目次
自分の店へ1
ゲイバー?
応援に行って
店、実現一歩前
店オープン!
二者択一1
二者択一2
選んだ
プレーが若い
「日野君、休みの日に遊びにおいで、麻雀くらいできるんやろ」
「はい、出来ます」
咄嗟に答えた。
麻雀は二・三度やったことがあるくらいだから、ほとんど知らない。
中学のとき、少年課の刑事に教えて貰っただけだ。
「まぁ、何とかなるやろ」内心そう思って、事務所を後にした。
「チカ駅まで送って行って来い」道の両端に柳の木が立ち、玄関先に座る「やりてばばぁ」が男と女が歩いているのに声をかける。
「兄ちゃん、ええ娘いてまっせ」開け放たれた玄関をのぞくと、火鉢の横にちょこんと座るおばあさん。
どの玄関からもやりてばばぁが声をかける。
「兄ちゃん、ええ娘おるよ」
この道を抜けるのはおもしろい。
いわずとしれた遊郭街だ。
今里新地。戦争で焼けていないので、昔の軒並みが連なっている。
「兄ちゃん、一緒に歩いている娘よりええ娘いてるで」
「間におうてるで」
「そんなこと言わんと、一寸遊んでいきいな」
この遊郭街は狭いが、中学の頃遊んだ飛田の遊郭よりも雰囲気があった。
さすがにチカちゃんは、この街で育っただけあって、やりてばばぁの言葉には何も動揺しない。
二人は無言で歩いた。
さすがにこの事件は16歳には荷が重かったのだろう。
15分ほど歩いて駅についた。
「日野君、ほんまにごめんな……」
「……かまへん、かまへんて、何にもなかったんやから」
「……今度、家に遊びに来る?」
「……そうやなぁ、麻雀誘われてるからなぁ…休みのときに行くわ」
「うん!」
二人の途切れ途切れになりながらの会話の行間には、お互いの何かがギッシリと詰まっていた。
いずれにしても、とにもかくにも終わった。「日野君、三人打ちは知ってるか?」
「はい、大丈夫です」
三人打ち??知ってるわけない。
四人でするのを三人でするだけとちゃうんか?
「イペーコー、有りやで」
「はい」
イーペーコー??なんじゃそれは?
コタツの中に足を入れ、牌をかき回す。
確か二段に積むんやったな。
まぁ、どんくさいふりして見ていたら分かる。
今から思えば何とも奇妙なメンツだ。
親分と若頭、そして若頭の女を傷物にしたという俺。
どうなってんねん。
「日野君サイコロふり」
「はい」
「ドラは○や」
神経を最大限研ぎ澄まし、二人のやるのを見る。
とにかく、そしらぬ顔をしてそっくり真似ればどうにかなるやろ。
このハッタリのかましかたは大切だ。
麻雀はポーカーのようでもあると思い出し、牌の図柄の合うのを集めた。
「ポン」「チー」二人はテンポ良く進める。
その流れを壊さないように、真似ながら打つ。
「上がり」若頭がつもった。
俺も時々「ポン」と鳴いた。
とにかく三枚になるときに鳴いた。
四枚は「カン」だ。
これも簡単だから鳴いた。
「日野君、中々やるな」
「いやぁ、あきませんわ、全然上がられへんねんから」
「振り込めへんだけうまいということやで」
「そうですか、ありがとうございます」
上がり方も知らんから、上がるわけはない。
振り込まないのは、出ている牌を狙って捨てているだけや。
時々時間をとって考える真似をしているだけ。
何をしているのか、さっぱり分からない時間。
地に足が着かないとはこのことやろ。
宙に浮いたような心細い感じがずっと続いている。
とにかく、無事に終わればええんや。
お金もあまり持っていないので、大負けしたらえらいこっちゃからな。
「日野君27.000の30.000返しやから、箱テン30,000円でええやろ」
「はい、大丈夫です」
当時、サラリーマンの給料は20,000円位だったろう。
だからそれでの30,000円は大きい。
もちろん、俺の財布には10,000円くらいしか入っていない。
だから最終的に箱テンになるわけにはいかないのだ。
しかし、勝負は徹マンだ。
とにかく振り込まないように、そればかりに神経を集中した。
徹マンが終わったとき、不思議なことに一度も振り込まなかった。
これを機会に、麻雀に誘われ家に遊びに行くようになった。
「日野、店一軒オープンしてくれへんか」
バーテン仲間が俺に声をかけた。
「いつ頃や」
「この夏か、秋になったくらいらしいわ」
「よっしゃ、ほんなら店を辞める準備をしておくで」
仕事の出来るチーフの下で働くのは勉強になる。
もちろん、そこをきりもりするママの下で働くのも同じだ。
しかし、学ぶばかりではどんな力が付いたのか分からない。
だから、こういう一人でどれだけのことが出来るのか、というそれこそ他流試合が必要なのだ。
「お待たせしました、日野晃です」
「よろしくね」
「………???」
オープンのオーナーと小さなBarで会った。
このおっさん、何か変だ。
2カウンターだけの狭いBarで、マスターと店長格の人と対面した。「変だ?一寸柔らかすぎる、ひょっとしたら…、いや、分かれへんで」と内心不安半分で席についていた。「アキラ君か、いい男やね」「………、えっそうですか(やっぱり変や)」
中学一年生の頃、お婆ちゃんが言っていた「おかまと病気には気を付けるんやで」と。
それを思い出した「これかいな、まぁ仕事やからええか」それは別にして、仕事の話を進めた。 場所は歌舞伎座の裏。
やっぱし!当時、大阪では難波の歌舞伎座の裏や、千日前の坂町はうさんくさい場所として知れていた。新宿二丁目の雰囲気かな。暴力バーから売春目的の飲み屋まで、一寸クセのある店が多かった。その坂町で水商売の第一歩を踏み出しているんやから、歌舞伎座の裏でも何でも問題ない。
「オープンを何とか夏中にやりたい」というオーナーの意向だった。予算を聞き、店の調度品を揃える計画を立てる。おつまみの仕入れは、オードブルの買出しは、メニューは、お酒の種類、料金、それらを内装に合わせて考えなければならない。しかし、これらは全く苦にならない。デザインを考えるのが好きだったこともある。
歌舞伎座の裏。しかも地下。湿気の匂いが店内に充満している。当時は換気の設備や、防水の工事も余り良くなかったから、地下の店は条件が悪い。クーラーをガンガンに効かせ店を乾燥させなければならない。
どんどん準備が進みオープン前日になった。オーナーのお馴染みさんや色々な招待客を呼んでのプレオープンだ。
オードブルや、パーティ用の盛り付け。海老などをふんだんに使い、豪華に仕上げた。カウンターの中で一人てんてこ舞いをしていた。
「しかし、マスターは良いとしてホステスはどうなっているんや、出勤しなかったら間に合わないやろ」内心やきもきしながら、準備に精をだした。
オープンの準備には、普通ホステスも手伝いに来るが、変な男達は手伝いに来ていたがホステスはいなかった。
おねぇ言葉の男達。「ひょっとしたら、あいつらがホステス??」
そんなことが頭を過ぎった時、階段の上がにわかに賑やかになった。
「あっ、おねぇ言葉や!あいつらか?!」階段を見上げて愕然とした。頭が??????状態になった。パニックだ。
今でこそ、ニューハーフだのホモセクシャルだのとメディアに登場しており、市民権を得ているが、当時はまだまだ表舞台には登場してはいけない存在だった。だから、オカマという言葉を知っていても、実際に会ったのはこの時が初めてのようなものだ。
それこそ色とりどりに化粧をしたオカマ達が階段を下りてきた。びっくりした。きっと狐につままれたような顔をしたのだろう。
「チーフどうしたのよぅ、きれいでしょう」そう、言うとおり、余りにもきれいからびっくりしたのだ。
頭の中は全く整理が付かなくて混乱したままだ。ただ反射的に「うん、きれいよ」と返しただけだった。頭は思考停止状態のまま時間だけはどんどん進んでいった。気がついたら閉店だ。
オーナーが開店祝いの乾杯の音頭をとり「お疲れ様〜」で終わった。何がなんだか分からない一日になった。
この思考停止状態は2,3日続いた。気がついたら閉店。こればかりだ。店の客はどんな人達で、どんな会話を交わしたかまるで覚えていない。
17歳のガキには強烈な刺激だった。
「チーフはおいしそうだね」「はあ?」カウンターに座る中年のおっさんに言われた。
「そうか、俺もおかまやと思われているんや」当たり前だ。店の名前は「蘭丸」、そのまんまや。
数人のオカマ達がコーヒーに行こうと私を誘った。仕入れだけしか用事がなかったので、仕入れを済ませ喫茶店に行った。
「ファイブ・スポット」道頓堀にあったジャズ喫茶だ(今は無くなっていた)。
細い階段を上がり、板張りのドアを開けると、強烈な音がはみ出して来た。同時に葉巻の香りも溢れ出てきた。生まれて初めてジャズを聴いた日だ。薄暗い店内、タバコの煙がもうもうとしていた。
数年後にはここのジャズ喫茶に、ミュージシャンとして彼女と通うとは夢にもなかった。
オカマたちのセンスは一寸違った。何だか分からないが違う。そして良い。もちろん、ダサいオカマもいたが、大方はセンスの良い連中ばかりだった。だから、服のことや持ち物のこと、彼らに影響された。
店がオープンして一ヶ月も経つ頃、やっと俺のペースになってきた。それまでは、地に足が着いていないというか、何だか熱に浮かれているようだった。俺がオカマに指示を出すと「まあ、男らしくして」とよくからかわれた。
そんなある日、ママが「チーフ、プレゼント」といって、ダンヒルのゴールドのガスライターをくれた。「ええー何で?」と、叫ばなかったが思わずにはいられなかった。当時ダンヒルはいくらだったか忘れたが、少なくとも給料の数倍はした筈だ。何しろ、1ドルは360円時代だったのだから。
これは、ひょっとしたらママは俺に気があるのかな、と内心ビビッタ。女性なら良いのだが、残念ながらいくらきれいだとは言えオカマだ。それからちょくちょく小遣いもくれるようになった。
店のナンバー1のオカマちゃんの、俺を見る目が違うのに気付いた。「ひょっとしたら?」勘は当たった。「ママにいくら小遣い貰ったの」と聞き、同じくらい小遣いをくれた。両手に花??状態だ。
店が終わると、同業者の店に応援に行くことがある。その日の売り上げに協力するためだ。そういった意味では非常に協力的だ。ただし表面的には、だが。
その日も、ミナミにある有名な店に応援に行った。そこのオカマたちも美しい。芸も達者だ。日舞の名取はざらにおり、ステージもしっかりしたものがあった。客席は一階席と二階席があり、結構広かったように思う。
俺の横に、そこのママが座ってお酌をしてくれた。何だかしらないが、俺のことをやたらと褒めてくれた。
応援に行く時間ともなると、深夜の3時くらいだ。当然俺も、店でしこたま飲んでいるので正気ではない。しかし、仕事で応援に行っているので、気は張っているから酔いつぶれることはない。
褒めてくれるのは悪い気がしない。時間がたって、俺はトイレにたった。トイレを出るとママがお絞りを持って待っていてくれた。
「はい、どうぞ、チーフ一寸こちらで酔いをさまさない?」といわれ、客のいない二階席にママと二人で上がった。
嫌な予感がした。予感より当たり前やんけ。二人だけで、薄暗い客席に行くのだから。でも何かが起こることはない筈だ。店は営業中だし、うちのママやホステス達もいる。
「チーフ、ここに支度金200万円ある、うちに来ない?」ママは単刀直入にいきなり切り出した。目が点になり言葉に詰まった。200万円なんて、初めて見る札束だ。「………」「いいよ、即答しなくても時間はたっぷりあるから考えておいてね」
一寸待てや、俺に200万円支度金を払うということは、もしかしたらもっと価値があるということかもしれない。であれば、ここで「うん」という手はない。すでに200万円という値がついているんやから。これをどう吊り上げるか、それの方が面白い。
「一寸考えさせてください」俺は、満面の笑みをママに返し皆が騒いでいる席に戻った。
200万円と聞いていっぺんに酔いが回った。「チーフ酔ったの」ママが聞いてきた。
「うん、もうあかんわ」「ほんならお開きにしようか」ママやナンバー1のオカマ、そうバンビという源氏名だったのを思い出した。二人が俺を送ってくれるという。
こらあかん、おかしなことになるかも。「いいよ、家が近いから酔い覚ましに歩いて帰りますから」ホステスやママたちと別れて歩いて家に向かった。しかし200万円か、ということは本当にもっとお金を出す人がいるかもしれない、ということや。一寸様子をみとかなあかん。
あくる日カウンターの中から客を見る視線が変わったかもしれない。なんせ昨日の今日や。そういえば、冗談とも本気とも付かぬ口調で、「チーフ、6ヶ月100万円で契約しよう」といった、洋服屋のオーナーがいたな。もう一寸、客をじっくり相手してやろう。
頭の中では、そんな計算が渦巻いていた。店がオープンして2ヶ月も過ぎた。堂々とした、ゲイバーのバーテンになっていた。何せ金回りが良いから、以前からの付き合いのあるバーテン達とはよく飲みにいった。
9月のある日、一人の客が「チーフ、今チーフの一番欲しいものは何?」と聞いてきた。もちろん、自分の店だ。バーテンは自分の店をしたいから、その為に色々覚えなあかんからやっているだけや。
「そりゃ、店ですよ」
「ふーん、今やったらどれくらいで出来るんや」
「そうですね、ピンキリですけど、僕は宗右衛門町でやるのが目的ですから、あそこやったら300万円くらいだと思います」
「ふーん」
話は終わった。
俺の母は芸者や。宗右衛門町も昔は花柳界やった。しかも、一寸格の高い場所や。京都では、祇園に先斗町や。その花柳界の場所で、というのが何や知らんけど頭に入っていたんや。水商売するなら水商売の一流の場所で。
そういえば、俺の15歳の誕生日の時、母はこのミナミのお茶屋で芸者を呼んで、ドンちゃん騒ぎをさせてくれた。
一週間も経ったろうか、「一番欲しいものは何」と聞いてくれた客がカウンターの前に座った。
「チーフ、店をしたいと言うていたやろ、300万円持って来たで」
「……、えー!!ありがとうございます」
「せやけどな一寸頼みがあるんや、何時も一緒に来ている可愛い子いるやろ、あの子を雇って仕事を教えたって欲しいんや」
「いいです、いいです、どっちみち一人で店はでけへんから、雇わせてもらいます、でも給料は一寸分かりませんよ」
「かめへん、かめへん」
「ママー、今日で店辞めますよー」
俺は、すぐさま周旋屋に行き手ごろな店を物色した。300万円あるということは、200万円で全部おさめてしまわなあかん。洋服屋のオーナーは、服をプレゼントしてくれるという。短い期間だったが、カウンターに座ってくれた客は、何かしらのプレゼントをくれた。
料理には自信があるけど、どんな店にしようか。余りにも突然だったので、何一つ準備が出来ていない。しかし、人生は何時も突然や。たった3ヶ月くらいの経験しかないのにバーを一見まかされたり、酒乱のママのいる店に修行に行かされたり、全部突然やった。
そういえば、この時代の何時だったか忘れたが、音楽の世界に入りたくて入りたくてバーテンを辞めようとした時があったのを思い出した。それは、中学の時から弾いているギターが原因や。ベンチャーズの音を初めて聴いたショックは、禁じられた遊びから一転してエレキ少年に変貌した。
「ダイヤモンドヘッド」を徹底的にコピーした。「パイプライン」も。体操時代の仲間がサイドギターを担当していた。
そのサイドギターを弾いていた彼が、なんとダンスホールのフルバンドにボーヤとして入ったんや。楽器はアルトサックス。質流れの楽器で一番安かったからそれにしたらしい。
俺がそいつに負けるのはあかんから、どこかのバンドに入れないか探していたんや。
オヤッさんの店は通称地獄谷という、目茶ガラの悪い所にある。その辺りをうろついていたら、なんと「バンドマン募集」の張り紙が目に入った。
「やったぁ!」これこそ、俺の生きる世界や。そこに書かれてあった場所を確認するのもそこそこに電話をかけた。「今すぐ来てください」受話器の向こうでおっちゃんが言うた。「ギターが弾けます」「それだったら、すぐに来てください」ということや。
指定された場所へ。裏口から中に入りバンドマスターに面接を受けた。
あれっ?
エレキギターは高価で手が出なかった。クラシックギターの弦をスチール弦に張替え、アタッチメントを探し回って見つけた。後はギターアンプだ。家にあったステレオの後ろに突っ込めるように電気屋さんに細工をして貰った。
ステレオのスイッチを入れ、ダイヤモンドヘッドをかけた。ノーキー・エドワードと一緒にリードを取る。気分はベンチャーズだ。アストロノウツや様々なエレキバンドをコピーし、一丁前にコンサートを開いたりもした。その時のサイドギターが、今、フルバンドでアルトサックスを吹いている。
「あかんで、それは」
靴を脱いで小さな事務所に通された。何か匂う。「ギターはどれくらい弾けるの」と聞かれたので、早速ベンチャーズを。
「エレキだけ?」「いいえ」といって、当時の流行歌を片っ端から弾いてやった。祖々母が三橋美智也を好きだったので、よく流行歌を聴かしていた。だから、橋幸夫から舟木和夫、美空ひばりにザ・ピーナッツ、弘田三枝子に坂本九、寺内タケシまで何でも来いで弾けるようになっていた。
「流行歌が弾けるから早速雇うことにするよ、今日はステージを見ていって」「はい分かりました」
小さな事務所は、実は楽屋だった。若い人やおっさん達5,6人がいたと思う。ステージの時間が近づいたらしい。
「?????」顔にドーランを塗っている。これってバンド?嫌な予感が立ち込めてきた。
「日野君こっち」バンドマスターに付いていくと、緞帳が下がっている舞台袖に来た。緞帳の横から客席が???見えた??
「なんじゃ、これっ?」浴衣を来た人のような感じだ。
「日野君、合図をしたらその緞帳の紐を引っ張ってや」「分かりました」なんのこっちゃ、幕引きかい。バンドマスターから合図が来た。俺は力いっぱい紐を引いた。
スチールギターが鳴り、聞き覚えのあるメロディーが流れた。「あああああ、これは!!!!」
「キラク ベッカン ステキナトコロー…」なんじゃ、何がバンドやねん。バンドやわな。辞めや辞めや!そのステージが終わって「一寸タバコを買いに行ってきます」とバンマスに告げ、一人大笑いしながら、坂町の路地を抜けた。これって食堂やんけ。何か匂ったのは、調理場の匂いだった。ただただ大笑い。これが俺のバンド初めだった。きっちりアルトサックスと差が付いたのだ。
店の名刺、やバーコートが決まり、食器が決まり、開店の日取りが決まった。店はゲイバーのナンバーワンの子が手伝いに来てくれることになった。もう一人は、お金を出してくれたおっちゃんの若い愛人。まともというか、普通の男は俺だけだ。きっと変な店だということで、流行るだろうと考えたのだ。
秋に店が開店した。住所は宗右衛門町だ。しかし、そのメインではなく縦の筋を入る。そして二階。7坪のこじんまりした店になった。名前は「ハニー」。俺は猛反対したのだが、お金を出してくれた人が「当たるから」と曲げなかったので、仕方なくそうなった。
案の定お客さんは増え続けた。ホステスもおればサラリーマンも、服飾デザイナーや、ゲイの筋の人たち。店はカウンターだけだったが、文字通りごったがえしていた。
朝5時位まで店を開け、閉めたらその足で木津市場へ買出しに。仕込みを終えてやっと寝る。自分の店だから、その忙しさが楽しかった。俺の料理の盛り付けに、ゲイの筋の人たちは「マスターはきっとゲイやで、目覚めていないだけよ」とさかんに言っていた。
「アホか、男より女が良いに決まっているやんけ」毎日そんな会話が飛び交っていた。
3ヶ月もすると店は順調に軌道に乗った。そうなると、カウンターの中のことが目についてくる。出資者の愛人の態度が気になる。どうも、田舎でチヤホヤされて育ったのだろう、注意をすると我がままで直ぐにすねた。ゲイバーから手伝いに来てくれていたホステス(?)と、よく言い合いをした。お客さんは増えるが、店の中がこれではなぁ、と内心どたまに来ていた。とにかく、金を全部返済したら、こいつら放り出そう、それまでの辛抱や。自分に言い聞かせる毎日やった。
そんなある日、ビルの隣の高級クラブのママがひょっこり来た。
「マスターちょっと話があるんや」「なんでしょうか」「一寸出られるかな」「大丈夫ですよ」話は、簡単だ。高級クラブのチーフが辞めたので、次のバーテンが来るまで手伝ってくれないか、というものだ。
私の店は客足が遅い。クラブの閉店は午後11時30分頃で、私の店は午後11時ごろから客が詰まって来る。だから掛け持ちが出来ないか、というものだ。俺への話は、おやっさんから聞いたものだった。
おやっさんの言いつけならやらない訳にはいかない。丁度、客の少ない時間だし、二人の喧嘩には飽きあきしていたところだったので、二つ返事でOKした。
高級クラブのママとの出会いは、私の音楽熱に火をつけた。しかも2店目も出せてしまった。さあ、どちらを選ぶ?日野晃、人生二度目の決断だった。
ホステスが15名ほどいたと思う。大きなボックスが並び、カウンターは小さい。夜というか朝5時頃店を閉め、その足で木津市場へ。この時は、2店分の買出しだ。しかし、クラブは初めてなので、料理もオードブルも、付き出しも知らない。
一日働けば、その流れは分かるだろう。自分の店の分だけ買出しをし、クラブの分はやめた。とりあえずは、出入りの業者に任すのが一番だ。
昼過ぎ店に入り掃除だ。まずは便所から、フロア、そしてカウンターの中だ。カウンターの中にはスノコを引いてある。これを表に持っていき、洗剤をふりかけデッキブラシでこする。洗った後は、天日干しだ。カウンターに戻り、棚に並んだ洋酒のビンを磨く。それが終われば、グラス磨き。
そうこうする内に果物屋、付き出し屋、酒屋が注文をとりに来る。「新しいバーテンさんやね、よろしく」業者達が俺に挨拶をし、注文を聞く。「初めてで、わかれへんから、何時ものように持ってきて」これで通るから、出入りの業者は便利だ。
付き出し屋の注文をとりに来たのは、俺と同じくらいか、一つくらい若い奴だ。服装はアイビー調だ。俺はどうもアイビーは嫌いだった。あの細身で、くるぶしまで見えるコッパンが気に入らない。付き出し屋は、結構感じの良い奴だ。
そういえば、この世界に入ってから、ずっと自分の年齢を忘れている。
俺の周りは、いつも自分よりもはるか年上のホステスや、他の店のマネージャー、根本的に客は全員俺よりも年上だ。だから、本当の年など言えるわけもないし、そもそも18歳未満が働いてはいけない。このクラブでバーテンをしだした時は、確か18歳だったと思う。
あっ、大事なことを抜かしていた。この前の年だっただろうか、1966年6月29日ビートルズが来日した。その数日前に、俺を育ててくれた祖々母が死んだ。残念ながら死に水は取れなかった。仕事をしていたからだ。その時は、富国生命ビルの地下にある、かなり大きな喫茶店でセカンドチーフをしていた。店に、6月28日から7月3日まで休みを取っていた。むろん、ビートルズを観にいくためだ。
チケットは抽選だったからまず取れないとふんだ。そこでコネを探し回ったのだ。同じバーテン仲間で、新幹線が開通した時、一緒に東京へ働きに行った男の連れが、確か音楽プロダクションで働いていたのを思いだした。その男に連絡を取ると、チケットは取れるという。「よっしゃあー!」だ。
服は何を着ていくか、それが問題だった。何しろ、ボディチェックが入るという。機動隊が驚くほど出るとも言っている。俺は、小型の写真機を持っていく予定だったからだ。それをどこへ隠すか。バッグは絶対に駄目だ。であれば、着ているものの中に隠すしかない。犯罪の捜査ではないからボディチェックといっても、それほど厳密にしないだろうし、何千人と観客がいるのだから丁寧にはしない。
そこで、太ももの内ら側に、靴下止めでカメラを隠すことにした。そうすると、腿が少し太めのズボンがいる。それと上着もいる。スーツの方が警戒されずに済むからや。この頃気持ちは、完全にビートルズになっていた。
祖々母は病気で死んだのではない。老衰で眠るように死んだらしい。その祖々母をみていた、叔母はその日の朝には会話を交わしていた。昼ごはんに声をかけたが返事はなく、顔を見ると寝ているようだったので、寝ていると思った。夕方になり、いくらなんでも腹も減っているはずだと、声をかけのぞきにいくと、やはり寝ているようだった。叔母は「あれっ」と思い手を掴んだら冷たかったそうだ。それくらいの大往生だった。
夕方、仕事場に電話が入り急いで帰宅した。祖々母の顔には白い布がかけられていた。それを外すと、何時もの寝顔がそこにあった。
俺は祖々母に育てられていたので、親は死んだとその時思った。
祖々母が他界。昨年は祖母が先に死んだ。その時、祖々母は棺の前で泣き崩れていた。祖母はガンで死んだ。木造建ての病院。廊下を歩くと、ギシギシ音がしていた。叔父と二人で、祖母を家まで運んだ。今から思い起こしても、どうして叔父と二人で運んだのか分からない。
祖母は棺の中で、目を大きく見開いていたのを覚えている。祖々母が、まぶたに手を置き、その見開いた目を閉じていた。6月といったも、まるで盛夏のような暑さだった。
その1年後、同じ月に祖々母は他界した。祖々母の顔のしわをつねってみた。
生前、祖々母のしわをつねって遊んだ。小学生だった頃、明日は遠足だからお金がいる、などと騙して小遣いをくすねた。あまりに俺がやんちゃだったから、祖々母は家を出るとよく脅かされた。キセル煙草を、火鉢を囲んで二人で一服した。字が書けなかったので、字を教えた。俺が読む漫画を読み聞かせた。祖々母が寝ている横で、マット運動の練習をし、何度も床を抜いた。
そんな出来事が走馬灯のように頭を駆け巡った。お通夜の日、見たことのない親戚の人が沢山集まった。酒をたらふく飲まされたが不思議に酔わなかった。しかし、二日酔いで葬式を迎えた。
滞りなく全てが終わり、家に帰りついたとき、そこに何時もいるはずの祖々母がいないことに気付いた。
そうだ、亡くなったんだ。死は「無くなる」という実感を持って、そこにあった。まさしく「無くなった」のだと、その時気づいた。死とは亡くなるではなく、無くなるなのだと気付き、自分自身とくっついた。これは、リアルな現実というものの実際を、しっかりと俺の身体に刻み込まれた。同時に、有るものが無くなるという、3次元世界の不思議を実感した。無くなるとはどういうことなのか。頭が混乱し、それを整理しようと試みたが、当時の頭ではどうにもならなかった。その時、初めて涙が溢れてきた。
それから数日後、俺は武道館に向かって歩いていた。太ももの内ら側に小型のカメラを隠し。武道館の前というか、周辺はポリが山ほどいた。入場するための列にはロープが張られ、本当に一人づつ検査をしている。やはり、内腿は検査されなかった。大量のファンの熱気に影響され、何だか分からない興奮状態に陥っていった。
改めて会場を見渡せば、殆どが同い年位の女の子ばかりだったのではないかと思う。ステージは、遠くにあり、ステージ上段に入り口らしきしつらえがあった。あそこから、あのビートルズが本当に出てくるのか。まるで夢の中にいるようだ。それは、現実というものが、未だ認識されていないガキの妄想のような、40℃以上の熱に浮かされたような、そんな朦朧とした状態だ。
それはいきなり始まった。前座の内田裕也が登場しシャウトした。歌謡曲の、そうそう望月なんとか、だったと思う。「何で、こいつやねん」と思っているうちに前座は退場。ビートルズが上段から出てきた。武道館は女の子の声で空気が完全に変わった。ポールのベースで2階の座席が震動した。「ロックンロールミュージック」だろうと、かすかに分かるくらいけたたましい歓声だ。隣の席の女の子はすでに泣いていた。
「やかましい!お前ら何にも聞こえへんやんけ!」と怒鳴っても、自分の声すら聞こえない歓声だ。
客席の通路には、警備が客席を見張るように立っている。俺は、パンフレットを二つ折りにし、その間にカメラを挟み、皆が立ち上がる時に立ち、座る時に時間差で座りシャッターをきった。フィルムが何枚撮りだったか忘れたが、全部撮った。豆粒ほどにしか見えないジョン、リンゴー。あっという間に演奏は終わった。「何やったんやろ」と我を忘れた感じだ。武道館を後にし、当てもなく歩き24時間上映の映画館を見つけ、そこで時間を潰した。演奏はレコードとは大違いで、下手くそだったのだけ覚えている。
クラブのママは独身だが彼氏はいた。その彼氏が有名なドラマーだったことが、改めて俺の音楽への熱を上昇させた。そのママは、元々大阪で一番大きなキャバレーのホステスをしていた。ホステスが1000人程おり、そこのNo,1だったいうから凄い。どれほど客あしらいが上手か、ということだ。
俺の音楽好きを知り、ママは可愛がってくれた。店が終わり、俺の店に入る前に飲みに連れて行ってくれた。ダンスも教えてくれた。もう忘れてしまったが、タンゴやマンボを二人でよく踊った。そういえば、渋谷にハッピー・バレーというダンスホールがあり、そこで行われたツイスト大会で優勝したことがあった。ママのクラブでも、ツイストやゴーゴーを踊ってホステスや客にうけたものだ。
しかし、2足のわらじは結構疲れた。でも、クラブの仕事は面白かったから、辞める気にもならなかった。それがどれくらい続いたか記憶は飛んでいるが、自分の店がうっとおしくなっていった。何がきっかけだったか、出資者の愛人と喧嘩になった。出資者は、俺を必死でなだめたのは覚えている。
「やってられるか、ボケが!」で、一軒目の店を放り出した。今まで返済したお金もパーにした。店は愛人にやらせる事でケリ、俺はクラブだけで働くことにした。この短気さは、今では幾分ましにはなっているが、基本的には治らない。「あ〜あ」と、自分にため息が出る。
それから、数ヶ月たったある日、ママが「日野ちゃん店を出させたろか」とふってきた。
ビートルズの余韻が身体に脈打っていた。「やっぱり音楽やろ」俺のこころの中は、勝手にそちらの方向に向かっていった。そんな中での新しい店の提案だ。
俺は京都にいた。黒いスーツ、香典を懐に入れ数珠を持ち、一般焼香の列に並んだ。「ご愁傷様です」俺は、見ず知らずの年配の女性に挨拶をし、香典を渡した。ママの元彼氏だった人が死んだのだ。「私の変わりに日野ちゃん行ってくれへんか」とママに頼まれたからだ。ママの頼みというのもあるし、有名なドラマーだったというのも重なり、二つ返事で京都に向かったのだ。その後、俺がドラマーになったのは、ひょっとしたら、こんなことが頭に残っていたのかもしれない。
俺にとっての二軒目の店になる物件を探した。やはり宗右衛門町。
俺がバーテンになる、といった時、母は反対した。同じ水商売をするのなら、日本料理の板前になれといった。それは、子供の頃かすかにポマードの匂いで覚えている、母の彼氏が板長だったからだ。
その人が、独立し宗右衛門町で鉄板焼き屋をやっていた。2軒目の店を出す、といった時、その人の店を教えてくれた。料理は元々、何故か好きだったから日本料理もしたかった。でも、その時はバーテンの方を選んだ。
祖々母の葬式が終わり、精進落としの席を家で設けたとき、その料理を全部俺がした。「どこが精進落としや」というような、豪華な仕上げになってしまったが、皆には好評だった。
母が教えてくれた店を探し訪ねると、見覚えのある顔が迎えてくれた。「アキチャン大きくなったなぁ、そら年を取るなぁ、それはそうと店をだすんやて?」その顔は、水商売のいろはを教えてくれた。「何か分からないことがあったら何時でもおいでや」「はい、ありがとうございます」料理を教えてくれる人がいるのは、心強い。
店のデザインに取り掛かった。カウンターには曲線を使いたかった。洋酒棚は、レンガを壁から不規則に突き出させて、その上に飾りたかった。カウンターは余り高くない方が良い。洋酒はどのメーカから寄付させるか。今まで培ったノウハウを全部その店に注ぎ込んだ。
バーテンが外を歩くとき、バーコートをやめ、今で言うスタジャンのようにロゴが後ろに入っているようにした。そのままで宣伝になるからだ。当時は、そんなことを考えている店はどこにもなかった。ジャンパーは本町の問屋街を探した。
もちろん、本町も今のように高速道路が走り、高層ビルが並んでいたのではない。木造の問屋街だった。
2軒目の店の準備が着々と進んだ。実は、その店で今で言うライブをやりたかったのだ。俺より一足先にジャズの世界に飛び込んだ友人に、ジャズを演奏させようと思っていた。
そんなある日、バーテン仲間が耳寄りな話を持ってきてくれた。若いバーテンが集まり、バンドを作っていた。そのドラムをやっていたコーチャンからの話だ。
「ギターのうまいのがいるけど、バンドで弾かしてやってくれないか、と俺が習っているバンマスのドラマーに、アキラ君のことを話したんや。すると、遊びに来るようにと言ってくれたんやで」
「ほんまか、ほんなら日曜の休みに行ってみるわ」
飛び上がった。やっとそっちへ行けるのか。
南海電車で堺東へ。グランドキャバレー王将へ向かった。
これが自分にとって最初で最後の、ギター演奏になるとは夢にも思わなかった。
「日野アキラです、よろしくお願いします」俺は、別段ジャズに憧れていたわけではない。ギターが好きだっただけだ。ノーキー・エドワーズを通して、ビートルズを通して、寺内たけしを通して、ロックや当時の流行の音を弾いていただけだ。それと、わけもなく音楽の世界で食べていけたら、と思っていただけだ。ジャズは、ゲイバーの連中が通うジャズ喫茶へ行くことで聞き覚えがある程度だ。
キャバレーのステージに上がった。心臓がバクバク鳴っているのが分かるくらい、緊張していた。生まれて初めてジャズの譜面を見た。?????。コードネームが書かれてあるだけだ。しかも、余り見慣れないものばかりだ。+とか-とか、13とかが付いている。精々7thくらいしか見たことがなかったので、目を白黒させ、とりあえずアルファベットで書かれているものだけを弾くことにした。このステージや次のステージの事は、記憶が飛んでいる。それくらい緊張していたのだ。
3ステージ目になったとき、ショーがあるという。見れば中尾ミエの歌伴だ。ギターの譜面を渡された。音合わせはない。譜面を見ながらの口あわせだ。譜面を見て意識が朦朧とした。おたまじゃくしが真っ黒で、#や♭がやたらとある。「あかん!さっぱり分からへん」
ファンファーレが鳴りショーが始まった。
気が付いたら、キャバレーを出て駅に向かって歩いていた。夜11時を回り、その頃の堺東は駅前だけが賑やかで、殆どが暗がりだった。
「無理や!今から譜面を覚えて、ジャズのアドリブを勉強して…。それではどうにもなれへん」そこでキッパリと音楽を、ギターで飯を食うということを諦めた。店に専念しよう。俺は水商売が合っているんやから。自分を振り返り、音楽への道の難しさに徹底的に打ちのめされた。
井の中の蛙とは、俺のことや!
店がオープンした。ママが応援してくれているので、クラブが終わったらホステスが客を連れて流れてくる。順調に店は回転した。
そんなある日、近くに東京のクレージー・ホースの大阪店がオープンするという。それに先駆けて、もう少し値段の安いB&Bをオープンさせる。その開店からのイベントを頼まれた。エレキバンドが入り踊れるようにし、フロアでフリーのサーフィンやゴーゴーダンスではなく、ステップダンスをする。そのリーダーをしてくれと頼まれたのだ。俺の店とは時間帯が重ならないので、ママと相談の上承諾した。夜8時から11時まではB&Bで踊り、それ以降は自分の店だ。
この助っ人が思わぬ売り上げに繋がった。クレージーホースの社長以下従業員が、B&Bが閉店してから毎日飲みに来てくれた。冷蔵庫の中をすっかり空にしてくれたのだ。これには本当に感謝だ。元々身体を動かすことが好きだったから、好きなことをしてお金を貰い、さらに店の売り上げに協力してもらったのだから、感謝してもし尽くせなかった。
そんなある日、バーテンをしながらドラムを習っていたコーチャンは、バーテンをやめプロになった。同じ頃、ベースを担当していた寝太郎も、ジャズバンドに入った。アルトサックスで先にフルバンドに入っていた奴は、関西屈指のサックス・アンサンブルに引き抜かれた。俺は…店をやっている。
「ママ、俺バンドマンになるから、店売るわ」「何言うてんの日野ちゃん、バンドマンよりバーテンとして良い腕してる今の方が将来性があるんやで」「せやけど、やっぱり音楽が好きなんです」「しやないな、ほんなら店は私の友達に売ったるから、心配せんでもええで」「ありがとうございます」
俺はドラムをやることに決めた。周りからは大反対をうけた。ギターなら分かるが、ドラムなんか何も知らないのに出来るはずがないと。
ドラムは全く知らない、サックスアンサンブルに引き抜かれた連れのところへ行き、何時も演奏を聞かせてもらっていた。そこのドラマーが、ママの元彼の弟子だった。うまいのか下手のなのかさっぱり分からないが、かっこ良かった。
その姿を何時も見ていて、ドラマーになると決めたのだと思う。
19歳でバンドボーイだ。給料はなし。ここから音楽修行の旅に出る。