日野身体理論

★「ノミの心臓」克服法
★コーチの役目

 

現代の「メンタル・トレーニング」とは


数年前、世界陸上選手権だったか、オリンピックだったか忘れましたが、まだカール・ルイスが現役だった頃の話です。
女子の100メートル決勝で、オットー選手のスタート前の様子をカメラが追っていました。
私は、彼女の目の動きから「イメージ」を作っていることが分かりましたが、このやり方では「絶対に負ける(一位になれない)」と確信しました。
案の定、彼女は二位になりました。

もちろん、世界で二位なのですから日本レベルではないし、ましてや、街角ランナーとは別世界のものですからね。
ただ、このオットー選手の「イメージ作り」という点で、現在アマチュアスポーツ界からプロのスポーツ選手まで活用しているものですから、「そのやり方では能力が発揮されない」ということを言っているのです。

スタート前、オットー選手は集中力を高めながら、ゴールを走り抜けるのをイメージしているのが、手に取るように見えました。
ここでの集中やイメージ想起は、もちろん、一般のレベルの非ではなく非常に密度の高いものです。
ですが、私から見ていれば「集中されていない・イメージが出来ていない」に見え、「負ける」と判断したのです。
スタートラインに付き、「用意」とアナウンスされたとき、他の競技で何か記録が出たのか大歓声が上がりました。
彼女は、その大歓声が上がった時、集中が途切れました。そこで自らファールをし気持ちを切り替えたのですが、結果はかろうじて二位だったと記憶します。

オットー選手のやっていた事、「イメージ作り」はいまやスポーツ界の常識です。でも私から見れば「何を言ってるの」という感じなのですが。
そのイメージ作りから運動生理学などが含まれ「メンタル・トレーニング」と呼ばれ、一つのカテゴリーを持っています。
そもそも、この「メンタル・トレーニング」は、ものの本によれば、世界が東西冷戦に入った頃から、東側が国家の威信に懸けて開発したもので、それが、冷戦後西側にも取り入れられ、それが日本にも上陸したというものだそうです。
そのメンタル・トレーニングを駆使した冷戦時代の東側の選手の成果は驚異的なものでした。
それは、オリンピックを始め様々なスポーツ競技で、旧ソ連や東ドイツを中心とした東側諸国が目覚ましい成績を残したからです。
しかし、このメンタル・トレーニングを考えていくと、冷戦時代に始まったものではなく、戦争に付き物のスパイ等を自白させる為に開発された様々な実験がもたらしたものだと分かります。

まあ、その歴史的なものは別として、では、当時東側諸国で行われていたメンタル・トレーニングそのものが成果を出したのか?と考えた時、少し疑問が出てきます。
というのは、「人」という生物はそれ程単純にできていないからです。
つまり、何がしかの方法を駆使した時、全ての人は成果を挙げるのか?という問題を提起した時、答えは否だからです。
それは、問題を単純化して考えてみればすぐに分かることです。
例えば、イメージトレーニングを訓練するとします。
小学生と大学生とが受けて、100メートル競争をしたらどうなるでしょう 。
余程のアクシデントが無いかぎり大学生が勝つのは分かるでしょう。
それでは、体格が同じくらいの大学生だけに絞って競走をしたらどうなるでしょう。
それでも、筋力差や、走るのが得意か不得手かで差が出ます。
次に、筋力も走るのも得意の大学生で、しかも記録的にも同じくらいの人達が競争すればどうなるでしょうか?
それがスポーツの競争ですね。結果一位から順位が決まります。それでは全員が受けたイメージトレーニングの効果はどう発揮されたのでしょうか?明確に見えてこないでしょう。
そこで、そのイメージトレーニングの取り組み方の差が出た、と解釈されるのです。
もしくは、イメージトレーニングの習熟度の差だと解釈されます。
本当にそうでしょうか?

ここに大きな落とし穴があります。
それは、人は自分の思っている以上の力、もしくは、試合で思っている以上の力を、あるいは能力を発揮するのは何故か?という根本的な問題に対して、その答えはその人が取り組むための「動機」なのですが、その「動機は?」という大前提の問題が抜け落ちているからです。
つまり、その「人自身の問題、その競技に対する、もしくは、その人自身がどうなりたいのかという動機」が抜け落ちているのです。
様々な方法は、それを「受ける人」の「知識」や「技術」として吸収されますが、肝心の「受ける人」には届かないのです。
つまり、「動機」にはなり得ないのです。

冷戦時代の東側の選手には「国家の威信に懸けて」西側に負けるわけにはいかないという、国家レベルの洗脳があり、個人的にも生活が豊かになる、という生命にかかわる「動機」が前提としてあったのです。
そして、その強固な動機の上に具体的トレーニング方法があったのですから強かったのです。
つまり、動機の上に、手法が乗るのであって、動機がない、あるいは、貧弱な動機の上にいかに素晴らしい手法が乗ったところで、その動機に比例してしか力を出せないのが「人」なのです。
そして、その動機は「頭が作りだすものではない(後付けの理由によるものではない)」というものです。
こういった事は、歴史から見れば簡単に理解できる、「人」の能力が最大限にでる基本要素です。
では、そのメンタルトレーニングですが、ここではスポーツ関係の本や世界で言われている理論?は、「人」にとってどうおかしいのかを解説しましょう。
今、私の手元に一冊の本があります。
三刷目ですから売れている本です。
その本の項目から、話を進めましょう。

「目標設定」「マンネリ防止」「心理的戦術」「スランプ脱出」「判断能力」「気持ちを高める」「攻めの心理」「自信を持つ」「プラス思考」「自己暗示」「条件付け」「気持ちの切り替え」「コンセントレーション」「リラックス法」「イメージトレーニング」
と並べて書きましたが、これは何だか分かるでしょうか?殆どが「スポーツ心理学」という、分かったような分からない新しい分野での重要な項目になっているものです。
まず第一に、これ等のことが「自分で出来ない人・自分で工夫しない人」は、スポーツであっても芸術であってもどんな分野であっても大成しませんから、すぐに辞めるべきだと断言しましょう。
精々、余暇として自分で楽しんで下さい。
間違っても第一線に出よう等と思わないことです。

さて、これ等のことは何に属しているのか?と言えば、例えばある一人の選手の表面に現れている事、その表面的な現象に対して対処する方法をそして重要性を説いている言葉です。
ではそこにどんな問題があるのか?それは簡単です。その現象は何故起こるのか?が抜け落ちているのです。
しかし、得てしてこういった現象に対する言葉は、問題を持つ本人にとってはピンとくるので、堂々めぐりの罠にはまってしまうのです。
つまり、天気予報では雨が降るから傘を持つのかレインコトートにするのか、と言っているのです。
その中には、濡れてもいいじゃないか、と天候の変化は含まれていません。

つまり、雨に濡れても天候が変わろうとそこに行かなければならない動機が含まれていない、と言う事です。
ですから、その動機によって何もかもが変わってしまうにも関わらず、ある一定のヒナ型で傘にするのかレインコートにするのかを決めていると言う事になります。
現代医療の数値での判定と同じですね。
もちろん、数値の判定は全部駄目だ、という事ではありません。
健康に近い人に対しては有効性を持っているのです。
しかし、病気の重さや種類と比例して有効性は極めて薄くなる、と言う事です。
つまり、スポーツであっても芸術の分野であっても一流になればなるほど、当てはめにくいという事なのです。
なぜなら、先に言ったように、一流の人はこんな事は当然のこととして考えているからですし、そして、それが思うようにいかないから、「気持ちの切り替え」が必要であり、「気持ちを高め」「自信を持ち」何もかも「プラス思考」でいこうと「目標設定」を明確にするために「イメージトレーニング」を繰り返し、「スランプを脱出」しようと「自己暗示」まで掛けています。
でも、何よりも「コンセントレーション」が高まらないのが大きな原因なのでは、と思っているはずですから。

と、笑い話になってしまう様な項目が「メンタルトレーニング」と称するジャンルです。
総合的に言えば、「動機」を「方法論」で埋めてしまえ、というのがメンタルトレーニングだと思って差し支えないでしょう。
つまり、「精神」は「方法で作られる」と言う事です。
ですから、有り得ないのです。
では、スポーツ競技にメンタルトレーニングは必要か否か?と問えば、「全く必要がない」と言うことです。

このページの冒頭で書いたように、この「目標設定」「マンネリ防止」「心理的戦術」「スランプ脱出」「判断能力」「気持ちを高める」「攻めの心理」「自信を持つ」「プラス思考」「自己暗示」「条件付け」「気持ちの切り替え」「コンセントレーション」「リラックス法」「イメージトレーニング」と、いったことを「メンタルトレーニング」と称するなら、全く必要がないということですし、こんなことを管理できないのなら、そして問題になるのなら絶対に世界で戦えるはずはありませんから、すぐに競技を辞めるべきです。
つまり、「現場対応能力の欠如」ですから、それでは競技という不確定の場で、そして、競技場という不確定の場で実力を発揮することは出来ない人は、競技をすべきではない、向いていない、という事です。
スポーツ競技において必要なこと、それは「身体を働かせる」という作業だけなのです。

「身体を働かせる」という点では悩み工夫をする、もしくは、良いコーチを探す等手段を高じれば良いのです。
そして、あえてここで言う項目をクリアしようとするならば、今上げた
「不確定の場に対応できる能力」を養う事しかありません。
それは、対症療法では駄目だという事です。
そしてもう一度、自分自身がそのスポーツ競技に取り組んだ、もしくは、取り組もうとした時の「初期動機」を明確にする事です。
その
「初期動機」に改めてこころに燃やし、その実現に向けて一直線に進めばよいのです。
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「ノミの心臓」

「ノミの心臓」と言う言葉がスポーツ界にはあります。
ここ一番、一番大切なときに力を発揮できない人のことをいいます。
ノミの心臓とは、「プレッシャーに弱い人」「ストレスに弱い人」という事です。
また、もう一方では「精神が幼い=感性が鈍い」と考える事も出きます。
この二つは重なる場合もあり、どちらが原因なのか決めることは出来ません。
つまり、精神が幼いからプレッシャーに弱いのか、プレッシャーに弱いから精神が幼いままなのか、という重なりです。

しかし、精神が幼いからプレッシャーを感じないという場合もあります。
俗に言う「能天気」な人です。
つまり、人によって正反対に現れる場合もあるという事です。
しかし、何れにしても「プレッシャー」と「精神」は影響しあっているものです。
まず「プレッシャーに弱い」というのは、プレッシャーを受けることに慣れていない、という原因があります。
という事は、日頃の練習の中でどれだけプレッシャーを受けることが出きるか、つまり、自分は練習そのものに対してどういう取り組み方をしているのか、が大きな原因だということになります。

もう少し根本的なところで言えば、日常生活の中でどれだけプレッシャーを受けて生活し、そのプレッシャーに対して正面から向き合い跳ね除けていくという作業をしているのかそうではないのか、が根本的なものです。
しかし、プレッシャーやストレスは、当然のことですが物体のように「あるもの・存在するものではない」のです。
それらは自分自身が作り出している心象風景です。
ですから、その風景は悪く捉えることも出きるし良い方向に捉えることも出きるものです。

ここでいう良いとか悪く捉えるというのは、自分自身の許容範囲の問題です。
許容範囲が狭ければ悪くなり、許容範囲が大きければ良い方向で捉えることが出きる、というもので、ここで「許容範囲(自分の殻)が狭い=精神が幼い」「許容範囲が広い=精神が成熟されている」が現れるのです。
そういった事を前提としてその取り組み方次第が、プレッシャーを力に転嫁できるのか出来ないのか、の分かれ道になるのです。
もちろん、根本的に本当の意味でここ一番のプレッシャーに匹敵する練習メニューがあるのかないのか、という問題もあります。
しかし、いくらメニューがあったところで、それを練習だと判断している人にはそのメニューは何の役にも立ちませんが。

それでは、この「ノミの心臓」を克服できるのか?
それは、出きると断言しましょう。
方法は「自分に対するプレッシャーとはどんなものか」を探り出すところから始めます。
精神が幼い場合、この発想にはなれない場合が殆どです。大方は、そのプレッシャーに振り回されているだけで、問題を見つけるということをしません。
どんなものにプレッシャーを感じるのか、どんな時にプレッシャーを感じるのか等などです。
そして、何がストレスになっているのか、も同じように探るのです。
「ノミの心臓」を克服するためにはこういった自己探求が必要不可欠なのですから、ものを考える力は絶対に必要なのです。
その探り出されたものと、自分自身の目的が重なり合っているのか、重なっていないのかを検討します。
ですから、目的や探り出されたものが漠然としたものであってはいけない、という事になります。

例えば、野球のピッチャーというところでノミの心臓だとしますと、マウンドに上がった時、もしくは、状況が自分にとって不利になった時、落ち着かなくなる、としましょう。
その落ち着かなくなる原因は何なのか?です。
原因の多くは、先ほど言ったように自分自身が作り出した「思い」です。
それは、「こうなったらどうしよう・こうならなかったらどうしよう」に属する「取り越し苦労」と呼ばれるものです。
もしくは、「このバッターは苦手だ」と、以前対戦したときホームランを打たれたという、過去の印象が作りだした「思い」です。
そこで、「取り越し苦労はしても無駄」という考え方になれれば問題は解決されたことになりますが、「取り越し苦労はするだけ無駄だ」といくら自分自身に言い聞かせたところで、それこそ言い聞かせるだけ無駄です。
というより、余計に「こうなったらどうしよう・こうならなかったらどうしよう」という事を意識して駄目になります。
つまり、脳は努力逆転の原理を働かせてしまうからです。
では、どうするのか?そこで、自分自身の目的を明確にして行く作業が必要になります。
それは結果として
「こうならない為に自分は何をしたのか・こうなったときの為に自分は何をしてきたのか」を問うことになります。

つまり、自分自身の目的はバッターをアウトにすること、ですから、その為に
「今何をすれば良いのか」を、それこそ意識的に徹底的に追究し行動するのです。
そして、一番大切なことは、「自分の役目と目的は、このバッターをアウトにすることだ」という事に全身で向っていくという事です。
その事によって、「こうなったらどうしよう・こうならなかったらどうしよう」という思考は、どこかへ隠れてしまいます。
つまり、自分自身の中にある問題を転嫁してしまうという事です。
それを根気よく繰返し、自分自身を
「今何をすれば良いのか」「目的はこれだ」という事だけを考える頭に洗脳してしまうのです。
結果、「ノミの心臓」は無くならないのですが、隠れてしまって出てこなくなる、つまり、表面的に解決された状態になる、という事です。

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「コーチの役目」

先日、世界陸上パリ大会の女子マラソンで、2位と3位4位を日本人が獲りました。
競技が始まる前に、小出監督と千葉選手の練習風景が映し出されていたので、名コーチは千葉選手にどういう言葉を掛けているのだろう、と気になって見ていました。
高橋選手が金メダルを獲った時も、小出監督の事は注目されていたので、今回改めて千葉選手に掛ける言葉を注意して見ることにしたのです。
選手に対して
「どんな時に、どんな言葉を」が問題なのです。

一般的には、「どんな時」が抜け落ち、「どんな言葉」をの「言葉」だけを一人歩きさせているだけです。
つまり、「言葉」だけをすくい上げ、「どんな時」を考えずに使っている、という事です。
これは、「この選手には」「このトレーニングメニューを」と言うのと同じであって、ここを間違うと選手を潰す事になるのです。
ですが、一般的には、それすらも認識していないように見受けられます。
コーチが、持論を選手に押しつけているだけがほとんどで、しかも、その持論の正当性の根拠は、貧困な自分の個人的体験に負うところが大です。
もしくは、誰かがどこかで話した言葉、どこかに書かれていた言葉を「自分が納得した」、という事で自分もその誰かと同じだと錯覚し使っているのがほとんどです。
当然、そこに何かしらの成果を見る事は出来ません、もしも、成果が見えたとするならば、それは選手の個人的能力がそうさせているだけで、その選手はどのコーチについても成果を上げるはずなのです。

小出監督は「一人の選手のトレーニングを考えるには1年半はかかる」と話していました。
そうでしょう、選手という「人間」に対して効率の良いトレーニングを考え出そうとすれば、その
「人間」の身体に対して影響する言葉や、思考パターン、運動そのものの能力、取り組む能力等々を把握しなければならないからです。
とすると、小出監督をして1年半かかるはずだし、その事をきちんと認識しているからこそ名コーチなのだということです。
つまり、コーチとは、選手の身体や精神を見分ける能力に長けていなければならない、それも、電子顕微鏡レベルでの識別能力が必要だと言うことです。
また、その監督に答える素材としての千葉選手や高橋選手は、
「自分は何を目的として何をしているのか」
を明確に認識しており、それぞれのトレーニングを「明確な目的を持って」取り組んでいます。
ですから、当然競技ではその時の最高の状態に近づく事が出来る、という事が実現するのです。

世界柔道・世界水泳・世界女子レスリング等々、日本選手が世界で活躍する姿を見ていると嬉しくなります。
元々、身体能力や競技そのものに取り組む智慧は、世界のどの民族よりも優秀な遺伝子を持っているはずの日本人だから、活躍して当然なのです。
もちろん、不得手とする種目もあるでしょうが、身体能力全般から見た時、もっともっと日本人選手は活躍できるはずです。
それを実現するには、「コーチ」の力が本当に必要です。
そして、オカルトまがいの運動論ではなく、民族に、そして身体に立脚した運動論が今こそ必要なのです。

 

先日、関西のある大学のアメリカンフットボールのコーチに、コーチを頼まれのぞきに行った。
私自身はアメリカンフットボールなどは、テレビでそれこそアメリカのゲームをたまに見るくらいで、何も知らないのも同然だ。

といえば、ではなぜコーチを頼まれたのか不思議に思われるだろう、が、「身体を使う」という点でいえば、私の専門の武道と何も変わることはない。
ただ、「身体」そして「身体運動」というものに対する概念が彼らと全く違うだけだ。
その「違う」という部分において、その大学のコーチは興味を持ち、低迷するチームの活路を求めたのだ。
大学に着き、様々なトレーニングメニューを見せてもらいながら、何のトレーニングをしているのかの説明を受けた。
その説明から私自身に浮かんだ疑問をコーチにぶつけると、コーチは答えられなかった。
つまり、そこで行われているトレーニングは、伝統的にやっていたから今でも続けている、他のチームがやっている、スポーツトレーナーに教わった、といった類いのもので、アメリカンフットボールという競技、肉体的精神的運動等を分析した上で作り上げられたトレーニング方法ではなく、迷信の類いと何ら変わらないものだという事だ。

もちろん、広義に肉体的運動精神的運動だと言えば、その通り間違いではないが、それは、ジャンケンポンをするのが水泳のトレーニングになるというようなもので、どうとでも弁解できるものではあるが、直接的にフットボールと関係がないものだ。
しかし、それは「止めればよいのか」、つまり、そういった無駄なトレーニングは止めて、フットボールにとっての合理的なトレーニングに切り替えれば0から出発できるのか?といえば、物事はそれほど簡単ではない。
それは、そういった無駄なトレーニング、迷信的トレーニングのほとんどは「筋肉を硬くしたり身体の歪みをより強固にする」という役目を持っているからだ。
つまり、間違ったトレーニング方法は、「身体に力を発揮させない」ばかりか、元々の「身体の歪み(クセ)」を助長し、その事が故障の原因を作りだしてしまう、というリスクを伴っているということだ。
ましてや、大学生生活や高校生生活といった限定された時間の中で、自分たちの力を発揮させようとしたら、社会人の、またプロの人達のトレーニングより、より精密でなければいけないし、最低「身体の歪みを取り除く」というトレーニング入っていなければ身体が長持ちしないし、力を発揮し活躍することが出来なくなるのだ。
といった事を考慮していない指導者がスポーツ競技の、また体育の指導者なのだから、世界における日本のスポーツ界の弱さでもあるのだ。
例えばアメリカンフットボールではこんなアドバイスをした。
センターの選手がスナップをし、作戦遂行のために敵陣営に踏み込んでいく、という練習を見ていて、スナップと一歩の踏み出しを1,2というリズムでやっていた。
そこで、その動作を一挙動で出きるように、左手(攻撃)と右手(スナップ)の相関関係と骨盤の出し方を指導したところ、スピードと相手に対する圧力が数倍になり、敵のディフェンスの選手をはね飛ばした。
といったアドバイスを様々な状況に応じてしていったのだが、結果として選手達は私の説明(根拠)と具体的運動に満足し、練習内容を変えていく事に納得した。

今迄スポーツ競技というものは、専門的に発展しているものだから、それに適したトレーニング方法が存在するものと思っていたが、このアメリカンフットボール(かなり以前にプロのチームのコーチがアドバイスを求めてきた事があり、その時に「おかしいな」と感じてはいたが)や、日野武道研究所のトレーニングを積極的に取り入れてくれているトライアスロンの前年度日本チャンピオンの関根選手、ソウルオリンピックの水泳で出場した長畑選手、格闘技のメジャーの団体の上位選手などの話から見れば、残念ながら日本が遅れているのか、世界が分かっていないのか知らないが、力を出せる身体造りを全くしていないことが分かった。

その証拠に私が関根選手にアドバイスしたことを、トレーナーである御主人が他の陸上選手に教えたところ、驚異的に記録がアップしたと教えてくれた。
トレーニングというところで結論を言えば、現在世界で活躍している選手は、どんなジャンルであろうが、一部頭の良い選手、例えばハンマー投げの室伏選手等をのぞいて生まれつき身体能力が優れている、という人だから活躍できているのであって、決してトレーニングの結果そういった選手が生まれてきたのではない、と言い切れるだろう。
逆に言えば、世界で活躍している人は全て天才だということだ。
だから、既成の方法・従来のスポーツとレーニングでは、天才より劣る身体能力の人は世界で活躍できないという事だ。以前、カヌーのスラロームの選手をコーチした時、面白いことを言っていた「筋肉トレーニングで上位に行けた奴は、筋肉トレーニングの天才なんですよ」と。
これは言い得て妙だ。そりゃそうだ、どんなスポーツでも殆どが、成績向上のために筋肉トレーニングをする。
つまり、誰でもする、という事だから、そこからはい上がるのはやっぱり天才しか駄目なのだ。

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