文科省が「武道」を導入

今年度から文科省が武道を学校に導入する。
このことを考えていた時、ふと不思議に思ったのが、何かと日本にいちゃもんをつける中国や韓国から、この武道を学校に導入に関して、日本を非難するコメントが出ていないことだ。
「武道を学校に導入する=軍国主義に逆戻り」といちゃもんをつけていない。
それはどうしてだ?
ということは、日本においては武道というものが、完全に習いごとやスポーツの一つであり、何ら本質が無いと見ているということになる。
武道も舐められたものだ。
もちろん、周知のように武道は戦後 GHQ により禁止されてしまった。
それは、日本人の持つ精神性の特殊性を排除する為だ。
武道を禁止すれば日本人は骨抜きになり、世界にとって日本は脅威では無くなると結論づけられたからだ。
それがそのまま今日まで生きているという認識であり、もはや「武道」は商標的価値しかないのだ。……。

その中身の無い武道を学校教育として導入する。
一体誰が何を指導するというのだろうか。
誰が「武道」を指導できるというのだろう。
ニュースでは、剣道や柔道そして相撲を実際として行うという。
であれば、武道と言わずに剣道、柔道・相撲と呼べば良い。
現在の剣道や柔道は、どれほどの言葉を尽くしても、事実としてはスポーツ競技である。
だからこそ、柔道はオリンピック競技の一つとして存在するし、剣道も世界で競技として存在する。
むろん、スポーツ競技が悪いだのレベルが低いだのという話ではない。
スポーツと武道は全く違うという話だ。
武道と呼ぶからには、少なくとも GHQ が禁止したものでなければいけない。

しかし、ここで勘違いてもらっては困る。
武道=軍国主義ではないし、武道=意味の無い精神主義でもない事を。
武道の本質には二重性がある。
その一つは、自分以外の価値のあるものを、 自分の生命を投げ出して守ること 。
例えば、家族であり、地域であり、国のことだ(外国でいえば軍人のことだ)。
その一つは、 生命ということを直視(死生観)すること である。
この二点が暗黙の内に備わっている精神が、日本には脈々と流れており、それが日本を取り巻く当時の環境や間違った指導者の為に歪められた結果、軍国主義と呼ばれる結果になっただけなのだ。

一昨年、滋賀県のある小学校で、 6 年生3組全員に武道のワークショップを、月 2 回 2 カ月に渡って行った。
そもそもは、そこの小学校に通う児童の親達が、私のワークショップに参加していた事に端を発する。
その時のワークショップは、一般向けだったが、その柱となるのが「正面向かい合い」であり、「声を相手に届ける」というテーマだった。
そのワークは、武道の要素だけを取り出し、一般の人にとっても武道が重要なものだと気付いてもらう為でもあった。

これらのテーマは、人と真剣に向かい合う、ということを通して人の生命まで直視すること。
そして、真剣に相手に話しかける、自分を届ける、ということであり、これは、直接的には武道でいう「気合術」そのものだし、武道での力の側面でもあり、正面向かい合いの延長としてあるものだ。


小学生達は少し緊張した面持ちで、教室に集合していた。
初日は、まず武道についての話を、休憩を取らず二限に渡って話をした。
この長時間に及ぶ難しい話を子供達は、微動だにせずに聞いた。
それをこの場にいた、校長を含め各クラスの担任や副担任は驚いたのだ。
休憩時間の時、その事が話になった。
担任達は一限であっても、子供たちを集中させるのは難しいのに、どうして皆は私の話を聞いたのか、と不思議がってその理由を私に聞いてきた。
それが本来の武道の最重要要素である「相手に声を届ける」の実際であり、「正面向かい合い」だ。

私自身が子供達と正面から対峙し話をした。
もちろん、それだけではない。
子供達の表情、身体の表情を観察し、退屈しているのか集中されているのか、を見極めながら話をしていたのだ。
それが正面向かい合いの一面でもある。
つまり、一方通行的正視ではなく(一方通行的正視は『睨む』という)、相互に関係性が築き上げられる仕掛けを持つ正視ということである。

一方授業は、ある意味教師が一方的に授業を進めているだけだから、つまり、教師が子供達と対峙した関係から授業が作られていくものではないから、子供達は潜在的に「相手にしてくれていない」と察知し、集中が短時間で途切れるのだ。
何よりも、授業が子供達の好奇心を刺激するものではなく、集中出来ない子供たちに迎合する姿勢になっているからだ。

学校での実技としては、身体の不思議を体験させた。
髪の毛一本で身体のバランスが崩れること、風が身体に当たるだけでもバランスが崩れること、相手と向かい合っている最中に、意識が違う方向に行っているのは相手に違和感として伝わること、それもその事で相互にバランスを崩してしまうこと。
それが私達の身体だということ。
そしてそんな微妙なことに反応してしまう身体を操作するのが武道だということを体験させた。
その意味で、身体を乱暴に使っては駄目だという話もした。

「正面向かい合い」は、この小学 6 年生という年齢では本当に難しいのだ。
自意識が成長してきており、その事が他人に対して 恥ずかしい という気持ちを持たせる。
また、お互いに異性を意識し始めていることも難しい要因でもある。
しかし、皆は嬉々として取り組んでいた。
中でも光る女の子が数人いた。
見事に相手をきちんと見据えるのだ。
そんな子は、きっと家でも相手の目を見て話をしているのだろうし、自意識がみんなよりも少し成長しているのだ。
そういった子は、数分で正面向かい合いでの、視線ではない感覚を感じ取る。
「ウワ〜、何これ?」と歓声が上がる。
そうすると、その成功が皆に伝染して、あちこちで「これや、これや」とうるさいくらいの声が上がる。
それは殆どが女子からだ。
男子は既に理屈(言葉による)優先の頭になっているから、つまり「それはどんな感じだろう」という思考が強烈に働いている為、中々感覚を掴めないのだ。
感覚に集中できているというのは、思考と感覚が交互に働いているという状態である。
この辺りも面白く興味深いところではある。

各ワークショップの最後には質問コーナーを設けた。

「ハイ、何か質問がありますか?何でもいいよ」というと、一斉とはいかないまでも手が挙がる。
私の経歴に関する質問には答えていった。
ある生徒の質問に対して
「君の質問は素晴らしい。その質問は君自身が生み出したものだろう。であれば、君の力で考えなさい。人生は学校では無いから、 10 年、 20 年かかって答えを出せばいいんだよ。私が答えるということは、君の考える力、君の想像する力を奪い取ることだと分かるかな。自分で持った疑問には、絶対に自分で答えを出すこと、他人の頭を使うということは、自分の頭をバカにしていくということだよ!」
と答えた。
その私の答え方が、子供達には相当ショックだったようだ。
質問、つまり、自分で見つけた疑問や問題がある、ということは素晴らしいことだ。
それはその子供にとって、自分の中から湧き上がったことだからである。
それを大人が壊してはいけない、つまり、自分の中から湧き上がったことだからこそ、自分の力だけで解決するという「力」を身に付けさせ、解決したら嬉しいという喜びを体験させなければならないのだ。

もちろん、先生方にとってもショックだったようだ。
答えても良いことと、答えてはいけないことがある、ということを知らなかったのだ。
後日子供達が書いたアンケートを見せて貰ったら、その事が書かれており、多くの子供たちにとって、物凄く印象に残ったようだった。
こんな当たり前の事が、ショックだったとは、私の方がショックだった。
自分で問題を見つける、自分の問題を見つける、そしてそれを自分の力で解明する、あるいは獲得する。
それは当たり前のことである。
そのことが学校教育の中に組み込まれていないとはどういうことだ?

「武道を体操や運動だと捉えたら出来ないですよ」
外国で教えるようになってから、特に強調している事だ。
先日もストックホルム、ブリュッセルやバレンシアでも、口が酸っぱくなるほど何度も口にした(ワークショップのようす)。
同じように小学校でも話をした。
そして前述した身体の不思議を実際として味あわせた。
同時に、武道は生死がかかっているものとして話をした。
むろん、小学生には深く理解することは出来ない。
しかし、そういった考え方がある、ということを知っているのと知らないのとでは、今後の人生で何かが大きく変わる。

では、何故武道を体操や運動と捉えたらいけないのか。
端的に言えば、運動・スポーツというのは勝敗が目的である。
競技であるから、第一に勝利が目的で良いのだ。
方や武道は、生き延びることが目的となり、勝敗が目的ではない。
ただ、負けるのは死を意味するので、敢えて言えば負けないということになる。
だからスポーツとは全く違うものだということだ。
また前述したように、現代においては、仮にでしかないが、武道には人の生死が関っているからである。
つまり、こちらの一瞬の隙、一瞬の決断の鈍り、曖昧な動き、無駄な動き等が、こちらの生命の危機に直接繋がるということであり、こちらの攻撃そのものは、相手の生命と関っているからである。

したがって、死生観とでもいうべきものと共に、成長していかなければならないのが、武道の稽古なのである。
死生観 とは、死を通した生の見方をいう。
人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?死後や死者をどう捉えるか?その大前提の下に、生きることとは何か?死ぬこととは何か?等に対しての見方、考え方のことである。
むろん、正解などどこにもない。
そのことと正面から向かい合い考える。
その考える過程に意味があるだけである。
その意味で、答えだけを求めたい、あるいは知りたい現代人には、まるで不向きなことだ。
極論すれば、現代人は哲学を持つのに不向きだということになる。

この、自分を含む人の生命を左右する、という大前提を置いたとき、武道の動きとは、体操でもなければ単純な運動でもないし、ましてや、技術だけを論じるような世界でもない事が見えてくるだろう。(もし分からない人がいれば、それは自分の力でその答えに辿りついて欲しい。知識ではなく身体で。)
生死というものを見据えるが故に、身体に対する精密さが必要なのだ。
刀という鋭利な刃を持つ道具を使う。
頸動脈のある首に 2 センチも入れば絶命する。
人の生身の身体は、刃を防ぐ働きを持っていない。
であるから、精密さが必要なのだ。
その身体に対して求めるものが異なれば、鍛えなければならないところが鍛えられなくて、どうでもいいようなところが発達してしまうということである。
大きくは、気持ち、思考、心理や生理的機能等と、その発露としての運動との相関関係が抜け落ちたまま、つまり、抜け殻の肉体だから単純な筋肉の発達の仕方をするだけなのだ。

また武道を、体操や単なる運動と無意識的に捉えていれば、 脳から身体そのものに発する神経系統の信号は、従来のまま、つまり、幼児や子供の頃から自然成長的に培ってきた、単純な運動系の信号でしかないからだ。
そして、自我と自意識の表れとして、根本的に自分本位で物事を進める、という思考回路が定着している。
もう少し、言い方を変えると、自分というクセ、あるいは習慣だけで、物事を判断する回路、ということになる。
そこを変換させる、進化させる、ここに武道を稽古する意味、稽古が武道になっていく意味があるのだ。
そこが面白いところだ。

つまり、端的に言えば現代において武道を学ぶとは、自分を超えて行くところにある、という一語に尽きるのだ。

では、どうすれば、武道を単純運動として捉えていない、あるいは、体操として捉えていないもの、つまり、本来の武道になるのかだ。
それは、単純な言葉に表せば 自分勝手を排除する になる。
運動的に言えば 自分勝手に動かない 、ということを自覚できるレベルになる事が、稽古の第一歩である。
実は 自分勝手に動くな というのは、言葉こそ簡単だが、実際はそれほど簡単ではない。
というより、実現不可能なくらい難しいのだ。
したがって同じように、武道で使われている「相手の力を利用する」や「相手逆らわない」も、言葉だけは簡単だ。
しかし、実際にはエベレストに登るよりも難しい。
もちろん、自分勝手に動いていない「様な」、相手の力を利用している「様な」相手の流れに乗っている「つもり」は、掃いて捨てるほどある。
しかし、それらはあくまでも「様な・つもり」であって、それではない。

それがどう難しいのかと言えば、実際的には他人は自分の思っているようには動いてはくれない、ということと、人は違和感を察知する能力があるという、二つの側面があるからである。
特に、武道として稽古をしているということは、この違和感を察知する能力を高めるということも必須だから、何も知らない人の数倍、数十倍その能力が高いからだ。
絶対に避けては通れないところはここだ。

その察知能力は、相手の投げる、突く、斬る等の「いま・瞬間」、意識の起こりを察知するのだ。
つまり、武道の稽古は矛盾そのものだということである。
矛であるべき攻撃力の練磨と、盾としての察知能力の練磨だからだ。
その練磨で盾となる察知能力の特化が、矛である攻撃力、それの背景にある自分自身の自我や自意識に対して、自らが成長を促すことになるのである。

もちろん、自分自身の幼い自我や欲求が、自分勝手に動かないを阻害する大きな壁になることに気付かなければ、それに取り組む事は出来ない。
つまり、ここを乗り越えていけるかどうかは別として、乗り越えて行こうとする事を武道の稽古と呼ぶのだ。
そして、そのことは昔日の達人と呼ばれた人達だけが、逆に言葉を返せば、ここに気付いた人、乗り越えた人が達人と呼ばれ後世に名を残す結果となったのである。

もしも、学校教育として武道を導入するなら、これらの要素を外しては話にならないのだ。
また、これらの要素を外してはいけない理由に、武道としてではなく社会生活を送る人としても外してはいけない。
幼い自意識の大人を排出すれば、つまり、自分勝手を正しいと思う人を排出すれば、社会は無茶苦茶になるから。
それは、メディアを賑わす事件を見れば分かる筈だ。
すでに排出されているということだ。

また、自分勝手に動かない、は正面向かい合いと表裏一体である。
もちろん、相手に違和感を持たせない、とも表裏一体だ。
まず、出来るかどうかは別として、取り組みやすいのは「正面向かい合い」だ。
道具もいらなければ、武道としての体の捌きが出来なくても良いからだ。
日野武道研究所で、年に数回行っている「武禅」という合宿のメインテーマでもあり、そこには、武道に取り組む人達だけではなく、一般の人が参加している。
そして、小学生達にもレベルはあるが、取り組めるものでもある。

まず、両者が、片側の人が腕を伸ばした状態くらいで向かい合う。
この時、いずれか片側をリーダーとする。
そのリーダーがフラフラしたり、移動したりしないように真っ直ぐに立つ。
片側の人は、そのリーダーである人の真正面を取るのだ。
但し、視覚的に判断し、つまり、見た目での相手の正中線に合わせるのではなく、相手の意識の核ともなるべき中心に、合わせるのだ。

もちろん、相手の意識の核や、自分自身の意識の核など分かる筈も無い。
その結果としての、相手と自分との間に何かを感じるようにするのだ。
それは、判断を無くした時、誰にでも感じられるものだ。
小学生でも感じられるのだから。というよりも、小学生は正中線や軸などという概念を持っていないので、大人や武道に関係する人達よりも、直接感じ取れるのだ。

それは、具体的には、自分自身の胸のあたり、あるいは鼻のあたりに縦の線の様なものとして感じたり、もっと違った形で感じたりする。
それは言葉化すれば千差万別だ。
小学生達はそれを感じて、驚き喜びはしゃぎ回ったのだ。
ここも大きなポイントだ。頭で理解しようとする人には、自分にとって初体験であるにも関わらず喜びはない。
驚きもない。
当然、それを日常化する事は出来ない。
頭の中の知識にストックされるだけである。

以前参加した、ある大学の私と同年齢の教授は、それを感じた時涙した。
相手と関係出来ている、繋がっているということを理屈抜きで身体で感じられたからだ。
その教授の感性は、全く錆びてはいなかったということなのだ。
つまり、年齢と全く関係が無い、ということである。

また、相手と真正面あたりにくると、視線がブレたり瞬きが増えたりする。
これは、視線が正面から相手とぶつかり合うことになれていない人にとって、ストレスになっている証拠だ。
具体的には、それらの現象は相手から逃げている状態だ。
視線のブレや瞬きは、そのストレスを解消しようとする、無意識的な運動である。
それに気付き、しっかりと相手と視線の交換を出来るようにすることが、第一段階でもある。

もちろん、物事から逃げたり、相手を正面から捉えず逃げるのは日々の習慣であるから、一朝一夕には出来る様にはならない。
「人間関係が苦手」という言葉を容認する社会、容認する家庭がそういった弱い人を作り出しているからだ。

人は、絶対に人社会でしか生きる事は出来ない。
であれば、幼児の頃から、その人社会で能力を発揮でき、自由に泳いでいける人に育てなければいけない。
そういう具合に育てた結果、それでも人間関係が苦手な人もいる。
それは、それで良いのだし、それから対処する方法を考えれば良いのだ。

しかし、それをせずに最初からそこを避けて通るような社会では話にならない。
それは、人の他人と関係する能力を育てないばかりか、壊しているだけだ。
その結果、社会不適合者が生まれたりするのだ。
そんな社会的風潮や、それに追従するものの考え方が、年々弱い人間、つまり、自分の思い通りにならなかったら、キレたり逆切れしたり、凶悪犯罪を犯したり、児童や幼児を虐待する親を作り出したり、精神を病むような人を作り出しているのだ。

正面向かい合いの稽古手順としては

1 −お互いが腕一本を伸ばした距離に立つ。

2 −リーダーを残し、片側はリーダーの正面から外れる。

3 −外れた側は、相手と平行に微妙に動き、リーダーの正面を行き来する。そのことで、自分の鼻や胸の辺りに何かを感じる事が出来るかを確認する。

4 −自分が感じ取ったところで止まり、リーダーに「ここが正面です」と告げる。リーダーにとって、相手は自分に正面にある、つまり、リーダー自身も鼻や胸の辺りに何かを感じ取れていたら、「ハイ」と相手に告げる。

稽古方法としては、これだけのことなのだが、お互いが初心者同士、あるいは、日常で物事と真正面から取り組んでいない人にとっては、雲を掴むような話である。
しかし、小学生でもたった一回の授業内で、そこを感じ取ってしまえるものだということだ。
つまり、どれほどのフィルターを自分が持っているかによって、それを阻害するだけで、より生命に近い存在であれば(小学生や子供)、その感覚は「在る」ということだ。
一番ビシッと正面から向かい合ってくる、向かい合っているのは、赤ちゃんと動物だ。
そこに共通しているのは、それぞれが本能的な存在ということだ。
つまり、正面にビシッとこないということは、本能が退化あるいは、錆付いているということで、極端に言えば、もはや生命の体を成していないということでもある。

その「正面向かい合い」を踏まえて、 自分勝手に動かない の稽古としては、一人が椅子に座り、その後ろから両肩を握るように座る。
その状態で 3 種類の稽古がある。その一つは、後ろの人がリーダーで、後ろの人が前に座る人を動かすのだ。
もちろん、後ろの人が自由に動かせば良いのだが、ゆったりとしたスピードで動かさなければいけない。
いきなり早く動かしても、ついていける筈も無いからだ。
そして前に座る動かされる人は、後ろの人の指示に 100 %従うのだ。

もう一つは、前の人がリーダーになる。動作としては同じように、後ろの人が動かすのだが、後ろの人は、前の人の身体の自由度を無視して動かしているのかどうかを判定するのだ。

そして、最後の一つ、これが一番重要で、一番難しい。
それは、後ろの人は前の人に 本当に触れているのか どうかだ。
文字だけを読めば、「何を馬鹿なことを言っているのだ」と思うだろう。
その通り、後ろの人は前の人の肩を、具体的に握り動かしているのだから、本当に触っているのだと。

しかし、そうではない。
ここに 自分勝手に はいけないという冠がある。
それは、前に座る人が、後ろから自分の肩に触れる手に違和感を感じるから、その違和感を無くすのだ。
違和感が無くなった時、本当に相手に触れていると言うのだ。
違和感が無くなった時、というのは、相手が触れられている手から、何の不安も無くなった状態。
あるいは、安心感を得た状態のことだ。

ここの何が難しいのかと言えば、後ろの人は前の人の肩を掴み動かす、という約束がある。
それは、自発的な事ではなく、指示されたこと、特別なことだ。
だから、「肩を掴み動かさなければ」という意識が働く。
それは触れられる人にとっては違和感として感じるのだ。
つまり、不自然な感じを受けるのだ。
その意識的な事を、どう自発的な事に振り替えていけるか、という一点。
そして、日常的に意識してモノに触れていない、つまり、触れるという行為そのものが無意識的になっていること(それが間違っているのではない)。
それは、コップを掴む手も、水道の栓をひねる手も、誰かと握手をする手も分別されることはなく、無造作だということだ。
触れるものがモノである時は、モノは違和感を訴えないから触れかたがおかしいとは気付かない。
また、他人も面倒だから言わないか、違和感を感じる回路が閉ざされているので気付かないかの何れかだから、指摘されない。
したがって、間違っているとは思わないからだ。

しかし、躾の行き届いた家庭では、モノを大切にしなさい、とか、足音がうるさいとか、大事に扱いなさいと子供の頃から注意される。
だから、自分と対するモノという感覚が育っている、つまり、自分勝手には駄目、という感性の一端が育っているので、ここをクリアするのは早い。

相手に違和感を与えることなく触れる、というのは、武道では必須要素だ。
違和感を持たれるから警戒されたり、変に敏感になられたりする。
相手に違和感なく近寄り、そして攻撃する、というのが鉄則だ。
それは、現代に残る昔日の達人の逸話を読んでいると、この能力が無い限り、その逸話は読み物の域を出ないということが見えるからだ。

そして「声を届ける」だ。
これの難しいところは、耳の不自由な人以外の全ての人は、相手の声が聞こえる。
そして、ある程度の国語能力があれば、その言葉の意味は理解できる。
故に、声は届いている、会話は成立していると思っている事だ。おまけに、自分の気持ちは相手に伝わっていると、盲目的に信じている。
ここも、先ほどの触れると同じだ。

絶対に声を相手に届けているのは、これも赤ちゃんと動物だけである。
それは、触れると同じように、生命と直結しているからだ。
赤ちゃんは自分の存在、あるいは、自分の欲求を母親が認識したり、届かなければ死が待っている。
食事にありつけないからだ。また、自分自身が弱い存在なので、周りの大人の保護がなければ自立的に育っていくことが出来ない。
動物にとっては、自分のテリトリーを犯されることは、そのまま餌にありつけなくなったり、種の保存が出来なくなる。
つまり、種の滅亡や死が目の前にある。だから、両者とも、相手に声が届く必然があり、そうでなければならいのだ。

しかし、我々はそういった必然を持ち合わせてはいない。
本来その必然はあるのだが、残念ながら耳が聞こえ、意味が分かるという長所を獲得したが故に、その必然は薄れてしまったのだ。
だから、余程のことが無い限り、会話に必死になることなどない。
また、絶対に分かって欲しいと思うことなど無い。
であるから、当然自分の何かが相手に伝わる筈も無いし、伝えるべきものも無いのだ。

カフェなど、人が複数集まり会話を見たり聞いたり出来る所で気付くのは、大方の人は独り言を二人で、あるいは複数で喋っていることだ。
具体的には、二人が向かいに座って話していても、声はあらぬ方向へ飛んで行っていたり、自分の内から外には出ていないのが分かる。
それは、会話の内容等を聞くだけでも分かる。
一つのセンテンスに対して、全く反応せずに、自分の言いたい事を並べる。
それが終わると、相手は自分の言いたい事を言う。
それの繰り返しだ。
あるいは、語呂並べ的言葉の接続、全く気持ちや感情から生まれていない言葉が延々と続く。

それが親子であれば、当然親は子供には正面から向かい合って話してはいないことになる。
子供も親に向かい合っていない。
であるから、言葉の以前にある、気持ちであるとか、諸々の相手への目に見えない内的なものが伝わる筈も無いし、その事が育つ筈も無い。
当然、相手を思いやれる筈も無い。
それこそ、抜け殻の言葉なのだ。
だから、自分にとって都合の悪いこと、あるいは、自分にとって不満足な事が起こると、キレるという現象を起こすのだ。
伝える努力、聞く努力など育っていないからである。

そこで、声を届ける稽古だが、その前に先ほどの人ゴミの中で目を閉じて、他人の会話らしきものに耳を傾けてみよう。
それぞれの声の前に人はいるかどうかを想像してみるとよい。
殆どがその声の前に人は想像できない。
皆独り言だということを実感出来る筈だ。
むろん、聞き分ける耳を持っていなければ、それを判別する事は出来ないが、ある程度想像力の発達している人なら分かる筈だ。
つまり、大方の人は「あなた」という特定の人、そして「わたし」という特定の個人同士が、会話をしているのではないのだ。
もちろん、ここも触れるや正面向かい合いと同じく、「そんな馬鹿な」なのだが、実際そうなのだから仕方が無い。
繰り返して書いているように、赤ちゃんや動物のような必然が無いにも拘らず、話をしているだけ、いや音を出しているだけ、ノイズを出しているだけなのだ。
そこを実際として感じられなければ、治そうという気にもならない。

むろん、ここを武道で言えば、相手に対して向かい合って働きかけたい、というものが無いのだから、そこに技術を持ってきても、人間関係としての実際性も何も育つ筈も無い。
技術を獲得するのが武道ではないし、体操でも運動でもないのが武道だ。
相手に働きかけたいという欲求を持っている人が、それに見合った技術を獲得していく、自分に気付いて行くのが現代における武道の側面である。

「武禅」ではこんな訓練をする。
例えば、 15 人いるとすると、 5 , 4 , 3 , 2 人と後ろ向きで交互に重なって座る。
それを後ろから任意の人に呼び掛け、任意の人が「ハイ」と手を挙げるまで続けるのだ。
最初は気楽な気持ちで始めても、 5 分たち 10 分、 30 分と、いくら呼びかけても、任意の相手が手を挙げてくれない現実。
その時、初めて人は必死になる。
誰も助けてはくれない、誰も助けられないのだ。
そうすると、その立場を自覚する。
必死が芽生えるのだ。
そうすると、不思議と任意の相手が手を挙げてくれるようになる。

もちろん、これで声が届いたのではない。
声の方向が定まっただけである。
「わたし」が「あなた」にの入口だ。
しかし、現実にはこれだけでも対する人には、説得力のある人間だと思われるようになる。
それは必死に伝えようとするからである。
むろん、この稽古をする前段階は色々あり、最終的に、この稽古になるのだ。

武道という GHQ が廃止した日本人の柱とでも言うべき文化。
それの本質だけを取り出しても、現代でも未来にでも人にとって重要なものである。
不可能なのだが、そんな要素を学校教育の場で展開してくれたら、昔日の日本人のように、日本は世界から畏怖の念を持たれる国になるだろうと思う。