●和太鼓と胸骨操作

稽古(トレーニング)は全て家内工業的内職感覚で、つまり、アナログ感覚だ


かなり以前から大衆演劇の役者さんから頼まれて、仕掛けだらけ(普通の衣装屋は発想が貧困で作れないから)の衣装を作っている。大衆演劇の衣装は、見た目を奇抜にしなければ拍手が来ない。
そして、豪華でなければならない。
それは一万円札のレイを首に掛けてもらう姿を思い出せば納得できるだろう。

さて、その作業として例えば、着物にスパンコールで柄を作るとする。
その時、当たり前だが、仕上がりがどういう状態になるのかをまず知ってなければ出来ない。
その上で、何百というスパンコールを縫いつけていく。
もちろん、一つ一つ手作業だ。
それは、着物のどの部分から始めるのが良いのか、まずそこから考え出す。
そして問題は、その手作業をしている時、「どうすれば仕上げが綺麗に見えるように縫えるか」「どうすれば時間を掛けずに出来上がるか」「どうすれば手間を省く事が出来るのか」等々を考えながら作業をする、という事だ。
つまり、
その都度その作業におけるテーマを見つけ、そのテーマを作業と共にクリアしていく、という事だ。
テーマが見つかるから作業に工夫が生まれる、更に、その作業そのものの流れの中にもテーマが見つかるから、作業の工夫や応用が高度になり仕上がりが良くなる、という単純な因果関係だが構造的な作業になっているのだ。
そういった過程で作業をするから、時間が経つにつれ縫うスピードも上がり、仕上がりも綺麗になり、同時に「縫う」という技術も向上していくのであって、ただ単にスパンコールを何百個縫う、という事をしていても、スピードも上がらないし仕上がりも綺麗にはならない。
何よりも「どんな仕上がりにしたい」という全体イメージがないのだから。

こういった単純な事をどんな作業の時にも心掛けるから、「工夫をする=テーマを見つける」という作業の中身、つまり、人にとって必要不可欠な「様々な物事に即対処出来る能力」が身に付くのであって、この作業の中身がなければロボットの作業と同じか、ロボット以下の作業しか出来ないのだ。

つまり、ロボットはプログラムされた作業を、同じ水準で仕上げる事が出来るが自分からはその水準を上げる事が出来ない。
そして、そのプログラムされた作業以外の事は出来ない。
最も根本的な事は、何の作業をしているのか自覚的に捉える事が出来ない。
つまり、どのパーツの作業をしているのか、それは全体にとってどういう立場や役目を担っているのかを認識出来ない。
これが、ロボットの作業であり、人との決定的な違いである


しかし、ここで短絡的に「工夫をする=テーマを見つける」をすればよいのか?と思ってはいけない。
ここで基本的な事を考えなければならないのだ。
「工夫をする」為には、工夫をする為の予備知識があるのか?を自問自答しなければいけない。
「工夫」そのものは能力であり、それは幼児の頃からの「好奇心の蓄積」だ。
まずそれがあるのか、ないのか。
その上に、例えばここでいう「衣装を縫う」という事から言えば、衣装に対する知識が広範囲に渡ってある、が乗るのだ。
だから、ここでは、歌舞伎の衣装、舞踊の衣装、民族衣装等々であり、それらを現代的にアレンジした新しい衣装、有名なデザイナーが創作した衣装等々を知っているのか、という事だ。
それらの知識がベースとしてあるから、つまり、知識としてのベースが広ければ広いほど、その上に乗るものは質的に高いものになるという事であるから、広範囲の知識が必要なのである。

では、このロボットと人間の決定的な違いはどこから発生しているのか、といえば、それは
「喜び」という感情「満足」という幸福感、そして、より大きな喜びを得る為の「もっと」という欲求だ
そして、この「もっと」という欲求がより大きな失敗や強いストレスをものともしない、また、問題にしない強い精神を作り出すのだ。
つまり、「感情」をベースにしてこれらの「工夫をする」という知的な作業が始まるという事である。
更に付け加えれば、ここの「喜び」や「満足」そして「もっと」の背景に、「○○の為に」があり、その○○が、自分以外の例えば家族や会社更に社会、そして、オリンピック選手や海外で活躍する企業のように「自国」という具合に背負うものが大きければ大きいほど、達成した時には「誇り」という精神の格を獲得するのである。
もちろん、○○は芸術であっても科学であっても、どんなジャンルであっても同じだ。

じゃあ「工夫をする=テーマを見つける」を出来ない人は、常に「工夫をする=テーマを見つける」を考えながらどんな作業にも取り組めば良いのか?といえば、そうではない。
例えばここの衣装を縫う、という作業の時、私は「こんな衣装に仕上げたい、仕上がったら嬉しい、絶対に歌舞伎の衣装よりももっと良いものを」という、言葉に上がってこない欲求がこころの中にある。
だから、自動的に「工夫をする=テーマを見つける」が浮かんでくるのだ。
つまり、その言葉に上がってこない欲求がある、という大前提があった時、自動的に工夫が生まれるのであって、「工夫をすると言う『言葉』を知っても」元々工夫などした事のない人間、つまり、そういった言葉に上がってこない感情や欲求のない人は工夫など出来るはずもないから、「工夫をする=テーマを見つける」という事を考えても無駄だという点で間違いなのだ。
本質的にはそういった人達は、「工夫をする」という以前に、
自分の取り組んでいる事、やろうとしている事に何でも良いから「小さな喜びを見いだす」事、そして、何を背負うのかを決める事が先決である。
その自分自身の喜びに後押しされなければ、工夫も知識も自然には生まれないし使えないのが、人間のシステムである。

私の所に来ている25才のAがとんでもない事を言った。
「先生はとにかく数をしろ、とおっしゃっているので胸の開閉(日野武道研究所の基礎的身体操法)一つに絞り長時間取り組んでいたら、形が無茶苦茶になっていくのです」と。
「はあ〜??」私には彼の言葉がよく理解出来なかった。

何故長時間取り組めば形が崩れるのか?わたしの常識の中には存在しない時間だ。
それはまず、彼の中には「こんな衣装に仕上げたい」に匹敵する「こんな運動で、こんな形にならせたい」が無いという事だ。
それは、見本としての私の運動を完成イメージとして掴んでいないのと、完成イメージを自分自身の手本、もしくは自分自身の大きなテーマだとして認識していない事が原因だ。
そして、それを認識していないのだから当然の事として、その運動はどう発展してどんな場合にどう使うのか、もしくはそこから発展して自分としてはどう使えるのか、という「要素と実際を接着させる知的運動」が全く欠落しているという事もある。
つまり、彼は言葉に上がってこない感情や欲求がない、という点でロボット並みだが、脳のプログラミングはロボット以下だということだ。
ロボットであれば、同じ作業を同じ水準で維持出来るが、彼は形が崩れるのだから、まずそれだけでロボット以下だと言う事だ。

人が取り組む作業など、どれほど高級な言葉を使っても所詮内職の域を出ない。
それは、武道であろうが音楽であろうが、スポーツ競技であろうが全部同じだ。
なぜなら、人はその時間には一つの事にしか取り組めないからだ。
しかし、その一つ一つの積み重ねを、ここでいう「工夫の連続」としての家内工業的内職の感覚で取り組むから、その仕事がNASAから打ち上げるスペースシャトルの部品になったり、遺伝子を解析する機械の一部になったり、オリンピックで金メダルをとったり、ノーベル賞を取ったりという、とてつもなく大きな仕事が出来る事に繋がるのだ。
この家内工業的内職の感覚で作業の出来ない人、つまり、自分の取り組んでいる作業に対して、喜びを持てず工夫の出来ない人は、どれほど大きな目的や夢を持ったところで、それは未だに月にはしごを掛けたら登れると思っているのと同じだ。

稽古(トレーニング)というものは、皆が思っているよりも難しいものだ。
ただ単に数をやればよいのではない。
最終的な目的が明確であり、それがイメージ化されていなければならない。
そして、「指示された事」をやればよいのではない。
「指示された事」を「如何に工夫出来るか(最終的な目的に繋げる為)」が稽古である。
つまり、「指示された事」という自分の発想にないものに対して、「工夫」という作業をする事で指示された事を自分化するのだ。

それはここで言うように、一つの行為をしながらそのしている事を目的のイメージや手本、そして要素と比較する、そして、それをきちんと監視する、という作業が同時進行で行われるのが稽古である。
もちろん、それを細分化して言えば、それぞれに若干の時間差はある。
がしかし、大きな時間の中で言えば、ほとんど同時進行だと言っても良いくらいのものだ。
しかし、ここで出した例は比較的簡単だ。
つまり、自分の作業を「目を通して」確認しながら出来るからだ。
難しいのは「自分の身体」に対する稽古だ。
つまり、自分の身体作業を、
自分が他人の「目を持って」確認するのが非常に困難だからだ。

 

和太鼓と胸骨操作


和太鼓のチームが日本国中にあり、プロのチームも沢山あるそうだ。
私が知っているのは、「おんでこ座」に始まり「鼓動」他数チームだ。
しかし、邦楽や洋楽の世界での楽器の音を知っていれば、「なんじゃ、これ、太鼓が鳴っていないやんけ」と気が付くのだが、こと和太鼓のチームにはそういう耳がないらしい。
和太鼓はドラムセット等とは違い、小さな太鼓でも数十万円もするのだから、もったいない限りである。
ただ経済に貢献しているというだけなのだが、叩いている本人達は良い音を出していると思っている。

音楽の世界には、「自分の音」という言い方がある。
しかし、これとてまず楽器が鳴ってからの話、楽器を使いこなしてからの話だ。
これ以前の音は「自分の音」ではなく、楽器以前の音でしかない。
ピアノという楽器は何も知らない幼児が鍵盤を叩いても音が出る。
世界的なピアニストが同じ楽器を叩いても音が出る。
しかし、そこには「音」の差が歴然とある。
それは、全ての楽器に当てはまる。
中でも和太鼓なども誰が叩いても鳴る。
しかし、誰が叩いても鳴る音から楽器としての太鼓の音への進化はない。
何しろ、体力(筋力)が太鼓を鳴らすと思っているのだから。

太鼓が鳴らないのだからPAに頼らなくてはならない。これはヤマハが鳴る楽器を作るのに精を出し、音を出す難しさと工夫を若い演奏者から削り取っていったのと同じだ。
道具の進歩そのものは大切なことだが、それは同時に片側では人間の智慧の種を奪っていくことにほかならないのだ。
そのことで一番重要なのは、結果としての出た「音」に対する感性が鈍くなるということだ。
それは、良い音と悪い音の区別を付けられない、になる。
であるから、当然自分自身が目指す音そのものの選別が出来ないので、単に好き嫌いの範疇でしか選べないのである。
つまり、「良い音」ではなく「好きな音・嫌いな音」という子供のレベルが成長することがないということだ。
ある時、やけにやかましい、騒がしい、押しつけがましい、耳障りで不遠慮でデリカシーの欠片もない音がテレビから流れていた。
何がなっているのかと画面を見ると「十二楽坊」とかいう集団だった。
ただ「音」を鳴らしている、ただ楽譜という記号に並べられた音符を連続的に鳴らしているに過ぎない音に、テレビを叩き壊してやろうかという位の嫌悪感を感じたのだ。
ただの「音」を鳴らすのならシンセーサイザーで十分だ。
わざわざこんなに沢山の人が寄り集まる必要などどこにもないし、シンセーの方がよほどましだ。
機械は日進月歩しているのだから、それを使わないのが不思議だった。

楽器を鳴らすには、PAなしの演奏は良い訓練になる。
もちろん、和太鼓も例外ではない。
大きな会場で,また野外でPAを入れずに演奏すれば良いのだ。
いかに自分の音がショボイか身をもって知るだろうから。

和太鼓と肘の抜けさて、
和太鼓の音を出すには、それは膝の柔らかさと肘の抜けに尽きる。
膝の硬さは音を地面から跳ね返し、膝の抜けがないのは太鼓の皮に跳ね返される。
ということは、太鼓の胴が振動しないし、裏の皮を振動させ打ち込んだエネルギーを外に出せることはない。
つまり、音が抜けないということだ。
音が抜けないというのは、遠音が鳴らない、つまり、音源の近くではやかましいが少し離れると音は聞こえないというものだ。
肘と膝とくれば、それらをどこから使うのか、ということになる。
そこで「胸骨の上下運動」であり「背骨の連動」が重要になってくる。
胸骨を上げる時、肘が上がり、肘を落とすきっかけの為に胸骨を下げるのだ。
もちろん、肘は抜けていなくてはならない。


それには二つの理由がある。
一つは初速は遅く終速は速く、つまり、
打ち込みの瞬間はトップスピードでなければならないからだ。
一つは、そのトップスピードを出し打ち込んだバチの跳ね返りを跳ね返るままに受け止める為だ。
太鼓表面の皮への打ち込みだが、これは、今の二つの理由の後者で、
バチで皮をミュートしないように跳ね返りをきちんと拾い上げる事が出来なければならない。

この「胸骨の上下運動・背骨の連動」が、軽い手元のバチ先に体重を移動させ、重たくてキレのある音を出すのだ。
どう考えてみても、和太鼓を鳴らすには全身を使わなければ出来ない。
厚い皮、厚いくりぬきの胴を振動させなければならないからである。
最後に重要なのは、
足を踏ん張らないことだ。
足を踏ん張ることで、自分の体重を地面から押し上げてしまう。
体重が浮いてしまうということだ。
ということは、空中から太鼓を叩いているのと同じ状態になる。当然、音は鳴らない。
同時に、足の踏ん張りは、全身の筋肉を緊張させることに繋がる。
したがって、これも音を抜く為には絶対にしてはならないことだ。
和太鼓は「力」では鳴らないし、腕力で叩けば叩きながらミュート(音を消している)していることになる、というごく初歩的な事を知らないというのは、不勉強なのか和太鼓を好きではないのかだ。
しかし、一番難しいのは太鼓の音を鳴らすことではなく、「音楽として成立させる」ことだが。


 

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