バンド修行15
バンド修行16
バンド修行17  
バンド修行18
バンド修行19

バンド修行20

相田がオーディションを受けに来た。
1 ステージ譜面やらメモリーを演奏した。
やはり、気持ちの悪い長髪のベースよりも遥かに良い。
ビートがバッチリ。
一寸頭を押しかげんだから、ドライブする。
バンマスもそれを認め、翌月から相田のレギュラーが決まった。
ピアノの平田とは、この店が初めてだ。
住吉大社のすぐ近くに住んでいた。
相田が来るようになり、いっそうフリーへの勉強は高まった。
ある時槌野さんに頼んで、閉店後練習をさせてくれるように頼んでみた。
今のように、音を出せる安いレンタルスタジオなどなかったから、バンドの練習となると場所探しに大変だった時代だ。
槌野さんは、何のためらいも無く良い返事をくれた。
俺が曲想を練り、譜面を作りそれを材料として練習を開始した。
テナーサックスの寺田は、コルトレーンに傾倒しており、その節を絶叫する。
何か物足らなかったが、音を出せる喜びの方が勝っていたので苦にならなかった。
そんな日が続いたある日、寺田がポツリと「俺東京へ行こうと思ってんねん」と告げた。
東京なら、フリージャズでも演奏する場はある。
以前、東京でオーディションを受けたとき知り合ったドラマーは、渋谷でフリーを演っていると言っていた。
しかし、大阪には皆無というより、無かったのではないかと思う。
俺をはじめ平山や相田も、寺田の気持ちは良く分かるので「そう思うのなら行った方がいいで」と、皆で東京行きを進めた。
寺田は何を話しているのか分からないこともあった。
それは、ハイミナールでラリルレロの傾向があったからだ。
しかし、それも「面白い」と許容できる時代だった。
「何を言うとんねん、こいつ」で終わりだ。
それはファッションだったと言えば、寺田は怒るかもしれないが、大方がそんなものだ。
ハイミナールでプレイが良くなるくらいなら、練習などする必要もない。
朝から晩まで薬漬けになればいいのだから。

ということは、テナーサックスが抜けるのだ。
よっしゃー、ほんなら麦本を呼ぼう。
バンマスにそのことを告げると、すぐにオーディションに来てくれとのことになった。
これで、バンマス以外全部俺の連れになった。
こうなるとは、夢にも思わなかったがなってしまった。
麦本が加入してから、バンマスの苦悩の日々が始まるとは、これまた夢にも思わなかった。
バンマスは一流のフルバンド出身なので、面白いアレンジをする。
難しいと言えば難しいが、アンサンブルなどが楽しかった。
しかし、若い俺たちは「イナタイ(意味不明だが、その響きでバンドマンは、野暮ったいものを指していた)」と曲やアレンジをけなしたものだ。

ある時、レコード屋をのぞいたら、面白いジャケットが目に入った。
ビッチェズ・ブリューマイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」だ。
店の仕事を終え、早朝まで練習し住吉の平山の家まで、阿倍野筋を走る上町線電車の軌道上を歩いて帰る。
小学校の頃、近くの近鉄電車の軌道上を歩くのが楽しかったのを思い出しながら。
もちろん、踏み切りにいる鉄道員に見つかれば叱り飛ばされるのだが、その目を盗んで歩くのが面白かった。
電車が近づいているのかどうかは、レールに耳を付けその振動で知るのだ。
鉄橋の上を電車が来るまでに渡りきるゲームなどは最高に楽しかった。
そんなことを思い出させる、帝塚山 4 丁目から神ノ木駅そして、住吉大社だ。

早速買った「ビッチェズ・ブリュー」に針を置く。
「ワァ〜」思わず声を上げてしまった。
俺が作っている曲と殆ど同じ構成、同じ曲想だ。
もちろん、その完成度や技術など比べるまでもないものだが、俺達が歩いて行く方向が間違っていないと確信した瞬間だった。
3 人で顔を見合わせて、身体を全部耳にした。
沈黙の中、マイルスが吼える。
祭りの夜、夜店で入りもしない輪投げで、間違って大物に入ってしまった時、香具師が驚いた顔をしたのを見たような喜びが包む。
当時 12 音技法の理論が、フリーを正当化出来ると直観し、「シェーンベルクの和声法」をテナーの麦本に勉強させていた。
しかし、この理論も古いといえばホコリもカビもビッチリ固まっている程古い。
何しろ 1900 年代初頭のものだからだ。
しかし、フリーの即興演奏に何かしらの秩序を入れる方が良いのでは、と思っていたからその材料を以前から探していたのだ。
同じ頃、バウハウスの教官をしていた、カンディンスキーの「点・線・面」という抽象絵画の理論にも興味があり、そこから曲想を考えてみたりした。
思い起こせば、この頃は時代性かも知れないが、やたらとそういった類の本を読み漁ったものだ。
そんなことが、自分たちは時代の最先端を歩いていると胸を張らせた。

バンマスは「君らは新しいことをやっているけど、私のアレンジは古いけどちゃんとやってください」等とやたらと卑屈になっていった。
「このおっさん、おかしいのんとちゃうんか」今から思い返しても、少しおかしかったような気もする。
大阪のノリが、バンマスには通用しなかったのもおかしくなった原因かもしれない。
ある時など、何が原因だか忘れたが、勝手にステージを下りてしまい、俺たちだけでステージをやったこともあった。
それはバンマスの抵抗だったのだろうが、それは逆に俺たちに未来を見せたのだ。
いずれ、このメンバーでバンドを作り、最高の音を出そう、という結束が暗黙の内に出来上がっていったからだ。
だから、バンマスの持ってくる難しいアレンジを、一音も間違わないように完璧な演奏を毎回するように努めた。
傑作だったのは、マイルス・デイヴィスの「マイルス・トーン」を演ることになり、カウントを俺に出してくれと言う。
俺は思わず、皆の顔を見た。
そして、次にニッコリ。
もちろん、それでなくてもアップテンポの演奏だが、それ以上のテンポでするぞ、というニッコリだ。
ダブルカウントをとることにした。
1.1 。 1.2.3.4. …。
このアップテンポには、当初無茶苦茶てこずった。
いくら早く叩こうと思っても、あるテンポまではいけるが、それ以上は無理だった。
マックスローチとクリフォードブラウンの演奏などを聞くと、息も出来ないほどのアップテンポで展開されている。
来る日も来る日も工夫をするが、どうにもならない。
そんなある日、不思議な夢を見て目が覚めた。
昨年紹介してくれるのを断った、ニューソニックジャズオーケストラのドラマーである久保さんの夢を見たのだ。
俺がアップテンポで苦戦していると、「こういうノリで叩けばいいよ」と教えてくれたのだ。
俗に言う「夢枕に立つ」というものだ。
俺は驚いて飛び起き、直ぐにそのノリで叩いてみた。
もちろん、そう易々とはいかないが、何かしら手ごたえは掴んだ。
それから、練習のかいあって超アップテンポも、難なくこなせるようになったのだ。

 

バンド修行16

超アップテンポをこなせると、面白いイメージが次々に湧いてくる。
バラードを演奏していても、その 4 倍速を感じられるし表現できる。
もちろん、その逆も可能だ。
そのことがより演奏表現の幅を広げていった。
一寸したきっかけで、バンドの演奏はまるで譜面に書かれているように変化していくのだ。
いわゆるインタープレイだ。
そうなるとバンマスは着いて来れない。

このごろは、ちょうど大阪万博だった。
1970 年だ。
巷では安保闘争や学生紛争へと突き進んで行った。
キャバレーの仕事は夜からなので、昼にバンドメンバーと万博に行った。
世界中から新しい考え方が集まり展示されているから、好奇心が思い切り刺激された。
シュトック・ハウゼンの電子音楽や、多重構造になっている壁面がランダムに動き、ある一瞬美しい図形を現すモアレ効果。
このモアレ効果は、音楽を表現する上で、そして関係性の本質を考える上で、私に決定的なヒントをくれた。
そして忘れもしない西ドイツ館。
これは別段新しいものではない。
ドーム状のパビリオンの天井、その天井に仕掛けられた無数のスピーカーから音が降ってくるのだ。
聞いている、というよりも、音に完全に包み込まれるという体感だ。
音楽はベートーベンの運命。
これはショックだった。
オーケストラの構造が出してくる音の深みは、「ジャズって一体何?」と言っているようだった。
キャバレーに帰ってからも演奏に全く力が入らなかった。
「あれが音楽なら、俺のやっていることは何だ?少なくとも音楽ではないのでは」
そんな思いが身体中に蔓延ってしまったのだ。
これは瞬時には立ち直れなかった。
とにかく理由を探した。
自分という人間が音を出す理由を探した。
バンドのメンバーとそんな話を明け方までした。
しかし、そのどれもが俺を突き動かすものではなかった。
そんなことが、西洋音楽というものに対する根本的な疑問を生んでくれた。
しかし、 1970 年という時代はそんな個人的な感傷など吹き飛ばす勢いを持っていた。

この年は、 1970 年 3 月 31 日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便よど号ハイジャック事件があり、ある意味で世間は騒然となっていたからだ。
そこに万博だ。
昨年自民党から民主党に、政権が戦後初めて変わったが、丁度この前後の頃は、あらゆる既成の価値観に対して「一寸、おかしいのでは?」と気付き始めると同時に、その矛先を求めて安保や学園紛争が進行していた。
もちろん、芸術の分野でも同じだ。
次々と新しい試みが出現した。
そうそう、ハプニングという即興パフォーマンスも新しいジャンルとして出た時代だ。
ダダカンという名前は覚えている。
いわゆるストリーキングの元祖だ。
フォークコンサートもグループサウンドを凌駕し、大きなコンサートが色々あった。
当時の若者が、一番燃えた時代だ。
それは日本だけではなく、世界同時進行していたのだから不思議なことだ。

時代が俺の感傷をぶち壊し、アイディアに集中されていった。
前々から疑問に思っていたことを、「ではどうするのか」に向けられていったのだ。
それは、演奏する時、そこにはリズムがある。
そのリズムをどうしてドラムが担当しなければならないのか、だ。
つまり、リズムは既に提示されているのだから、ドラムはリズムキープではなく、もっと色々なことを演奏すれば良い、という考え方だ。
もちろん、そんな考え方は 60 年代の中頃からあっただろう。
それはトニー・ウイリアムスのリーダーアルバム「スプリング」
などでも聴かれる。
もちろん、コルトレーンもしかりだ。
しかし、この考え方は俺自身が気付いたことだから、それを突き進めていかなければならない。
誰かがやっていたからといって、同じ方向に発展するとは限らないからだ。
それよりも何よりも、俺自身の考え方を考えて行くことしか頭には無かった。
リズムという枠を取り払うと何が残るか。
それは時間だ。
拍の変わりに時間を正確に体感出来る訓練をやりだした。
まずは 5 秒とか 10 秒とかを、仲間で当てる訓練だ。
それが出来てくると、計る時間をどんどん長くしていった。
逆に 1 秒の 1/10 までは体感できるようにもしていった。
雑談をしながら、時間を当てたり、色々な工夫をやりながら、時間を体感する方向に進めていったのだ。





バンマス不在のステージにボーイさんがやってきた。
ピアノの平山に何やら話している。
客からリクエストだそうだ。
難解なジャズより軍歌をやってくれていう要望だ。
「アホか、何で軍歌をせなあかんねん」
と一括。
ボーイさんは客からのチップを持っていた。
「チップをくれるんならやろか」
演奏を中断して、軍歌の打ち合わせをした。
曲は「戦友」と決まった。
しかし、しかし、直球で軍歌を演奏しても、面白くも無い。
「よっしゃー、ほんならイントロは敵機襲来ということで、思い切りフリーでいこか。ボーイさんが飛んできそうになったら、いきなり『ここはお国を何百里〜』と始めようや」
打ち合わせ終了。
「敵機襲来!」俺の一声で、いきなりフリーが始まった。
客はその大音量と音の洪水に一瞬静かになり、舞台に注目した。
1 分だったか 3 分だったか、それ以上だったか覚えていないが、ボーイさんが舞台にきかけたので、無事戦友は始まった。
曲が終わった時、拍手があったのを覚えている。
そんなこんなで、仲間はどんどん結束が固くなっていった。

そんなある日、槌野さんが一人の少年を連れてバンド部屋へやってきた。
「日野君、この少年にドラムを教えてやれ」生徒の第一号だ。
ドラムを叩きだして 3 年。
生徒など持てる技術も、引き出しもない。
しかし、やったろやないか精神が、「分かりました」と言わせた。
その槌野さんがある時、「日野君のドラムの音は、ドラムの音と違うで」と、私のスティックを持って練習台を叩いた。
キーンという金属音が、バンド部屋に響いた。
「えええ〜」違う、全く違う、バンドの他のメンバーも目を丸くした。
本当の音と嘘の音、アマチュアの音とプロの音、そんな違いだ。
槌野さんから、たった一度貰った大きすぎる問題だった。

 

17

先日、押切さんの Bar 道で、埼玉公演の反省会を開いていたら、客の一人の若者が
「日野さん、バンドボーイ更新してくださいよ。無茶苦茶面白いですから」と言われ、更新を思い出した。

槌野さんの一打。
種も仕掛けも無い俺のスティック。
そして俺の練習台。
何一つ仕掛けは無い。
音が違う。
というよりも、俺の音は音ではない。
何度も何度もスティックを振り上げ、叩く。
「ええ〜、もう一回お願いします」
槌野さんは、子供のような笑顔で
「何回でも叩いたるけど、一緒やで」
と言いながら、練習台を叩いてくれた。
頭が真っ白になったまま、元に戻らない。

槌野さんが部長をやっているおかげで、年に一回か二回、ジャズのショーをやっていた。
ジャズのスタンダードや、バップの曲をアレンジし、ショートして行うのだ。
そこのキャバレーは 2 店舗あり、もう一つのキャバレーには、伊藤コルトレーン(バンドボーイの時の伊藤さんとは別人)と呼ばれていたアルトサックスの達人と、藤沢さんという名ピアニストが所属していた。
伊藤コルトレーンは、 1 日中練習していることでも有名だった。
ジャズショーには、槌野さんも、愛器グリッチと K ジルジャンの前に座り演奏をする。
細身のシルクのスーツに細身のネクタイ。
それがまた似合っていて、かっこ良かった。
50年代ファッションだ。
二つのバンドが合同で演奏をするのだが、それがまた難しい曲ばかりだ。
この時とばかりに、アレンジに粋を凝らすからだ。
その一つが今でも覚えている 6/8 のリズムだった。
これがうまく叩けない。
というか、ノリを掴めなかったのだ。
譜面通りに叩いたところで、リズムにはならない。
そのノリがさっぱり分からなかったのだ。
リハーサルで何度も失敗をし、先輩達からアドバイスを貰った。
しかし、根本的に分かっていないから、いくらアドバイスを貰ってもさっぱり分からない。
また、有名なミュージシャンと一緒に演奏をする、という気後れもあり、身体はガチガチに固まってしまう。
今でも、その時の冷や汗のシーンを覚えている。
背伸びをするのは本当に苦しい。

もちろん、そのもう一つのキャバレーにもドラマーはいる。
年は俺より 2 歳くらい上で、俺以上に生意気な奴だった。
そう言えば、こいつはよく見かけた顔だ。
俺が行きつけのジャズ喫茶「パナマ」に、出入りしている顔だ。
そうそう、そこのウエイトレスが彼女だった。
その当時は、声をかけたことは無かった。
暗くて、何かうっとおしそうな顔をして、一人でポツンとしていたからだ。
この後、古田といったそいつとは、色々な場面で出くわすことになる。

そいつは、槌野さんの出した音を出せるのだろうか?
そいつの演奏を聞きながら、シンバリングに集中した。
「出ていない」内心喜んだ。
「よし、俺が先にこのプロの音を出してやる」
そう決めた。
しかし、道はそれ程簡単ではなかった。
色々なテクニックへの挑戦は、ある意味で諦めた。
まず、音だ。
それは逆に一つ打ちを徹底していることになっていた。
基本中の基本だ。
来る日も来る日も、練習台に一つ打ちを打ち続けた。
繰り返していると、耳がおかしくなる。
出来たような音に聞こえてしまうのだ。
その時、練習台とスティックを持って、槌野さんのいる事務所に行く。
「この音ですか?」
槌野さんは決まって、ニコニコしながら叩いてくれた。
まるっきり違う。
そりゃそうだろう。
長年培って獲得してきた音を、ヒヨッコが出せる筈も無い。
それが若いということだ。

小澤征爾・武満徹
朝まで練習をした時は、平山の家に泊まる。
そんなある日、衝撃的なレコードを平山がかけた。
武満徹の「ノーベンバーステップス」だった。
「何じゃこれ!」
オーケストラのサウンドもさることながら、静寂というか、日本の間がそこにあった。
横山勝也氏の尺八と鶴田錦史氏の琵琶が、強烈な世界を作っていた。
「卑怯や!」
思わず叫んだ。
民族楽器を操る名人は、西洋楽器の名人とは一線を画する。
それは西洋的抽象音を出す為の楽器奏者ではなく、人類という「人」の代弁的道具の語り部だからだ。
その世界には、 10 代で天才と称される者など有り得ない世界だ。
(義太夫の竹本住太夫さんが「死んでも修行は足りまへんわ」とおっしゃっている)
何故なら、音は精神でありこころであり、魂そのものだからだ。
10 代のガキに、精神もこころも魂も、人間の内面など熟成される筈もないからでもある。
その時「卑怯だ」と思わず叫んだのは、それを西洋音楽に持ち込むと、絶対に西洋音楽は伴奏に成り下がってしまうからだ。
ということを、ノーベンバーステップスが俺に直観させてくれたのだ。
身体が熱を持ち、ワクワク以上のワクワクが俺を襲っていた。
俺の中で、何かが変わった瞬間だ。
何度も何度も琵琶の音、尺八の音に身体をかたむけた。
ドラム以上に強烈なタッチ。
尺八の息。
その時、日本の音というもの、そして、音というものを考えるのに、ある方向性を見出したのだ。
その夜は眠れなかったのでは、と思う。
ベンチャーズやビートルズ、そしてコルトレーン。それらの音に強烈な印象を受けた。
生まれて初めて聞く音。
それは何よりも新鮮であり、好奇心を身体の隅から沸きあがらせてくれた。
しかし、しかし、それ以上、それとは全く次元の異なる新鮮な何かが、俺の中の何かに火を点けてくれた。

キャバレーでは、バンドは二つ入っている。
対バンには、オルガントリオが入っていた。
丁度俺と同じくらいの年の 3 人だ。
ベースはやたらとでかいアンプを持っていた。
畳 1 畳はあるかもという代物だ。
ベースはフェンダーだ。
髪の毛は、きちんとセットをし、軟弱な感じの奴だった。
吉本、こいつと、この先一緒になって荒らしまわるとは、夢にも思わなかった。
その吉本は、俺らの 1 、 2 ステージの時、決まって演奏を聞いていた。
吉本のトリオの演奏は、凄まじい大音量のベースと、何を弾いているのか分からないくらい、ノイズを出すオルガンで、それこそ本当は一番大きな音を出すドラムの音が聞こえなかった。
「きっとエレキ上がりやで」
とみんなで言っていた。

ある日、吉本が「話がある」と口を利いてきた。
朝までやっているスナックで、バンドを探しており、そこで一緒に演奏して欲しいとのことだった。
俺らは何時も音を出したい、ましてやギャラをくれるなら余計に良い。
早速オーディションを受けに行くことにした。
テナー、ピアノ、ベース、ドラムの編成だ。
キャバレーの仕事が終わり、 4 人でミナミに繰り出した。
数年前まで、この街で店を出しバーテンをしていたので、隅から隅まで街は知っている。
「ここや」
御堂筋を渡り、少し歩いた地下の店の前で吉本が言った。
「ええ〜、ここか」
「何やアキラはこの店知っているんか?」
「知ってるも何も、俺はバーテンの駆け出しの頃、この店に助っ人で来たことあるで。もちろん、マスターが変わっているかもしれんけどな」

 

18

45.6 年前、じゅうたんバーなるものが流行った。
店内で靴を脱ぐのだ。
今でこそ、色々な飲食店で靴を脱がされるところがあり、それが市民権を得ているが、高度成長時代の入り口である当時は、中々市民権を得ることが出来なかった。
バーテンがいなくなったと、福田のおやっさんのところに泣きが入り、俺がヘルプで行かされたのだ。
地下特有のかび臭い匂いが店に漂っていたのを思い出した。

吉本が先頭に立ち店に入った。
やはり、靴を脱いで上がるのはそのままだった。
長身でおしゃれなマスターに、吉本は俺たちを紹介し、早速演奏することになった。
客はパラパラだ。物置か何かと間違うような空間があり、そこにドラムがセットされていた。
それこそ箱詰め状態だ。
吉本はベースをチューニングし、テナーの平山もマウスピースを取り出し、リードを合わせる。
俺は、果てしなくひどい備え付けのパールのドラムを、演奏しやすいようにセッティングしなおした。
いくらセッティングを直しても、楽器そのものがショボイし、ドラムヘッドもシンバルもお遊びのものだ。
仕事が決まったら、スネアとシンバルを持ってこなければ駄目だ。
オーディションに来るのは来たが、何を演奏するのかは全く決めていなかった。
「何を演奏する?」
「この店に合う様な曲ってどんなんや」
「どんな客が来るんや?」
打ち合わせに手間取っていると、マスターが
「ジャズをやってくれたらいいよ」
と言ってくれたので、何かスタンダードをすることにした。
しかし、そうは言うものの、スタンダードの曲でピアノレスは難しい。
カッコが付けにくい。
もちろん、皆がバリバリのミュージシャンなら別だが、皆血気盛んなだけでテクニックがそれほど有るのではないからだ。
テーマだけ吹いて、後はフリーで全曲行くわけにはいかない。
とにかくテナーしかメロ楽器がないのだから、平山に頑張ってもらうしかない。
ガンガンのエレキベースで 4 ビートというのも無理がある。
それでも、とにかく演奏した。
何曲か演奏していると、客が増えだした。
客席を見渡すと、結構客層は若い。
俺らくらいの年齢が大半だ。
一応 40 分ほど 4 ビートやボサノバなど取り混ぜて演奏し、ステージを終えた。
カウンターに戻るとマスターが、
「明日から来てくれるかな」
と、俺らの演奏で良い事を告げられた。
マスターから水割りをご馳走になりながら、店内を良く見渡すと
「何じゃ、こいつら」
と言いかけてしまった。
そうヤンキーだ。
この時代に大阪ではヤンキーが誕生していたのだ。
バックにはその筋がいるグループも沢山あった。
もちろん、単独のグループもあった。
ここにたむろしているのは、そのどれかは分からないがヤンキーには違いない。
何かが起こる予感がした。
いわゆる胸騒ぎという奴だ。
何かが起こるのではなく、何かを起こすかもしれないといった方が正しかっただろう。
その日は、水割りを一杯飲んで店を出た。
「大丈夫かな、あの店」
「大丈夫やろ、何とかなるやろ」
「いや、あのガキ共やで」
一応 3 人とも不安だった。
しかし、それからしばらくは、何事も無く夕方からのキャバレー、終わってからのバーでの演奏は続いた(この当時、キャバレーやクラブでの仕事を終え、その後、食事を提供し踊れるサパークラブが沢山あり、そこで仕事をすることが多かった。それをナイトと呼んでいた)。

胸騒ぎが的中したのは土曜日だ。
土曜日は小さな店にヤンキーが溢れかえった。
そんな時は、ジャクソン 5 の“ ABC ”を延々と演奏する。
あれこれ曲を変えるのは面倒なので、同じリズムパターンやリフの繰り返しで、延々とアドリブをやるのだ。
ヤンキーどもはその曲に合わせて、踊り狂っていた。
演奏している前の方はヤンキー、店の奥のカウンター付近にはサーファーと、完全に店が二分されていたのも面白い。
ヤンキーは長髪のサーファーに因縁を付け、髪の毛を切り取ったりした。
通称サーファー狩りという。
この店でもそんなことが起こるのかもしれないという雰囲気はあった。
サーファー達が店に入ると、ヤンキーたちはしきりにガンを飛ばしていたのだ。
演奏を終えてサーファー達がいるカウンターに座ると、ヤンキーが俺らに何かと話しかけに来た。
もちろん、俺たちは長髪だった。
なかでも吉本は、長髪をきちんとセットしており、ヤンキー達のもっとも嫌いなタイプだ。

その日は、確か夏か夏になる前の梅雨頃だった。
短パンから薔薇の刺青をのぞかせたヤンキー数人が寄ってきたのだ。
当時は、タトゥというものではなく、本物の刺青だ。
何を話したのかは覚えていないが、因縁を付けに来たのは間違いない。
鼻にちょこんと乗ったサングラス。
ヒサシのような前髪。
細く白いビニールのベルト。
周りにいたサーファー達が少し固まっていた。
俺ら 3 人は目で合図しながら、やるかやらないかを検討していた。
そんな時、ヤンキーの一人が
「きれいやろ」
と俺らをびびらすように、シャツを脱ぎ肩に入った漫画を見せた。
そんなものは中学の頃に見飽きている。
俺は瞬間的にキレた。
「何が?」
と俺が言うと、
「何!」
と反射的に怒鳴ったので
「静にせえや」
と俺はわざと低い声で言う。
丁度、野菜サラダを食べていたところだったので、手にはフォークを持っていた。
「もっときれいな赤色を入れたろかボケ!」

マスターの意向は、ジャズ演奏をすることで、場違いなヤンキー達を追い払いたかったのだ。
それが俺たちが、ファンクの曲をやるものだから逆に増えてしまったのだ。
しかし結局、この騒ぎは店として良い方向に向かった。
ヤンキーが来なくなったのだ。
2 足のわらじを履いた生活はしばらく続いた。
そんなある日、ベースの吉本の姿が店に無かった。
「あれっ、吉本どうしたんやろ」
俺らは心配したが、遅刻して来るのではと思っていた。
しかし、とうとう営業が終了するまで店に来なかった。
となると、ナイトの店で演奏出来ない。
今の今、ベースのトラを探せるはずも無い。
何れにしても、吉本の紹介なので何らかの形で店に連絡を入れているだろう、ということで、店に行かないことにした。

久しぶりに夜はゆっくりだ。
平山の家に行った。
平山が面白いレコードをかけ
海童道宗祖「あきら、これな法竹という楽器で、生の竹を無造作に切り、それを楽器にしてるんや」
その音色と勢いに圧倒された。
「これ面白いな、日本や」
平山がどうしてこのレコードを持っていたのかは知らないが、とにかく当時の俺にとっては、全部勉強になった。
というよりも、俺の中でくすぶっている何か、それを見つけ出す為のヒントになった。
ノーベンバー・ステップスの鶴田錦史氏の琵琶といい、この法竹の海童道宗祖(わたずみどう しゅうそ)といい、ドラム以上の強烈な一撃であり、勢いだ。
耳を通り越してこころに突き刺さる。
それを、日本の音というのは簡単なのだが、その日本の音という中身が分らない。
今思えば、それを探す旅にこの時出たのではないかと思う。
いわば、ジャズとはもうすでに離れたということだ。
もちろん、当時の俺はそんなことには、丸っきり気づいてはいない。
ただ、ピンと来た、それだけだ。
法竹の「ムラ息」は、その中でも際立っていた。
どちらかと言うと、音ではなく息の吐く音、瞬間的に全身全霊で、息を吹き絞り出す音だ。
「こんな音を出せるようになってやろう」
無意識が相反応していた。

 

19

吉本が店に来なくなって 2.3 日が経ったある日、ふと客席を見るとスナックのマスターの顔があった。
ステージが終わり、マスターの席に行った。
「君ら、どうして店に来ないの」
「いや、吉本が消えてしまったので、どうしようかと考えていたところです。これは吉本の仕事だから」
「そうか、消えてしまったんか、じゃあ、君らで改めて店で演奏してくれないか」
「考えさせて下さい」
その後どうしたのかは、サッパリ覚えていない。

バンマスとの中は、何故かどんどん険悪になっていった。
何故かではないな。
俺らリズムセクションとテナーが組んで、色々仕掛けをしたり、演奏そのものを全く違うサウンドにしてしまうからだ。
小節を取っ払う、するとそこに残るのは時間だけだ。
その時間内でリズムを伸ばしたり縮めたりする。
言わば日本の民謡のように、縦割りのリズムを排除していったのだ。
もちろん、ドライブしないしスイングもしない。
ベタッとした感じになる。
しかし、そこにはスリルがあった。
息も出来ない程の緊張感があった。
バンマスは、それを演りたいのではないから、どんどん欲求不満になっていったのだろう。
ノイローゼ状態だった。
俺らはおかまいなしに、実験を繰り返した。

バンマスとの中が最悪になった時、逆に俺もキレた。
「よっしゃ、それならこのバンドかき回して辞めたろ」
俺らはバンドを辞めることにした。
ほんとは、一度に全員抜けるのが良いのだが、槌野さんへの顔もあるので、一人ずつ辞めることにした。
まずは俺だ。
丁度、ピアノトリオを勉強したかったこともあり、一番最初に辞めた。
もちろん、仕事の当てなど無い。
まあ、どこかにあるやろ、という感じだ。
楽器屋のおっちゃんにトラの仕事を回して貰った。
大阪の玉造くんだりにあるアルサロだった。

次の駅は森之宮、そして京橋。この辺りは、小学生の頃やたらとうろついた。
京橋と森之宮の間には、旧陸軍の砲兵工場跡があった。
そこに金目のものを拾いに来ていたのだ。
そして、その事は常に大喧嘩になる事だった。
工場跡地の横に運河があり、そこの船上生活者、通称アパッチの資金源が、その工場跡の金目のものだったからだ。
ナタを振り回して追いかけられたこともある。
とにかく、スリルに満ちた地域であり、時代だった。
その意味で、ここは俺の地元と言っても差し支えないくらい近所だ。
とにかくガラが悪いところだ。

何日か経ったある日、ステージから客席を見ていると、見た顔があった。
じっと見ていると、向こうも気が付き、メンチの切りあいの様になった。
その回のステージが終わり、俺は客席に向かった。
向こうも俺を睨んでいる感じだ。
近づいていくと、向こうが声をかけた。
「日野とちゃうんか」
「おお、やっぱり清水か、見た顔やと思っていたんや」
「久しぶりやんけ」
中学の時、新聞配達で鶴橋付近を配っていた。
そいつは、俺とは別の学校で別の新聞屋だった。
お互いに少しだけ被った地域があり、そこで拡張のしのぎを削っていたのだ。
それが講じて、よくお互いに新聞の抜き合いをやったりした。
喧嘩こそしなかったが、その寸前までは行っていた仲だ。
共通の有人もおり、そんな話に花がさいた。
「そうか、ジャズドラマーを演っているんか、俺は家の跡を継いでるで」
「そうか、継げるものがあってええやんけ」

場末のアルサロで良いサウンドはない。
しかし、その分自分の練習が出来る。
演奏中少々冒険をしても、誰もそれが分からないから、何も言わないからだ。
そのアルサロの仕事が終わる頃、ピアノトリオの仕事が舞い込んで来た。
早速バンマスに連絡を入れて、オーディションを受けることになった。
ビル・エバンスタッチのピアニストだった。
とにかく堅実にリズムキープ、そしてスムーズなブラッシング。
これを心がけた。
俺は、前衛的なことを探求している一方で、スタンダードなジャズも好きだった。
だから、そちらの腕を磨かなければならない、と思ってもいた。
オーディションは無事合格。
しかし、その頃付き合っていた彼女が
「あきらは、 3 ヶ月もしないうちに、バンマスと喧嘩をして辞めるよ」
と不吉な忠告をくれていた。
それからトリオのサウンドを作る為に、一日おきくらいでリハーサルが重ねられた。
一つの曲をどうアレンジしていくか、そんな作業だ。
スタンダードの曲でも、アレンジ次第で全く異なった雰囲気になる。
曲々で聞かせどころをどこに置くか、そんなことも勉強になった。

演奏するクラブは尼崎にあった。
阪神尼崎からすぐ近くだ。
尼崎といえば下町のイメージだが、そんな下町にも場違いな高級クラブがあった。
もちろん、その筋の人がオーナーだが。
当時は、近くにキャバレーもあり、そこには若手で有名なミュージシャンが揃っていると評判だった。
店にどんなバンドが入っているか、がその店の格を上げたり下げたりしていた時代だ。
だから、安物のキャバレーでも、バンドにはお金を賭け出来るだけ良いミュージシャンを揃えようとしていた。
もちろん、どうでもいいような店もミュージシャンも沢山あった。
俺らのクラブの対バンは、ビブラフォンが主体の MJQ スタイルで、ラテンコーラスもやっていた。
上品だが温かみのないサウンドだ。
ここでの演奏は肩がこった。
本当に肩がこった。
とにかくボリュームを上げることが出来ないのだ。
ピアノの音より、ドラムの方が小さい感じだ。
そんな条件の中で、ドラムソロも演らなければならなかった。
そう言えば、演奏中客の話し声が聞こえていた。
それくらい静かな演奏だ。
少しでもボリュームが上がれば、マネージャーがバンドの方に来て目で合図を送った。
しかし、慣れとは恐ろしいもので、そんな状況にもすぐに適応し、萎縮した演奏からダイナミックな遊びをするようになる。
そんなある日ベースが病気になった。
もちろん、直ぐに替えのベースが見つかる筈も無い。
バンマスがトラでベースを雇ってきて、その場をしのぐ。
よくは覚えていないが、そのベースは入院するということになったらしい。
そこでレギュラーのベースを探さなければならなくなった。
そこで俺と一緒にやっていた相田に声をかけた。
もちろん、相田は俺の辞めたキャバレーにいる。
そこを辞めさせたのだ。
相田はオーディションを受けバンドに入った。
ベースが気心が知れていると、相当面白いことが出来る。
ピアノトリオだが、遊べるのだ。
ベースにリズムキープを任せ、俺はどんどんリズムから遊離する。
サビに入ったところで、リズムが戻ってくる。
または、その逆。
そうすると、リズムセクションがキャンパスになり、ピアノのメロディが映えてくる。
そんな遊びをどんどん展開していった。

休憩時間になると、尼崎商店街をうろつき美味しいハンバーグの店を見つけた。
そういえば、そのトリオにはユニフォームがあった。
上着は細かい千鳥格子のジャケット。
それに黒ズボン。
俺らはパンタロンをはいていた。
渋い赤のアスコットタイだ。
このユニフォームは相当気に入っていた。
髪の毛はもう少しで肩に届くというくらいの長髪だった。
しかし、俺の髪の毛はクセ毛だったので、それをドライヤーで伸ばすのにどれ程時間がかかったことか。
風呂から上がると、白と黒のギンガムチェック柄の MG5 の整髪料か、当時売り出した赤い V マークのバイタリス。
「あきら、何時まで鏡の前にいてるんや、お前は女か」
とよくからかわれていたもんだ。
ちなみに、ナルシストの権化とも言われていた。

数ヶ月たったある日、ギャラ日だった。
ギャラをロッカーに入れてステージに行く。
見事にパクラレタ。
ステージが終わって、ロッカーを開けるとギャラ袋が無くなっていた。
ボーイにやられたのだ。
しかし、バンマスも怪しい。
マネージャーや店の者総動員で調べた。
もちろん、出てくる筈も無い。
何だかケチがついた感じだ。
ジャズドラマーをやり初めて 3 年。

この頃、実家の方は無茶苦茶だった。
母が 28 歳の時に建てた家が風前の灯だった。
「絶対に危ないから、名義を変更しておけ」
俺は、以前から何度も母に言っていた。
義父の仕事がうまくいってなかったのだ。
だから、その家を抵当に入れ借金をしていたのだ。
義父の仕事を手伝ったりしていたことがあるから、社員たちの実情を知っている。
ろくな人間はいなかったのだ。
一言で言えば、会社の金を食っているという感じだ。
電気工事の仕事だったから、銅線はいくらでもある。
それを売り捌いて小遣いにしている社員が沢山いたのだ。
案の定、融通手形の切り合いをしていた、三つの会社が共倒れ倒産した。
当然家は差し押さえだ。
夜逃げ同然で、引越しをせざるを得なかった。
俺が小学生だった頃、母は俺の手を引いて、不動産屋へよくいった。
今では死語になっている月賦で家を買ったから、その支払いに行っていたのだ。
その家が無くなった。
母は実家からそう遠くない所にあるマンションに落ち着いた。
俺は、伯父と蛍池に二階付の文化住宅を借りることにしたのだ。

 

20

蛍池の住居には、当初俺と叔父、そしてその父親、つまり、俺の義理の爺さんだ。
その3人で住む事になった。
それは、俺は楽器の借金があり、お金を持っていない。
叔父も学生だから、家を借りるお金など無い。
であれば、爺を利用して家を借りよう、ということになったのだ。
そもそも、俺と叔父が一緒に住もうと言う事にしたのは、この不渡りのゴタゴタを、二人でずっと見守っており、その時、将来の事、日本の事、教育の事、音楽の事、とにかく、ありとあらゆる事を話題として、語り合った時間が有ったからだ。
むろん、年齢が近いということ、俺と叔父は丸っきり正反対の性格だった、ということも原因だ。
爺を利用して一緒に住むのは良いが、何時も顔を見るのはうっとおしい、だから、2階付の住居にした。
しかし、やはりそれでもうっとおしい。
うっとおしいと思うのは、もちろん理由があった。
爺さんの切った手形で不渡りを出し、 3 つの会社と家族が倒産夜逃げになったのだ。
しかし、その昔よく母が言っていた。
この爺には気をつけろと。
私が生まれた頃に、母は生駒山の麓に家を2軒もっていた。
相当広い庭があったのを覚えている。
その広い庭のある家は、爺の家だと思っていた。
そうではなく、母のものだったという。
それをうまく丸め込まれて、爺にのっとられたのだ。
それも仕方がないかもしれない。
芸者をしているが、ある意味で、世間知らずの母だからだ。
法的な事など知る由もない。
そこに付けこまれたようだ。
母の知らない内に家の名義が爺に変わっていたのだ。
そんな爺を叔父も嫌っていた。
もちろん、叔父はそういったいきさつを知らなかったし、俺もそんな事には興味が無いから話題に上げる事も無かった。
叔父は俺とは違って、小さい頃からずば抜けて頭が良かった。
運動神経もよく、小さい身体ながら高校の時には、講道館柔道の黒帯だった。
フリュートが好きで、ソリストになると頑張っていた。
この蛍池に住んだのも、叔父の通う学校に近かったからだ。
ある時、フリュートの名手(確かオーレル・ニコレと言ったと思う)が来日し公開レッスンをした。
その時、楽器屋の紹介で参加していた叔父は、舞台上でニコレのレッスンを直接受けた。
叔父の才能にニコレは惚れ、留学を薦めた。
しかし、その時、爺はお金を出さないと断ったのだ。
また、俺の祖母に当たる婆も、行かさないと引き止めたのだ。
それを何とも思っていない筈は無い。
そんな親との確執も加わり、爺を利用した共同生活もうっとおしくなっていったのだ。
どうしたものかと、二人で何時も知恵を絞った。
叔父は教師の代わりに教鞭をとったり、学校の音楽室を設計したり、多才だった。
傑作なのは、音楽家と水泳は何の関係も無い、といって水泳の授業を在学中一度も受けなかった。
当然、単位は無い。
それが理由で卒業出来なかった。
それでも、叔父は決して自分の信念を曲げなかった。
叔父が卒業して数 10 年してから、卒業を認めると学校から通知があった。
叔父は単に泳げなかっただけなのに。
そんな叔父だから、同級生や、後輩達は叔父を慕って、殆ど毎日家にたまっていた。
夜通し音楽の話で盛り上がり、朝方になるとみんなで学校に通った。
そんな生活に、爺がいれば邪魔になるし、皆の寝るところも確保出来ない。
俺はあることを思い付いた。
その蛍池の住居は、新興住宅地なので、殆どの住民は全く顔を合わさないし、合わしても挨拶程度だ。
つまり、近所付き合いがまだ出来ていないのだ。
それは年寄りにはきついのでは、と思った。
そこで、大阪の下町も下町、天下茶屋に行きこじんまりとしたアパートを見付けて来た。
そこは、近所付き合いはうるさいほどある。
それなら、気休めにもなるし、近所のおっさんやおばはん達と、ワーワー出来るだろうと踏んだのだ。
それを爺に話して見た。
少々手こずるかも、と思っていたが、意外とあっさり引っ越しを決めた。
決めた時が吉日とばかり、早速車を手配しさっさと引っ越しをさせた。
後は天国だ。
本当に毎日毎日学生達がたまりに来た。
その時、俺はジャズ畑だ。
周りは全員クラシックだ。
これでは分が悪い。
そこで幼馴染の佐藤を同居に誘った。
彼はアルトサックスだ。
そう、俺が17歳の時、キャバレーで立ちんぼをし、中古のアルトサックスを買った友だ。
それ以後彼は、そのフルバンドに在籍し、ファストアルトにまで成長していた。
彼は簡単に蛍池に引っ越してきた。
そこから、毎晩毎晩徹夜で音楽談義が始まる。
ある時は叔父を中心に、ある時は作曲志望の学生、ある時は指揮者志望の学生、ある時はオーボエの学生、ある時は俺。
この時期ほど楽しかった時期は無い。
安物のウイスキーを皆で飲み合った。
二日酔い、三日酔いでぶっ壊れた。
宇宙の話、地球の話、哲学、思想。バッハやベートーベン。徹底的に論じた。
そして演奏をした。
バイオリンの演奏を聴いて、色々語り合った。
様々な指揮者の演奏を聴き語り合った。

叔父は時々、俺の働く尼崎のクラブへ車で迎えに来てくれた。
月給をパクラレてからしばらくした 3 月の給料日、その日も迎えに来てくれた。
その日は、後輩達も沢山集まるらしい。
それを聞いて、ケーキや飲み物を調達し阪神高速に乗った。
例によって、音楽の話をしながら空港で降り、といっても当時は空港までしか出来ていなかった。
その先は工事中だった。
深夜 2 時頃、車は大きな屋敷の塀が並ぶ細い道に入った。
「あれっ、雨が降ったんかな?」
ヘッドライトに濡れて光った道路が目に入った。
「…いや、こっちは濡れてないで」
「ほんまやな…もしかしたら火事?」
「ええ〜…、そうかも知れん」
車は時速 10 キロくらいの超ノロノロで進む。
「ほんまに火事やったらどうする?」
「もし、ほんまに火事で、俺らが住んでいる棟が一番無くなっていたら、火元やということやから、このまま逃げよ」
「よっしゃ」
車は、細い道を進む。
目に火が飛び込んできた。
「やっぱり火事や」
「いや、一寸待てよ、あの火は火事とは違う、小さいで」
「そやけど、何であんなところに火があんねん」
「ほんまや」
車はその火の方向に進んでいった。
ドラム缶でたき火をしているのが目に入った。
「なんでやねん?」
そのたき火は、俺らの住居の真向かいの集会場の庭だった。
思わず住居側を見た。
「家が無い?!…火事や!あかん逃げよ」
「あっ日野さん!」
「……」
「裏から燃えて来て、あっと言う間やったんや。ピアノは重くて出されへんかった」
「えっ裏から」
「そうや裏の飯場のプロパンが爆発したんや、丁度日野さんとこの真裏やで」
「よかった、俺らと違うんや」
何と住んでいた家が全焼してしまった。
家に帰ったら家が燃えて無かった。
何のことやら理解できない。
現実は見えている。
家の玄関は燃えずに残っていたので、玄関から中に入った。
玄関を入ったところが台所になっており、そこの水屋には、飲みかけのウイスキーやウオッカが残っていた。
その横にある階段を思わず駆け上がった。
台所から、空が見え雪が舞っている。
それも見ているのだが、階段から二階に上がる俺。
二階にはドラムがセットされていて、書きかけの楽譜やレコード、その時の俺にとって大事なものが全部あった。
しかし、現実には台所から空が見え、雪が舞っているのだ。
階段の踊り場は燃えていなかったが、二階の二間は完全に跡かたも無い。
一階のグランドピアノやステレオのシステム、大量の楽譜やレコード。
全部グチャグチャだ。
叔父とウオッカをラッパ飲みをするが、一向に酔いが回らない。
隣のおばちゃんやおっちゃん達も、家財道具を持ちだす間が無かったという。
その時、俺らの住む住居は、文化住宅という形式で、 10 世帯はあった。
全員焼け出されたのだ。
裏の飯場や、近所を合わせると、相当大きな火事だったことが分かる。
「どうする?」
「あかん、何にも考えられへん」
「とりあえず、連れの家にでもいこうか」
携帯電話の無い時代だ。
公衆電話のところに行き、泊めてくれと言う。
何だか気分は完全に高揚しており、眠気も深刻さも何もない。
まるで、小学生が明日の遠足を待ちわびているような高揚感だ。
しかし、これまでの財産は全部消えた。
皆にとって大事なもの、私にとっても大事なものが、全部燃えてしまったのだ。
しかし、頭で分かっても身体では分かっていない。
身体で分かるまで、まだ時間がかかる。
着の身着のままとはこのことだ。
22 歳。
今住む家も実家も無し。

つづく

Jazz band 修行1
Jazz band修行2
Jazz band修行3

TOPへ

akiraworld