくると、腰を三人くらいで捕まれ押されても動くことはない。先程の検証ということで言えば、この検証が出来ないと中心軸が決まったとは言えない、という事になる。伊藤先生が中心軸を決め直立する。三人が囲むように伊藤先生の胴を掴む、中心軸を維持した状態からその中心軸にそって膝を少し緩めると、伊藤先生の上半身の体重が三人にもろに掛かり三人はものの見事に潰されてしまう。また、その状態から掴んでいる人たちの力の方向を少し変えるために、両腕を伸ばし掴んでいる人に添える。そして捻れを利用しながら、先程と同じように上半身の体重を三人にかける。すると、三人は反応できないので転がってしまうのだ。

● 日野晃の即席武道講座

 伊藤先生が「今日は日野先生が来ているので、武道の事を何でも聞きましょう」と、トレーニング終了間際におっしゃった。どんな質問が出てくるのか楽しみにしたのだが、ものが武道、つまり、具体的運動なのでいくら言葉で説明しても知らない人にとっては想像が出来ない。つまり、認識が出来ないから、肉体の動きということではなく、私が本誌に常に書いている「人は無意識的に筋肉反射を起こす」ということで、実技を紹介することにした。
相手は、教室でお世話になったフトシ君にしてもらった。フトシ君に私の後から力一杯両腕ではがいじめにしてもらう。私は身体を緩めているのでその両腕を払うことは出来ない。もちろん、武術として総合的なことで言えばこの両手はがいじめを取り払うことは出来るが、ここでは、あくまでも「無意識的な反射」をテーマとしているので、取り払うことに意味があるのではない。
 フトシ君の片方の腕に気が付かない程度に少し刺激を与えると、与えられた方の腕に緊張が起こる。つまり、両腕のバランスが崩れるのだ。そこで、すかさずお尻から抜ける、というこれも一つの検証だ。説明を一通りし、皆にチャレンジしてもらった。

● 「胴体」を見切った伊藤昇という達人

 丸一日、伊藤先生とお付き合いさせて頂き、伊藤先生の身体運動を解析する能力の高さ、つまり、「身体運動を見切る能力」の高さを実感した。
 現在、数ある運動理論は、どこからか持ってきた借り物であったり、焼直しばかりだ。その中で、オリジナリティが百パーセントの伊藤理論を作りだすまでには、途方もない苦労の連続であったどろうと想像する。しかも、身体運動にとって本質的である、ということは、伊藤昇は何を見つめてきたのか?と興味は尽きない。しかし、向かう先は見える。多分現代に蔓延するくだらない通信販売レベルの身体論や、西洋身体論の駆逐だろうと推察する。
 取材が終わり、生徒さんたちも交えて食事をしながら話をする中で、武神館初見宗家の話題になり、
伊藤「初見宗家の重心はどこにあるのでしょうね?」


筆者「いやあ、それが全く見えないのですよ、私がお相手して頂いたときもまるで宙に浮いている様で、動き出しの掴み所がありませんでした」
伊藤「そうでしょうね、それがばれたら武術じゃないですものね。だから、きっと初見宗家は、日常でも誰にでも対処できるし、重心が見えないから、それを見切れない全ての人が煙にまかれるのでしょうね」
筆者「そうです、そうです。動きももちろんそうなんですが、話題そのものも皆言葉だけを聞いて、初見宗家の全体を見切れていないので煙にまかれてしまうのですよ」
 伊藤先生は、初見宗家の重心の位置を探り出そうとしている。つまり、伊藤先生自身が何を見ようとしているのか、のポイントを明確にもっている、ということだ。しかも、核心部分をだ。こういったことは、当たり前のことなのだが残念ながら、枝葉末節には目は行くが伊藤先生のように核心をついている人はほとんどいない。
 別れ際、日本の伝統武術の発展の為に色々と協力し合いましょう、と約束を交わし目黒駅に向かった。非常に濃い一日だった。

 

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