バンドボーイ9
バンドボーイ10
バンドボーイ11
バンドボーイ12
バンドボーイ13
バンドボーイ14

楽器屋のおばあちゃんが、楽屋に来た。今日の俺の注文は、スティックだけだ。
「アキラ君、どうやった?」
「あかん、大失敗したから」
「ほうか、そやけどアキラ君やったら、どこでも仕事あるから心配せんでええで」
楽器屋のおばあちゃんは、慰めてくれた。
もちろん、俺はもうそのことは頭になかった。

本当の意味でのオーディションを受けたのは、この 9 ピースが初めてだ。
ボーヤの時は、レギュラーのドラマーがいるので、何度か色々なバンドにトラに行かされたことがあるし、他のバンドの人に頼まれてトラで行ったこともある。
トラで貰うギャラが嬉しかった。
同じバンドにいたギターがナイトをしていた、堺の場末のキャバレー。
ここでは傑作な思い出がある。
どんな編成だったか忘れたが、やっていた曲はその頃の俺でも叩けるメモリー形式が多かった。
メモリー形式というのは、小節の数だけ書いてあって、全部アドリブでやるというもの、あるいは、リズムの形式だけあるから、例えばラテンのマンボやチャチャのように、それだけを叩いていればよいもの等だ。
店が終わり南海電車で堺市駅へ。
深夜 12 時からステージだ。
キャバレーの舞台では、ドラムが一段高いところにセッティングされていることが多い。
その店もそうだった。悲劇はそのセッティングで起こった。
1 ステージは気分よく叩いた。おかげでプレイは上々の受けだった。
バンマスがレギュラーで来て欲しいと言っていた。
「何で俺がこんな場末のキャバレーで叩かなあかんねん、あほか」
と内心思いながら、
「ありがとうございます」
とお得意の社交辞令。
俺のドラミングは、当時からとにかく身体を動かす。
揺れたり飛び上がったり、まるで多動児だ。
確かロックの曲になった時だった。
俺は身体を動かしながらリズムを刻んでいた。
その最中突然目の前が真っ暗になった。
「どうしてん?」
大きな音と共に、俺はステージの後ろに転落していたのだ。
大爆笑しかない。
バンドのメンバーは、びっくりして、しかし音は止められないので、演奏をしたまま後ろのステージを覗き込む。
バンマスは後ろに駆け寄り
「大丈夫か日野君」
と声をかけてくれた。
「大丈夫です」
俺はそう答えながら、ドラムの方へ上がっていった。
何事もなかったかのように、演奏を続けた。
俺の肩の震えは止まらない。
笑いが止まらなかった。
恥ずかしいやら、照れくさいやら。

数日後、オーディションを受けたバンドのバンマスから電話が入った。
「アキラ君、来月から来てくれるか」
「えっ、ほんまですか!ありがとうございます」
やったぁ!しかし、しかし、どうしてあんな失敗をした俺がオーディションに通ったのだ?
メインのショーは、京都の「ベラミ」と同じショーが入る。
つまり、一流のショーが入るのだ。
当然、譜面やショーの構成など、本当に難しい。
色々な経験を持っていなければ熟せるはずもない。
オーディションに受かりながら、そんな不安を持った。
しかし、次は 9 ピースに行くとなると、馴染んだこのバンドが去り難く感じる。
ピアノの Y 子や、ベース共別れがたい。
しかし、そんな感傷に浸っていても仕方がない。
9 ピースではギャラは E 万( 30,000 円)になる。
一挙に 3 倍だ。
1968 年の 3 万だから、まずまずだ。

「おはようございます」今日から新しい店だ。
バンマスに「どうして私が選ばれたのですか」
と聞いてみた。
「プレイはまだまだやけど、見込みがあるからや」
と答えてくれた。
とりあえずは、その言葉を真に受けることにした。
何しろ、選ばれた根拠が全く分らなかったからだ。
しかし、しかし、その 9 ピースのメンバーと打ち解けてくると、メンバーの年配の人達が教えてくれた。
種明かしは単純だった。
バンマスがどれほどピンはね出来るか、ただそれだけだ。
ピンはねする為には、若くて余り上手くない方が良い。
しかし、ビッグショーが入るので、そこそこ叩けなければ話しにならない。
そんな条件をピッタリ持っていたのが俺だったのだ。
しかし、俺にすれば給料が一挙に 3 倍だから文句はない。
そんな相互の利害が一致した、ということだ。

9 ピースに来て数日目、俺が危惧していたことが起こった。
とんでもないビッグショーが入ったのだ。
名前は忘れたが、世界中で引っ張りだこのフランスのサーカスグループのショーだ。
テレビの世界のビッグショーにも出演している、超有名なサーカスだった。
午後からリハーサルが始まった。
俺は譜面を見ながら、何とか誤魔化しつつもプログラムを進めた。
しかし、決定的な技術を要求される場面に来た。
譜面には「ドラムロール」としか書かれていない。
一本のロープの上でバランスし、色々な演技をするシーンだ。
その演技の緊張感に合わせてロールをするのだ。
ドラム一発で、そのショーの出来不出来は決まってしまう。
ところが、俺はまだロールは出来ない。
ロールの練習を多少はしたが、まだまだ出来ない。
それよりも、一つ打ちや三連、あるいは、リズムを正確に、あるいは、ややこしいシンコペーションのたたき方の方に力を入れていたからだ。
「どうしよう」
冷や汗はどんどん湧いてくる。
逃げるに逃げられない。
本当に、この場から飛び出して行きたかった。
本当に叩けないし、誤魔化しようもなかったからだ。
とうとう、そのシーンが来た。
リハーサルは止まらない。
演技をする人がロープに乗った。
俺はそれを見上げているだけで、何も出来ない。
音は無い。
リハーサルとはいえ、ステージは水をうったような静けさが重く圧し掛かってくる。
演技は、ロープの上でバランスを取り、椅子を乗せた。
次がロールだ。
通訳の人とマネージャーが、俺の横で説明してくれる。
「あかんて、いくら俺に説明しても俺は叩けないのだから」
内心祈るような気持ちだった。
何か突発的なことが起こって、ショーが中止にならないか。
そんなことも祈った。
いきなり火事にならないか。
演技者は椅子の上に立った。
両腕に輪をはめ、その輪を回す。
そこが一回目の見せ場だ。
輪をはめた。
「ロール!」
マネージャーが俺に叫んだ。
「ルルルルルル………!」
俺は思わず叫んだ。

 

バンドボーイ10

フランス人のスタッフ、マネージャー、通訳、みんな大喜びだ。
「素晴らしいジョークだ!」
アホか、冗談とちゃうで、ロールが出来ないだけやんけ、ほんまにどうしよう。
体中から冷や汗が噴出しているのが分った。
「 OK 分った、ではロールを」マネージャーが一頻り笑った後、真顔で俺に指図した。
冗談じゃない、俺は叩けないのだ。
とりあえず、ハイハットを半開きにし、誤魔化した。
「それよりも、スネアドラムの方が緊張感が出るから、スネアで」
あかん、どうしよう!!
俺の動揺に気付いたのはバンマスだ。
バンマスが何やらマネージャーと話た。
リハーサルは、俺がロールが出来ないまま進んだ。
「お疲れさまでした」
リハーサルは終わってしまった。
リハーサルは終わっても、俺がロールを叩けないのが叩けるようになるはずも無い。
中地下にある、独房のような音を出せる楽屋にスネアを持ち篭った。
さっきまで叩けなかったことが、今更練習したからといって突然叩けるようになるはずも無い。
色々工夫をするが、当たり前の結果が出る。
スネアを持って、逃げてやろうかと思った。
逃げる理由が頭を駆け回った。
正当な理由をだ。
演奏は誤魔化しようもないから、逃げるしかない。
バンドの連中は、年齢が離れているせいもあり、口をきかない。
誰かと気を紛らわすことも出来ない。
窒息しそうな時間がどんどん過ぎていった。
1 ステージが始まってしまった。
どの曲をやっていても、ほとんど上の空だ。
あっという間に、ショーの時間になった。
マネージャーやタレントさんが楽屋に来る。
楽屋がいきなり賑やかになった。
いや、賑やかになったように感じたのだ。
最終的な譜面合わせが始まった。
キッカケを確かめ、譜面に赤鉛筆で書き込んだことに間違いがないか確認する。
ここのキャバレーは、フロアーが二つある。
上のフロアーは、落ち着いたクラブ調なので、コンボが二つ入っている。
二つあるコンボの内のピアノトリオの方のドラムの人が打ち合わせにやってきた。
情けないのと恥ずかしいのとで、そこにいる気がしなかった。
これで二度目だ。
また、他のドラマーに頼らなければならないのだ。
最低!!

背伸びをする。
やれないことでもやれるという。
そこで負わなければならないのは、恥をかくことだ。
もちろん、俺も好き好んで恥をかこうとしているのではない。
一つ上のレベルに上がるとは、こういうことだ。
一つ上のレベルとは、今の自分の世界とは違う世界だ。
当然、何も出来ない、知らない。
だから、勉強になるし、精神も強くなっていくのだ。
何よりも、付き合う人間が変わる。
これが一番大きなことだ。
ということは、話題も変わる。
日常の過ごし方も変わるということだ。

自分の代わりに、そこのパートだけをやって貰う。
代わりに来てくれたドラムの人は、かなりのベテランで、打ち合わせなどどこ吹く風のようだ。
「アキラ君、練習したら叩けるようになるんやから、誰でもそんな時期があるからええんやで」
と、生きた心地のしなかった俺を慰めてくれた。
出来ない自分に腹も立つが、自分の決めた練習を止めないのが俺だ。
その技術の為の練習をするより、基本的な練習を沢山積めば自動的に出来るようになる筈だ。
というのが俺の持論だ。
だから、また恥をかくこともあるだろう。
そうも思っていた。
ショーはつつがなく終わり、何事もなかったように日常のスケジュールに戻る。
もちろん、その日常のスケジュールといっても、毎日ショーはある。
その意味では、毎日冷や汗のかきどおしだ。
ショーがあるから、本番が練習になる。
また、上のフロアーのどちらかのドラムが休んだ時は、俺が掛け持ちを頼まれることが多かった。
「アキラ君はフル向きじゃなくて、コンボ向きやな」
上のバンドの人達によく言われた。
この掛け持ちが、俺の人生に一つのレールをもたらした。
上のフロアーに掛け持ちで行き、この先で音楽を一緒に考える仲間になる滝口(仮)と出会ったのだ。
私より、一つ年上のアルトサックスだ。
これが無茶苦茶うまかったのだ。
チャーリー・パーカーの丸コピーを、音一つ間違わず、ノリも良く吹くのだ。
コルトレーンのコピーもしていた。
口数が少ない分、一寸厳しい奴に見えた。
そこのベースも若く一生懸命だ。
滝口とは、お互いに嗅覚が働き「一緒に練習しようや」どちらともなくジャズの話に花が咲いた。

俺は当時( 1968 〜)、 Charles Lloyd の [Forest Flower] を好んで聞いていた。
ドラマチックに展開される曲と、後半の明るいラテンの雰囲気でフリーに展開されるアドリブが良かった。
また、ドラムの、ジャック・デ・ジョネットの奏法が好きだったからだ。
年も俺より少し上で、フリーがかったアプローチが俺の何かに引っかかったのだ。
そのバンドのピアノは、キース・ジャレット。
このピアノもフリー系、ベースのセシル・マクビーも同じだ。
丁度、俺よりも少し年長の若者が実験を繰り返している、という感じだった。
ジャズ喫茶で見つけた音に、チック・コリアもあった。
当時はラテンバンドで演奏していた。
その演奏にも何か惹きつけられた。
きっと、世に出る若手だろうと思っていた。
当時ジャズ界は、新しい波が押し寄せていた。
オーネット・コールマンがニュージャズと呼ばれその代表のようなものだった。
それは、調性やスケール、コードからいかに解放されるか、の模索だ。
スタンダードなジャズを演奏している人達も、少なからずその影響を受けていた。
コルトレーンの死後、ポストコルトレーンを探し求めていたのだ。
しかしそれは、ジャズだけの世界の出来事ではなかった。
既成の価値観や、体制から押し付けられる様々なことに、俺と同年代の若者達は、全世界的に牙をむいた時代だった。
ヒッピーという文化もこの頃から全世界的に広まった。

俺は滝口と初めて一緒に演奏した。
まるでレコードと一緒にやっている感じだ。
クラブが営業に入る前、来る日も来る日も練習をした。
俺が好きな [Forest Flower] だ。
滝口は Charles Lloyd を丸コピーした。
俺はアドリブのポイントになる箇所の、ジョネットのコピーを徹底的にした。
このクラブでの練習が、フリージャズになる入り口になった。

 

バンドボーイ11

9 ピースを辞めた
東京で仕事がありそうだったからだ。
もちろん、オーディションがある。
新幹線に乗り東京へ向った。
まさか自分が選ばれる筈もない。
そんなことは百も承知だ。
小学生が大学を受験するくらいのレベルの差があった。
いや、俺は幼稚園くらいかもしれない。
しかし、レベルがそれほど上の人と、 1 曲でも一緒に演奏出来ることで、本当の差が分るのだ。
自分の実力がリアルに見える筈だからだ。
何が足りて何が足りないか。
それとも、全く向いていないか。
自分の中の何か一つでも、通用しないまでもカッコが付けばよい、と思っていた。
そう思うと、身体がもう動いていた。
切符を買って飛び乗った。
東京は、中学の時から家出をした時、必ず東京へ行っていたので、少しばかりは分る。
池袋の喫茶店、新橋の喫茶店、歌舞伎町の喫茶店、巣鴨の市場、荻窪で新聞配達。
それらをしながらウロウロしたからだ。

銀座のジャズハウスでオーディションは行われた。
20 人足らずだったと思う、ドラマーがそこにいた。
生まれて初めて自分よりも上手な人を、沢山見ることになった。
そうは思ってはいても、「いや、俺が通用する」とも思っていた。
その鼻っ柱の強さがなければ、わざわざ東京まで出向いてこないし、何も知らないドラムを選んでいるはずもない。
会場でフリージャズをしているというドラマーと会った。
フリージャズでも仕事になるんだ、やっぱり東京は凄い、と、まるでおのぼりさん感覚でそのドラマーの話に聞き入った。
話を聞きながら俺の頭の中は、大阪に帰ったら絶対にフリージャズをやっていってやろう、と決断していた。
オーディションが始まった。
次から次へとドラマーが変わっていく。
曲の途中で終わることもあった。

俺の番が回ってきた。
ピアノがリーダーだ。
バラードのような調子で曲が始まった。
何も分らない。
バラードなのか、それともイントロで、リズムが出てくるのか。
全身をセンサーにして、ピアノを聴いた。
何も分らないが、「ここ」という一瞬があった。
その「ここ」というところで、スティックはすでにシンバルで 4 ビートを刻んでいた。
同時にベースもリズムを刻んだ。「良かった!!!」内心、第一の関門はクリアしたことに安堵した。
ピアノの人が、チラッと俺を見て微笑んだように感じた。
ピアニストはニットの帽子を、目が隠れるほど深く被り直し、鍵盤に集中した。
曲の名前は忘れてしまったが、ミディアムテンポのスタンダードなものだった。
先ほどのフリージャズのドラマーも、これからオーディションを受けるドラマー達も見ている。
よっしゃー、ほんなら暴れてやろうか。
左手を未熟ななりに自在に遊ばそうと思った。
しかし、しかし、ここで金縛りにあった。
息も出来ないほどの金縛りだ。
ベースのリズム、ピアノのメロディ、アルトサックスのアドリブ。
それらに、身動き一つ出来なくなってしまったのだ。
右手でリズムをキープするのが精一杯だ。
左手はスネアドラムの上に置いたまま動かせなかった。
息をすれば、そのリズムが狂うと思った。
姿勢を変えれば、このドライブ感が崩れてしまうと感じた。
ああああー、このまま早く終わって欲しい!!!
無我夢中で叩いた。
これが世界のレベルか!
しかし、手は届く。
現に今、こうして皆でドライブ出来ているではないか。
よっしゃー!
俺はいけるで!
何だか分からない内に演奏が終わった。
「君の電話番号を教えて、日頃はどんなところで活動しているの」
「キャバレーやクラブです」
この一言でオーディションは終わったと感じた。

大阪に帰り返事を待ったが、案の定こなかった。
分ってはいたが、ショックというより寂しい気持ちになった。
仕方が無いのでトラの仕事を探した。
梅田曽根崎の方でトラの仕事があった。
店へ行って驚いた。
クラブで一緒に練習をしていた、アルトサックスの滝口がいたからだ。
「アキラ東京へ行っていたんやろ、どうやった?」
もう噂は流れていた。
「あかん、連絡けえへんわ」
そこのトラは半月だった。
この時期トラで食いつないだように記憶する。
主にフルバンドだ。
それこそ、譜面の良い勉強になったし、そこで出会ったバンドの人に、次のトラやレギュラーの仕事を貰ったりした。
新しくバンドを組む機会がもう直ぐあるから、その時は絶対に呼ぶから、と言ってくれたバンマスもいた。
そして、 1 年ほどしてそれは実際に実現した。
みんなに本当に可愛がってもらった。
色々な演奏スタイルを、一番吸収した時期ではなかったか、と思う。

大阪梅田にあった、ダンスホール「ワールド」。
そこに長期のトラにいった時、ドラム人生で一番頭に来た出来事があった。
もちろん、その頭にきたというのは、頭にきても何も出来ない自分という意味もある。
本当に、本当に悔しい思いをしたのだ。
ドラム人生ではなく、もしかしたら人生初の悔しい思いかもしれない。
その出会いによって、今まで以上、ドラム人生に猛ダッシュをかけたのだ。

フルバンドで気分良く演奏をしていた。
ステージが終わりバンド部屋に帰ると、見なれない顔の俺より若い奴がいた。
「おはようございます」
その若い奴に一応挨拶をした。
若い奴は
「おはようございます」
と返したが、何かスッキリした感じがなかった。
バンマスがそいつに
「おはようございます」
と丁寧に言った。
「えっ、こいつは何者やねん」
「遊んでいって下さいよ」
バンマスはえらい低姿勢だ。
「アキラ君、彼を遊ばしてあげて」
「いいですよ」
若い奴は、俺の顔を覗き込んで
「お願いします」
と言った。
そうか、ドラマーなんや、しかしバンマスがえらい低姿勢なのは、俺が知らないだけできっと名前の通ったドラマーなんやろ。
それにしても、幾つやろ?

ステージが始まった。
俺は、ドラムの前に据え付けてある、コンガのを演奏することにした。
曲が始まった。
右手のシンバル、そのビートが鋭く強い。
左手はトランペットセクションをアフルようにアクセントが付く。
愕然とした。
ほんまにうまい。
リズムも音も生きている。
ビートは 4 つしか刻まない。
そうか、それでもいいんや。
小気味良いドラミングは、バンドそのもののサウンドを底上げする。
無茶苦茶良いバンドに聞こえてしまうのだ。
「うまい!」
俺には絶対に届かない。
その 1 ステージは、本当に勉強になった。
ステージが終わった。
「お疲れ様でした」
俺は、俺よりも若い奴、というのを忘れて頭を下げた。
「お疲れ様でした」
とそいつはおでこの汗を拭きながら笑いよった。
何か質問すれば良かったのかも知れないが、そんな余裕はなかった。
ただ、頭の中は空っぽになっていただけだ。
次のステージも時間があるという。
もう 1 回遊んでくれないかな、と思った。
しかし、そいつは
「日野さんのプレーを聞かせてください」
ときた。
「はい」
とは言ったものの、冷や汗が脇の下から吹いていた。
そのステージは、空回りしていたかも知れない。
そいつのようなことは叩けない。
俺のやり方でフルバンドをドライブさせるだけだ。
汗びっしょりでステージは終わった。
「お疲れ様でした」
そいつは言った。
「お疲れ様でした、ありがとうございました。どうでしょう」
俺はたずねてみた。
ここでこいつが言った言葉に、なに〜!このボケ!!!

 

バンドボーイ12

「日野さんのプレーは若いですね」
「……そうですか」
俺よりも 3 歳年下の男に「若い」と言われた。
何が?どう?と聞く筈も無い。
聞いたところで何も出来るはずも無い。
その評価が現在の自分だからだ。
ただただ「そうですか」というしかない。
もしかしたら顔色が変わったかもしれない。
声が引きつったかもしれない。
そいつは 12 歳の時、天才ドラマーとして、ジーン・クルーパーが来日の際、アメリカに連れて帰りたいと言われたという。
そうだろう。
17 歳のドラミングではなかった。
フルバンドの勘所をピシャッと押さえ、尚且つパンチがあった。
自分のドラミングの延長線上にはない、全く異質のもの、例えば、「本物のドラミングだった」と表現できるだろう。
色々と、アドバイスを受け最後に、そいつから、当時アロージャズと人気実力共二分していた、ニューソニックジャズの久保さんを紹介してやろうか、という話が出た。
久保さんは、フルバンドのドラマーでありながり、梅田にあるジャズ喫茶「インタープレー8」でフリージャズを演奏していたのだ。
もちろん、俺はその「インタープレイ8」には、ちょくちょくのぞきに行っていた。
山下洋輔トリオが大阪に来ると、そこが本拠地だ。
俺は、涎が出そうになった。
あの久保さんに紹介してもらえる!
こんなチャンスは今後ないだろう。
しかし、俺の口から出た言葉は
「ありがとうございます」
だけだった。
「紹介してください」
とは口に出来なかった。
とことん天邪鬼な俺だ。

しかしきっと、その日は眠れなかっただろうと思う。
「プレーが若い?」
俺は考えた。
畜生!!分らない!!
この悔しさは、俺の練習に拍車をかけてくれた。
教則本や基本の一つ打ち。
メトロノームと練習台、教則本が、俺のバッグに入っていないことはなかった。
その後、その彼の話を聞いて驚いた。
字がすらすらとは読めないのだ。
もちろん、譜面も少ししか読めない。
………。
字が読めないということは、譜面の並んである順番が間違っていたら、それで演奏は出来ない。
だから、誰よりも早く店に行き、他のメンバーの譜面の順番を見て、自分の譜面の順番を確認するそうだ。
譜面も少ししか読めないということは、ほとんど曲を覚えているということと、無茶苦茶勘が良いということだ。

勘が良いといえば、以前バンドに足を踏み入れた時に、色々と教えてくれたアルトの伊藤さん。
伊藤さんが所属していたバンドを見学しに行ったとき、若いギタリストがいた。
ラテンを弾いてもポップス他どんな曲を弾いても、ジャズの匂いがしていた。
「うまいなぁ」
と感心していたら伊藤さんが、
「彼は譜面は読めないけど、一回曲を聞いたら全部覚えてしまうんや。凄いで」
といっていたのを思い出した。
そんな天才は人知れずいるのが音楽の世界だ。
天才を追い越すことは出来ないだろうけど、追いつくことは出来るかもしれない。
いや、追いつかなければ良い仕事にありつけない。
その為に我々凡人が出来ることは練習しかない。

ワールドのトラが終わりかけた時、郊外のキャバレーに入っている、フルバンドのトラの仕事が舞い込んだ。
そこのフルバンドは、若手のアレンジャーがいて、最新のサウンドを出しているという噂があった。
メンバーは皆練習熱心で、音も限りなく鋭いという。
ジャズをバンドで練習しようとしたら、市内よりも郊外、郊外よりも地方だ。
その方が融通が利くのだ。
そして、何よりもエレキバンドではなく、ジャズバンドはまだ珍しい存在だったからだ。

「良いバンドだ」という噂があったから、俺はその仕事を受けることにした。
なるほど、メンバーは若い。
ステージに上がり譜面を見た。
譜面は、カウント・ベーシーやデューク・エリントン楽団のレパートリーもあるが、アメリカのバークリー音楽院の譜面も沢山あった。
バークリーの譜面の譜割りは、既成のジャズバンドのスイングする譜割ではなく、もっとコンボジャズのアンサンブルの譜割に似ていた。
「難しい!」
譜面を見るだけで、そのバンドが高級なこと、新しい音を目指しているのがよく分った。
毎日昼頃に店に行き練習をした。
コンサートマスターはトロンボーンだった。
演奏中でも厳しく厳しく指示を出す。
その厳しさが心地よい。
バンドマスターやそのコンサートマスターが
「アキラ君、実はこの店は後○ヶ月で契約が切れるんや。その後、もう少し小編成にし新しい店に行くことになっているんや。その時、ドラムで来てくれるかな」
と言ってくれた。
もちろん、喜んで参加したいと告げた。
全員が燃えているバンドは楽しい。
給料の問題ではない。
箱バンドは契約になっているから、バンマスは仕事を取らなくてはいけないので大変なのだ。
子供がおり、生活の掛かっている人も当然いる。
だからメンバーを遊ばせるわけには行かないからだ。
そのバンドに、若いテナーサックスがいた。
何故かお互いに接近した。
年齢が同じだったせいもある。
大きく音楽の話、ジャズの話、女の話、硬派軟派ごちゃ混ぜで、何時も盛り上がった。
このテナーサックスとは、その後私のバンドでフリージャズを共にすることになる。
そのバンドのステージは、例によって 1,2 ステージは、ジャズを演奏する。
その後の 3,4 は、バイショウだ。
もちろん、市内のように一流のタレントではないが、ヌードダンスからマジック、ジャグラー、コーラスグループ他色々なショータイムが連日あり、その前後は演歌からロックまで、幅広く客の好みに合わせて演奏する。
そうショーといえば、最初の 9 ピースでは、「夜と朝のあいだに」が流行ったピーターや、「グット・ナイト・ベイビー」のコーラスグループ、カルメン・マキなども入ったのを思い出した。

その頃になると、「譜面は任せ」と一応言えるくらいになっていた。
もちろん、バリバリというのではなく、誤魔化すテクニックも充分に身に付き、ショーを壊すようなことにはならない、ということだ。
しかし、バークレーの譜面は本当に難しかった。
スイングジャズではないから、流れが違う。
適当には出来なかった。
それがまた練習になったのだ。
そうこうする内に、トラの契約期間が終わった。
バンマスやそのテナーとは、再会を約束して別れた。
その後、北新地でピアノトリオの仕事があると情報を得た。
オーディションだ。
昼間そのクラブに行き、オーディションを受けた。
クラブなのでドラムのボリュームを上げることは出来ない。
主にブラシを使い、スタンダードやボサノバがメインだ。
思い切り肩がこった。
「 2 , 3 日したら電話するから」
とバンマスに言われたので、その返事を待った。
残念ながら電話は無かった。
「まあ、ええか」
ボリュームを気にして、完全に萎縮してしまったから仕方が無い。
何だかんだで秋、以前お世話になったバンマスから電話が入った。
「アキラ君、バンドの打ち合わせをしよう」
「よっしゃぁ、やるで!」

バンドボーイ13

そのバンマスは、店とのギャラの交渉や何やかんやで、相当手間取ったようだ。
店は大阪十三だ。
無茶苦茶環境の良いところにオープンしたダンスホールだ。
確か隣はラブホテルだったように思う。
当時は、あっちの筋が通りのあちこちに、ひしめき合っていた。
予算の関係で、バンドはフル編成ではなく、変則の 7 ピースになっていた。
むろん、フル編成にこしたことはないが、やる気のあるメンバーが集まっているだけで楽しい。
ダンスホールだから、スイングの曲からタンゴまで演奏しなければならない。
メンバーはことあるごとに集められ、リハーサルを繰り返した。
それが、何とも楽しい。
難しい曲ばかりだったからだ。
どういう手順で叩けばよいのか、どんなおかずを入れればよいのか、そんなことだけを考える毎日だった。
リハーサルが終わり、テナーサックスの Y と夜遅くまで、ジャズの話で盛り上がった。
フリーの演奏を正当化する理論はあるのか、リズムを制圧するには、何を用いるのが良いのか、本当に楽しい時間だった。
当時、若手のドラマーで名前が少し出始めている中に、俺の名前も上がっていた。
勢いがある演奏をするのは、きっと一番だったと思う。
テクニックは無いが、メリハリをつけられるから評判が良かったのだろう。
店のオープンが近づくと、店に集まり音を出すようになった。
休憩は、近くにある喫茶店だ。
やはり、その筋の人風が多かった。
しかし、もっぱらサウンドの話や、曲の話、ジャズの話ばかりなので、まるで気にならなかった。
だが、逆に向こうは、長髪の若者がたむろしているのが気になっているようだった。
うっとしそうな顔をして、睨まれたものだ。
相手バンドは、東京から来たいわゆるエレキバンドだ。
しかし、元気の良い演奏ではなく、歌謡曲やコーラスを主に演奏していた。
「なんじゃ、これ」
こちらのバンドの若い連中は、年寄りくさいエレキバンドに
「どうしたの?」
という感じだった。
むろん、年寄りくさいといっても、俺らと同い年か、もう一寸だけ上かも、というくらいで、バンマスを除いて殆ど同年齢だ。だから、「なんじゃ、これ」なのだ。
いよいよ店はオープンした。
社交ダンスの先生や生徒さんたち。
プロもアマもいた。
その踊りを見ていたら面白い。
特にラテンでは、驚くような振り付けがあった。
北にあるダンスホール・ワールドでは、余りにもフロアーが広く、バンドも一段高いところ、そこのまだ上にドラムがセットされているので、踊っている人を見るのは中々難しかった。
ここ十三では、フロアーと舞台が殆どフラットだったため、踊っている人がよく見えた。
しかし、しかし、オープンはしたが、客足は今一だった。
十三でホールは無理なのか。
別段我々バンドマンは経営者ではないから、どうでもいいのだが、店が存続してくれなかったら演奏が出来なくなる。
そんな意味で、客足が悪いのは気になるのだ。
当時は、良いバンドを入れる事が、客足とも関係するので、どんな場末のキャバレーでも、良いメンバーを欲しがったものだ。
客も少ないのに、対バンのエレキバンドは歌謡曲をしていた。
「何でやねん」と、横から口出ししてしまった。
「お前ら、わざわざ東京から歌謡曲を演奏する為に、大阪に来たんか。客も少ないんやから、得意の曲をしろよ」と。
バンマスは「そうですね、じゃあ、そうします」と、ベンチャーズのナンバーやアストロノウツのナンバーを、小気味良く演奏した。
「ええやんけ!」
我々のバンドは大喜びだ。
皆その世代だからだ。

友人で、高校からアルトサックスをしていた、 S とは店に入る前によくお茶を飲んだ。
どこかへ行った帰り道、とんでもないことをしでかした。
枚岡の方から大阪に向けて軽の箱バンを、 S が運転し俺とベースの I 田が同乗していた。
バンの前を、路線バスが走っていた。
まるで、バンの邪魔をするように、ジグザグに走る。
頭に来て
「 S 、追い越してしまえ」
と怒鳴った。
S も頭に来ていたので、追い越し禁止の道路だが、横にはみ出してバスに並びかけた。
窓を開けて、バスの運ちゃんに
「ボケ!ちゃんと真っ直ぐ走れ!」
と怒鳴った。
バンがバスの前に切り込んでいった瞬間、バンは何故か傾いた。
全くコントロールを失い、そのまま道路横に止まっていた、真っ白のブルーバードに突っ込んで行く。
「やったー!」
と思った瞬間、バンはブルーバードに激突し、その反動で反対車線に回転しながら飛び出した。
反対車線は、トラックが目の前に迫っていた。
「死んだ」
と目を閉じた。
………生きていた。
バスの運転手が、えらい剣幕で降りてきた。
アホか、お前の運転が下手やからやないか!怒鳴りあっている最中にパトカーが到着。

数ヶ月したある日、俺に面会だとボーイさんが言ってきた。
指定の喫茶店に行くと、全く知らないおっちゃんがいた。
「日野ですが」
「日野君、始めまして、トランペットの o 田です」
話は、そのトランペットのおっちゃんが、新しくバンドを組むという。
そのバンドにドラマーで来て欲しいとのことだ。
「いや、まだこのバンドも出来立てやし、私も入って間もないので」
と断った。
おっちゃんは諦めて帰ろうとした最後に、その店は阿倍野にあって、音楽部長は槌野さんだという。
「えっ」
一瞬耳を疑った。
槌野さん??
日本でジャズが最盛期の頃、東の白木秀夫、西の槌野一郎と言われた名ドラマーの名だ。
アート・ブレーキー張りの、ファンキーなドラムで人気を博したと聞いていた。
「槌野さんが部長なのですか、あの槌野さんが」
「そうだよ、ピンちゃん(槌野さんの通称)とは、古い中なので」
「……、店は何時からですか、絶対に行きます。よろしくお願いします!」
俺は、元気よく返事をした。
何だか知らないが、興奮した。
ワクワクした。別に部長だからといって、何がどうなるわけでもないのに。
地に足が着かないとは、このことだ。
それこそ、自分勝手に運命的な出会いを感じたからだ。
バンド部屋に戻ると
「アキラ君、何か良いことがあったんか」
と皆に言われた。
きっと顔も紅潮していたのだろう。
声も上ずっていたのだろう。
何だか知らないが、とにかく興奮していた。
さて、どうして辞めるかだ。
時間は 1 ヶ月も無かった。
当然、正式な辞め方は出来ない。
また、折角俺を指名してくれたのだから、というのもある。
しかし、槌野さんの下で働きたい。
どうするか???
答えは一つしかない。
問題は、それをある意味で正当化する手段だけだ。
さて、さて、

 

バンドボーイ14

どうするか?
答えは単純だ。
どう決行するか、だけだ。
俺は基本的に朝早くから店に行き、一人で練習をするのが日課になっている。
ボーイさんが掃除をしたり、様々な業者が搬入作業をする中、一人でドラムに座っている。
そこにヒントがあった。
答えがあった。
「そうか!」
ボーイさん達は、オーナーからバンドは練習が一番大事だからと、練習の邪魔をしないように教育されている。
だから、俺がいくらガンガンドラムを叩いても、誰も文句を言わない。
しかし……。文句を言う奴がいた!
ラッキー!
オーナーの息子が支配人をしている。
支配人は若いから文句を言うことがある。
ここに標的を定めた。
支配人を怒らせば良いのだ。
とにかく支配人がホールで何か仕事をしている時、その時こそチャンスだ。
とどのつまりで、そのチャンスは巡ってきた。
何時もの流れから、その日辺りには作業をするだろうと思っていた。
別のバンドにいる友達に車を頼み、その店の前で待機させておいた。
もしも、文句を言わなかったらこの計画は頓挫する。
しかし、この日が新しいバンドの顔合わせだ。
だから、絶対に成功させなければならない。
私が練習を始めてしばらくすると、案の定支配人がホールに来て帳簿を開けた。
ここぞとばかり、何時もよりも大きい音でドラムを叩いた。
支配人が叫んだ。
「日野君、ちょっとうるさいから止めてくれ!」
出た!
計画通り「止めてくれ」が出た。
この言葉を待っていたのだ。
俺は「ハイ、すぐに止めます」と言いながらニッコリ。
究極の勘違いを演じたのだ。
ドラムの練習を止めてくれ、と支配人が言ったのを、俺はドラムを止めてくれ、ドラムを辞めてくれ、と取ったのだ。
「止めてくれ」と言われたから辞めた。
かくて計画は成功。
ドラムセットを店の前で待つ友人の車にセッセと運び出した。
支配人はホール、俺は舞台通路から裏口を通って外へ。
エンジンを掛けて一路阿倍野へ。
「おはようございます!」憧れの槌野さんが部長をする店へ。
間に合った!
バンマスの O 田さんはトランペット、他にテナーが寺岡、ピアノが平田、ベース…、名前を忘れた。
このバンドを皮切りに、日野晃のわがままジャズ放浪記が始まる。 22 歳だ。

この頃は(大阪万博)、叔父と一緒に豊中の蛍が池に住んでいた。
文化住宅の 2 階建てだ。
今でこそ、高速道路が通り、モノレールの大阪高速鉄道も乗り入れ蛍が池の駅も立派だが、当時は古びた商店街があり、夜の駅は改札口など通る必要もない程辺鄙なところだった。
当然無賃乗車やキセルは日常茶飯事だ。
だから、時々駅員が数人見張りについていた。
その蛍池の駅から 10 分くらい歩いたところに、文化住宅があった。
そこに、友人のアルトサックスの佐藤、教育大特音の生徒、合計は確か 6 人くらいだったと思う。
ジャズ 2 人、クラシック 4 人という割り振りだ。
クラシックの作曲科、ピアノ科、フリュート科の連中達だ。
叔父はフリュートで、名前を忘れたが外国の有名なフリュート奏者の公開レッスンで、認められ留学を薦められた。
しかし、母親、つまり、私の祖母が病弱だったためそれを断念した。
その実力から、学校では生徒だったが、教授の代わりに講義をすることもあった。
その賑やかな家に、叔父にレッスンを受ける為に、ファゴットやバイオリンの生徒達が来る。
何とも賑やかな家だった。
夜な夜な音楽談義花が咲く。
安物のウイスキーを買ってきて、殆ど毎晩だ。
そうかと思えば、哲学的な話題。
作曲家の話題。
クラシック音楽とジャズ音楽の違い。
そんな話題で毎日朝までドンちゃん騒ぎをやらかしていた。
朝になると、色々な楽器の音が家中に響く。
さすがに、俺はドラムセットは叩けない。
みんなの音を消してしまうからだ。
仕方なく練習台を相手に練習を始める。
本格的な練習は店でやるしかない。
ここでの生活は、ジャズとは何?音楽とは?歌うとは何?という事を徹底的に考えるきっかけになった。
毎晩クラシック畑のエリート達と話をするので、負けるわけにはいかない。
絶対音感の持ち主や、完璧な相対音感の持ち主もいた。
しかし、絶対音感の持ち主は、街を歩くと音の洪水で、時々気が狂いそうになると言っていた。
そうすると、必然的にクラシック音楽関係の書籍や、理論書を読んでいなければ太刀打ち出来ない。
そんな環境が無茶苦茶楽しかった。
正しく音楽漬けの毎日だ。
近くには 176 号線が通り、深夜蛍池から庄内まで、よく走った。
庄内に安くて美味しい食堂があったので、そこに食事に行く為だ。
伊丹空港も直ぐ傍だったので、この辺りもよく走ったものだ。
何を思ったか、マラソンに出ようか、と皆で盛り上がった時だ。

阿倍野の店で、音出しが始まった。
ベースの野郎が気に食わない。
ノターとしたリズムのくせに、やたらと大きい音を出す。
一番最初に頭に来た。
演奏中にニタッと笑うのも気味が悪く、それにも腹が立った。
似合いもしない長髪も気に食わない。
ピアノは、いまだに付き合いのある平山だ。
もちろん、この時が初対面だ。
テナーサックスの寺田は、粗っぽくやたらとコルトレーン節を吹く。
バンマス以外、殆ど年齢を同じくらいだった。
そんなことで、バンマスとベースを除いて、話が合った。
1 日 2 日と過ぎていく。
例によって、1,2ステージはジャズで、3,4ステージはバイショウだ。
ジャズは良い曲がびっしり並んでいた。
バンマスがアレンジし、少し古臭いところもあるが、アレンジの行き届いたいい曲ばかりだ。
初めて見る曲、譜面はワクワクする。
難しいアンサンブルやリフもある。
それが楽しくて仕方がない。
やはり、ベースは演奏も何もかもが気に食わない。
俺は、事ある毎にベースに注文を出した。
音色のこと、リズムのこと、音量のこと。
しかし、ウンウンというものの、何も注文どおりにしない。
俺と寺田、平山の 3 人は休憩時間には連れ立って茶に行く。
コルトレーンの話、前衛音楽の話、そして、ベースは最低だという話。
ふと俺がボーヤの時一緒だった、ベースの相田の事が頭に浮かんだ。
「そうか、あいつを呼んだらいいんや」
1 ヶ月もした頃、俺はバンマスに直訴した。
俺が辞めるか、ベースが辞めるか、二つに一つの選択を迫ったのだ。
バンマスは困った顔をしていた。
俺はショーの演奏もバッチリ出し、部長の槌野さんに気に入られている。
しかし、ベースは下手くそだが、これといった失敗はない。
だから辞めさせる理由は見当たらないのだ。
それでも俺は、再三再四バンマスに迫った。
しばらくしてバンマスが
「日野ちゃん、それなら代わりのベースはいるのか」
と言ってきた。
「良いベースがいますよ」と即答。
俺は相田と連絡を取っており、丁度遊んでいると言っていたからだ。
「一度、遊びに来させて」とバンマス。
つまり、オーディションだ。
よっしゃぁ!
相田が余程のへまをしない限り入れ替えさせらる。
相田に代われば、もっと良い音を出すことも、冒険も出来る。
これが実質上のバンド乗っ取りに繋げるとは、夢にも思っていなかったが、紛れもなくその一歩になった。

つづく

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