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1ーまず骨格で考えてみる |
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| 身体を不思議だと思うのか思わないか?そこが効率的なトレーニングが出きるのか出来ないのかの分かれ道です。 例えば、身体は「誰が」動かしているのでしょう。 足の隅々まで手の隅々まで「自分が管理できている」でしょうか? 自分が管理しているから手は食事を運んでくれるのでしょうか? 自分は「食事をしよう」と思っただけではないでしょうか? いや、ふと頭をよぎったでけではないでしょうか? 心臓は誰が動かしているのでしょう?血液の流れは誰が指令を出しているのでしょう。 誰が指令を出しているから胃は食物を消化したり、栄養素だけを吸収するのでしょう。 そういった事を一切意識しないでも働いてくれる「身体」。 ちょっと気分が動いたらそれに比例して緊張してしまう身体、意識を一定方向に向けようとすればするほど萎縮する身体、思っていることを直接的には実現させない身体、意識の固さがそのまま投影されている身体、精神が直接投影されている身体。 しかし、無意識的には完全な身体。 といった「身体の不思議」という問題を抱えた「身体」を、こと「運動をする」という視点で捉えたとき、身体をどう考えどう働かせなければいけないのでしょう。 そして、様々なスポーツの記録や観客を魅了する、表現そのものを表現している身体に作り上げるにはどうすればよいのでしょう。 |
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例えば手や足は、それぞれが独立して動いているかのように思うし見えます。 しかし、それは自分では感じ取ることが出来ないだけで、全身は繋がっているし連なって運動を起こしているのです。 でも、一般的には独立して動く許容範囲(筋力・稼働)だからと思いがちです。 ですから、その許容幅だけを広げていくことを、ボディ・トレーニングやウエイト・トレーニングと呼んでいるのです。 それを一般的には、どんな有名なスポーツ選手も殆どの例外なくトレーニングと思い取り組んでいるのです。 では試しに、どんな姿勢でもいいですから、例えばコップを持つのとちょっと大きなヤカン(5リットル位)に水を一杯入れたものを持つのを比べてみて下さい。 どうですか、コップは精々肩と肘辺りにしかテンションは掛かっていないように感じるでしょう。 でも、5リットルの方はどうでしょう。 もしも立っているなら、体重の掛かっている背中・腰や足の裏にまでテンションが掛かっているだろうし、座っているのなら、肘・肩はいうに及ばず背中・腰から骨盤の下側にまでテンションが掛かっているのを感じられるでしょう。 ですから、手は独立して動いているのではなく、自分自身が感じ取りにくい場合と感じ取り易いかの違いだけで全身で動かしているのです。 となると、一般生活は別にして、色々なスポーツやダンス、といった身体を駆使する事で記録を、あるいは表現として何かを求めるとした時、手や足、そして身体全体を働かせるための基本的な考え方は、手・足といった部分だけを強化するのではなく、身体全体をどういう仕組みだと捉えるのが良いか、そして、その捉え方でどう働かせばよいのか、が非常に重要な問題になってくるのが分かるでしょう。 そうなんですよ、一般生活の延長線上で、そして、自分の鈍い感受性で身体のことを考えても駄目、ということなのです。 分かるでしょう。記録を出したり、人以上の力を出したり、人並み以上の表現される動きを作りたければ、日常生活の延長線上には何もないのですよ。 日常生活の延長線上というのは、先程話したように、手や足が独立して動いているかのように見えたのは、自分自身が身体に対しての感受性の鈍さという事ですね。 ですから、その部分の筋力だけを鍛えたり、稼働範囲を広げる、という発想を持つのですが、その発想が日常生活の延長線上だということになりますね。 |
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